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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2004.5.30 -- 本格読書 --

●『本格小説』(水村美苗)読み終えた。いやあ面白かった。●まずややネタばれなので、未読の方は読まないよう。日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。これってつまり叙述トリックではないかと驚いた。読むなって言ったのに。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。●次は逆に、未読の方にぜひ知らせたいこと。冒頭に人物相関図があるが、物語の展開を先に知ることになるので見ないほうがいい。この小説が下敷きにした『嵐が丘』を以前読んだとき、その過ちをおかし損した気分だった。ただ『嵐が丘』の人間関係は図なしには把握しきれなかったとも言える。『本格小説』はそこまで複雑じゃないので、見なくても大丈夫だ。●感想はまた改めて。


2004.5.29 -- それに比べりゃ1000字たらずの冗長など --

●絶対いつも貸出中だった宮部みゆきの『模倣犯』(上)が珍しく図書館で手に入った。予想以上に分厚いうえに2段組の文章がびっしり。しかしこれまでの経験からすれば、長ければ長いだけ楽しみも長いのが宮部みゆきだからと、かまわず読み始める。だがそれにしても、人物にしろ場所にしろ動作にしろあまりに詳しく書きすぎている気がしてきた。これもしや、描写が無駄に長いというそれだけの理由で上下2巻になったのでは? などと叙述トリックを超えるようなトリックを疑いだし、いったん中断。まあミステリーなんて、事件の骨子だけをA4一枚で報告されても困ってしまうのであって、この種の冗長さを無駄と呼ぶべきどうかは微妙だ。読者の人生がどの程度まで冗長かということにも関わってくる。まして宮部みゆきの語りが無駄に長いなどと、最後まで読まないうちから言うのはよそう。判断も中断。●代わりの本を探す。思わず『本格小説』(水村美苗)を開いてしまった。これも早く読みたいと思いつつ先延ばしになっていた小説だが、ご存知のとおり同じく上下巻なのだ。「よせばいいのに」というところだが、こんども「飽きるまで試しに」くらいの気分だった。ところがこっちはまったくやめられなくなってしまった。すぐに2巻目に突入。全体の構造が少し捻ってあるものの、語りの調子はあまり変わらず滔々と流れている。むろんミステリーやファンタジーの部類ではない。それがなぜこうも面白いのか。それもまた読み終えてから考えよう。●ともあれ、かくも長々しい話を一行の漏れなく読んでもらえるのだから、小説家とはうらやましくも特権的な存在だ。インターネットでは数限りない人々が自らの文章を読んでもらうつもりで提供している。そうした無数の語りを無数にクリックするのに疲れはてているくせに、千ページも超えようというたった一つの語りにこれほど溺れてしまえる私は、いくらなんでもおかしいのではないか。いったいどういう因襲だろう。どういう錯覚だろう。●その一方、2ch発で人気をさらったという「電車男とエルメスの物語」をネットで堪能。だれか一人があらかじめ拵えたのでは絶対に成立しない感動だと思われ、小説とは名実ともに異なった語りがこのように出現している、という確信もいよいよ強くした。ふと『本格小説』という書物が、墨と筆で綴られたいにしえの巻物であるかのような気がしてきた。


