アレンと言えばスキタイ人の姓名ですね。
「あなたは私のことなんか○○○くらいにしか思ってないのよ!」
「何言ってるんだ、誤解だよ!僕はいつも君のことを○○○だと思ってるんだから。」
「そ〜ゆ〜言い方が、かえって傷つくのよ、○○○は。 全然分ってないのね。」
「君こそいつもあげ足とりばかりじゃないか。もっとお互い素直になろうよ。」
「ほらまた冷静ぶって。そうよあなたはオエライ○○○なのよ。」(空白に「日本人」もしくは「朝鮮人」を入れよ。)
私の知人の梶野さんのHP・・みなさんも見てください。
↓
Junkyさんの発言
《説明ではないのですが。「それを日本人が問うことが正当なのかどうか」とい
う言い方の背後には、早い話が、議論で正答を見つけだす意欲よりも、単に差別者と
思われたくないという消極的な気持ちがあるのだと今感じています。そういう風に、
なんというか後ろ向きの気持ちにさせてしまうような何かを、日本人と在日コリアン
との問題で、少なくとも私はたまに感じるからです。差別の根本がどこにあるのかを
忘れてはいけないと思う一方で、そういう後ろ向きの気持ちにさせてしまうこと自体
には、日本人だけでなく、在日コリアンにも非があるように感じるのです。で、今ま
たそういう微妙なことをこうして指摘しようとして、やっぱりそういう微妙なことを
書くと自分の無自覚さや差別をあらわにしてしまうのではないか、と心配したりして
しまうのです。》「差別によらない同化」「権力によらない同化」という言い方をどう読んでいいのか
単純にわからなかったので、それを聞きたかったのですが、書き方が不明確でした。
だけどそれもわかった上での返信なのだとおもっています。個人にしろグループにしろ、まったく非がないなんてことはありえませんけど、差別
の一般論としてこんなことは言えるだろうとおもうことについて書くことにします。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」という言い方がありますが、こ
れをもう少し現在的に言い換えてみると「365日足を踏んでいる者には、365日踏
まれている者の痛みはわからない」ということになるとおもいます。それに対して36
5日足を踏んでいる者が、踏まれている者から年に10日ぐらい踏まれるということが
あります。そうすると、365日足を踏んでいる者は、踏んでいることを知らないのだ
から、10日ほど踏まれたことを自分のあずかり知らないことで責められていると感じ
るのではないか、相手の非と感じるのではないかということを、ひとつおもいます。日本人を一括りにして差別者だと、私はおもっていません。いろいろな人がいますから。
ランクの問題はありますが、個人と個人の関係では、お互いの自覚によって解消される
ところも大きいとおもいます。
暇なときに一度メシでも喰いませんか。
Junkyさんの発言
《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、
難を避けるためにここでは日本人と思わせているのかもしれない
という疑いも持つべきでしょう。》という部分、読み違えてました。おっしゃる文意で読んだほうが自然だとおもいます。
ただ、「私のnationality 」のすぐ前の書き込み「コミュニケーション不全症候群2」
で、Junkyさんの下の書き込みがあり、少し混乱する感じがありました。《だけど実は、妖々さんが下に述べたような、
言葉を交わすことそのものに由来するコミュニケーション不全については、
差別のことよりもっとうまく書けないというのが実感です。
だから、むしろ差別のことについては、
考えることをさぼらず、もっと明快に語れるようにならないとダメだと思います。》話の流れとしてここで単純な比較を持ち出すことに疑問を感じたということがありま
した。だけどこのあたりの推移は、もしかしたら掲示板運営の経験から導きだされた、その
秘訣としての「匿名変数」まで考慮に入れたインターネットというメディアの特性に
根ざしたものの言い方で、そのあたりのことはなかなか難しいものがあるのだろうか
ということを、おもってきました。−−−−−−−−
エスニック・マジョリティとしての日本人ではない人への差別を問題として指摘する
際、日本の言説空間の制約性にあらかじめ拘束される困難を抱え込むことになるとい
うところに焦点を当てた場合の、私のおもう〈俗〉について書きます。
差別を指摘する行為や人が「俗」っぽくなる傾向、価値観があるのだとしたら、天皇
制に言及することのしんどさが、天皇制に言及しない範囲で収まる個別の事象に過剰
に向かわせるのだと、言えるところがあるのではないでしょうか、大雑把な言い方で
すけど。それは偽善的に見えるかもしれませんが、言説の制約性に拘束された場面で
の差別を指摘する行為や人の「俗」っぽくなる傾向を、私は俗とはおもいません。
逆にそこを見ないで、その問題を棚上げしておいて、差別を指摘する行為や人の「俗」
を批判することが、時流に乗った俗な反動を形成してしまうという構造を自覚できな
い行為や人は、まさしく俗だとおもいます(これはもちろんJunkyさんを指して言って
るのではありません。それから私がJunkyさんの掲示板に書き込んでいるのは、話をし
ているのは、Junkyさんに一定の信頼感と共感を感じているからそうしている、という
ことを言っておくべきなのだろうという気がしています。それと一番最初の書き込み
をした時点では、HPをろくに読んでいなくて、その後に読んでみたところ、きちん
とするべきだったとおもい、あわてて自己紹介をしたという経緯があったことも言っ
