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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.2.27 -- マスクの友 --

●散歩日和は花粉日和


2003.2.26 -- マルクスそのあの可能性の、え〜とあの… --

●正しくは『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人)。これの前に『内省と遡行』がどうにも読み進められず困ってしまい、どうせこの本だってとニヒルに取り組み始めたのだが、意外や意外、けっこう読みやすくて驚いた。分からないなりに面白いなどというのはまやかしであって、やっぱりたぶんこうだと分かるほうがずっと面白い。


2003.2.24 -- 音楽の東欧 --

クレズマー(klezmer)という音楽ジャンルがあるようだ。マックに付属する「iTune」の「ラジオチューナー」で、なんかないか、なんかないかと探していて、初めて知った。サイトはこちら。24時間聴ける。クレズマーは東欧ユダヤ系の音楽ということになるらしく、サイトには「Jewish jazz and Eastern European party music」とある。ふだん巷にあふれる音楽は、巷にあふれているがゆえに飽き飽きすることがあって、「なんか違うやつが聴きたいんだけど」という人なら「そうそう、こういうやつ!」ときっとうなずかくと思う。「哀愁に満ちた」という言い方がぴったりのメロディーと、さらには使われる楽器とに、どちらも独自の系譜や傾向があるのだろう。まあこのジャンル名によってCDが流通する程度には洗練され普及もしているわけだが、それでも「どこか知らない遠い土地の、なぜか懐かしい響き」と、これもやや飽きられそうだが、そんな形容をしたくなる。●このあいだ『ガッジョ・ディーロ』という映画を、またしてもNHKで見た。ルーマニアのロマ(ジプシー)の集落をフランスの青年が訪ねるという異文化交配譚で、忘れられない映画になったが、それ以上に忘れられないのが、その中で踊ったり歌ったりしていた演奏だった。クレズマーはそれとかなり共通している気がした。ユダヤ系の人々とロマとはまったく別の流れだろうけれど、私にとって「東欧」という漠然として境界の定まらぬ領域では、音楽もまたおなじく漠然と境界が定まらぬまま揺れ動いていると思われる。(実際クレズマーはロマ音楽に影響を与えたという)●今はもう昔、ディープ・フォレストのアルバム『ボエム』が東欧系のミュージシャンや素材を取り入れていたが、今回はそれにも再会した思いだ。あと、ジム・ジャームッシュの映画音楽を担当し出演もしていたジョン・ルーリーとか、あるいは小野誠彦とよくコラボレートしていたジョン・ゾーンとか、そういうのを聴いた記憶もまた甦ってくる。ちなみに、ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で2人の男たちの前に現れる一方の従姉妹だという女は、たしかハンガリーからやってきた。●なお、クレズマーにネットで遭遇した夜、ちょうど私はカフカの『』を読んでいた。カフカといえばまさに東欧のユダヤ人で、その偶然の良さや、この音楽の良さに助けられつつ、この長い小説を読み終えることになったのも、いとおかし。●ついでながら、『地球の歩き方』は近ごろ「東欧」ではなく「中欧」の呼称を使う。ぜんぶユーロでナトーな「西欧」になってしまうまでには行きたい。