2004.5.21 -- ロンリー・プラネット --

●実は昨夜、イラクで拘束された人を招いた「帰国報告集会」を見に行った。5人のうち渡辺修孝さん、安田純平さん、郡山総一郎さんの3人が出席した(参照)。●とはいうものの、安田さんについては手記を東京新聞で読んでいたので、この日は髪とヒゲがどんどんこざっぱりしていくなあという印象のほうが強かった。渡辺さんについても、海外記者への会見のノーカット映像をウェブで見ていたので、帰国時のニュースで切り取られたようなひたすら無口で頑固な人では全然ないということは、すでに分かっていた。郡山さんも合同記者会見の時の雰囲気そのままだった。もっと身近な距離で話が聞けるのかと期待していたが、会場や参加者の規模からしてそれは無理だった。結果的に3人の肉声としてはこれまで以上のものはそれほど得られなかった。●ところで、今井紀明さんも同じ東京新聞に手記を載せているではないか。こっちもたまたま昨夜帰宅してから知った。また昨日は高遠菜穂子さんが初めて記者会見に応じたようだ。●これらの報告を見聞きしながら、私はついバックパッカーが語る秘境無茶旅行譚になぞらえている。不審ばかりが募る状況で、異邦人同士かすかな親近感だけを頼りに手探りのコミュニケーションを試みるが、その成否や内容はどこまでも掴みかねた、それでもどうにか突破できたから幸運だったけど、といった話として共感できるように思うのだ。移動や寝泊まりの困難さも分かる。検問や取り調べの理不尽や厄介も少し分かる。ただ命の危機だけは想像が難しいのだろう。●これも観光旅行の話だが、自分がこれから行く場所について、すでに行ってきた人の話やノートを大いに参考にする。その時は、この人の情報や判断はどれほど信頼できるのか、どこまで一般化できるのかといった値踏みを、お互いニコニコ会話しながらも、その人の性格や行動パターンを考慮しつつ慎重にやっている。●さて、拘束された人たちに質問したいことがあった。手も挙げたが人が多すぎてやはりダメだった。まあべつに3人でなければ答える資格がないというわけでもない。それは、イラクの武装集団と呼ばれる人たちってだいたいどんな人だと思えばいいんだろう、という疑問だ。●それを考えるのに、こう問うてはどうだろう。武装集団ではないイラクの人たちは、武装集団であるイラクの人たちを、いったいどう思っているのかと。それは、日本で私たちがどういう人たちを見るのに似ているのかと。たとえば愛国主義者として過激な行動を取る人(北朝鮮に対して武装せよと主張する人もここに入るかもしれない)。あるいは非合法な武装集団としてのやくざ。もっと身近でいうと自警団。うちの近所でも商店街の人たちが詰め所をつくって見回りをしているし、渋谷へ行けばおかしなベレー帽の集団がいる。逆にチーマーもいる。何を言ってるんだ、5人を拘束したグループはそんな連中とはまったく違うよ、と言われるかもしれない。そうかもしれない。でもそうでないかもしれない。私は本当に分からないので、彼らの情報と判断を知りたかった。●つまりそれは、5人を拘束したグループとこの日集まった日本の市民とは、本当に連帯できるのか、どこまで連帯できるのか、どうしたら連帯できるのか、といった根本的な疑問だ。


2004.5.19 -- メッタ義理 --

●きょうび注目するなら芥川賞よりこっちだろ、とは『文学賞メッタ斬り』も書いていたようだが、その三島由紀夫賞に、矢作俊彦の『ららら科學の子』が選ばれた。感想を記したのはずいぶん前だ(芥川賞と違って年1回だからか)。褒めていたつもりだったが、全然褒めていなかった。しかも内心首をかしげた点がもう一つあったのだった。この際それを指摘しておこう。●年長の殿方が時代の堕落を嘆くとき、そこから逃れうる希望の星は、なぜいつも年端のいかぬ少女ばかりなのか。『ららら科學の子』を読んで、「またかよ」という思いが避けられなかった。少女を無性に好むこと自体はべつにいいとして、その感覚の根拠を問わないどころか、やや頽廃的でけっこう伊達な革新だと思い込むのは、さすがにみっともなくないか。昨今の高橋源一郎の小説のように、少女嗜好を過剰なまでにアケスケにすることで隠蔽しようという、かえってアケスケな工作なら、むしろ愛嬌があるのに。まあしかし、そんなアケスケを絶対しないところに、ハードボイルドの最後の一線があるのかもしれない。●なお、好ましかったほうの核心もあと一点ある。この小説に冒頭すぐ引かれたのは、ここには中国という新しい現実がぐぐっと関わってくるらしいぞ、とワクワクしたことが大きい。それはかつてウーロン茶のCMで「鉄腕アトム」が中国語で歌われたのを聴いたときの、名状しがたいワクワク感と同調している。あの歌が喚起したもの。それは言ってみれば、中国という困った大国の近隣にいて諦めと無常観がじわじわ漂ってきながらも、しかしそれ以上に、私たちが長く長く見知ってきた世界像には収まらないような躍動の形が、ああもうはっきりあるんだなという面白さだ。かつての「鉄腕アトム」を懐古するしかないような黄昏気分とは一線を画した、新しいアジアの無常と言ってもいいだろう。読書中、タイトル「ららら科學の子」の由来に行き着いたとき、このワクワク感だけはまあ的を射ていたかな、と私は思った(そういうことが眼目の作品ではなかったが)。●さて、これまた『文学賞メッタ斬り』も言及していたとおり曲者ぞろいの三島賞の選者たちは、『ららら科學の子』のどのあたりに溺れたのか、いや溺れるのも小説の好い読み方だと思うけれど、ああ早く知りたい。


