追想 '99夏
旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先
18
9.12 第32日 国際列車 不意打ちのカザフ国境
列車はけさ国境を越えた。中国側最後の駅で乗客と荷物が調べられパスポートに判が押される。それが済むとまた列車が動き、ついにカザフスタン領に入る。次に停まった駅では今度はカザフの係官が来て同様の検査を行う。乗客はその間ずっと席にいる。係官がコンパートをひとつづつ訪ね、乗客に対し気の済むまで質問をしたりパスポートを眺めたり荷物を開けてみたりするのである。このカザフスタンの入国がけっこう面倒だと聞いていた。ビザや入国用紙に難癖をつけ金をせびる悪徳係官の噂もある。配られた入国申請用紙を見るとロシア語とカザフスタン語だけ。これには所持金を記入する欄があって間違えるとなにかと厄介だというので困ったが、ガイドブックや同室の中国人の書き方を参考にしてどうにか書き終えた。そこに係官が入ってきた。もちろん英語は使わない。こちらがロシア語を解さないと分かると、ごく簡単な語句だけを投げかけてくる。「日本人か」「このバッグは何が入ってるんだ」「所持金を見せなさい」といった具合。それが純粋な職務なのか、もしや金を要求する段取りではないのか、あるいは単に外国人への好奇心なのか、そのあたりの見極めができないから、どうも疲れてしまう。結果的には何も問題なく終わった。
そもそも人間が地上のどこをどう動こうか自由であるはずであって、それを妨げる様々な制度や権力は本当はすべてナンセンスだ。そういう思いが根本にあるので、こうした手続きに対し私は完全に素直にはなれない。ましてやビザも荷物も違法なところはないのだから、しつこくされると怒りがくすぶりだす。とはいえ、その地域の言葉もロクに知らないで旅行しようということへの反省は少しあるし、郷に入りては郷に従えとのわきまえも一応あるので、気持ちは複雑だ。
このあとさらにひとつ先の駅に移動。ここでは車輪の取り替え作業が行われる。中国とカザフスタンでは線路の軌道の幅が違うためで、国境越えの度にこれが必要だ。引き込み線で列車が作業場所に行っている間、乗客はホームや駅の周りで休むことができる。昔はずっとコンパートメントにいるしかなかったというが、最近変わったようだ。
一件だけある雑貨と食料品の店を覗いた。中国とまるで違ってこざっぱりした清潔感。フルーツヨーグルトやソーセージも並んでいる。少し両替もする。テンゲというのがカザフスタンの通貨だ。食堂に座る。ボルシチのようなスープ、そして紛れもないパンを久しぶりに目にした。ここまでの旅のすべてを覆っていた中華世界がウソのように消え、一気に旧ソ連風に様変わり。中国でやたらに目立っていた文字看板が全くないことも、印象の違いに大きく貢献している。
駅から外に出ると、青空の下に乾いた辺鄙な町。白い壁の古びたアパートが少し並んでいるが、強い日射しのせいか人通りは少ない。なぜか牛が目の前を横切ったりする。その向こうには草原が広がっていてゲル(遊牧民の移動式住居)も点在している。こういう「果て」をイメージさせる風景には不思議に郷愁を覚えてしまう。気に入ってカメラを構えアパート群をバックにシャッターを切った。そうしたらある男が車で駆け寄ってきた。車から降りるとエライ剣幕だ。フォトグラフはダメだ、フィルムをよこせ、ポリスへ行こう、と容赦しない表情でまくしたてる。国境近くだから写真撮影が許されないのかと思ったのと、ここでトラブルになって列車に戻れなくなったりするとなにより困るからと、とても心残りだがしぶしぶ従ってフィルムを渡した。それでも男はまだおさまらずポリスだポリスだと恐ろしい口調で迫る。どうにかその場は逃げ出したが、駅舎に戻ってベンチに座っていると、しばらくしてその男が今度はたぶん町のポリスと列車のポリスの両方を従えて現れた。やっと見つけたという顔で私のところに寄ってきた。罰金とかイヤなことを想像したが、パスポートを見ただけで行ってしまい、それきりだった。どういうことなのだろう。結局怒られた理由もよく分からない。旧ソ連的というのか、ケイサツ国家的というのか、そういう横暴さや恐怖のようなものを実感した一時だった。
