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だらだら話 18

  アフガニスタン篇
 今年の休暇は、面白いというかはヘンな休暇でした。まず一人旅は10年ぶりだったのです。10年前に尚子さんという旅の道連れをひょっと得まして、このひとがまた、どんな環境にでも適応する人なので、その後毎年いっしょにあちこち歩いてきました。今年は彼女が何でだかいっしょに行かないというので、「あらそおお」とひとりで出かけたわけです。久しぶりの一人旅は、不自由なことはありましたが、中々のんびりとしたいいものでした。どちらも捨てがたい味がありますね。

 まず、アフガニスタンの北部の農村で休暇を過ごすべく出発しました。パキスタンの首都のイスラマバ−ドで飛行機を乗り換えるのですが、其処から目的地までの直行便があるという、地元の人の情報は間違いで、そんな便はありませんでした。首都のカブ−ル行きの便だけなのです。それも異常な悪天候で、足止めをくいました。1日おきくらいに飛行場まで行くのですが、そこで 「今日も飛ばないよ」といわれるのです。結局10日間ホテルに缶詰でした。

 私は幸いパキスタンのビザをとっていたので、町じゅうを自由に散歩したりできました。国がやってる観光案内所に飛び込んだら、其処の所長さんと親しくなって, 夕食によんでもらい、又その翌日、ご親戚が集まる20人くらいのパアティ−があるというので、それにも招待されて、パキスタンのお金持ちのおうちを見る機会にめぐまれました。写真を送ってくれるとのことだったので、ほんとに送ってきたら次回にご紹介しましょう。其処でも腰や膝の痛い人や、肩凝りの人などが多いので、ちょっとヨガを教えてきました。パキスタンはものすごい肉食なので、あまりよくないのでしょうね。とにかくあっちこっち悪い人が多いです。

 私は急ぐ旅でもないし、ホテル代はパキスタン航空が払ってくれるし、のんびりとした10日間をるんるんと楽しみましたが、急ぐ御用のある方たちは困ったでしょうね。でも10日間もいっしょに暮らしたので、乗客のアフガン人みんなと仲良くなり、ホテルの部屋でヨガのレッスンをしたりしました。

 10日後にやっと飛行機が飛んで、カブ−ルの飛行場に降り立った時には驚きましたね。まわりがぐるっと雪山なのです。日本のように山肌が優しくなく、きびしい雪山で、見たことの無い感じの景色でした。カブ−ル市の中心に立ってもそれは変わらないのです。ですから、市の真中といっても、東京とは全く感じがちがいます。

 目的地まで又飛行機を乗り換えなければならないので、カブ−ルに2、3日滞在することになります。
 ホテルでいっしょだった一人が、大学の先生で其処のおうちに泊めていただくことになり、先ず其処におちつきました。10人ばかりの大家族ですが、皆さん親切で大歓迎してくださいました。驚いたことは、日本の炬燵とまったく同じ炬燵があるのです。家族が多いので、日本の炬燵の3倍くらいはあったでしょうか。以前の日本のように木炭を使っていました。それが家族の団欒の場なのです。

 すっかりくつろいで昼寝なんかしていましたら、先生が困った顔をしてこられました。警察のほうで、外国人の女性を民家に泊めてはいけないといっているとのことなのです。なんだよく解らないけれど、とにかくご迷惑をかけてはいけないので、出て行くことにしました。息子さんたちが、残念がって、警察に掛け合うとかいってくれましたが、それは断って、紹介して貰ったホテルに落ち着きました。
 ちょっとだけでも、アフガニスタンの民家に入って、様子を見ることが出来たのは、さいわいでした。

 もうひとつ驚いたことは、日本人にそっくりの人達がいることです。ほんとにそっくりなのですよ。
 モンゴルの方からの人々なのでしょうね。日本人もそちらがオリジンの人が多いと聞きますから。なんというか、日本人の中でも、お公家顔の人がいますね。ああいうやさしい顔なのです。今、この社会では勢力がなくて、下の方の仕事をしている人が多いのですが、誇り高い民族だということです。

 この国は、20年以上の戦火を経てきたので、カブ−ルで会う人のほとんどが、難民としてパキスタンで暮らしてきた人々です。誰と話しても、2、3年前までは難民としてあちらにいたということが前提条件としての話になるので,、私のように物知らずはちょっと戸惑いました。若い子などは、難民キャンプで生まれて育ったわけですからね。
 それがあちらの常識なのです。勉強不足を思い知らされました。

 嬉しかったのは、対日感情が非常にいいことです。日本が, アフガニスタンに多額の援助をしているそうで、私が会った人達はみんなそのことを言って、日本には感謝しているというのです。私はそんなこともよく知らなかったのですが、嬉しかったです。でも日本の政府は、赤字だ赤字だと騒いでいるのに、何処からそんなお金を持ってくるのでしょうね。どなたかご存知の方教えて下さい。

   その反面、お隣のパキスタンのことは、大嫌いなのですよ。
 20年以上も難民としてお世話になったのに, なんだか勝手なんじゃ?という気がちょっとしましたが、近すぎるといけないのでしょうかね?

