蓮實重彦『物語批判序説』 ブルックナー交響曲第9番


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批評コンビニ幕の内(8)
蓮實重彦『物語批判序説』(第1部)


蓮實重彦『物語批判序説』(第1部)は、読み終えてみれば、フローベールの『紋切型辞典』をめぐる評論という形をとっている。しかしその始まりは、こうだ。

それを博学と呼ぶには彼の知識はあまりに貧弱であったし、ましてや言語学的な卓見を誇りうるほど事情に通じていたわけでもないのに、一人の男が、あるとき、不意に辞書の編纂という途方もない計画を思いたち、知人や親しい仲間たちに向って、その構想をぽつりぽつりと洩らしはじめる。そんな身のほど知らずの着想を無理にも思いとどまらせる友人がひとりもいなかったところをみると、誰も、その完成を本気で信じてなどいなかったのだろう。事実、辞典編纂の知識も経験もないこの無謀な男は、その構想を実現させる以前に死ななければならなかった。彼の死は、いまからほぼ百年ほど前のできごとである。したがって、この辞典によって言葉や概念の定義を学ぼうとしたものは、過去一世紀を通じて世界にひとりもいない。実際、完成されもしなかった辞典など、どうして参照することができるのか。

あいかわらず前触れも助走も挨拶も抜きでいきなり本題らしい。それに続いて、その辞書とやらがどんな意図や経緯で編纂されたか、その結果どんな特徴を帯びることになったかが、念入りに語られていく。ところが、話題にしている辞書が『紋切型辞典』という著作であること、また、その一人の男がフローベールという名前であることは、かなりあとまで明かされない。この段階では、よどみなく語っている対象が「どんな性質か」だけを詳らかにする一方で、その対象が「何であるか」はあえて隠しとおそうとする。そうした論述における不明瞭さは、ほかにもいくつか重なっているように思われる。そのせいで、この論述は「いったい何を問題にしているのか」という肝腎な点において、視界がいっこうに晴れてこない。

ところで間違っても参照されることはないが語られはするというこの奇妙な辞典とは、まさしく荒唐無稽と呼ぶほかはないのだが、こうした顛倒した関係をあからさまに生きるほかはない関係を、人は、倒錯的という言葉で定義することができるかもしれない。ここに始まっているのは、だから、倒錯的な辞典の物語なのである。

総体は霰弾のような痛烈な効果を発揮することになるでしょう。この書物のはじめから終りまで、ぼく自身がつくりあげた言葉は一つとして挿入されることなく、ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐しくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません。(編纂者が友人に宛てた手紙から)

へんな感じ、いやな感じだけが募ってくる。

やがて――

この論述は、私たちの言葉の使いようをめぐる愁訴にじわじわ触れてくるようではある。読んでいくほどに、そのような何かにじわじわ思い当たる。しかし正体はなかなか見えない。こうなると、この辞典の正体、この論述の正体、ひいてはこの書物の正体、それらをどうにかして見極めないでは、もはや引き返せない。書物を閉じることができない。

ここで行われている論述は普通の論述とどこかが違う。論述というものはたいてい、この世界の現状といったものについてそれぞれ独自の立場や視点から首をかしげ、そうして、何らかの主張といったものを何らかの言葉で述べる。しかしこの論述は、その「何らかの主張を何らかの言葉で述べる」という論述の習いそのものに、首をかしげているのだ。たぶん。そのようことだけは薄々感じられてくる。

第1部を読み通したあと、受けとめたことの入り口を自分なりにまとめてみると、だいたい下のようになった。受けとめたことの全体ではない、入り口だ。

私たちがある問題についてある言葉を述べるということは、よく経験することだ。というか、私たちは年がら年中そればっかりやっている。その場合、私たちは、その問題というものが確固たる存在であることを疑わない。また、その問題について自分は自ら知ったことや考えたことを自らの言葉で述べているのだという自信を疑わない。

ところが実は、そうした問題というのは、一定の枠組みや仕組みの中ではじめて形を持てたにすぎない。私たちの言葉というのもまた、そうした枠組みや仕組みに制御される形でしか使うことができない。いってみれば、他人の問題を他人の言葉で語っているだけだ。

