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東京永久観光・差別1
(下から上に流れます)



朝鮮人という言葉をめぐるダブル・バインド状況 投稿者:ムキンポ 投稿日:06月10日(土)13時22分29秒 
松野さんの文章、とても面白く読みました。
HANBoardにもそのまま投稿して、人びとの反応がみてみたいなあ、と思いました。
あるいは反応がないかもしれないけど、その場合でもインパクトはあるんじゃないだろうか。

http://www.han.org/hanboard5/index20.html


名付け(つづき) 投稿者:松野 投稿日:06月10日(土)05時30分04秒 
しかし“朝鮮人”にもともと差別的な意味合いはなかったという想定から考えたほう
が、差別に関する考え方一般としてはもう少し普遍的になるかもしれません。

差別とは権力関係であり、権力の地位の格差が大きければ大きいほど権力の地位が高
い側が低い側に、同じ言葉で“差別語”を“名付ける”ことが可能となる。

権力の地位の高い側による出鱈目な意味付与、恣意的なイメージ操作、ファンタジー
形成によって、権力の地位の低い側の“自称”を“他称”化する、事実上“差別語”
化することができてしまう。それが同じ言葉であったり、正しい言い方であっても、
相手の名前を奪い(言葉を狩り)、恣意的に名付けなおすことができてしまう。

さらにここで問題となるのは、この構造はいったんそれが成立して、“朝鮮人”とい
う言葉に孕まれる権力関係の非対称性が不問に付されてしまうと、日本語話者である
「在日」が正しい訳語である“自称としての朝鮮人”を名乗る場合であっても、差別
語だかどうだかはっきりしない差別語である“他称化された朝鮮人”を引き受けざる
を得なくなる構造であり、差別者ー被差別者という関係性の枠組みが反復されること
ともなる。
だから“朝鮮人”という言葉の内実を調べるのはなかなか大事なことなのである。そ
んなふうに考えます。

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“朝鮮人”という言葉に孕まれる権力関係のメカニズムを解いておくことが
「『在日』がなぜ名乗れないか(名乗らないか)」という問題に対する、ひとつの考
え方の契機ぐらいにはなるかもしれない、「在日」と日本人の疎遠、緊張を解きほぐ
すひとつのきっかけぐらいにはなるかもしれない。

“名前を奪うメカニズムとしての差別”を明らかにしていくこと。“言葉狩り”とい
うことがよく言われますが、ここには問題の転倒があり、言葉(名前)を狩ってきた
のは、つねに権力の地位が高い側であったことを明らかにしていくこと。それによっ
て、言葉を狩らない、言葉を取り戻すことの端緒につけるのではないか。
同時に「在日」や他のマイノリティとエスニック・マジョリティとしての日本人のコ
ミュニケーション回復の端緒にもつけるのではないか。

このあたり考えどころで、差別(語)問題の急所のようにおもいますが、どうでしょ
うか。
 
 


名付け 投稿者:松野(韓国籍の在日朝鮮人) 投稿日:06月10日(土)05時18分27秒 
なんだかもう梅雨ですね。インターネット、ひさかたぶりです。コミュニケーション、
言葉、差別などについて少々おもうところを。

石原発言がいろいろと世間で論議を呼んできましたが“朝鮮人”という言葉に孕まれ
てきた差別性、問題点について少し言及してみたいとおもいます。そうでないとなに
かものすごく中途半端という気がします。

“朝鮮人”がマクロレベルでの“差別語”だとすれば、「三国人」等はミクロレベル
での“差別語”であると言っておきます。ここをクリアに、鮮明にしておくことが大
切なのだとおもいます。

マクロレベルとは植民地支配時代の“日本権力による名付け”ということで、
“朝鮮人”とは圧倒的な権力の地位の格差のもとに、日本権力が“朝鮮(チョソン)
民族”の言葉と名前を奪い、破壊的かつ、強烈な差別性をもって名付けた日本語によ
る“差別語”であり“他称”です。