そんなわけで、車輪交換作業の間に撮影した国境の駅・線路・町などの果てなる風景は、ただ私の記憶に刻まれただけで、幻のフィルムとなって消えた。
カザフスタンに入ってからは景色がずっと楽しめた。天気は快晴。大地は荒れ地、時々草原、所により馬の放牧。遠くに赤い山々。北京時間で動き始めた列車だが、現在はモスクワ時間の午後1時。つまり中国なら午後6時。本当は今何時ですか。本当はここはどこですか。本当は私は誰ですか。 途中からは湖畔をずっと走った。水際まで線路が近づくこともあった。地図帳を持ってきているのでそれを開き、今自分のいるのがどこか見当をつける。
夕暮れ時に停車した駅では、女たちが手作りの食べ物を金属製の容器に詰めてホームにやってきた。魚のすり身の素朴さが残るハンペンや、ジャガイモの入ったまだ暖かいピロシキを、さっき両替したばかりでまだ絵柄も馴染まず使い出も分からないテンゲの紙幣を渡して買い、うまいうまいと何度も口に出して食べる。ほかにも大きな魚の開きなどが目を驚かせた。ふいにもたらされるもの。それが旅の醍醐味。
9.13 第33日 国際列車→アルマトゥ 旅の仕切り直し
日の出少し前に目が覚めた。遠くに町明かりが見える。アルマトゥ駅には、モスクワ時間で午前4時30分、北京時間なら9時30分、ダイヤぴったりに到着した。しかしここカザフスタンはモスクワより3時間早く、しかも夏時間でもう1時間早いから、ええっと、時計は8時30分に合わせるのが正解。日本ではもう10時30分だから、時差はマイナス2時間というわけだ。アルマトゥはカザフスタン共和国最大の都市。ついこの間まで首都でもあった。大使館などは今もここにある。アルマティ、アルマトイとも言う。昔の地図帳にはアルマアタとある。
たくさんすることがある。
ともあれ最初は宿。いくつか候補を調べておいたが、最初に見にいった「ジェティスゥー」という中級ホテルのツインが思ったより安かったので、すぐ決めた。繁華街に近く交通の便も良いから正解だったと思う。なかなかシックな部屋にはバスタブ・トイレ・テレビが付いている。十分に広く明るく、窓からの眺めもよい。市中では1USドルキャッシュ=136テンゲの両替レートだったが、その部屋は1800テンゲ。
次にキルギスのビザ。午前中しか受け付けないらしいから、部屋にリュックを降ろすと、一息つく間もなくガイドブックを頼りに初めての町をトラムと徒歩で移動しながら大使館を探した。ビザの発給は、領事がなんと握手で迎えてくれたのに始まって、拍子抜けするほどスムーズだった。民主的な国と聞くが、それに違わぬ好印象だった。仕事も丁寧で細やかな感じがした。ビザ代は35ドル。実は、顔写真をホテルに忘れてくるという間抜けなミスを犯したが、パスポートの写真を大使館のコピー機で複写して間に合わせてくれた。ありがたかった。
そして両替。国境ではレートが悪いので少ししか替えていない。---このへん、ちょっと旅行技術的な情報になる---。中央アジアでは円が両替できないので旅行にはドルが必須である。しかし中国では日本円が有利だから、私の場合中国旅行中は虎の子のドルを使わないのに持ち歩くということになる。そこでドルは面倒だが安全なTC(トラベラーズチェック)にした。もちろん国境越えをはじめドルの現金でしかカタのつかない場面が往々にしてあるので、TCとは別にドルの細かい現金は持ってきている。で、そのTCだが、使えない国やレートの極端に悪い国があるのが厄介だ。中央アジアは厄介な方に入るだろう。それでもアルマトゥのアレム銀行という所でドルのTCを2%の手数料でドルの現金に替えてくれた。ガイドブックやインターネットで仕入れた情報通りだ。これでひと安心。このドル現金から使う分だけを市内の両替屋でテンゲに変えていけばいい。このあと入国するキルギスやウズベキスタンではTCの手数料がもっと高いらしいから、その分も見越してドル現金を作っておいた。これも計画通りだ。しかし中国から持ちこんできた元を両替してくれるところがなかなかない。これはガイドブックの情報とは違った。結局、偶然会った親切な人が個人的に替えてくれたのでどうにかなった。