2003.2.23 -- 愛すべき幻の国 --

●そういえば今年は「江戸開府400年」とか。都内各地元の商店街に、そんな無理やりな垂れ幕が出ている。しかし先日『大江戸ものしり図鑑』(花咲一男監修)という本を何気なく眺めたかぎりでは、江戸の生活というのは現代の東京とはあまりにかけ離れている印象だった。いやこれはもうはっきり別の文化、行ってみたいな、よその国と言っていいほどだ。少し目を転じるが、「ギリシアやローマの文明はヨーロッパだけの祖先ではないぞ」という見方があり、最近こちらのページにもそう書いてあって納得した。この地中海とは事情が異なるにせよ、江戸元禄あるいは文化文政のころの風俗習慣や価値観も、「日本がそのまま継承してます」とは単純に言えまい(その場合は誰も江戸を継承していないことになるのか?)。●江戸が消滅したとすれば、それは常識的には明治の西洋化が最大の要因だろう。そうするとしかし、それ以前ならば、たとえ幕末19世紀後半であっても、江戸は1603年と大きく変わらずに健在だったのだろうか。その当時の江戸を訪ねたドイツ人シュリーマンの旅行記『清国・日本』(講談社学術文庫・石井和子訳)を、少し前に読んだのを思い出す。この旅行記が面白かったのは、江戸を、現代の東京とは違う都市として、つまり私もシュリーマンのごとく外国人の視点で眺めることになったからだろう。まあ実際、シュリーマンが何をどう面白がったのか、それはどのくらい近世そのままか、いくらかはやはり近代なのか、そのあたりは読んでみての判断にお任せしよう。●それよりもっと『清国・日本』で感動してしまうのは、シュリーマンが日本をあまりにべた褒めしていることだ。それに先だって見物した中国をことごとく罵倒している(まるで現代のバックパッカーみたい?)のと、きわめて対照的だ。それはもちろん、シュリーマンの見たものが、渋谷センター街でもなければ、お台場でもなかった(御台場と砲台はあったのだけれど)からだろうが、それだけではない。●この時期どうも西洋人のあいだには、インドやチャイナよりはるかに遠く、まだ見ぬ宝石のごとき国、幻のニッポン、麗しのニッポン、とでもいうべきイメージが、猛烈な勢いで流布していたフシがある。事実シュリーマンは、上海から乗った蒸気船が日本列島に近づいたときの気持ちを、こう書いている。《われわれは六月一日朝六時、日本で最初の、小さな岩ばかりが見える地点に到着した。私は心躍る思いでこの島に挨拶した。これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持ちで日本について語ってくれた。私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである》。上陸した横浜から八王子を経ていよいよ江戸に入る日にも――《素晴らしい評判を山ほど聞いていたので、私は江戸へ行きたくてうずうずしていた》。●つまり、このころニッポンは世界で一番チャーミングな国として西洋列強から特別に愛されていたのかもしれない、ということだ。『清国・日本』を読んでいると、まるで他人のような江戸でありながら、どこか自分が愛されているような、あるいは自分を愛しているような、ふしぎな実感と錯覚がいろいろ交錯して楽しいのだった。●現代でも、このときのニッポンのように、先進国の旅行者がそろって恋い焦がれ、贔屓にする土地というのが、その都度あるように思う。ユーラシアならチベットやブータンがずっとそのポジションだろう。私が旅行した中では96年ごろのモンゴルはいくらかそんな場所だったかもしれない。南太平洋や中南米ならもっとごろごろしているだろうか。キューバなんていくら色あせ年老いても永遠に愛される。●さて、きょう言いたいこと。じゃあイラクは今どうなんだい。私たちはブッシュのアメリカなぞちっとも贔屓にするつもりはない。愛してなどいない(ここ数日はちょっと同情したけれど)。逆に私たちは今、実は、イラクをとても贔屓にしたいのだ。愛したくてうずうずしているのだ。イラクよ、フセインよ、今は絶好のチャンスだ。どうか世界から愛されてください。どうか世界の人々が心おきなく愛せるようにしてください。

●東京新聞のサイトに「江戸宇宙」という連載がありました。「スロー」は自然のリズム、など面白い。


2003.2.22 -- アメリカまた燃える --

●ナイトクラブに続いて石油施設(シャトルもあった)。ほんとにどうかしてしまったのか。これが「アホでマヌケな」アメリカ? 呪い?