ておこうとおもいます)。
で、この二項対立の図式それ自体を指して陳腐と言うことは可能でしょうが、二項対
立が形成されていかざるをえない笑うに笑えない日本的必然を問うていくこと、たえ
ずそこへ立ち返ってものを考えていくことが、とても大事なことなのだろうと考えて
います。それから俗なレベルで差別をする人はいくらでもいるということがあります。私は普
段本名で暮らしているので、ニューカマーの外国人(アジア人)と間違われることが
結構あります。そうすると少なからぬ日本人がいかにアジア人を見下しているか、よ
くわかります。で、そういう人に対してはJunkyさんと話してるようなこと、言いませ
ん。言ったってわかりませんから、ある程度紋切り型の対応をします。「俗」な対応
をしなければしょうがない場合のほうが、現実には多いということがあります。在日
コリアンに対する俗な差別にしても同じことです。
それはまた、そういうレベルでJunkyさんが差別する人だとはまったくおもってないと
いうことでもあるので、そのことを言っておきます。つづく
ムキンポ掲示板のリンクたどってやってきました。
よろしく。
<俗に非ずの志向性 投稿者:松野 投稿日:06月25日(日)04時44分03秒>に答える
形で、書きます。Junky
俗に非ずが反動を形成するのはよくないと思います。一方で、反動を形成しな
いかぎり俗であっていいという価値観もよくないと思います。差別を指摘する行為や
人に、私はたまにそういう価値観を感じるのです。しかし、だからといって差別に寛
容であっていいわけではないし、差別をしていいわけではないに決まっています。決
まっていますが、ついそういう方向で書いてしまう私、そういう方向で感じてしまう
私が、やはりどこかにいるようにも思います。こうして、なんと、最初に批判したは
ずの「俗にあらずが反動を形成する」の事例に私がなってしまうのかと暗い気持ちに
なってしまいます。松野さんの発言
< Junkyさんと私の関係には、個人と個人という関係以外に、日本人
と在日コリアンという関係もあります。そうすると別の問題もでてきます。 日本人で
あるJunkyさんが、《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにこ
こでは日本人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》とい
うことを在日コリアンである私に言うこと自体、特権的ということになります。自身
の難を避ける必要のない日本人というランクに無自覚であるということが言えるので
はないでしょうか。>Junky
たしかに、「自身の難を避ける必要のない日本人というランク」のことを私は
つい忘れてしまいます。わかりきっていたつもりが、このように言われてああそうだっ
たと思いました。どうもこういうことを私は繰り返してきたようです。私の普段の生
活環境や社会環境がそれを忘れさせているとも言えますが、いずれにしても改めたい
と思いました。ただ、《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにここでは 日本
人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》という部分は、
松野さんに向けたものではなく、まさに日本人としてのランクに無自覚な人にあてて
書いたつもりでした。しかし、在日コリアンである自称松野さんをあまり意識せずに
書いたというそのこと自体が、やはり私が日本人としてのランクに無自覚であったこ
との証拠かもしれません。松野さんの発言
<Junkyさんは『松野さんへ2』で、こうも言ってます。《これを、も
うちょっとゆっくり考えてみたいと思います。在日コリアンが日本社会に「権力によ
らない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのかどうか、そのことには
意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、また、それを日本
人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。》 このくだり(の特
に最後の部分)を読んで、やはりよく考察する人だなとおもいましたが、括弧内の文
言、かなりわかりにくいです。どうとでもとれますから。もう少し説明してもらえる
と、ありがたいのですが。>Junky
説明ではないのですが。「それを日本人が問うことが正当なのかどうか」とい
う言い方の背後には、早い話が、議論で正答を見つけだす意欲よりも、単に差別者と
思われたくないという消極的な気持ちがあるのだと今感じています。そういう風に、
なんというか後ろ向きの気持ちにさせてしまうような何かを、日本人と在日コリアン
との問題で、少なくとも私はたまに感じるからです。差別の根本がどこにあるのかを
忘れてはいけないと思う一方で、そういう後ろ向きの気持ちにさせてしまうこと自体
には、日本人だけでなく、在日コリアンにも非があるように感じるのです。で、今ま
たそういう微妙なことをこうして指摘しようとして、やっぱりそういう微妙なことを
書くと自分の無自覚さや差別をあらわにしてしまうのではないか、と心配したりして
しまうのです。反省して恐縮して、単に問題から逃げているような気もします。それでもやっぱり、
いろいろ指摘されたり意見を聞いたりして、考えることで、少しずつ、進歩はする
