さいきん、そもそも文章を書くというのはどういうことなんだろう、
書かれた文章とはどういうものなんだろう、とよく考えます。そのときに、文章が表している内容や、文書を支えている論理を評するよりも、
たとえば「上品であるかどうか」「嫌みがあるかどうか」という観点は、
とてもツボをついたものだと思いました。
私にとっての良い文章を形容する言葉として「上品」というのはたぶんかなり上に来ますね。私が判断するAさんの人格とは、私がAさんと接して得たさまざまな印象の総和でしょう。
文章にもいわば「文格」といったものを想定してもいいかもしれません。
それは結局はそこにある文章を読んで得たさまざまな印象の総和ということでしょう。村上春樹に私は80年代に強くひかれました。今も基本的にはそうです。
いろいろ賛否両論ある人ですが、私は村上春樹小説の文格に、
まるで人にひかれるように、結局は非論理的にひかれたということだと思います。
「ねじまき鳥クロニクル」、読み返したくなってきました。
松野さんの発言
<「被差別部落出身者」や在日コリアンに関して、
この人は排除だけが差別で、同化する権力、呑み込む権力を差別とみなしていません。
日本人としてマジョリティ化すれば、それでこの差別の問題は終わりというようなことを言っていて、
トンチンカンなことを言う人だなあとおもいました。>これを、もうちょっとゆっくり考えてみたいと思います。
在日コリアンが日本社会に「権力によらない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのかどうか、
そのことには意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、
また、それを日本人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。----------------------------
石原発言について一言だけ。
石原発言の内容は、世間でときおり耳にする俗説のたぐいだと思います。
報道した人たちも、その俗説の存在は十分知っているでしょう。
報道した人の中にその俗説を信じている人がいないとも限らないとすら思います。
それでも、ああいう人がああいう所でああいうことを発言したからニュースにしよう、
そういう価値判断や態度そのものは(報道することの方便は大いにあると思いますが)
実は極めて俗だと私は思います。いやほんとうは私はその俗説を耳にすることが、
いろいろと屈折したメディア状況、差別論争の中で、
どことなく刺激的で面白いと感じたのかもしれません。
それはつまりは差別とおおいに関係あるとも思います。
もちろん最終的にはどうか私は差別する者でなくなれるようにと強く望んでいるのではありますが。---------------------------------
私はいつもその都度の思いをそのまま書いてしまいますが、
時には論点をしぼってきっちり質疑応答しなければと思います。
あるいは直接会って話をするチャンスがあれば、それはまた有意義だなとも思っています。
唐突ですが。象というものを初めて目にした徳川吉宗は、
それまでデフォルメされた絵で知っていた象ほど大きくないのでがっかりした、
という話をきょうテレビでやっていました。私たちが差別というものをイメージする時にも、もしかしたら、
吉宗が期待していた象のように、デフォルメされた形になっているということはないでしょうか。
石原発言が差別的であったことを説明するのに、
「三国人という言葉は差別語だから使ってはいけない」と単純にまとめてしまうなら、
まさに差別をデフォルメしていると言っていいのではないでしょうか。差別をある程度デフォルメして伝えざるをえないのが報道機関の宿命かもしれず、
そしてまた、
そういうデフォルメ報道をいっそうデフォルメして受け取ってしまうのが視聴者や読者の宿命かもしれません。
しかしそれだけでなく、差別を「差別である」と指摘しその過ちを追及する人であっても、
その人たちの抱く差別の認識が、
同じようにデフォルメされたイメージでしかない場合が、時としてあるような気もします。「こんな差別がある」「こんな差別はいけない」と追及する側が、
その問題を語りやすく白黒つけやすい側面と言葉でしか語っていない例を、
小浜逸郎は非難したのではないでしょうか。
さらに、差別に反対する行為であれば多少デフォルメがあってもそれは無視してかまわないのだ、
といった傾向があるとしたらそれは良くないと非難したかったのではないでしょうか。
仮に小浜逸郎がそう非難したのではないとしても、
少なくとも私はその非難は正当だと思います。ただし、「そんな絵に描いたような差別などどこにも存在しないじゃないか」と咎めることで、
