原発ジプシーからの手紙(3)

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原発には、24歳の時から5年ほど居ました。青春時代が凝縮している頃合です。
一般的には、その頃に暗い生き方をするってことは、耐え難い屈辱ですし、後で振り返っても、そういったことは認めたくない物です。
私にとっても同様で、いやなことは忘却の彼方へ追いやってしまっています。
思い出という物は後から形成されていく物で、そのときそのときの現実は、得体のない物となってしまうようです。
現実という物は、その時その時でのみが真実であって、あくまで刹那の物であって、実際は得体のない物かもしれない、遡って真実そのものの実体とはいったい何でしょうか。

真実の象徴ともいうべき「神」の存在は、生のための最高の方便かもしれない、確固たる意志で前向きに生きることを「運命」とする事は、生活してゆく上で非常に心地よい物に違いない。

統一場原理(一般相対性原理?;名称は正確でないかもしれません)は、この世界のすべてを簡潔な数式で表現しようとした物だそうですが、これの到着点はこの世界の出発点でもあります。
この世界創造の話は、出発点(ビックバーン)のコンマコンマコンマ・・・何秒後位から科学的に分析されているそうです。それは文字通り「想像を絶する」ものでして唯一数式によってのみ表現されている世界のようです。
ここで私が思うのは、こんなところに人間的な概念が存在し得ただろうかということです。
すべからく宗教という物は、世界創造から始まって、その創造者である神の真実を説いています。

言葉は情報伝達の手段として発生し、その目的はおそらく「生存」であったと考えられます。
目的というよりは、その結果として現在があるのだと考えた方が良いかもしれません。
その言葉により、生きること→正しいこと=真実→その象徴=神 へと発展したのだと私は考えています。
これより「神」の真実は人間が生活するための方便だと考えているのです。

とりとめもない言葉の遊びみたいになってしまいましたが。さいごに統一場原理を提唱したアインシュタインが、敬虔なクリスチャンだったこと、これが最高のアイロニーだと思います。

1996年11月16日/信田政義

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