のだと、なんか真面目すぎますが、本当にそう感じてはいます。積極的な建設的なこ
とを次は書いていきたいと思います。
私のページにでも再掲載したいと思っています。
ですが、その前に、もう少し返答をしないといけません。
徐々にやります。
実に深くて面白いです。
スリリングといっては軽薄かもしれないけど。
このまま埋もれてしまうのはもったいない。
往復書翰としてできたら残して欲しいような。
Junkyさん。デフォルメされる差別ということに関しては、まったくその通りだとおもいます。
「俗」についてもそのとおりでしょう。
マスコミが本質的に差別を掘り下げて考えるなんてことないですし、
デフォルメが流布されるから、本質が語られなくなるとさえ言えるかもしれません。しかし同時にそれは、差別さえも記号化される、記号文化に回収されるという、
根っこを持てない戦後日本文化の問題とパラレルな関係にあると言えるかもしれません。
それを建前文化と言ってもかまいません。
小浜逸郎の主張のトーンはそれに対する苛立ち、本音を言ってみたということに
過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。ところが、それ以上でも以下でもないのだけれども、にもかかわらずそれが反動を形成する
という問題がひとつあるのだとおもいます。これ結構重要な問題でしょう。
「俗に非ず」がなにを志向するかということ。今回の返信を読んでJunkyさんとはかなり読む際の重点の置き方が違うことがわかりました。
私は、小浜氏のものを言う視点が、総じてひどく特権的な視点であることに
いびつなものを感じます。一箇所だけ引用します。
============
小浜逸郎「弱者とは誰か」(PHP新書)(P162)たとえば「売女!」とののしられたときに、ひどいことを言われたと感じて怒る女性は、
理屈から言えば、「自分は売春婦などという軽蔑されるべき存在ではない」という気持
ちを表明していることになり、それは、売春婦を卑しい職業と見る差別感情を持ってい
る証拠ということになる。
============男性権力からひどいことを言われて女性が怒るというそもそもの問題を、
小浜氏はここでおもいっきり捨象しています。男性という特権に無自覚であるところから、
こういう論理のすり替えが起こってくるのでしょう。ところで「売女!」とののしられた女性が「男権主義者!」とののしったところで、
「売女!」とののしるような男性の依って立つ男性というランク(権力の地位)は
確立されてしまっているため、たいしたダメージを被ることもなければ、
その地位が揺らぐこともありません(※)。
小浜氏を無自覚にさせている背景、のみならず差別の背景には必ずそういうことが
あるのではないでしょうか。小浜氏は男性と女性の権力関係の問題、女性差別の問題を、女性相互の問題に
すり替えるという、ひどく差別的なことを多分に無自覚にやっています。
『差別の自覚』と題した投稿で書いたことと、同根の問題でもありますが、
ほっといてもそうなりがちなことを、この人は詐術的な論理でもって補完している
わけです。
「俗に非ず」という志向性が特権的な地位に帰着するという性向をも孕んでるということに、注意深くあるべきでしょう。※たとえば都道府県ランク最上位の東京都民は埼玉県民を「ダサイタマ」と言って
「からかう」ことができますが、埼玉県民はとりあえず言い返す言葉を持ちません。
仮に怒りをこめて「都会野郎」と言ったというようなことがあったとして、
東京都民の地位は揺らぎません。
これ、あくまでも例示で、実際には日本人というカテゴリーのランクが圧倒的に高いので、
差別ではなく冗談ということにしかなりませんけど。
ただ、字義通りの差別として綿密にみていった場合、ここにも差別はあるということになりますが。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Junkyさんの書き込み『私のnationality』、個人としてはよいものだとおもいながら
読みました。
しかしJunkyさんと私の関係には、個人と個人という関係以外に、
日本人と在日コリアンという関係もあります。そうすると別の問題もでてきます。日本人であるJunkyさんが、
《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにここでは
日本人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》ということを在日コリアンである私に言うこと自体、特権的ということになります。
自身の難を避ける必要のない日本人というランクに無自覚であるということが
言えるのではないでしょうか。ところがJunkyさんは『松野さんへ2』で、こうも言ってます。
《これを、もうちょっとゆっくり考えてみたいと思います。在日コリアンが
日本社会に「権力によらない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのか
どうか、そのことには意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、
また、それを日本人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。》このくだり(の特に最後の部分)を読んで、やはりよく考察する人だなとおもいましたが、
括弧内の文言、かなりわかりにくいです。どうとでもとれますから。
もう少し説明してもらえると、ありがたいのですが。