こうした枠組みや仕組みは、ある特定の時期に出現して以降、現代における私たちの言論すべてを覆い尽くしている。しかし、それがあまりに巧妙にまた大掛かりに組み上げられているせいで、私たちはその枠組みや仕組みに気づくことができない。今ここで自分が取り上げる問題や述べたてる言葉が、まるで世界の普遍的な実相そのものであるかのように、あるいは独自の発想や技法で創出されたものであるかのように錯覚してしまう。しかも、次々に何らかの問題を取りだし、次々に何らかの言葉を紡いでいくことによって、その仕組みや枠組みへの自覚は、どんどん遠ざかっていく。

そうだ、私たちの言説は厄介な落とし穴にいつのまにか嵌まっている。いかにも自由なようでいて極めて不自由な状態におかれている。……というと「いやそんなこと、今さら指摘されなくてもわかっている。実際ずっとそう感じてきたよ」と言う人が多いかもしれない。でもそれはつまり、私たちがいわゆる80年代以降あちこちで目にしてきた文章やそれをもとにあれこれ首をひねってきた思考が、全体として、とかくこうした指摘をめぐっていたことの証しでもあろう。

そして、その手の指摘をしてきた代表的人物の一人が蓮實重彦であり、1985年に出版された『物語批判序説』(中央公論社)がその代表的著作の一つであると捉えて、さほど文句は出ないだろう。初出は文芸誌『海』。第1部が82年、第2部が84年と記されている。

この著作に改めて向き合ってみて、フーコーとかボードリヤールとかバルトとかそうした名前がちょくちょく浮かんできたが、それも、原典を読み通したわけはないのに、そうした名前と紹介だけは長い間のうちに幾度も目にし口にしてきた効果だろう。いうまでもなく、蓮實重彦はそうしたフランス現代思想を日本にいち早く導入した人物とされている。ときには導入というより「その思想を横領した」というふうな非難もなされるようだが、それは私はよく分からないし、また別の話だ。

ともあれ、私たちの言葉すなわち現代の言説というものが、上にまとめたような厄介さを抱えていることを、『物語批判序説』はとりあえず指摘する。では、その現代の言説がそんなぐあいになったのは何故なのか。また、何時からそうなったのか。そうした分析がまた、淡々と滔々と行われる。

蓮實重彦が注目するのは、19世紀半ばの短い時期にフランスの言説に生じたある変動だ。その時期までは「何かを語る」ということが「特権的な知」に従属していたが、この変動以降そうではなくなったのだという。その説明が詳しくなされる。そして、「現代的な言説」をその変動と同時に始まったものと定義づける。その変動は社会構造の変化としては感知できないほど微小なものだったが、私たちの言説に極めて重大な影響をもたらし、私たちは今なおその影響を脱しないでいるという。

そのことが、「説話論的な磁場」「物語」「問題」といったいわくありげな特殊語をあれこれ組み換えながら論じられていく。この3つの特殊語による概念はどれも、現代の言説を惑わせ厄介な枠組みと仕組みの中へ引き摺りこんでいく作用として働いていると捉えればよい。

読みながら抜き書きしたもののいくつかを引用してみよう。

説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。(略)誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となっている語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが稀薄に連帯されているのである。

ここで重要なのは、それ故、語の定義そのものよりも、「とは何か?」という暗黙の問いがはば広く共有されるにいたったという事実だ。そしてこの潜在的な設問は、それを話題にすることがよいことだとするいま一つの暗黙の了解となって稀薄に拡散していく。思考することの善意が前提となって維持されるこうした定義の試みが、既知の事実をめぐっての物語であるという点に注目しよう。つまり、誰とも同じやり方でそれを話題にしうるとき、人は自分がそれを知っていると確信しうるのだ。ここにおいて、物語がもはや知に従属するものではなくなっていることは明らかだろう。知っているという特権が語りを保証するのではなく、物語る権利の共有が知ることの同義語となっているからである。語ることが知っていることに従属することをやめてしまった時=空に形成される説話論的な磁場とは、こうしたものだ。その表層に結ばれてはほぐれてゆく現代的な言説は、何ごとであれ、それについて語るのはよいことだとする前提によって支えられている。語ることが知っていることの保証となり、同時に思考の同義語でもあるような世界、それこそわれわれがとりあえず現代と呼んでおいたところのものだ。潜在的な設問が社会のさまざまな領域にまで行きわたっているはずだという暗黙の了解は、現代という歴史的な一時期に、到るところで物語を希薄化し、問題という言葉で想像しうるもののイメージを矮小化してゆく。というより、物語が知に従属するのをやめたとき、人は、奇妙なやり方で問いと答えとを混同することになったのだというべきかもしれない。誰に促されたというのでもないのに、人は、潜在的な設問に回答を用意しておくことが現代にふさわしい義務だと確信する。そして、用意された回答を口にしながら、その身振りを問題の提起だと勘違いすることになったのだ。

