テオ・アンゲロプロス監督
霧の中の風景
ひとつ旅が終った
もし映画に魂というものがあるのなら、間違いなくここにそれは宿っている。テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』。10年以上昔ビデオで観たきりだったが、その確信は揺らぐことがなかった。だがそれにしてはあまりに永かった。追慕の相手に、先日やっとスクリーンであいまみえた。「あなたを信じていてよかった、本当によかった」
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全シーンを最初からひとつずつ思い出してメモしてみた。前後があやふやなところはあるが、夜の駅に吸い込まれるように入っていく冒頭から、霧の晴れた向こうに眺められたあの最後の景色まで、姉と弟二人の歩みそのままに黙々と辿ることになった。
忘れられないシーン、語ってみたいシーンは連続する。この映画を知る人なら皆うなずいてくれるだろう。中でもこれだけはどうしてもと思った二つに触れておきたい。誰にも強い印象を残しているはずだ。
二人の幼い姉と弟は、母親と暮らす居心地のよくない家を出て、ドイツへ向かう夜行列車に意を決して乗り込んだ。会ったことのない父親がドイツにいる。母から聞かされた虚言だが、それを頑なに信じるしか二人を励ますものはない。しかし無賃乗車の二人は途中駅で降ろされ、警察署に連れて行かれる。そこを魔法のようなやり方で抜けだした後のシーン。
夜。二人は迷いこんだ街の一角で、大きな建物の前に佇んでいる。窓から明かりが漏れているので盛り場かもしれない。道路には雪が積もっている。するとその建物から花嫁衣装をまとった女が、泣きながら逃げるように表に出てきた。男がすぐ後から追ってくる。宥めるように引き寄せると、やがて女は諦めたのか、建物のなかに引き返していった。
そこに今度は、雪上車のような軽車両が音をたてて現れ、二人の前に停る。車にはロープがつながっており、一頭の馬が横たわったまま引きずられて来たのだった。驚いた二人は馬のそばに駆け寄る。しかし馬は息も絶え絶え。懸命に立ち上がろうとするが、くずおれてしまう。それを二人はじっと見ている。姉が「この馬はもう助からない」と口にすると、弟は泣き出した。やがて「死んだわ」と姉が告げる。弟はますます泣きじゃくる。(台詞は不正確です)
花嫁が泣くのも馬が引きずられるのも事情は示されない。二人の道行きの前後になにか絡んでくる事件というわけでもない。しかし、姉の思いつめた態度そして弟の泣き声は、あまりに直接胸に迫ってくる。言葉にするのがいいとは思わないが、生という悲痛、死という宿命、そういうものを二人は見せつけられている。私もまた、姉と弟の気持ちそのままに、花嫁と馬の光景をじっと眺めることになる。
もう一つは後半の不思議なシーン。
姉弟はある青年と出会い心を通じ合わせる。青年は旅芸人の一座に所属しているが、興業が立ちいかなくなったこともあり、芝居をやめて徴兵に応じることに決めている。三人が一緒に街をさまよっていたある朝のこと。波止場で青年が海を見ていると、海面になにか浮かび上がってくる。それは巨大な手首の彫刻象だった。掌が半ば開いたリアルな造り。石膏かなにかだろう。この部分だけが切り離されたのか。指も少し破損している。するとヘリコプターが飛んできて、巨大な手首をロープで吊り上げる。三人は波止場からそれを見ている。動かない手首はヘリコプターとともにゆっくり浮上し、白い建物が立ち並ぶ海岸の上空をしだいに遠のいていく。
このシーンは、花嫁と馬の出来事よりもっと事情が分からない。それなのに何故だろう、なにか否応なく濃厚な気分に襲われてしまう。その気分は人によっていくらか違うだろう。だがどれもけっして曖昧なものではないだろう。ここでもあえて言葉を探すなら、やはり悲痛や困難という単語がふさわしい。切に求めて得られなかった、そこに辿り着こう、そこに手を掛けようとして、ついに叶わなかった、そんな人生のプロトタイプが、切断された巨大な手として出現してきた。このような解釈もいいかもしれない。