「そうさ差別なんてないのさ」と早合点してはいけないということを、
私はもっと強く感じとるべきだったかもしれません。
やはり、なにより重大なことは、絵に描いた差別がどういうものであれ、
問題にすべき本当の差別が常に潜んでいることを忘れないこと、
そして、本当の差別を本当の差別そのままに見つめ描くことだと思います。小浜逸郎のあの本は、デフォルメされた差別のおかしさに目を向ける一方で、
実際の差別がどんなふうに成り立っているのかを徹底分析してはいないかもしれません。
しかも徹底分析がないゆえに、差別が成り立ってしまう、そう単純でない社会構造を、
けっこう単純にしか見ていないかもしれませんし、
その社会構造の中で自らが差別者となってしまう恐れというものを、かなり甘く見ているかもしれません。
松野さんの書き込みを読んでそう思い返しました。さて、再び自戒を込めた結論です。
絵に描いた鮮やかで巨大な象に空想ばかり膨らませていた吉宗は、
ホンモノの象が意外に地味であることにがっかりしたのでしょう。
もう象なんてどうでもいいやと興味を失ったかもしれません。
差別もまた「これは差別だ、これは差別ではない」と絵に描いたようには存在していない。実在する差別とは、実在する差別の本質とは、認識するには相当に複雑で面倒くさく、
またむしろそれほど極悪には見えず色鮮やかでもないのかもしれません。
そういういわば「地味でややこしい差別」をどう見極め、どう解消していくかということに、
私は興味を失わないようにしたいと思います。
返信として私にとっての「差別の自覚」について述べておくとよいのではないかとおも
いました。私が差別に対して自覚的であろうとするとき、注意するのは権力関係のその構造です。
日本人と在日コリアンという権力関係の中には、たとえば男性と女性という権力関係も
あります。そうするとこういう問題が孕まれてきます。差別の権力構造に無自覚なフェ
ミニストの日本人が在日コリアン内部の女性差別に言及し、在日コリアンの女性がそれ
に乗せられてしまった場合、在日コリアンの男性が差別者にしたてあげられ、在日コリ
アン差別の問題は棚上げされるということが起こってきます(話をわかりやすくするた
め、すこし極端な状況を想定して言ってます)。これは一例で、ひとくちに在日コリアンと言っても、朝鮮籍、韓国籍、日本籍、いわゆ
る「混血者」(ダブル)など、様々な差異があります。ところで、このマイノリティ内
の差異が得てしてマジョリティに利用されやすいという権力構造の問題があります。
本来、日本権力〜マジョリティとの問題であるはずのものが、マイノリティ内部の差別、
対立、疎遠などの問題として顕れるという問題を解くことが、現在的な差別の課題だと
考えています。だからといって、在日コリアン内部には差別がまったくないということ
ではなく、差別はあるのですが、日本人、在日コリアン双方が差別の権力構造に自覚的
でないとき、輪をかけてそうなるということです。Junkyさんが「日記」で評価している小浜逸郎の「弱者とは誰か」という本、前回の
「まとめレス」と題した書き込みをするまえに読んでましたが、たいへん小浜氏に差別
的なものを感じました。ニュース23出演のときもみていたので予想していましたが、
「被差別部落出身者」や在日コリアンに関して、この人は排除だけが差別で、同化する
権力、呑み込む権力を差別とみなしていません。日本人としてマジョリティ化すれば、
それでこの差別の問題は終わりというようなことを言っていて、トンチンカンなことを
言う人だなあとおもいました。他にも日本人で男性で健常者で知識人(なんですよね、
この人)であることの特権に無自覚でなければ言えないようなことを多々言っていて、
困った人という感想を持ちました。
「日本人」を自称することの問題について鋭敏に見抜くJukyさんが小浜氏を評価すると
いうことが、よくわかりません。「日記」で書いてるマスコミ批判としての石原都知事発言評価(?)についても、含み
がありすぎてよくわかりません。あの人、極端に親台湾、反中国というなにかパフォー
マンスがかってみえることをやりますが、ああいうことが在日の台湾人、中国人のあい
だの対立の火種となりうることなど想像もしないのでしょう。というか、どうでもいい
のでしょう。私はそんなことを考えます。
石原都知事の「騒擾事件」発言、「・・・歌舞伎町とか池袋とか。12時過ぎたらどこの
国かわからないよ。ヤクザだって怖くて歩けないよ。日本のヤクザだって。そういう現
況があるんだ。」発言によって、確実に多くの日本国居住者に歌舞伎町の外国人は恐い
というイメージが刷り込まれましたが、私、何度か歌舞伎町、夜中ひとりで歩いてみた
ところ恐くありませんでした。石原発言以来、偏見で恐がる人々に怒っている外国人は
