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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.9.29 -- ポジティブではないが、もういい(わけでもない) --

●「幸せではないが、もういい」という題名の小説があった(ペーター・ハントケ、元吉瑞枝訳)のを思い出した。「レッツ・ポジティブやで! ダメ人間を治す本」。つまり、自分の性格を変えてよりよく生きたい、が、もういい。●紹介の仕方にどれほど娯楽性を盛り込もうと、紹介された本の実用性はそれを上回ってしまう。そんな恐ろしい現況を踏まえた絶妙なブックガイドだ。●ダメ人間は治したほうが明らかに得。それは痛いほどわかる。しかし、そのためのトレーニングとかコーチングとかがこれほど切実熾烈に求められる社会であることが、つくづく嫌だとおもう人間を治すことはできるのか。治さねばならぬのか。というわけで、次は「それでもダメ人間が治らなかった人」はたまた「そもそもダメ人間を治す気にならない人」のための手引きを! …とまあこんなことをわめく余裕のあるうちは、まだいい。


2003.9.28 -- 《濃縮還元ハルカリ飲料》 --

ハルカリの1枚目アルバム『ハルカリベーコン』。渋谷系とか秋葉系というくくりがあったのだから、こっちは目黒系とでも呼ぼう。六本木汐留お台場にはさほど近くない。丸の内や霞が関にはもちろん遠い。●ニュースを騒がせる昨今の10代は、男子を中心にとにかく必死の形相ばかりを伝えてくるが、懸命さや感傷をしっかり見つめたうえで、こうした力の抜きようもあるのだ。物語で癒すのでもない。これは10代でなくとも参考になる。心にも身体にも効く。《まーリラックス サーフライダー ノリ》。●しかしラップとはどうしてこんなに気持ちよいのだろう。赤ん坊が耳で聞いたことばを初めて口にするとき、世界とか自分とかまだぼんやりしている中に、なんらかのイメージが、はじけ、きらめき、ひろがっていくのが、きっと楽しいにちがいない。大人はどのことばもすでに出そろって、世界と自分を軸にかっちり組み上がっている。でもそれをふたたびラップで置いてみると、初めてのことばの楽しさがちょっとよみがえるのかもしれない。

●話は変わるが、こうした目黒系の少女も、理不尽な暴力や戦闘に遭遇しないとはかぎらない。たとえば乙一の短編集『ZOO』の「カザリとヨーコ」のような。ところが、あの少女は、あまりに酷い仕打ちを受けていながら、すっかり客観的で元気な顔をふっと見せるのだ。《よしきたー!》と。それでいてジョークはブラックだったりする。自虐なのか健気なのか分らないポジティブさ。読んでいてびっくり。そこにもまた救いが見つけられるのか。


2003.9.24 -- 戦争はどこで起こる? --

トリビアの泉で、二人の愛を計測する「ラブテスター」なんてのが出て、「へぇ〜」じゃなく「あったあった」なんて思う自分は、なんと長い歳月を生きてしまったのかと、悲しくなってくる。●「すいか」は半分ほどしか見なかったが、毎回テレビドラマとしては極めて稀な親近感をおぼえ、最終回を見ていても、こういう「世界との折り合いのつけかた」は独特だなあ、なにかこれに似たドラマは他になかったろうかと考えて、「二丁目三番地」などというあまりに大昔のタイトルにまで遡ってしまった自分も、あきらかに古い世代に入るのだろう。子供だったから内容はまったく記憶していないのだが、朝丘ルリ子つながりだけではない、なんらかの根拠があるのかもしれない。●安倍晋三49歳、新内閣の平均年齢59歳が「若い!」と言うのを聞いて、まだまだ大丈夫かと思う安心感には、すでに49歳や59歳を超えた人なら逆になんだか嫌な気分が残ったはずだ、という想像力が欠けている。●雑誌『ファウスト』の賞の応募が80年以降の生まれに限るというのも、新卒者いらっしゃい、中高年はもはや就職できません、みたいな事情にまるきりシンクロしているようで、辛い。●「若いほうがいいじゃないか!」という価値基準がタガを外して台頭してきた社会で、年長になっていくばかりの者はどうしたらいいのだろう。近い将来に憲法が変わり徴兵も現実になったとき、たとえば「40歳以下に死んでもらうよりは、40歳以上に死んでもらったらどうだ、日本にとってはそっちが好都合だ」なんてことになったら! そのときは私もいよいよ「若いやつらこそみんな戦争に行って死んでしまえ」と言いだすかもしれない。たとえばきょうファミレスの座席に靴のまま上がって平然としていたあの若い連中に向かって。