ミクロレベルとは日本国内的というか、“一般的な正しさ〜字義としての正しい名称”
をいじってるかどうかが主に問われるレベルを指して言ってます。ミクロレベル的に
は「鮮人」「半島人」「三国人」などは、わりとしっかりと“差別語”とみなされて
きましたが(あたりまえですが)、“朝鮮人”は“差別語”なのかどうなのかはっき
りしないまま、にもかかわらず“朝鮮人”を一般的な比較級の基準にするという形が
とられてきました。
これは“朝鮮人”という言葉は権力関係としては差別語であるが、訳語としては正し
いというダブルバインド状況(〜レベルの混同)に幻惑されてきたという捉え方がひ
とつにはできるかとおもいます。
ほかには、朝鮮人(特に一世)の東アジアのラテン系とも言われたりする細かいこと
を気にしない民族気質、生活に追われてそれどころじゃなかった、などの理由がおも
いつきますが、やはり訳語として正しいからという理由が大きかったのでしょう。

マクロレベルとミクロレベルが混同されると、“朝鮮人”という言葉は「在日」の名
乗る自称としても、日本人が呼ぶ他称としても、つまり関係性としてもダブルバイン
ド(二重拘束)状況をつくりだしてしまいます。“差別語”なのか“正しい言い方”
なのかわからなくなる。こういうのは健全なコミュニケーションが成立する状態では
ないので、問題をクリアにしておくことが必須なのではないか。クリアにすることで
コミュニケーションの端緒につける。言葉を取り戻せる。そんなことを考えます。

つづく
 
 


コミュニケーション不全症候群 投稿者:妖々 投稿日:06月09日(金)11時46分34秒 
伝えたかったのに言えなかった言葉
そんな気はなかったのに口から出た科白

小さい頃に栞に書いてあった一遍の詩
誰が詠んだか知らないけれど
ずっと心に残っている。

 何がなんだかわからなくなって
 吐いた言葉はもう拾えない
 吐いた言葉はもう拾えない

だから慎重に慎重に言葉を選んで選んで
選び疲れ果てて
言葉遊びの振りしてみれば

お前はコミュニケーションなど望んでいないのだろうという罵倒の声。

言葉を軽々と越えていく関係性を望んでも
言葉以外持たない僕たちは
言葉にすがって這いつくばって生きていくしかないのでしょうね。

吐いた言葉は拾えなくて
言葉で上塗り
ああ 情けないね
 
 


吐き捨てというより掃き捨てとか? 投稿者:Junky 投稿日:06月08日(木)00時11分41秒 
ひとりごとは弱い。吐き捨ては強い。
というのは錯覚だ。
弱い調子を保ちながら言葉をつないでいくのは、
けっこう持続力のいることで、
そういう頑張りがきかない時に、
コントロールを失った言葉が暴走し、
吐き捨てになってしまう。

思わず吐き捨てるしかなかったほどの、コミュニケーションの不全と渇望。
その悲しさ。
でもやっぱり吐き捨てを聞けば「ああもういいや」と思ってしまう悲しさ。
思わせぶりに共感を迫るひとりごとのほうが、
本当はもっと狡猾なのかもしれない。

しかし、吐き捨ての暴走、ひとりごとの狡猾、
すべてをくるみこむ慈悲の心を持てるなら、
どんなことがあっても、話は続いていくのでしょう。
話をしましょう。
とぎれとぎれ、息切れ息切れではあっても、話をしましょう。

妖々さんが吐き捨てタイプにはとても思えないのは事実ですが、
誰かに吐き捨てと言われたのも事実なら、
それはそれでどうしたもんでしょうね。

http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html


「薔薇」の字に薔薇の花咲く? 投稿者:妖々 投稿日:06月07日(水)17時27分54秒 
あんまり詳しいことはわかりませんが僕も
「吐き捨て型コミュニケーションをする奴は嫌いだ」
と言われたことが有ります。
今もって僕には何を僕が吐き捨てたのか僕自身にすらわからないのですが。