最後はウズベキスタンのビザ。大使館には受付が始まるという15時より少し前に着いたが、人がだいぶ並んでおり、私の順番が来たのは16時過ぎ。領事はキルギスとは対象的に全く無愛想でどこか権力的に見えた。それでも大事に持ってきた招待状を出したら、申請用紙も書かないままで程なくパスポートにビザのシールが張られて戻ってきた。しかも日本国民は情報通りタダ。あっけなく終わり。*中央アジアのビザ取得方法などの情報はいずれ別のページにまとめるつもりです。
ウズベキスタン大使館からの帰りに偶然入った店で、なんと袋入りのコーヒー豆を見つけた。グラインダー(コーヒーミル)は手元にないし、どこかに売っている様子もないが、どうやって飲むかは後で考えることにして、とりあえず買って帰った。
9.14 第34日 アルマトゥ 忽然と観覧車
中国世界を抜け出して辿り着いた町アルマトゥはすっかりロシア、ヨーロッパの雰囲気だ。建物や街並みから、売っている物も人々の姿もそう。緑の濃い街路樹。チャーミングな路面電車。アジアの代名詞だと思っていたあのごちゃごちゃ感や暑苦しさがない。少なくとも中国のあの埃、臭い、喧騒とは無縁だ。なにより人が多すぎず、せかせかうるさくないので、本当に安らげる。着いて歩いてすぐに気にいってしまった。中央アジアの旅行では、アルマトゥは見るべき遺跡もないので、さっさとウズべキスタンなどに向かえと言われるが、私としては、こういう大きな都市でホテル生活や町歩きを味わうのも捨てがたい旅行の魅力だと思う。一方シャシリク(串焼きバーベキュー。中国ウイグルではシシカバブと呼んでいた)とナンもうまい。この二つはこの先ずっと中央アジアの味・主食となっていくのだが、西洋風の文化がかなり表に出ているアルマトゥではまだ実感していなかった。町にはロシア系とカザフ系の人々が混在している。カップルで歩く場合も珍しくもない。ゴーリキイ公園というところに行く。あまり手入れの施されていない森林の中に漠然と広がっている公園だ。中をうろうろしていると、樹木がだんだん鬱蒼としてくる。そうかと思うと、観覧車やメリーゴーラウンドといった遊具がやや古びた体で忽然と現れる。しかし人がいないので、ほとんど動いていない。色とりどりに塗られた遊具が侘びしいながらも妙な輝きを放ってじっとしている。こういう場所でこそ「迷宮」の言葉が浮かぶ。国の名前や時代の名前が次第に溶解してわからなくどうでもよくなっていくような空間。
夜食事をしてホテルに戻る途中、ジベックジョリといういちばん賑やかな通りで若い警官二人に呼び止められ、そばのポリボックスに連れていかれた。ポリ君たちはずっと慇懃な笑い顔を見せてはいるが、どうもさっき飲んだワインが顔に出ているのを咎めているらしく、コーラならいいがウォッカはいかんとか、ここ(ポリボックス)に泊まっていくかなどと、あくまでも優しげに伝えようとしている。金が欲しいのか、それとも暇なので外国人をからかっているのかどちらかだろうが、真意は計りかねた。ジャッキーチェンは日本人か中国人かとか聞いてきたり。別にやましいこともないので毅然としていたら、諦めたようで、そのまま出てきた。しかし非常に不愉快だ。
部屋では「唯脳論」を読み終えた。やはり面白い。連合野が自らを伝えるのにいちばん適した形式が、ほかならぬ言語であったのだろう、といったコメントがあった。なるほど。この本、1989年に刊行されている。今から思えば、私がなんらか脳というものに興味を持ち、その興味をずっと保ってきた原点は、この本だったに違いない。他に思い当たらないし、今読みかえしてみると、ずっと考えていたと自覚している脳の問題が、既にことごとくこの一冊に凝縮されている。
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