物語が知に従属するのをやめた瞬間から、あたかも物語が知に従属する事実の大衆的な発見がなされたかのように、事態は進行しはじめたのだ。物語の希薄化とはこうした現象にほかならず、これまで現代的な言説と呼んできたものは、こうした問題の周辺に歴史的に生産された言葉にほかならない。(略)歴史的な産物としての問題は、ことごとくこうした矛盾としてかたちづくられている。その矛盾を矛盾として露呈させまいとする周到な配慮が、現代を問題の物語として不断に綴りあげてゆくことになるだろう。》(「問題」には傍点が付いている)

自分の問題を自分で語ることが作家たることの証であるというなら、現代的な言説は作家の誕生を禁じる言葉の環境というほかはない。事実、「問題」の時代の説話論的な磁場は、作家という存在を容認しえないのだ。他人の語る他者の問題の中で目覚め、他人の物語を模倣しつつこれと同調することなしに「芸術家」の生産は不可能なのだから、そこから自由な空間は見出しえないのである。

(たとえば「戦後」という問題、「国家」という問題、「マルクス主義」という問題についても)誰もがそれについて気軽に語りうるのは、それが「問題」の時代にふさわしい他者の物語として他人の言葉で語られているからにすぎない。つまり、説話論的な磁場に変容が起こったが故に、特権的な知の所有者であると否とにかかわらず、こうした語彙を主題とした物語を口にしうるというまでのことだ。それは断じて自分の言葉とはなりがたい何ものかであり、どんな姿勢をとったところで、説話論的な断層を体験することなしに自分の物語として正当化されることはないだろう。

きりがなくなってきた。

――念のため申し上げます。

当たり前ですが、こんな紹介や引用を読んであれこれ悩むくらいなら、『物語批判序説』そのものを手に入れて頭から読みましょう。そのほうがよほど分かりがいいはずです。

いまさらこんなことを言うのもなんですが、私が『物語批判序説』から受けとめたことの全体を、ここでズバっと説明しきることは、まったくできそうにありません。せいぜい引用でもしながら、こんなかんじかな、あんなかんじかな、なんかエッセンスを抽出できないかなと、手探りしているだけです。

ではなぜ私は、そんなものをここに書きとめようとするのか。それはよく分かりません。すでにこの書物を読んだ誰かと、思い出話のようなものを交わしたいだけかもしれません。しかも、できるだけ「わかったこと」を言おうというのと、できるだけ「かわったこと」を言おうというのが、相半ばしているようところがあって、よけいにややこしくなっています。

ともあれ、話を元に戻して――。

では、そうした現代の言説が、「説話論的な磁場」に、あるいは「問題」といった意識に、あるいは「物語」といった無意識に、かようにずぶずぶと搦めとられてしまうのを回避するにはどうしたらいいのか。そう、それが肝腎だ。

おそらく、それには物語を語ろうとする話者の姿勢を変えなければなるまい。現代的な言説を特権的な知と想定し、物語をそれに従属させてはならないのだ。「問題」の時代の説話論的な磁場について、一篇の物語を語ってみせたりするのではなく、そこに形成されては組み替えられてゆく「問題」体系の配置そのものを、誰もが知っている他者の物語として、話者を介在させることなく語らせなければならない。

すると作家が語る物語は、現代的な言説の構造そのものを周到になぞることになるだろう。そのとき、他者の言葉を語っているのは、あくまでも他者である。「問題」がきまって他者の問題であり、それを語るのがかならず他人の言葉であるなら、まさに他人が語る他者の問題だけがそこに露呈されるはずだろう。

蓮實重彦によれば、このようなやり方を実践することで、現代の言説が抱える陥穽を透視し回避できているのが、『紋切型辞典』なのである。その根拠が、フローベールの生前には出版されなかった『紋切型辞典』の奇怪な成り立ち、有り様、その独特の叙述というものを通して示されていく。

『紋切型辞典』が実践しているそのやり方には、見逃してはならない大事なポイントがある。上に引用したことでいうと「現代的な言説の構造そのものを周到になぞること」だ。このことは「戦略的に倒錯すること」というふうにも言い換えられよう。どういうことだろうか。

