わかったということにする
しかし、わかったといってもなにがどうわかったのだろうか。
妙な話だが、私が今「わかった」と述べたことが、私にとっては、なにより「わかった」ことの証明になっているような気がしている。あんまりいつまでも「わからない」「わからない」と首をひねっていないで、もう暮れも押し詰まったことだし、ましてや今回はミレニアムでもあるんだから、ひとつこのへんで「わかった」と肯いてみることで、むしろ「わかった」がいよいよスタートするとでもいおうか。
しかしこれじゃなんとなく誤魔化しみたいだ。それでは、「わかった」ということの実質は、端的にいうと何だろう。
まず、「ウィトゲンシュタインがわかった」とは、「ウィトゲンシュタインの言ったことがわかった」あるいは「ウィトゲンシュタインの書いたことがわかった」ということでいいだろう。
それを踏まえてちょっと飛躍する。ふと思いついた仮説。
「ウィトゲンシュタインの書いたことがわかった」ということは、「ウィトゲンシュタインの書いた文章を、なんらか別の文章で言い換えることができた」ということと同じである。
この仮説は正しいか。
自分が「わかった」という時の経験を思い浮かべてみよう。ある文章が「わかった」と感じている時ならば、その文章の言葉を言い換えたり主題を変奏したりができないということはないだろう。<わかる>ならば、少なくとも<言い換え>くらいはできる。これはまあ正しいと思う。
つまり、<言い換え>は<わかる>の必要条件ではある。
では、逆に、言葉の言い換えや主題の変奏さえできれば、もうそれだけで「わかった」と述べてしまったりするだろか。もしそうならば、<言い換え>は<わかる>の必要十分条件であって、仮説が正しくなるが---でも、誰しもそれだけでわかるとは言わないのではないか。つまり、
<わかる>ための条件は、<言い換え>だけでなく、ほかにもありそうだ。
では、それはどんな条件なのか。さらにいくつ条件があるのか。それを考えていくと、あることに気が付いて愕然とする。仮にどんな条件をいくつ重ねたとしても、<わかった>というのに十分だといえる段階など永遠に来ないのではないかということだ。その極北にはこの答がある。
<わかる>ということの必要十分条件とは、まさに<わかる>ということ以外にはありえないのだ。
---おや、これでは最初の誤魔化しに戻ってしまった。
というところで、私にはもう考える力がなくなった。きょうのところは、<ウィトゲンシュタインがわかりたいなら、言い換えろ、書き換えろ、さもなくば、わかったと言え、わかったと書け>という無謀な結論。
*ウィトゲンシュタインの口述筆記として知られる「青色本」には 「思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう」とある。私としては今回いろいろ考えたことはそれに通じていると感じているが、「いや全然通じてないよ」と言われたら、まあそれもしょうがないので、「じゃウィトゲンシュタインはともかく、私がそう考えたということで」と言う。
きょう「青色本」を読んでいて、わずかばかりウィトゲンシュタインがわかった。