すこし恐いかもしれませんが。石原発言が恐い外国人を捏造したということ、言えてし
まいます。ニューカマーの外国人の場合、反論の場さえないですから、余計イメージが
先行してしまいます。柄谷行人が「倫理21」(平凡社)という本で、南北問題が国内化すること、資本主義
が環境を破壊し南の人々を餓死させるシステムであること、資本主義というガンに対す
る対抗ガンとしての、生産消費協同組合〜不買運動の可能性について言及していますが、
差別の問題としてたいへんな射程をもっているとおもいます。
6月17日付けのFrom Junkyを読んで、あの口調は
皇室に関する報道を模したものというよりも、村上春樹氏の
「ねじまき鳥クロニクル」に登場する「加納マルタ・加納クレタ姉妹」の
口調に似ていると感じました。
そう思った方が他にもいてくれれば嬉しいのですが、いませんかねえ。
この小説が一般的だと思っているのはHanako世代の私くらいかも
しれませんし(小説に一般的なのもの、そうでないものがあるかどうかに
ついては論議を呼びそうなので、またそれに対抗する手段も能力も
持ち合わせていないので、サラッと読み流してください)
東京永久観光の読者で加納姉妹を思い出す方が他にいなくても
ガッカリはいたしませんけど。(わたくしの尊敬するメメントモリ藤原信也氏の
言うところによれば、村上春樹氏は”Hanako御用達”らしいのです・・・・
※注 Hanako=若い女性のバイブルとして一世を風靡したグルメスポット案内と
流行発信雑誌。それを鵜呑みにしていそいそ出かける女子大生。)
ところで、この小説に登場する「加納マルタ・クレタ姉妹」は驚くほど上品な
話し方をするのですが、ぜんぜん嫌味がない。先日までよくワイドショーで
話題になっていた「叶姉妹」と比べるまでもなく、まったくもって上品です。
叶姉妹は丁寧・上品に振舞っていますけど、どことなく下品に感じます。
上品に振舞っていながらも下品に感じさせるということは、その「上品さ」は
実は「まがい物」であって、本当に身についているものではないのではないか?
と思うのです。そして、同じ「かのうしまい」なのに、かたや上品に、かたや
下品に映るのはナゼ?と考えてみたところ、それは映像の「あるなし」にも
関わっているのではないかと思いました。画面上で丁寧な話し方をされると
慇懃無礼に感じるのです。
何を投稿に来たのか判らなくなってきました。
ならば投稿するな!と叱られそうですねえ。
ともかく言いたいのは、叶姉妹をたんにコキオロシに来たのではないという事、
それと「過度の丁寧さ」は「心が入っていない」と感じるという事です。
つまり「皇室報道は心を込めちゃいけない」という鉄則なのです。
どちらかに「ひいきめに」とられる発言をしちゃいけないし、
場合が場合なので自分の内心を言っちゃいそうな事態になることを恐れて
いるのではないでしょうか?今回のチクシさんは。
訳のわからないことを長々と失礼しました。
で、皆さん、暇つぶしくらいにはなりましたか?
> ムキンポさんレス、有り難うございます。HANBoardへの投稿は少し考えてみます。どうしても
HANBoardの場合「議論」になりやすいですから、体力と気力をはかりにかけねば。
知らない者同士の掲示板上の速い「議論」というのは喧嘩じみてくる、「議論」
中毒になる、あまりなにも産み出さないというのが、ネット歴八ヶ月の者の感想
です。> Junkyさん
こんなふうに丁寧にきちんと応答してもらえることが嬉しいです。Junkyさんの
真摯な姿勢に感謝します。内容についてはもう少し考えてから、後日書きます。
日記はいつも読んでます。> 妖々さん
投稿、いつも興味深く読んでいます。
「在日」(や「被差別部落出身者」)に対する差別というのは、「いるのにいない
ことにする」という差別で、学校教育の問題→文部省の問題→戦後の未清算の問題
→日本という国のありかたの問題、という具合になってきますが、なにはともあれ
「いるのにいないことになっている人々がいる〜なんでそんなことになってきたのか」
という「認識〜問い」が一般に広がると、「朝鮮」という言葉も普通に使えるよう
になっていくのだとおもいます。
>Junkyさん
僕も廃虚の博物學行ってきました。一緒(?)のポストカードも買いました
それにしても、どうして人間は絵葉書を買いたがるのでしょうか
一瞬を写し取ったといいつつ、やがて基盤で行く
それこそが一番の廃・景のようにも思うのですが閑話休題
オーストリアの留学生に「日本人はまだ植民地意識を持っているのか!?」
といきなり尋ねられたことが有ります
それはニュースで「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国が・・・」
