哲学大陸・言葉ルート

涌井 史明氏の試論3

動物は本当に考えることが出来ないか?

 ところで、言語(少なくとも我々人間の様な言語)を持たない動物は考えることが出来ないのでしょうか?難しい問題だと思い ます。例えば、猫が言語について非常に深遠な思想を持っていたとしても、我々はそれを確認するすべを持たないからです。とは いえ、猫が思考しないということを証明してはいません。
 ここからは私見となりますが、猫もやはり思考しているのではないでしょうか。しかし、思考するといっても、我々のものとは 何らかの違いがあることは確かでしょう。このような主張をすると、猫の思考は我々の思考とは異なり、思考という言葉を当ては めるのは適切ではないのではないか、という反論が予想されます。もっともな反論だと思いますが、便宜上思考という言葉を使用 することを許していただきたいと思います。それに、思考という言葉を使用することにはある程度の合理的理由があると思います ので、思考という言葉を使用します。この理由は後述します。
 動物が思考するといことを示すために、次のような例から始めてみましょう。猿が天井からつり下げられたバナナを取る様子を 観察する実験があります。猿は最初は、バナナを取ることが出来ませんが、試行錯誤(この言葉も適切ではないかも知れません) の末、バナナを取ることに成功します。この実験は、学習能力に関するものですが、現在の主題である動物の思考についても貴重 な示唆を与えてくれると思います。この実験は、猿が最初は取ることが出来なかったバナナを最終的には取ることが出来たという ことを我々に示します。つまり、猿が何らかの過程の後に、バナナを取るすべを身につけたということを示すのです。この何らか の過程こそが、「思考」という名のもとで呼ばれるべきものなのではないでしょうか。「外見上思考しているように見えるだけで あって、本当に思考しているのかどうか怪しい」という反論があるかも知れませんが、そう言う人に尋ねたいことは、「あなたは 外見上思考しているように見えるが、本当にしているのか?」ということです。おそらく、「絶対、している。」という答えが返 ってくると思います。しかし、私には、思考しているか、していないのかを判断するすべがありません。とはいえ、判断不能であ るからといって、その様な問題を切り捨ててしまうのはあまりにも乱暴だと思います。ですから、上述の反論をする人が思考して いることは、条件付きだとしても認められるべきことだと思います。同様に、猿が思考していることも認められるべきではないで しょうか。議論の展開が乱暴ですが、これ以上の詳述は現在の私の手に余ります。(つづく)


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涌井 史明氏のメールアドレス=wackey@big.or.jp

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