2004.5.15 -- 趣味の問題 --

●『K社のノート』では、モー娘を好きかどうかの議論が沸騰している(参照)。読まずに通り過ぎるのは惜しい。ちょろっと書いたらしいのが発端だったにしては、相当マジな反応がしかも多量に寄せられている模様。さすがにちょっと「とほほ」気分や「ったく」気分も覗かせつつ、しかしその丁寧な釈明と反論は徹底して「サービスがいい」ので、そこに感動してしまった。●「サービス」とは高橋源一郎が小説を評価する尺度として提示したもの。まったくそのせいにすぎないけれど、今回のやりとりで、ふと『批評空間』で源一郎氏がスガ秀実氏からこっぴどく叩かれた一件を思いだした(参照)。たとえばあのとき源一郎氏の弁明はサービスどころではなくなっていた。それはまあ、そもそもスガ氏の攻撃がサービスなどつゆ交えぬマジ言論だったのだから、しかたないとも言える。いやあれがむしろスガ氏の芸風、サービスか。●それにしても、モー娘が好きかどうかは、議論が進むうちに《酢豚のパインが好きか嫌いか》どころの話ではなくなっていく。今回それがよくわかる。「人の好みは十人十色」とは大滝詠一も歌っており、それを踏まえてさえいれば、酢豚や音楽の会話なんて、とことん交じりあわなくてもとことん楽しいばかりのはずなのに、と思いたくもある。しかしそれはたいてい裏切られるようでもある。だから実際は、酢豚のパインの好き嫌いでも友情にヒビが入ることはあるのだろう。趣味とは元来そういうものだったのかもしれない。いや、だったら逆に「イラク戦争が好きか嫌いか」「小泉総理が好きか嫌いか」だって、いかに憎しみぶつけ合う議論になったとしても、元来は趣味の問題として扱うことも私たちはできるのではないか。どうだろう(う〜む)。「大逆事件」だろうが何だろうが、できればもうちょっとサービスを持って楽しみつつ語りたい。だいたい文章とはなべてサービスを意識せずしては書きようがないだろう。●さて、それはそうとココロ社さんの発言を少し。《たとえば、『冷静と情熱のあいだに』がイイ、と思っている人がモーニング娘だったら、それはそれでバランスが取れているというか、ぼくとは違う星の住人だな、と思うのですが、金井美恵子とかスティーブ・エリクソンとかが好きでモーニング娘も好きという人の気持ちがわからない。》《ぼくだけが感じているのかもしれませんが、はてなにおいては少なくとも「イラク戦争反対」などより「モーニング娘のよさがわかりません」の方が言いにくいような気がします。》私はこの声に単純にうなずける。時々こういうことをこれくらいの強度で漏らしておかずにはいられないのも分かる気がする。高橋源一郎のサービスのよい小説だけでなく、いつかココロ社さんのサービスのよい小説も読んでみたい。●何が言いたいのかというと、「私は酢豚のパインは微妙ですが、微妙とはまたなんて微妙な表現でしょう!」ということです。