といっている最中で
僕はその時朝鮮というのは地名だから云々といって終わらせてしまったのですが
あの時のダブル・バインドな感覚
*朝鮮=差別用語
*朝鮮=地名・古くからの呼び名・正式名称
は忘れてはいけないなあと思いますというか、「支那」も「朝鮮」も、元を正せば由緒正しい言葉であったのに
その意味合いを変えてしまったのは
確かに日本人の一世代・二世代前の行いなのでしょうから・・・
もうひとつ大事なことを書くのを忘れていました。
私は日本国政府発行の旅券を持っていて、
「nationality」を問われれば「日本」「Japanese」と答える人間の一人です。「私のnationality」をはじめ「私の性別」「私の職業」「私のアイデンティティ」などは
けっして自明でも固定的でもなく、
本来は心の中に隠しておいて必要に応じて決めてよいと私はつねづね考えています。しかしここでは、国籍やnationalityについて、
黙っていれば、どうせ「日本人」と思ってもらえるだろうという甘え、
どうせ「日本人」と思われてしまうだろうという恐れ、
そういうことに対抗するために、あえて書きました。さてこの「日本人」という言葉は、
差別の構造上は「朝鮮人」という言葉と対称的な位置にあるわけです。
そうだとしたら、それを自覚しないままで「日本人」を自称することもまた、
正しい訳語としての働きと同時に、
もしや差別する立場から差別を確定してしまう側面があるのでしょうか。
私はこれまで「私は日本人です」と自称することにためらいを覚える時がありましたが、
それはそういうわけもあるのかもしれません。さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、
難を避けるためにここでは日本人と思わせているのかもしれない
という疑いも持つべきでしょう。
だけど実は、妖々さんが下に述べたような、
言葉を交わすことそのものに由来するコミュニケーション不全については、
差別のことよりもっとうまく書けないというのが実感です。だから、むしろ差別のことについては、
考えることをさぼらず、もっと明快に語れるようにならないとダメだと思います。
私は「朝鮮人」という言葉は差別の感じを与えるので使いづらいような、
逆に差別のつもりがないならむしろ積極的に使うべきじゃないかというような
どっちつかずの態度でいます。
松野さんの指摘は、その曖昧さを解読していくための大事な基盤になると思いました。これに絡んで、少し書きます。
私は幼いころ「朝鮮人」という言葉をある特殊な感情を持って聞き使っていたと記憶します。
しかしその後、日本の朝鮮侵略や「朝鮮人」という言葉の背景をいくらかは学びとり、
その結果この「特殊な感情」をめぐるもろもろをこそ「差別」と呼ぶべきであると考えるに至りました。
それ以降私は「朝鮮人」という言葉を差別を伴わずに使うようなんらかの努力はしているつもりです。
しかし、今後も私が「朝鮮人」という言葉を使った時に
「あなたは差別をしている」と言われることは、やはりありうるとも思います。一般に、「**」という言葉を使った人が「私は差別のつもりで使ったのではない」と言い、
しかし一方で「**」と呼ばれた人が「あなたは差別のつもりで使った」と言うことがあります。こういうとき、まず考えられるのは、
「**」という言葉を使った人が相手を差別しているにもかかわらず、
それが差別と呼ばれていることを全く知らない場合です。
この場合は、差別の自覚がないわけですから、
その人は同じ言葉を同じように使い続けることになるでしょう。しかし、むしろ注意すべきなのは、
「**」という言葉の差別性をある程度知っている人が、
その自覚の範囲を超えたところでやはり差別をしてしまう場合だと思います。
この場合は「私は差別ということを知っている。
だから私は差別をするような人間ではない」と信じているだけに、もっと深刻です。「差別は、それが差別であると自覚できない場合にこそ発現する」ということになるのかもしれません。
自戒の言葉として書き留めます。とはいえ、私は実はときおり自分の日記に下(アドレスを示します)のような
「差別(語)を禁止する側に対する漠然とした疑念」のようなことを書いてきました。
だから、本来ならそういう立場で私が、
この微妙な問題を解く道筋をあえてこの掲示板に示してくださっている松野さんに、
なんらか質問をすべきかと思うのですが、まだ的確に書けませんでした。
きょうのところはここまでにします。http://www.tk1.speed.co.jp/junky/junky15.html#000503
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/junky15.html#000412