それはそうとして「吐き捨て」と「独り言」はどのように違うのでしょう
そしてまた独り言/吐き捨てであればそこから先へと
話はやはりつながらないのでしょうか

それは相手が吐き捨てと認識した時に
「ああもういいや」と思ってしまうと言うことなのでしょうか

僕には切実な問題です。

追伸:
「伝染るんです」のお馴染み包帯秀才少年と
フロイトの精神医学の成り立ちとの関係を論じた文章も有りますよ。
『知の技法』だったか『知の論理』だったかで
僕が勝手に敬愛している石光泰男先生がやっています。
 
 


虚弱体質 投稿者:Junky 投稿日:06月05日(月)23時40分30秒 
「あのページを他人の目に触れるようなところにおくのは、
探究を深めようというのが目的というより、ひとりごととして味わってもらいたかった」
は皮肉っぽいですが、よく当たっています。

私には言い放しで議論を避ける傾向があると、しばしば反省します。
しかしそのことが言葉を禁じてしまうことにはならないよう念じています。
どうぞもっと書いてください。

息切れするから休み休みいきますが、松原氏の言葉と一緒に走りたいのは本当です。
 
 


(無題) 投稿者:fkj松原 投稿日:06月05日(月)05時45分10秒 
たとえば

『三国人は日本から出ていけ』

みたいなことを、手書きで書いた「薔薇」の字みたいにしてHPに載っけ、不愉快に
思った人が抗議したとします。そういう人に「あれはひとりごとを書いたもので、
音楽の旋律みたいなものとして味わってくれませんか」とか、「あれは一個の芸術
作品で、何かを言おうとしているのではない」みたいなことを言われ、納得するで
しょうか。また、そのようなことを言われ、その言葉そのものも含め「音楽の旋律
みたいなものとして味わって」いるだけで済ませていられるもんなんでしょうか。
それとも、そういう反応をしないのは無粋でよくないのでしょうか。確かに、味わ
うような読み方をするのもおもしそうだったり粋だったりするものなのかもしれな
いませんけど、私はそのように、人間、できていないものですから、まあ、いたし
かたない。
 私は、あの『脳内夢想』が、脳や心、言葉、といったものに関して探究していこ
うとしているものと見え、そのへんの話題にかなり興味がある私にはどうにも“気
持悪く”読めるところがあったのであのような書き込みをした。しかし、あのペー
ジを他人の目に触れるようなところにおくのは、探究を深めようというのが目的と
いうより、ひとりごととして味わってもらいたかった、という訳なのですよね。わ
かりました。字義通りに受け取った私のセンスがよくありませんでした。

(ちなみに『茄子の論理』のひとりごとは、気持ち悪いというより、少々腹が立つものでした)
 
 


茄子の論理 投稿者:Junky 投稿日:06月05日(月)02時13分34秒 
松原氏の(1)に対して・・・
「あなたの眼が1を見たとき、あなたの脳には2が見えている。
つまり1の光の刺激に対し、脳が2のように反応している。」は、
「私が見るのはとにもかくにも同じ一つのものだけだ。」と言い換えることにします。

松原氏の(2)に対して・・・
「偉そうで思い上がった雰囲気」と感じられたのは、
つまり私の文章がそうだったからなのでしょう。
とりあえず今「私としてはそういうつもりじゃないのですけど」と書いておきますが、
そうすると「あ、そういうつもりじゃなかったのか」と感じてもらえるような性質を、
文章というものが本来持つのかどうか、それはわかりません。

松原氏の(3)に対して・・・
「私のあの感じ」というのは、大胆にも「私のあの感じ」のことだと思ってください。
また、説明できないものはもちろん説明できませんが、
「説明できること」は、大胆にも「説明できる」のです。
そういうことで「私の・・・あの感じが・・・・説明できる」です。
よくわからないか。

松原氏の(4)に対して・・・
「ピアノのドの波形だけで、ピアノのドの響きが説明できる。」というのを、
「ピアノのドの波形とは、ピアノのドの響きの説明なのだよ。」と言い換えます。