2004.5.12 -- どうなるのか --

●CDの輸入権に対するアクションがにわかに立ち上がり、このさい少しは知っておかなくちゃと思う間もなく、今度はWinny開発者が逮捕され、ああこっちの問題もひととおりは、というかんじであわててウェブを回る。いや本当は年金の問題をいいかげんおさえておくべきだったのだが、またもや後回し(ぼやぼやしているうちに法案通る)。●人質事件をめぐってインターネットの言論がいよいよ無視できなくなったと言われている。CD輸入権やWinnyに関してウェブの情報を探していても、新旧のメディアそれぞれを頼りにする度合いは、量も質も、いよいよ逆転してきた感あり。そうしたメディア間の攻防自体がこの問題の焦点とも言えそうで。日本の私たちの生活と意見はどちらも、知らぬまに新しい大きな流れの上にあるらしい。もう誰も止められない。これに匹敵する変動といえば、かつてソ連を崩壊させたゴルバチョフのグラスノスチか! …とそんなことを思ったのは、このあいだ見たNHK番組(旧メディア!)の影響なのだが。


2004.5.11 -- 巡礼 --

もし映画に魂というものがあるのなら、間違いなくここにそれは宿っている。テオ・アンゲロプロス霧の中の風景』。10年以上昔ビデオで観たきりだったが、その確信は揺らぐことがなかった。だがそれにしてはあまりに永かった。追慕の相手に、先日やっとスクリーンであいまみえた。

(この際オーバーな口ぶりで通しますが)→感想全文はこちら


2004.5.9 -- 醜い --

●虐待は最悪。テロも最悪。それは文句なく認めつつ、ではアメリカ軍等のイラク攻撃はそもそもどうなのかと問われると、人によっては「最悪だ。しかし…」と言いよどむ。そのときはおそらく、善悪というよりいわば美醜の尺度に拘っているのだろう。すなわち「戦争は、虐待やテロと同じくらい悪だが、虐待やテロと同じほどまで醜いわけではない」と。戦争には最低限のルールやマナーがあるから、ということだろう。●しかし一方で、戦争は虐待やテロと同じくらい醜い、あるいはもっと醜いという感覚もありうる。日本人を人質にして要求を突きつけた先の武装勢力の行いについても、「最悪だ。しかし…」と言いよどんだ人は皆無ではない。「アメリカ軍のイラク人への仕打ちはもっと醜い」との気持ちだろう。●イラクをめぐって国論が二分しているのには、こうした美醜センスの重大なズレが潜んでいるように思う。私はなにかと言いよどんでばかりだが、虐待もテロも誘拐も戦争もみな最低なのだからそれ以上細かく考えるのはよそう、とは思わない。どっちがより醜いのかという観点は安易に捨てるべきではない。そのうえで、対立している感覚を提示しあい我慢強くすり合わせてみることが大事だ。●それにしても、一言だけ。いかなる戦争であれ、そこにいささかでも美しさを見てしまうとしたら、それほど醜いことはない。テロや虐待と同じく、戦争が美しいなどとは口が裂けても言いたくない。テロのニュースを、私はときどき、たとえばこの電車のホームから今この人をどんと突き落とすようなものかな、というふうに想像してみる。イラクの戦争がそれと同じでない理屈はあるのか。