2003.2.20 -- 命より先に電気が消える --

●昭島駅徒歩3分ワンルーム2階UB付5万5千円。32歳無職女性が餓死(?)のニュース。近所づきあいはなかった、家族づきあいもなかったと、誰かが当然のごとく言う。しかし私にはなんだか「近所」に思えるし、ネットで同じサイトを見るような「つきあい」なら十分ありえた(電気がとまり冷蔵庫もなかったというから、パソコンも所有していなかっただろうが)。「仕事に出るくらいなら(このほうがまし)」と代弁したのは、私ではなく斎藤環だ。●餓死する前に「脱国」しよう。そんなことを空想する。餓死を逃れる脱北者と同じ。だが何処へ。いやどこの国でもよいのだ。自分が楽園と信じられる土地ならば。●あるいはもしや、就職難民、経済難民、交際難民にとって、東京こそが一番のキャンプ地なのだろうか。そうかもしれない。ワンルームへの引きこもりとは、外側ではなく内側への脱出なのだ。やむにやまれぬ駆け込みなのだ。●餓死する自由、心中する自由を認めるかどうか、それは私はわからない。ただ、少なくともそんなところに追い込んだシステムというものもまた存在するのだとしたら、そっちを問題にしよう。朝鮮国の場合は金正日体制というシステムが大いに関係するだろう。では日本国の場合は……。「多くの要因が複雑に絡んでいて特定が難しいです」。いやそんなことなら総理でも言える。ここはひとつ、この世の悲劇は「すべて特殊法人が悪いのです」と決めつけてみてはどうか。したがって日本社会の難民は、投げ売りされた税金福祉施設に駆け込むべし。勝手に住み着くべし。川越の武道館(1050円)でもよい。宮崎のスポーツランド(10500円)でもよい。それこそ全国に掃いて捨てるほどありそうだ。もちろんお役人様には従来どおり天下りしてもらい、難民生存のために初めて働いていただくのだ。電気ガス水道ネット代に食費? そんなもの彼らの退職金で何年でもまかなえるさ。


2003.2.19 -- 立ち読む人 --

●『考える人』冬号に蓮實重彦が「「赤」の誘惑」と題してなんだか風変わりなことを書いている。●A:お話「赤頭巾」で主人公の頭巾は「赤い」。B:きょう私が実際に着ているセーターは「赤い」。このとき<Aの「赤い」はBの「赤い」と同じように明快なことなんです>という主張がなされたが、蓮實重彦は<そうではなくて、むしろ、Bの「赤い」がAの「赤い」と同じように奇怪なのだと言うべきだ>と主張している。――かなり勝手な言い換えをしているが、私にはそんなふうに読めた。●まったく大ざっぱな知識のかぎりでいうと、ポスト構造主義と呼ばれてきた仏系の考え方と、言語哲学と呼ばれてきた英米系の考え方とを、一緒に並べたり混ぜあわせたりする試みがなされている、と捉えてもいいだろう。●さらにテキトウに言い換えて納得し換えてみれば、思考や言語を自動的に律しているらしきものには「物語」と「論理」の二つがあるようだが、ここでは、蓮實重彦の専門陣営だった「物語」が、もう一つの陣営ではあるがべつに敵でもなかったはずの「論理」を侵食しはじめた、そこに攻め入った、という図かもしれない。●おそらく誤っているので、正しくは同誌を。しかしその場合に改正されるのはあなたの理解であり、私の理解ではないところが悲しい。●青山ブックセンターのイベント「てけてん文学を語る」が思い出される。あのとき蓮實重彦は、<『官能小説家』というフィクションでは、夏目漱石や森鴎外という過去に実在した人物が、現在の文壇バーに登場し、現在に実在する高橋源一郎と同席して酒を飲む、というシーンが描かれるが、それはいったいどういうことなのか、そんなことが許されていいのか、おい>といった問いかけを楽しそうにしていた。それがどうしても思い出されるのだ。同時に、<読書の途中で放り投げた『葬送』(平野啓一郎)では、登場人物(ドラクロアやバッハ)が乗っている馬車の型式が時代考証をあまりにも完璧にクリアしているので、フローベールの小説ではそれがけっこういい加減だったのに比べると、かえってそこには運動がない>といったようなことも述べていた。