プロトタイプ。そう、およそ現代の人間がさまざまな状況でくぐらざるをえない悲痛や困難の原型モデル。この映画とともに巡った出来事や風景のことごとくに、私はそれを見ていたのだと思う。それは、迷い疲れた姉と弟が、汚辱や恐怖にまみれたこの世の姿をひとつずつ思い知っていくこの物語そのものだ。だがそこには、悲しみと同じだけ深い美しさの原型もまた立ち上がってくる。その美しさの名前なら誰もが知っている。でももう言葉はよそう。2時間余りほとんど口をきかない二人のごとく、私たちもまたこうした風景に黙って浸るにかぎる。詩の現実としての非現実に、なんら不可解はない。
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「移動していくこと」が物語の中心にあり作品の主題や製作にも本質的にかかわってくるような映画を「ロード・ムービー」と呼ぶ。80年代にヴィム・ヴェンダースらの名とともに頻繁に論じられた。いやべつに難しい話はできない。映画をみる体験って、旅行する体験と、なんだかとっても似てるよね、ということだ。アジアやヨーロッパの異郷を観光しながら、私はいつもそう感じていた。『霧の中の風景』も当然その系譜で観ることになる。見知らぬ土地で行路も失いかけ、それでも続く旅。この点がまたこの映画は特筆に値する。
夜の駅のホーム。出発まぎわの国際列車が重厚な横っ面を見せている。いつものように乗降口の前まで来た姉と弟が、これまで見送るばかりだったその列車に、とうとう飛び乗るのだ。列車はすぐに動き出し、闇のなかに消えていく。どきどき。あるいは、荒涼とした山道を歩く二人の前に、ポンコツの小さなバスが一台、煙を上げたまま停っている。エンジンがどこか調子悪いのか、運転手が降りて点検している。わくわく。これらのシーンはどうしたって、いつかのあの場所あの移動の記憶を引き出してくる。あるいは私も実際、列車やバスに乗って嫌な思いや楽しい思いや嫌な思いや嫌な思いを募らせているとき、その思いをこうした映画のシーンに何度なぞらえてみたことだろう。
自然の風景であれ、都市の風景であれ、宿であれ食であれ、商人であれ官吏であれ、私たちが辿る世界には未知がいくつも存在する。しかもそれは唐突に現れる。その訳のわからなさ。驚きうろたえて、そしてやっぱりわからない。あの花嫁や馬との遭遇、巨大な手の出現は、そのような未知と唐突そのものではないか。あるいは、言及されなさそうな無機的な光景をあえて選んでも、そうした魅惑は満ちている。たとえば、二人が叔父の働いている工場に連れていかれた場面で、異様な形の煙突が聳えて並んでいるところ。土手のような所を歩く二人の行く手を、掘削機らしき大きな機械が遮って、二人が立ちすくんだように引き返してくるところ。こんな光景に出会ったら必ず写真の一枚も押さえたい、ほかの人が無視しても私は撮りたい。
旅行の何がいいのか。映画の何がいいのか。それはなかなかうまく言えない。ただ私たちは、旅行中あるいは映画中ふいに出くわすシーンのなかに、何度も述べるが、生きていくことの悲しみや美しさの原型のようなものを、なぜだか直に読みとってしまう瞬間があるらしい。目の前の光景がむやみに心を騒がせることがあったら、それはきっとそうだ。
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生涯のつきあいになりそうな映画作家に、私は80年代半ばから90年代初めにかけて多く出会った。とりわけ『戀戀風塵』『悲情城市』等の侯孝賢(ホウシャオシェン)、『みつばちのささやき』『エル・スール』のビクトル・エリセ、『都会のアリス』『アメリカの友人』等のヴィム・ヴェンダース。東京に来てからの数年で、これらの映画とは徐々に劇場再開を果たしてきた。ただ『霧の中の風景』だけがまだだった。それを、徒歩か自転車で行けてこれまた長くつきあいたい映画館「下高井戸シネマ」のレイト・ショーでやると知って駆けつけた。これらはどれも、先ほどの原型というものを宿している。言い換えれば、私にとってこれらこそ映画の原型だと信じてきた。その思いは今回ですべて裏付けられた。長い旅がやっと終わった気分だ。
*画像は映画と関係ありません