彼(フローベール)によれば、この無償の説話論的な装置が演ずべき唯一の機能は、物語から物語を奪うこと、つまり、それじたいが説話論的な磁場を構成する装置そのものが、あらゆるものの内部で、物語的な欲望を意気沮喪させることでなければならぬというのである。

編纂者の目指すところは、誰もが容認する匿名の物語が、その説話論的な磁場そのもののうちで自己崩壊をとげるということにほかならない。物語が、その物語そのものによって、物語の語り手から物語を奪うという事態が起こらねばならないのだ。無償の饒舌が無償の饒舌を沈黙させること。説話論的な装置としてのこの辞典の機能は、その装置をそっくり機能停止へと導くことになるのである。要するに難儀して作りあげた機械が、いざ完成したとなると、まさにその瞬間に、自分自身をむさぼり喰ってしまうような装置が夢見られているのだ。

彼が求めているのは、攻撃としては解読されがたい攻撃法の開発にほかならない。だから、この説話論的な装置は、いささかも攻撃を意味することのない記号を発信し、しかもその記号が、着実に攻撃として機能するように調節されていなければならない。(略)それには、この辞典が、必然的に戦略的倒錯性を身にまとわざるをえないだろう。

肝腎な点は、装置としての物語を正確な模倣によって反復し、その身振りそのものを通して、ということは、その身振りが人目から隠すいま一つの身振りによってではなく、まさに同じ一つの仕草で、装置の物語的な機能を停滞させることである。

なんだか分からないでしょうか。分からないままリピートされているかんじでしょうか。しかし、分からないなりに、それがとても奇妙な方法らしいということだけは、分かっててもらえるでしょうか。ではそれが本当に実践できた場合、その言説には何が起こるというのでしょう。いや、それをここで全部見せるわけにはいきませんね。ちょっとだけ。ただしこれはクライマックスシーンではありません。

事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を重点して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。

「きゃ〜、面白そう。わくわくしちゃう。この前後の傑作『表層批評宣言』と『小説から遠く離れて』の醍醐味を思わせるわね。それにしても、ここまで数々のシーンが断片的に引用されてきたけど、実際これ、どう繋がるのかしら?」

もちろんそれは予告編では分かりかねるのです。知りたくてたまらなくなったら、ぜひ本編を。

――そうか、私のこのページは、『物語批判序説』の予告編だったのだ!

[宿題]

たしかに『物語批判序説』は、現代の言説のありうべき倒錯的な実践について論述している。しかしより重要なのは、『物語批判序説』が、それと同時に、現代の言説のありうべき倒錯的な実践それ自体を実践している可能性があることだ。その詳細について論述せよ。ただしその論述もまた、そのような倒錯的な実践それ自体ともなるようにせよ。

[編集後記]

『物語批判序説』のエッセンスを、どこか一節だけの引用でサクッとまとめてしまえないものか。最初はそんな望みもあった。しかしそれは無理だった。そのことで、思い出したことがある。

ブルックナーの交響曲第9番というのをときどき聴く。指揮はヴァントかシューリヒトがいいというので聴き比べたりもしている。この曲はブルックナーの絶筆であって3楽章までしか完成していない。それでも第1、第3楽章がそれぞれ25分前後あって、とにかく長い。そして、ただ長いだけでなく、曲がいつどんな風に終わるのか見当がつかないところに、この交響曲の一番の特徴がある。そう思う。

モーツァルトやベートーベンの交響曲などであれば、大抵きちんとした形式できちんと盛り上がって終わる。ところがブルックナーの第9番ときたら、気の向くまま増築につぐ増築で、二階三階四階と積み重なっていくのだ。(ブルックナー全体あるいは後期ロマン派全体に言えることかもしれないが、詳しく知らない)

