そして、僕たちがなにかを「感じる」とか「考える」とかいうときの、頭というか心というか、そういうものの働きの一切が言葉で成り立っているように思えます。どうしても僕はそう結論づけざるを得ません。
うれしい、とか、かなしい、とかいうときも言葉です。おいしい、とか、いたい、とかいうときもやはり言葉です。言葉を伴わない思考がないのと同様、言葉を伴わない感情もありません。
なぜそうなっているのかという問いにはうまく答えられません。それは人が言葉を持つせいだとしか言えません。僕自身がそういうふうにしているようなので「そういうふうになっている」と白状しているだけです。