哲学大陸・言葉外ルート

ハトの鑑賞眼

日本の脳研究の最前線をリポートした「脳を究める」(立花隆著・朝日新聞社)という本の中に面白い話がありました。鳩がピカソとモネの絵を見分けられるという実験データです。ピカソとモネ両方の絵を鳩に見せ、一方のグループにはピカソの絵をつついたときにだけ餌を与え、一方はモネの絵をつついたときにだけ餌を与えます。これを繰り返すと、ピカソグループはピカソの絵を、モネグループはモネの絵を見せたときにだけそれぞれ絵をつつくようになったというのです。これまで一度も見せたことのないピカソの絵でもほぼ同様にピカソと判断してつついたそうです。

僕がこれまで述べてきた「人間の思考も感情も言葉抜きにはありえない」という点でいくと、「人間がピカソとモネの絵を区別するのもまた言葉による」となるわけです。しかし、鳩が人間のような言葉を持たないという前提のもとでは、この鳩は言葉抜きにピカソとモネの区別をした。つまり「言葉抜きの判断」というものが、少なくとも鳩の脳の中では起こっていることになります。
さあ、この鳩はどうやって「考え」どうやって「判断」したのでしょうね。

人間なら言葉をひとつも浮かべないことなどありえないと思います。ここは議論の余地がないでしょう。
では、あなたがある絵を鑑賞する、あるいはたとえばその絵がピカソかモネか判断するとしましょう。その時、あなたの頭の働きのすべては、必ずなんらかの言葉と結びついているでしょうか。あるいは、言葉とはぜんぜん別の働きで鑑賞、判断する部分も少しはあるのでしょうか。もしあるとしたら、あなたは今それを頭の中でリピートできますか。


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