●きょうび車をたくさん売るのがそんなに偉いか。とはいえ私も駆け込み亡命するならトヨタだ(ボーナス237万円)。あるいはトヨタ国民だけ消費税15%。


2003.2.18 -- きょうのデマ予報 --

●「ミニチュア・ダックスフンドのブリーダーが倒産しました。子犬100匹が本日中に保健所で処分されてしまいます。どなたか貰い手はいませんか」というメールが、きのう私のところにも届いた。実はこれ、デマのチェーンメールで、98年に流行したものが、ここ数日で再び全国に拡がったらしい。まるでインフルエンザだ。あるいは寒波が日本列島を覆ったため東京でも雪が降りました、みたいな。ブリーダーの住所はいくつかパターンがあるようで、私がもらったのは「茨城型」だった。いくらか世間と隔絶しがちな生活だが、風邪や雪や花粉やチェーンメールくらいは、私のところにもやってくるのだ。バーチャルなようなリアルなような人生。もうすぐ春も平等に来るだろう。●イラク危機はデマだったりしないのか。

●『群像』3月号で陣野俊史中原昌也論を読んだ。まず土台として<日本語のヒップホップは主として国家主義(われらが日本)と地方主義(いいやおいらは福井人)に二分できる>という洞察が出され、「へえなるほどそうなのか」とうなずいた。本旨としては、中原昌也はそのどちらとも違う、どこにもないような場所を志向している、といったかんじ。●そういえば先日、Soft You Nowというサイトに「どちらも闘争的という点は同じ。しかしパンクが追求するのは簡単には人を寄せつけない孤高のカッコよさであり、一方ヒップホップが目指しているのはまわりに女をはべらす快楽主義的なカッコよさなのだと思う」(0212)とあったのにも「へえ」と思った。このサイトは、映画・音楽・漫画・小説等のある作家や作品から、細微だがきわめて具体的で鋭利な発見を、毎日1点だけマーキングする。ときにそれは時代や国を超えた別の1点と思いがけず結びつく。山椒系。


2003.2.17 -- 天上人の音楽 --

●珍しく早起きしたので、モーツァルトをかける。明るい朝の片づいた部屋には交響曲第41番「ジュピター」が似合った。しかし、部屋も気分もすぐに散らかり色あせ荒んでいくのが私たちの日常であり、そうなるといつまでも聴いてはいられない。壮麗なこの音楽が永遠に鳴り響いても全然平気なのは、皇室の若旦那親子の団欒部屋くらいじゃなかろうか。そんなことを思ったのは、「金正日が誕生日を迎えて北朝鮮のテレビは大変な騒動でした」とテレ朝のワイドショーがあいかわらず嘲笑モードで延々その映像を流したそのすぐあとに、「では続いて、愛子さまのご様子です」とにこやかにコーナーが切り替わると、その明るく片づいたロイヤルファミリーのリビングと「愛子さまのよちよち歩き」が美しいBGMと真心こもったナレーションで放映されたからだ。●これが第40番となると、誰しも耳になじんでいるせいか、けっこう汎用性がある。実際いつ聴いてもOKだし、全編まず飽きない。冒頭のフレーズに学校の掃除の時間を必ず思い出すという人までいる。ある日第4楽章を聴いていたら突然、道頓堀の光景が頭を駆けめぐり「モオツァルトは天才やで。理由なんか知らんわい。せやけど聴いとったらわかるやんけ」そんなことばかり書きなぐった小林さんという人(電波系)もいた。●ちなみに今朝のCDはワルター指揮コロンビア交響楽団。 ちなみに「皇室アルバム」の定番BGMはヘンデルだったとのこと。