曲が始まるやいなや、爆発、さらに大爆発。かと思うと、ほどなく華麗なモチーフに推移し、ああこっちが聴かせどころだったかと向き直ろうとするが、そうしたモチーフは一つや二つではなく、あきれるほど際限なく飛び出してくる。しかもそのつど繋がっているといえば繋がっている。だからまた常に完全な着地には到らない。そうやってたしかに曲調はめくるめく表情を変える。が、しだいに、今聴いている旋律のどれもが、さっき聴いた旋律をどこかにたたえているような気がしてくる。とはいえ、はっきりどれが主題でどれが変奏かの区別は難しい。あらゆるパートが決定打のようで、だからかえってどれもが決定打とは思えなくなっている。そして、楽章はまだ終わらない。メインストリートはどんどん遠ざっているみたいなのに。それどころか別のメインストリートが次々に見えてきているみたいなのに。いったいぜんたい曲全体の形式や構成はどうなっているのか。いつ、どうやったら終われるというのか。ほんとうに結論は示されるのか。やや不審な思いも頭をもたげてくる。とはいえ、どこを聴いても、いつまで聴いていても心地良いのだから、まあいいかと、うっちゃっている。

『物語批判序説』を一読した印象がまた、こういうかんじだったのだ。「こんな曲です」と1つのフレーズで代表させることができない。いや、代表させたいフレーズが多すぎるといったほうがいいか。

「迂回」という言葉がある。これは「凡庸」などとと同じく蓮實重彦の代名詞みたいになっているかと思う。高橋源一郎と竹田青嗣もまた、『物語批判序説』の性格を述べるのに「迂回」という言葉を用いている。『文学界』88年4月号の「批評は今なぜ、むずかしいか」と題した対談(加藤典洋も交えた三者)にそれがある。竹田青嗣対談集『批評の戦後と現在』(平凡社)という単行本に収録されている。この本、なかなかの掘り出し物だった。

この対談で高橋源一郎は『物語批判序説』を実にうまく形容している。竹田は、つまるところ、『物語批判序説』は「迂回しているから好きになれない」という立場だが、高橋はまったく逆だ。そのあたり、ついでなので引用しておこう。

でも、ぼくは、逆に迂回していることが重要で、あとは重要な問題じゃないんじゃないかという感じがするわけです。(略)おそらく『物語批判序説』という現場に居合わせた読者が最初に受ける印象は、なんでこう迂回しているんだろうということですね。そういう事態を書いているほうも予期してると思うんです。

どんなゲームでも、ふつうスタートして謎を解いて終わりですよね。ところが、謎を解くのが目的ではないゲームもあるわけです。言ってみれば『物語批判序説』はそういうゲームでしょう。迂回するゲームなんですね。ところが迂回するというのは、結末があるから迂回するんで、結末がないのに迂回できないですよね。この、長々とした叙述と、遠くへ行っては暫定的な結論を設定してまた振り出しへ戻ってくるという運動の繰り返しで読者が切実に受け取るのはその意味より、妙な「感じ」の方だと思うんです。『物語批判序説』に出てくる、迂回してる途中の風景はどんなものかと言うと、同じことが違った柄でどんどん出てくるだけなんです。それが退屈かというと、おもしろいんですね。叙述の形式がそのまま作品でもあり、そのことが作品を一層おもしろくしているのがいいポスト・モダニズムのフィクションの特長なんですが、この『序説』の宙ぶらりんな時間はまさにそれなんですね。結論は目の前に見える。ちょうど「ビックリハウス」の入り口と出口が隣り合ってるみたいに。だからといって、中へ入らないで入り口から出口へ直行するものはいない。中に入ってゆっくり回ってきなさいという批評だと思うんですね。

今回、いまさら蓮實重彦の本を読んでみようとした動機は二つある。一つは先日の青山ブックセンターのイベント「とことん文学を語る」だ。その喋り芸人としての姿を目のあたりにし、蓮實重彦とはいったいどういうことなのか、そんな素朴な積年の疑問、不審がにわかに花開いたせいだ。(積年といっても、同時代にはあまり読んでいなかったので、せいぜい十年ほどの話)。そしてもう一つの動機が、この対談本を読んだことだった。ここで言及されている『物語批判序説』が、猛烈に読みたくなったのだ。

すでに述べたとおり、この対談で高橋源一郎と竹田青嗣の立場の違いは鮮明だ。そのことを、今回の続きとして、じっくり考えてみたいと思いはじめた。言葉を使って言葉を見極めるという実践が「迂回」であってほしくはないという竹田青嗣の切なる願いには、とても共感する。しかし一方で、そうした実践が「迂回」であってもかまわない、それどころかそれしかないかもしれないという仮説を、高橋源一郎はいったんは立てているようだ。そうした仮説は、今なおきわめて怪しい魅力を放っているではないか。『物語批判序説』の真価がその二つの立場と連動して揺れていることも、改めて確認してみたい。


Junky
2003.2.10

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