哲学大陸・言葉ルート

涌井 史明氏の試論4

言語は違っても同じく「思考」

 さて、猿が思考することを認めていただいたとして、猫はどうなのか、犬は、という問題があると思いますが、同様の過程を以 て証明できるのと思います。こうして、大部分の動物(ミジンコは思考するのか、という問いには残念ながら答えられませんが、 少なくとも、ほ乳類・は虫類・鳥類程度は)が思考することが出来るとして、それらの動物と人間との思考の間の溝について考え てみたいと思います。
 人間以外の動物が思考するとして、それに「思考する」という言葉を適用することが適切であるかどうかという疑問が残ります 。つまり、動物が人間でいうところの思考のようなものを行っているが、これに人間の言葉である「思考」を当てはめてよいもの かどうか、という疑問です。動物が思考のようなものを行っているとしても、それは明らかに人間の思考とは異なるので「思考」 という言葉を適用できないのではないか、というわけです。この問題を考える手始めとして、言語の問題に立ち戻ってみたいと思 います。上述したように、言語は我々の思考を大きく支配しています。ということは、思考する際に使用される言語が異なれば、 言語が異なるだけ、思考という営みの間には違いが生じることになります。つまり、日本語で行われる思考と英語で行われる思考 の間には、違いが生じるということです。であれば、日本語で行われる思考と英語で行われる思考を同一の「思考」という言葉の もとに包括するのは問題があるのではないか、ということになると思います。しかし、そんなことはないでしょう。日本語で行われ ようが、英語で行われようが、「思考」という言葉の下に一括りにして問題ないでしょう。同様に、他のいかなる言語の間でも同 様のことが言えると思います。さらに進んで、手話はどうでしょう。手話のことは残念ながら、詳しくは知りませんが、手話の構 造は、一般的な自然言語とは、全く異なると聞きます。聾唖者がもっとも日常的に使用する言語は手話だと思いますが、(もし間 違っていたらすいません)そうなると、聾唖者の思考は手話に基づいていることになり、我々の思考とは異なることになりますが 、それでもやはり、「思考」という言葉の下に含まれることに問題はないでしょう。(つづく)


戻る                  進む
涌井 史明氏のメールアドレス=wackey@big.or.jp

出発地へ