エレガントな宇宙
ブライアン・グリーン著 林一・林大訳
エベレストに登りたいという気持ちがあるとしたら、それは世界でいちばん高い山だからだろう。同時に、そうした最高峰がその気にさえなれば絶対たどりつけない場所でもなさそうだからだ。『エレガントな宇宙』を読みたいと思ったのも、それに似たところがある。物質と力すなわち宇宙が本当はどうやって成り立っているのか。それがいよいよ完璧に解明できると期待される「超ひも理論」。物理学の最先端、最高峰と捉えていいのだろう。『エレガントな宇宙』は、現場の研究者自らが、この大変な理論について、一般人をも納得の高みにまで引っぱり上げようとしてくれる本だ。
順序としては、ふもとで現代物理の準備体操を済ませてから登山開始となる。ただしまず向かうのは、第一の峰「相対性理論」、次いで第二の峰「量子力学」だ。それらをどうにか踏破したあと、ようやくその奥にそびえる「超ひも理論」に挑むことができる。当然ながら難所は多い。「カラビーヤウ空間」「巻き上げられた次元」だの「超対称性」だの。酸欠ふらふら状態になって下山を余儀なくされてもまあ仕方なかろう。しかし、あまりに険しい難所であればこそ、まさにこの世のものと思えぬワンダーな風景をごく間近で眺めることもできるのだ。
念のため言っておくと、「超ひも理論」の登頂に成功した研究者はまだいない。界隈は神秘の雲にまだまだ厚く覆われている。しかも、これが頂上だろうと推測される峰は五つもあるという。その超ひも五連峰が、実は、遥か天空で「M理論」という唯一の頂上を形成しているらしいというのが、ブライアン隊長らの最終見解だ。
さて、超ひも理論の理解が何合目まで達したのかは定かでない。でも、『エレガントな宇宙』自体は読破したのだから、ここにその偉大な書名を刻んで登頂記念としておきたい。
本は、ただ読めばそれでいいってもんじゃない、という意見もあろう。でも結局は、ただ読めばそれでいいってもんじゃないのか。山と同じで。
世界中に普及している本のうち一番エレガントな本、一番エクセレントな本があり、誰もがそれを望むかぎりで手にできるのならば、それはぜひとも読みたいし、困難をのりこえて読み終えることができた瞬間は何より幸福だろう。世界で一番のワインを飲むとか、世界で一番のホテルに泊まるとか、そっちもそうとう魅力的だが、どれか一つを選べというなら、ワインやホテルの困難と幸福のほうは諦めてもいい。
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この書を読むうちに、「物理学」あるいは「理論物理学」というのがだいたいどういった種類・性質の考察なのかということも、おのずと示されてくるように感じる。そのことでもう少し。
私はつねづね「中性子・陽子・電子があります」というのは、たとえば「血管の中に赤血球や白血球があります」という確かさとはどこか違うみたいだと感じている。「本当は、クォークが、ミューオンが、ニュートリノがあるのです」とくればなおさらだ。そこへもってきて今度は「本当に本当は、ひもがあるのです。それは11次元です。震えています。それが実体なのです。宇宙は全部それで出来ているのです、全部それで説明できるのです。これ以上の本当はもうありません、きっと」という。それでも私には、「出来ている」というのと「説明できる」というのは別のことなんじゃないか、といった気がかりは消えないままだ。 逆にそこがいちばん面白いとも感じるのだが。
『エレガトな宇宙』はそこに焦点を当てた本ではもちろんないが、展開されていく「ひもの有りよう」というものが、私たちの実感や想像を明らかに超えてしまうとき、そうした気がかりは、どうしても改めて浮かび上がってくるのだ。
とはいうものの。私たちは、たとえば車の速度と目的地までの距離から必要時間を割り出すといったことができる。それは一定の方程式に従っていて常に(ほぼ)間違いがない。私たちもそれを了解している。相対性理論、量子力学、超ひも理論となると、ずいぶん高度であり日常生活とも縁遠いが、宇宙のあり方がなぜだか数式という法則によって解明できるという点では、同じ地平にある話だ。超ひも理論はたしかにすこぶる不思議で奇妙だが、私たちが遅刻せずドライブできるのもそうとう不思議で奇妙なのだ。
しかし、あるいは、だからこそ――。 アインシュタインは言ったという。 「宇宙について最も理解できないのは、宇宙が理解できることだ」。これをめぐって著者ブライアン・グリーンは、次のようなことを最後にしみじみと述べる。
《新たな、はるかに見通しのよい量子力学の定式のなかで形づくられたひも/M理論を正確に理解したとしても、粒子の質量や力の強さを計算しようとする試みが失敗することはありうるのだろうか。その値を得るのに、理論的計算ではなく、実験測定に訴えなければならないこともありうるのだろうか。さらに、そうなっても、もっと深い理論を探さなければならないわけではなく、むしろ、それは、実在の属性として観測されるものには説明などないことの反映にすぎない、ということもありうるのだろうか。今挙げた問いすべてにたいして即座に出てくる答えの一つは、イエスだ。》
《進歩が急速でめざましい時代には、そもそも私たちに宇宙が理解できるということがいかに驚くべきことであるかが見落とされやすい。しかし、理解可能なことには限界があるかもしれない。科学が提示できる最も深い理解のレベルに達してもなお、宇宙のもろもろの側面のなかには、説明がつかないままに終わるものがあることを受け入れなければならないかもしれない。》
《技術的障害でもなく、将来乗り越えられるであろう現時点での理解の限界でもない、科学的説明の絶対的限界に突きあたれば、これは未曾有の出来事となる。過去の経験は、何の備えにもならない。》
究極の理論というものを考えることの不思議さは、究極の理論の不可能性を思い起こすというますますの不思議さを伴っている。そんな天上の奇観に出会えるところにまで、私たちは来ているのだ。