哲学大陸・言葉ルート

涌井 史明氏の試論6

乱暴な議論を展開したわけ

 ひとまず、論理的飛躍や破綻を無視して、人間以外の動物も思考するというところまで来ました。このような乱暴な議論の展開 を行った理由を述べようと思います。よく言われることですが、「不安定な基礎の上に作られたものは、いかなるものも不安定で ある。」ということが言えると思います。ここで行ってきた議論など、まさにその好例でしょう。しかし、あえてその様な議論を 行ってきたのには、考えがあるからです。つまり、絶対的な基礎を求めると、後には何も残らない。このような考え方を批判する 人は多いでしょう。学問とは、哲学とは、何らかの絶対的なもの、真理を求める行為であるのだから、それを放棄するようなこと は認められない、と。私自身もその様な主張を否定する気はありませんが、我々人間にはその様なことが可能なのか、と疑問に感 じざるを得ません。我々の行為に完全無欠ということはあり得ないように思います。常に何らかの間違いを含むものだと思います 。今日の高度に発達した物理学でさえも、間違っていないとは誰も言えないでしょう。いつ何時、間違いが証明されないとも限り ません。しかし、間違っているかも知れないからといって、自分の研究を放棄する物理学者はいないに違いありません。というわ けで、ここまでの議論を押し進めてみた訳です。もちろん、このような議論が常に行われていいような種類のものでないことは確 かです。可能な限り、不確定な要素は排除されるべきです。例えば、私が何らかの論文などを書いたとしたら、こんな乱暴な議論 展開は決してしません。しかし、それと同時に何らかの乱暴さが前進するためには必要であることも確かなことではないでしょう か。前進してみて、間違っていたら戻ればいいのです。とはいえ、このような無謀な前進が常に認められるべきではありません。 あくまで、試論としてのみ認められるべきものでしょう。そして、常に、試論にしか過ぎないという限定を受けねばありません。 もしも、試論にしか過ぎないものを根拠として、何らかの主張を行うのであれば、それはせいぜい、オカルトにしか過ぎません。  さて、試論であるからといって、いい加減なことを言っていいということはありません。試論であっても、その試論をより完成 されたものにする目算が立たないようなものは行われるべきではありません。つまり、私は上述の試論を何らかの形でより完成さ れたもにする目算が立つという前提のもとに行ったわけです。上述の試論の補完は、今後の課題となりますが、ひとまず、上述の 形となりました。(おわり)

 ここまでの文章は、私(涌井 史明)にその責が帰せられるべきものであることをここに付記します。ご意見ご批判は、e-mail:wackey@big.or.jpまでどうぞ。


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涌井 史明氏のメールアドレス=wackey@big.or.jp

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