涌井さんの論を含めて、ここまでを振り返ります。
僕は、人間は言葉抜きではものを考えらないという主観を述べた後で、犬や猫は人間のような言葉を持たないゆえに人間のような思考や感情も持たないと断じました。
一方、涌井さんも「言語が我々の思考を大きく支配・制限している」と述べました。「すべて言葉だ!」という僕ほど無謀ではありませんが、同じ原理に目を向けていると思います。
そのあと涌井さんは「動物の行為Xを思考と呼んでいいかどうか」について検討。そして条件付きでなら「呼んでよい」と結論を出しました。
涌井さんに異論はありません。こう言うと「動物は思考しないと言ったくせに!」と批判されるかもしれません。しかし僕は「動物は人間のようには思考しない」と言ったのです。思考の定義が違うだけです。涌井さんは思考を言語に限定してはいませんから、僕の論と矛盾しないのです。
ただ、僕が「人間の思考と動物の行為Xとがどう違うか」に興味があったのに対し、「そのふたつがどう似ているか」を涌井さんは問題にしたわけです。
さて、ではどうして僕が人間と動物の「思考」の同一性を見ず、ことさら違いのほうを強調したいのか。それは、人間の思考が関わっている言葉というものが想像以上に複雑で巨大な影響を持っていると感じ、やはりその人間の言葉についてこそ考えを深めたいからです。
そういう位置から眺めると、犬や猫の「思考」は少なくとも人間ほどには言葉の体系を持たないようなので、さほど興味がなく、その違いが決定的違いだと感じるのです。
こうして明らかになってきた(というか、もともとそうだったのかもしれませんが)僕の興味の焦点はやはり「言葉の正体」です。