 みなさんにご心配いただいた治安のほうですが、これは私が経験した限りでは全く心配ありませんでした。聞くと見るとは大違いといいますが、ほんとにそうですね。
 特に首都カブ−ルは軍隊さんとポリスさんがうようよしているので、一般の人は全く心配ないという雰囲気でした。私も行くまでは、どんなに恐ろしいところなのかと思っていましたが、行ってみてよかったと思います。

 寒さもたいしたことはありませんでした。私は東京では冬でもコ−トを着ないでセ−タ−だけなのですが、あちらでもそれですみました。
 うんと寒いと思ってコ−トを持っていきましたが、結局1回も着ませんでした。

 特によかったのは、まちの雰囲気です。なにしろ長い戦争の後で、まちには瓦礫のあとが散在していますが、これから国を再建していこうというエネルギ−に満ち満ちているのです。
 何をしても今よりは悪くならないという感じで、皆さん生き生きとしています。60年前の戦後の日本を思い出しました。もうそんな昔を御存知ないかたも多いでしょうが、ちょうど私の若い頃だったので、私はよくおぼえています。それはそれはものすごいエネルギ−だったのですよ。まちには闇物資があふれて。みんな今のようにお上品ではなくて、ぎりぎりのところで生きていました。生きていくことしか考えなかったと思います。
 今は、日本は大国になってしまったので、ああいうエネルギ−を感じたいと思っても無理なのでしょうが、なんか羨ましいような気がしました。特に若い人たちにああいうのを感じさせてあげたいものです。

 ところで結果的には、今回は、悪天候や何かに妨げられて、目的地にたどり着くことが出来ず、カブ−ルのホテル住まいだけで、終わってしまいました。残念でしたが、いろんな事情もあり、仕方がありませんでした。それに、治安に心配ないと書きましたが、日本人は一人で外出してはいけないというお触れがでているのです。ふらふら一人で歩くことの好きな私にとってはこれはつらいことでした。
 禁を侵したかったのですが, もしなにかあって、紹介してくださったかたにご迷惑がかかってはと自重しましたので、外出するたびに護衛を雇うのです。これには参りました。

 ホテルで一人の女性と知り合いになりました。お父さんがアフガニスタン人、お母さんがポ−ランドンド人の美人のジャ−ナリストです。このお父さんが、教育庁の長官と親しいとかで、カブ−ルの学校で英語を教えないかと言う話になりました。2、3月は学校が休みなのですが、私が教えるなら、特別クラスを作って、開校するという嘘のような話なのです。
 有難くお受けしましたが, お役所が絡むとなると実現までに何日かかるかわからないし、その間、ホテル暮らしの護衛つきでは息がつまるので、それは来年に、初めからちゃんと計画して貰って実現ということで、いったん引き上げることにしました。
 そういう計画なら、英語だけではなく、数学も出来たらなおいいでしょうから、例の尚子さんを、誘っていくことにします。そういう風にメ−ルしたら、あちらから大喜びの返事が来ました。尚子さんは、高校数学なんか鼻歌交じりで解くという変人なのです。
 こう決めたもうひとつの理由は、やはりそのホテルで面白いかたと知り合いになっていただき、その関係で, 一回日本に帰ってやりたいことができたからなのです。
 これについては、長くなりますから、次号にでも、おしらせしましょう。

 アフガニスタンの田舎は、長い戦争の間、外部と切り離されて過ごしてきたので、人々がほんとに純朴で他では見られ無いようだそうです。特に子供たちの目がすばらしいというので、それを見たかったのですが、来年、もし出来たらそういう機会もつかみたいと思います。でも負け惜しみじゃなく、今回カブ−ルを垣間見ただけでもよかったと思います。
 今これを書いていて自分で思ったのですが、これは76歳のばあさんの普通言うことじゃないですよね。あんまり図に乗り過ぎて神様に叱られるかな? まあいいや。ではまた。

2005年4月



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〈筆〉waikari bahchan=木村詩世