2003.9.20 -- 三顧の礼 --

●鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』。まずじっくり読み、付箋を貼りながら再びじっくり読み、付箋を剥がしながら改めてじっくり読んだ。それくらい価値と恩義を感じた一冊だ(しかも新書)。ウィトゲンシュタインの哲学の一貫性そして核心というものが、たしかな手応えをもって捉えられている。こんなこと、専門家でも熱意より諦めが勝ってしまう所業ではなかったのか。だから、ウィトゲンシュタインの解読となると、謎を残すのがまるで慣習のようで、あとは随意に自らの課題のほうを膨らませて涼しい顔、そんなことも多かったはずだ。だいたいウィトゲンシュタインに一貫性や核心なんて存在しないんだという説も強いと思われる。しかし、この本はそうではない。ウィトゲンシュタインの著作は、最近公開された遺稿に照らすことでやっと理解できるとの前提に立ち、その再構成を、まるごと、しかも厳密に、試みた。その成果。●しかし、ちょっと読み疲れて、中身や感想を書く余力がなくなった。

●ちなみに、最近、デビッド・リンチの映画『マルホランド・ドライブ』(DVD)を観たのだが、ストーリーの不可解さにただ呆然としてしまい、ここに一貫性や核心なんてないんじゃないかと諦めそうになった人も、たとえばこのサイトの解読などを知ると、「ああそうだったのか!」と謎が氷解する思いをするだろう。『ウィトゲンシュタインはこう考えた』は、たぶんそんな役割を果たす。


2003.9.18 -- 飛び込んで死ぬならトリビアの泉 --

阪神優勝で道頓堀に飛び込んだ人は6千人、などとニュースが言うので、ああなんか数を間違えたなと思ったら、本当だった。そんな凄いことになっていたとは! この世の中シニカルばかりではない。かなりのカルチャー・ショック。あれを飛び込むなというのは、だんじりは危ないからやめろというのと同じかもしれない(他人を落とすのはまた別の問題だけれど)。どこかテロや革命の代理をやっている、というかそれと並列できる出来事にも思えてくる。●さて、人を殺すほうのテロや戦争について、それをひそかに待ち望む気分を理解したうえで、ストレートに批判したとてもまっとうな意見があった。《戦争を待たずに、告白を、転機を、セックスを、美食を、音楽を、いますぐに、嫌いなものを全部捨てて、好きなものだけで、生活を。》(雨宮まみ『NO! NO! NO!』より

●「トリビアの泉」は、へえ〜と面白いのはもちろんだが、そんなムダ知識をあえて面白がっているこのムダな自分がなおさら面白い、というところがある。それどころか、ムダ知識を面白がる自分が面白い、なんて考える自分がまた面白いとすら言える(入れ子がこれ以上になると、人間の頭ではフォローできないみたいだ)。ともあれ、こうした面白さの構図を瞬時に体現するのがタモリと司会の二人だと思う。あれがたとえば中居や石橋の番組だったら、これほど欠かさずは見ない。●とりわけ、高橋克実の一言リアクションは、面白がる構図をいっそうぐしゃぐしゃなものにしてくれる。