それにしても、いろいろ考えさせられるのは、
言葉をいくつか連ねた文章というものは、
意図しなくてもなんらか論理を成してしまうので、
「納得できない」ということが起こりえます。
しかし、実はあの文章は、
論理に気を配る余裕がなくひとりごとを書いたもので、
音楽の旋律みたいなものとして味わってくれませんか。
そしたら、納得するしないという反応よりも、
気持ちいい悪いというような反応になって、
そのうえで「気持ち悪い」ということであれば、そういう責めは受けます。

これもすべてひとりごとです。(でも言葉は論理をなす) 

http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html


「脳内夢想」に関するいくつかの納得できない点 投稿者:fkj松原 投稿日:06月04日(日)09時07分45秒 
(1) 厳密に言えば、1の映像を見たとき、私は1の映像を見ているのであって2が見
えているわけではないです。1の映像を見ているとき、と、2の映像を見ているとき、
は、たとえ小さなものにしろ回りの状況の違いによって脳全体の反応も違ってい、それ
が1を見たときと2を見たときの違いとして影響しているだろうと思われます(2の映
像を見ているときは、たぶんたいてい1の映像を見た後だったりしそうでもある)。も
ちろん、1の映像を見ているとき、と、2の映像をみているとき、の脳の反応に似たよ
うなものが現われるであろうことは予想できますけれども。3の字の映像と4の字の映
像についても同じで、私の目が3を見たときには3が見えているのであって、4が見え
ているのではありません(これもまた、3を見たとき、と、4を見たとき、の脳の反応
に似たような事態がおきているであろうことは予想されますが)。

(2) >「薔薇の花を見たときの鮮やかなこの感じ」や「ラーメンを食べたときのぐっとくるあの感
    >じ」は、すべて、感覚器からの刺激に対し脳内でニューロンが反応して生じているすぎな
    >い。私たちはこの事実を知ってはいても、時としてそれを受け入れがたく思ってしまう。そ
    >れは何故か。
「私たち」が、ほんとに受け入れがたく思っているのかどうかは疑問なんですが、少な
くとも私は『脳内でニューロンが反応して生じている』らしいという事実(らしいもの)
を受け入れがたくは思っていません。私が受け入れがたいのは、『生じているにすぎない』
というような言い方で、つまり、どのような人間がどのような感動や思想や希望や思いや、
等々言ってみたところでそんなものは脳内現象にすぎなく、でも、その脳内現象を扱う私
たちは、そんなような感動や思想や希望や思い、などといったようなものとは違う“たい
したこと”を扱っているのだ、それだけを扱っていればみんななんでも“わかる”のだ、
とでもいいたげな、偉そうな思い上がった雰囲気が感じられ、そんなところが受け入れが
たいように思われます。

(3) >ピアノのドの音の刺激に対するニューロンの反応だけで、私がピアノのドの音を聞い
    >たときのあの感じが説明できる。(A)
私は、この(A)が、(B)と関係なくそれ単独で受け入れられません。ピアノのドの音でも
薔薇の花でもなんでもいいのですが、それらに接した“私のあの感じ”なるものをどの
ように同定するのか。ニューロンの反応というのはどのようなものだろうとあますとこ
ろなく、かならず“私のあの感じ”として感じられるのか。それとも、“私は感じてい
ない”けれども実験している者が、これこれのニューロンの反応はこれこれの感じとし
て感じているはずだ、として説明するのか。私にはとても“私のあの感じ”なるものが
“説明”されるとは思われないです。

(4) (B)も(A)とは関係なしに、これ単独で受け入れられません。ただ、こちらは、他の
波形との比較によって説明されたりしたら受け入れるのにやぶさかではありません。無理
すれば、「それがどうして“ピアノの音”なる語として言えるのだ、とかなんとか、受け
入れないでがんばれないでもないような気がしますけれども。“響き”ってなんだよ、とか。

http://www.tky.3web.ne.jp/~fukuju21