2003.2.16 -- エクソダス(脱糞?) --

●『希望の国のエクソダス』。突如大量に出現した不登校の中学生たちが、グローバル化する国際金融に円を翻弄され失業率も高まる一方の日本で、それでもなお既成秩序や既得権益の延命を根拠もなく信じる支配層を完全に見切り、まったく新しい価値観と方法論およびインターネットに立脚した組織連繋と事業展開によって、行政やメディアなどのシステムに大きく亀裂を走らせ、やがては日本国家から実質的な独立へと向かう。『男一匹ガキ大将』ではない。これは2001年から始まる物語だ。それを村上龍は98年から執筆し00年に出版した。いやまったくのんきにしてられないですよ、あなた、03年にもなって。●いま起こっていること。これから起こること。村上龍は、何がなんでも自らそれを把握しなくては気が済まない人だ。誰より一番に把握しなくては気が済まない人だ。それはもう死ぬか生きるかの闘い。この世とは、人生とは、すべてが「経済」であり「競争」である。そんな強迫観念をこの作家とぴたり共有する読者であれば、この一作は決定的な未来予測図となろう。ちまたのビジネス書と比較して、深刻さも痛快さも段違いなのは明らかだ。しかし、こうもすんなり比較できることが、それとぴたり同ジャンルの本であることをも明らかにしている。●中学生たちは言う。「この国には何でもある。でも、希望だけがない」と。しかしそれに倣えば、「この話には何でもある。でも、文学だけがない」。それとも、今横着にしがみつこうとした「文学」もまた単なる旧弊の一種にすぎず、彼らにすれば経済にも競争にも適った新しい「文学」が見えているのだろうか。


2003.2.15 -- イラク市場 --

●こうなってくると、「イラク攻撃反対」の声を自分ももっと早くあげておけばよかったかなと、公開株を買いそびれた気分。


2003.2.14 -- 便秘すっきり? --

●先日『容疑者の夜行列車』(多和田葉子)の感想で「〜しそこなってばかり」などと書いたのは、実は、ヴェンダースの映画『まわり道』で最後の最後にそんな呟きが聞こえてきたのを覚えていたからだ。それをここぞとばかり反復してみたわけだ。●そのことは自覚していたけれど、今回実際に『まわり道』を見て、さらにあっと思った。私が『容疑者の夜行列車』を読みながら想像していた疑惑の列車のイメージというのは、まさに『まわり道』の主人公がドイツの北の外れにある地元の町からハンブルクを経てボンへと到ったあの列車移動そのものだった!。それどころか、この作品が映画デビューというナスターシャ・キンスキーは、旅芸人の娘の役で、ほうっておくと人前でむやみに逆立ちをしたり、ふいに横転をしてみせたりするではないか。『容疑者の夜行列車』の「パリへ…」で、主人公がぱっと宙返りをした場面が無性にリアルだったのも、そういうことだったのだ。●さてさて、『まわり道』について、「誰一人としてツッコミを入れないまま、奇妙な一団が路地を闊歩するシーン」との感想があって、なるほどと思った。ヴェンダースの映画が一般のテレビ番組とまるきり対極にあるとしたら、それはこういう対比として現れるのだろう。明らかにおかしな状況や行為がその場に持ち上がってきたとき、大抵のテレビ番組なら一瞬の猶予もなく「つっこむ」。皆が皆その「つっこみ」のチャンスを手ぐすね引いて待ちかまえていると言ってもいい。そして、そうした「つっこみ」によってその状況や行為は小気味よくすっかり解消されてしまう。バラエティであれ、ニュースショーであれ。●ついでに言うと、『容疑者の夜行列車』は主人公が辛うじて自分で入れる「つっこみ」が「つっこみ」のようでよけいにトンチンカンだったりして、まるで太田の「ぼけ」であり、かといって正調な「つっこみ」役の田中は存在しないのだ。

●ところで、『まわり道』の最後の呟きは「新しく動くたびに、なにかをしそこなう」というものだっと記憶していたが、今回のテレビ放映の字幕は違っていた。こうして『まわり道』は依然としてすっきりしない道をさまようことになる。●その字幕のずれはむしろ好ましいが、その翌日に放映された『さすらい』で、かの脱糞シーンにぼかしが入ったのは腑に落ちなかった。しかし正確にいうと、ぼかしが入るのは尻からそれが出てくるその時のその部分のみであり、身体から離れて地面に落ちたあとの物体そのものにはぼかしが入らなかった。禁忌というのか猥褻というのか、NHKにおけるそういうことの微妙な逡巡を考えさせられ、けっきょくよけいに面白かった。●ウェブの日誌もまさに捻り出される瞬間は恥ずかしくて見せられたものじゃないにしても、いったん落ちてしまえばもう「ああなんか落ちてるね、臭いね」でいいのだ。●そもそも脱糞が腑に落ちてどうする。