2004.5.4 -- 払ってますか?(近ごろの挨拶) --

●連休…といっても今に始まったことではないのだが、天気が最高だった土曜日は下北沢までコーヒー豆を買いがてら散歩。いつもより人出の多い駅前でヘンなものに出会った。一人の男性が「なんで屋」という手製の看板を出し、道行く人を捕まえてはあれこれ講釈しているのだ。脇に置いた板には、お題を書いた紙がいくつも貼られている。「財政赤字が700兆円にも膨らんだのはなんで?」「マスコミが第一の権力になったのはなんで?」「やりたい仕事が見つからないのはなんで?」などなど。それを今ここでこの人が解説してあげようというわけ。急いで手書きしたらしき「自己責任って何?」もあった。一回300円+満足代とのこと。しばらく前、渋谷に「聞き屋」というのが出没するという話をテレビで見たが、「なんで屋」は初めて。●それにしても、近ごろは「なんで?」と知りたいことがあれば迷わずウェブに頼る。そのウェブの総力に勝るような内容を一個人が語れるかというと、なかなか難しいのではないか。ひるがえって思うのは、ウェブの巡回先で的確絶妙な答を得られた時には100円玉の2、3枚くらい提供したっていいのではないかということ。とはいうものの、逆にふだんウェブの書き言葉にあまりに没入しているせいで、こうした生身の人間の生の語りというものが、なかなか新鮮に響いてきたのはたしかだ。暇つぶしの方法としても、モニターの文字にのめり込むのとは違った開放感がある。下北、やっぱり面白い。●ところで、その下北沢の街中に環七なみの大きな道路を建設しよういう計画があるらしい。全然知らなかった。それに反対するビラまきも同じく駅前で行われていた。サイトあり。→http://www.setagaya.st/shimokitazawa/

●話はだらだら続くだけなので注意してほしいが、さて日曜日も快晴。こんどは少し遠くの図書館に本を返しに歩いた。だれしも同じだと思うが、未読の本はいつも家に過剰なので、返却だけのつもりだったのに、帰り道を歩く間にぱらぱら読む本が欲しくなって、そのために適当に借りた文庫本が『1973年のピンボール』。かなり久しぶりだ。そしたらこの小説、こんなふうに始まっている。●《見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。/一時期、十年も前のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代であったらしく、誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた。見ず知らずの人間が何処かで僕の噂を聞きつけ、わざわざ話にやって来たりもした。》少しおいてさらに。《理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧にほこりを払い、尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きっと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であったのだ。》●これを読んだら、「聞き屋」が聴かされる話も、「なんで屋」が語りたがる話も、ウェブにこうして綴られる無数の話も、みな同じ猿の群れに思えてきた。小説という語りも結局は同じようなことかもしれない。それでも、この「僕」のように、見知らぬ人の話をただ聞くというのがそれほどつまらないわけでもないぞと、思い直してもみることも大事だろう。●いやいや、もちろん『1973年のピンボール』自体は、そんなふうに思い直す必要はまったくない。先へ先へとひとりでに読み進んでしまう。何の話をしている小説なのかがどうもよく分からないのに、不思議なことだ。そこは、お題がはっきりあってそれについて述べる「なんで屋」とは違う。いや待てよ、お題はある。なにしろ《これはピンボールについての小説である》。でもこう言われて、小説のお題っていったい何のことだろうと、よけい分からなくなる。村上春樹のこの頃の小説は、語りたい何かがはっきりあって、しかしそれは絶対語らない、そんなおかしな態度に感じられる。その力学や是非はもうとうに分析されたのかもしれないし、まだされていないのかもしれない。ただ今回もまたそういうことは気にせず最後まで行ってしまいそうだ。●ついでにもう一言。「夜になって寒くなり、空から白いものが落ちてきた」。こういうのを提喩という。「雪」という特定のものを示すために、わざわざ「白いもの」とそれを含んだ集合全体で語る。でも読むほうはちゃんと「雪」だと分からなけらばならない。さて、村上春樹の小説が全般に提喩みたいなものなのではないかと、今回ふと思った。どこを切ってもこんな表現。《確かに彼女は彼女なりの小さな世界で、ある種の完璧さを打ち立てようと努力しているように見受けられた。そしてそういった努力が並大抵のものではないことも鼠は承知していた。》この「小さな世界」「ある種の完璧さ」「並大抵のものではない努力」などは、特定の行為や心情として語られることはない。でも読者は分からねばならないようだし、少なくとも実際分かったつもりになれる。


04年4月

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著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)