2003.2.11 -- ワレ、登頂セリ --

●この本を読みました。あの本を読みました。そんなことばかり書きとめるのは、登山の記念スナップのようなものだ。エレガントな宇宙』(ブライアン・グリーン著)。こんな絶壁に挑んだからには、なおさら。

●このところ、ヴィム・ヴェンダースの映画がNHK-BSでまとめて放映されている。『パリ、テキサス』『都会のアリス』ときて、今夜は『まわり道』。どれもすでに見ているが、いつでもまた見たい映画なので、今から始まるといわれると、どうしても見てしまう。深夜1時スタートというのは、夜更かし者には最適だ。オン・デマンドとか言う。番組表のデマンドに応じていつでもテレビの前に座れるよ、という意味。


2003.2.10 -- 春めく、蓮めく --

蓮實重彦のレクチャーを聴きにいったのがきっかけとなり、『物語批判序説』(85年刊)を読んでみた。わくわくはらはらの連続だった。本来もっともっと驚愕し困り果てるべき著作だろうが、さすがに慣れたという感もある。べつだん新しい解釈や発見を示そうと意気込んだわけではなく、紹介としてもかなり破綻しているが、それでもよければこちらを。


2003.2.6 -- アドリブの妙味 --

●きょうはマイルス・デイヴィス『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を聴いている。おなじみの曲をアドリブで弾いて聴かせるところにジャズの本領があるのは周知のことだが、ちょうど読んでいた新書『遺伝子改造社会あなたはどうする』という池田清彦と金森修の対談本も、「ヒトゲノム解読」「クローン人間」「遺伝子組み換え作物」といったこの問題のスタンダードナンバーを取りあげ、まず金森が情報のエッセンスを過不足なく盛り込んだメロディをニュートラルになぞった上で、幅広い教養と理知的な解釈で一定の方向を導きつつ、けっこう熱っぽく、またかぎりなく先端的に展開してみせると、続いて池田が得意の乱調フレーズを期待に違わず吹きまくる、といったインタープレイと見ることができる。●インターネットの日記や掲示板もまた、時事や芸能のニュース、売れている本や映画のネタなどがあれこれ出てくるわけだが、これもまた、テレビや新聞雑誌でいったん耳になじんだ全く同じメロディーを、この人ならどんな風に奏でてみせるのか、そういう面白さを読んでいる、あるいはお互いに吹き合っている、ということになるのかもしれない。けっしてオリジナルな事実やオリジナルな楽器(立場)を期待するのではなく。

●図書館では冊数の上限まで借りるようにしている。なぜなら、返すときに借りた冊数が思い出せなくなり、とりあえず見つかった7冊だけを返しに行ったら、実は9冊借りていて、しかももう貸出期限がきているので、その日は新たな本を借りずに帰ってこないといけなくなる、という事態を避けるためだ。●そうすると、借りる段階では、読みたい本を8冊手にしたが、あと予備の2冊を適当に借りようということになる。そういう場合、何でもいいのに意外に妥協できず無駄に時間を食ってしまうものだ。閉館時間が迫るのに、これほど図書が溢れているのに、目につくのは、なぜか予備としてであってもどうにも読みたくないような本ばかり。あるいは、何でもいいからといって『罪と罰』上・下とかを借りたとしても、読むわけがないし、間違って読み始めてしまったらせっかく予備ではなく借りた本来の読書に与える影響が時間的にも精神的にも大きすぎる。●何が言いたいかというと、そういう場合は新書を借りるのがよい方法だということ。読んでも読まなくても特に挫折感はないし、摘み読みでもいいし、持ち運びにも便利だし、予備でなく読むべき本と本の合間に挟んで読むと気分転換にもちょうどいい。●先の『遺伝子改造社会あなたはどうする』(洋泉社新書y)もたぶんそんな借りかたをした。しかし、けっこう得るところは多かった。たとえば<遺伝的根拠と、じかに遺伝することは違う>といったモチーフ。これもまた、池田の実演(喋り)を聴いていくことで、一応知っているはずの<モチーフ>が初めて内実を現わし納得もされてくると言っていいだろうか。●ところで、岩波、中公をはじめ、ちくま、文春、講談社といった新書は独自の棚に並ぶこともあるが、洋泉社などはたいてい一般の棚に埋没していることが多い。予備用に一覧するには不都合であり、改善を勧告したい。●というわけで、今宵の下手な演奏は「図書館の新書」でした。


2003.2.4 -- 映画を途中からしか見られない仕組み --

●夜中にテレビをつけると素性のわからぬ映画が流れていて、それきりその場から動けなくなるということがある。たいていNHKのBSで、CMがないから、もうトイレには行けない。唖然とする光景の連続に目が離せずストーブの向きを変えるのにも一苦労したりする。もちろん映画は途中からなので、そのタイトルも、すでにどれだけ時間が経過し、あとどれだけ時間が必要かも分からない。●しかし昨夜はそれがけっこう長い映画で、そうこうしているうちに途中休憩が入った。すかさずレトルトの野菜スープを火にかけ、開いたままだったパソコンのインターネットでテレビ番組サイトを調べ、フランチェスコ・ロージというイタリアの監督が1979年につくった『エボリ』という映画だとわかった。逆に、こうあっさり身元が判明してしまうのもどうかなと思ったり。しかしネット上ではさほど有名な作品ではないようだ。ムッソリーニの勢いが増してきた時代に、イタリア南部の荒涼としたある村に、医者であり画家でもあるらしい男が、流刑のためにやってくる。村人と交流するエピソードを重ねることで、国家の戦争と村人の生活の関係あるいは乖離みたいなものが描かれていく。――といった簡単な解説くらいは、見ていてすでにだいたいわかっているのだった。●テレビの映画の始まる時刻は事前に知れるのだから、もうちょっと気持ちも夜食も準備して冒頭からテレビの前に座ったらどうだ、ということになる。だが、テレビ欄に載っているだけでさして前触れなく上映される映画の一タイトルに、日夜忙しい現代人(一般論)をそこまで引っ張る力はない。しかし、実際に映像を目にした段階になると、これはこのまま座っているべきか、立ち上がってもよいかの判断は、だれでもできる。そんなぐあいにして、NHKをつけたらいきなり始まっていた知らない映画をまたもや途中から見続ける。最近では、『猫と庄三と二人のをんな』、『ハンガリアン』といった映画にそんな遭遇をした。解決方法としては、良い映画の場合、1時間ほど前からハイライトシーンをだらだら繰り返し流しながら「○時から放送ですよ」とアナウンスし続けてもらうことだ。地震があると即座に津波の心配について情報をテロップで流すNHKにそれくらいのことができないはずはない(あまり関係ないか)。 ●実は、昨夜は『エボリ』が終わったあと、試しにチャンネルを変えてみたら、またもや映画だった。これもなかなか面白そうで、アメリカでなくヨーロッパの映画らしく、しかし英語でもフランス語でもドイツ語でもないようで、むかしの東欧っぽい頽廃が感じられるが、シーンに出てくる路面電車の広告はやはり先進国っぽく、カウリスマキ映画のフィンランドに似ているようでもある。デンマークか、オランダか、そんなところだろうと思って、またもやインターネットのテレビ欄で調べると、正解はノルウェイ、『ジャンク・メール』という作品だった。これも途中だったが最後まで見てしまった。日本テレビの『月曜映画』とかいう番組枠らしい。きのうは映画のエンドタイトルを端折ってしまったくせに、そのあと『月曜映画』というその番組自体のタイトル映像はなぜか改めてちゃんと流れてきて、それがまた妙に凝っていて、丸尾末広の漫画をあしらって「古くさいアバンギャルド」というムードのものだった。だいたい『月曜映画』っていうけれど、終わったらもう4時半であり、すっかり火曜日ではないか。どうしてくれるのだ。民放の朝一番の番組がもうまもなく始まる時間だった。●そうしたら、ちょうどそのころテレビ朝日では、CG動画または静止画による特異なナンセンス四コマ漫画、といったかんじの作品だけが、説明もなく断片的に流れる時間だった。むかしのウゴウゴ・ルーガの雰囲気あり。そのうち特別に手の込んだ一作が流れて、あっと驚いた。「富岡聡 justice runnners」とクレジットが読めたので、これまた早速検索してみたところ、ちゃんと素性がわかった。「JR東京駅時報アニメーション」(01年)とある。●先日、遊園地再生事業団の芝居『トーキョー・ボディ』を見たのだが、あの芝居を、なんというか、エッジを限りたく立てていったら、このCG作品みたいになるのかもしれないと考えて、ふと『トーキョー・ボディ』の向かっていく先あるいはそれに乗りながら眺められた風景というものが、初めて納得できた気がした。

●ところで、映画『エボリ』では、主人公が投函した手紙を、なぜか村長が手にしていて、このままでは島流しの期間がますます延びますよと親切にも忠告する。反ムッソリーニ的、反愛国的であるというその箇所を、いちいち手紙文を読み上げながら指摘していく。そのなかで主人公は、今イタリアが刻んでいるこの戦争の歴史、こんなものは他人の歴史にすぎない、とかいう書き方をしていたのが印象に残った。●というのは、「他人の」という言い方が、『物語批判序説』の主たる指摘というべき「現代のわれわれは、何を語りだしたとしても、それは必ず他人の言葉で他人の物語を語ることになってしまう」ということを、どうしても思い出させたからだ。●しかしもちろん、こうした戦時において他人の歴史や他人の言説を生かされてしまうことになる「言葉の不自由」は、実はこのように見事にあからさまであり、何が諸悪の根源であるかは(少なくとも今となっては)誰の目にもよくわかる。「言葉の不自由」というのが、たとえば、こういう不自由だけであるのなら、それは単純に怖れればいいだけだ。●『物語批判序説』が言い募っている「言葉の不自由」は、当然ながら、そういう仕組みとはまったく違うところが途方もなく恐ろしいわけだ。蓮實重彦の指摘する「言葉の不自由」は、それまではどうしても誰もが見逃してしまうような形で変なところにへばりついている不思議な「言葉の不自由」であったということが言える。ただ、80年代90年代を通してそうしたことについて蓮實重彦はもちろんその他の人々もどうやらさんざん述べ立てていたようでもあり、それでかえっていささかうんざりしてきた(……というとちょっと言いすぎか。むしろ、そう述べられることにもはや慣れてきた)のが私たちなのではないかという気もする。この件はまたいずれ。


2003.2.3 -- ADSL的な磁場 --

●腰痛と風邪がようやく退潮期を迎えたので、下北沢までコーヒー豆を買いがてら散歩に出かけた。この駅前にもヤフーBBの伝道師は出没する。白く長い防寒コートを着込み、モデムの段ボール箱を片手に辻説法。足を止めていた二人のご婦人、でどうなのかということが、まるきり分からないわけでもないが、いちいち分かるというわけはなく、時折うなずくことでその都度われに返りながら、立ち去るきっかけは徐々に失われていく。●ちょうど蓮實重彦の『物語批判序説』を家で読んでいた私だが、滔々とした説法をただ黙って聞いていた自分は、なるほどあのような表情をしていたに違いないと確信した。


2003.2.1 -- 寝ていていいのは寝台席と風邪の日 --

多和田葉子『容疑者の夜行列車』(02年)。タイトルに何より惹かれた。表紙の写真がまた実にいい。もちろん内容も。


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