●「トリビアの泉」の厳かなオープニング曲は、映画『ロミオとジュリエット』のパクリ(かも)。


2003.9.12 -- 至上経済 --

●このあいだ山形浩生氏のインタビューが『エキサイト ブックス』に載り、そのなかでクルーグマン氏の著作に出会った衝撃がとても正直に告白されていたので、だったら今度こそと思い、『クルーグマン教授の経済入門』(山形訳)を読んだ。●積年の不景気のせいか、経済の話というのは、まるで健康の話か旅行の話であるかのように、いつのまにか日常ディレクトリに降りている。そこでは、いろいろ得意げに語られてすっかり自動化した理論展開も多々あるようだが、この「クルーグマン+山形」本は、そうした流れのみなもとを作ったうちの一冊だろう。そう確信させる面白さ、詳しさ、わかりやすさがあり、ようやくそれを共有した気分だ。「日本の不況対策にインフレを起こせ」というおかしな理屈も、そうおかしくは思えなくなっている自分がいて驚くけれど、それもまさにこのコンビの功績だろう。●さて、この書物は、この世において生産性ということがどれほど重要であるか、そして生産性ということがどれほど制御できないものであるか、そんなことをスパっと述べる。その本旨は同書をあたってもらうとして、私がふしぎに興味深かったのは、「人生、お金より大事なものがあるんじゃない?」という必然的な反問が、あえて冒頭も冒頭の訳注で先取りされ、そこにおいては、生活水準を別の指標で計ってこそ人類の新しい方向性も見出せようといった、おもいきり反経済的にもみえる山形氏の断りが一応入っていることだ。経済とは幸福への捨て階段であって、経済に何ができて経済に何ができないかが見極められたとき、はじめて経済という難問は乗り越えられる。そんな構図がふと思い浮かんでしまった。

●もうひとつ思い浮かんだ。「とにかく生産されるべし」という大原則は、あらゆる価値観やモラルを抜きにして成立しているらしいのだけれど、そうなると、「とにかく生産したくない」「経済、生産、仕事、金稼ぎ、そうしたことの一切が嫌だ」という人や思いもこの世にはまちがいなく存在していて、そっちの側は本当に立つ瀬をなくしそうだということ。●とはいえ、経済というのは、人と人あるいは人々と人々が、放っておいても好き勝手に交易や交流を始めてしまう、そんな自然現象のような生存形式を指しているのかもしれないと、最近は考える(放っておいても好き勝手に言葉の交換が始まってしまうのにも似て)。そうすると、「とにかく生産したくない」という気持ちは、なにか根本的に錯誤なのか? それとも、「とにかく生産されるべし」がこの世の真理であったとしても、現実に行きわたっている生産のありようが普遍のものというよりたまたま偏狭なものになっているせいで、「この生産形式では、とにかく生産したくない」という気持ちなのか? どっちだろう。大きな疑問だ。●そんななかで思うことは、「なにかをする=なにかを生産する=なにかを交換する」という行ないが、なにか別のことを行いたい得たいがために仕方なくではなく、それをできるだけ回避しながら、戯れに、試みに、あれやこれや、そうこうしているうちに妙なことが始まっていた営まれていた、というふうであったなら、それはとても理想的な経済なんじゃないかということ。●こうした思いを巡らせるなら、たとえば次の出来事が参考にならないともかぎらない。ということで、唐突ながらリンク。その1その2リンクもまた素晴らしい経済なり(なにより経済的だし)。


2003.9.10 -- ふだん使わない裏の筋肉 --

●『月刊 てがぬま』という同人ウェブサイトに私の随想あり。ここでは題に合わせて好きに書いてよい。題はいつも質素な単語ひとつで、内容や文体をけっして方向づけないように選ばれている(と思われる)。この日誌であれば、本やニュースといった適度に複雑で活性化された出来事がたちまち有機反応を起こすので、それに任せてしまえるが、無色透明な題だとなかなかそうはならず、けっきょく書く人の傾向や組成が試験されているところがある。


2003.9.9 -- 世界音楽地図 --

●とうの昔に有名なのだろうが、インターネットで音楽が聴けるラジオ局を集めた『Live365』。BGMにとてもよい。「World」というジャンルがあって、世界各地のエスニックと呼べそうな音楽が聴ける。ざっと試したところ、中南米または中東の系統が目立ち、東南アジアやインド方面がそれに続く。アフリカもある。中国系はなし。ヨーロッパではコソボの局があった。●プレイ中の曲名が表示され、しかも、どれほど辺境のムードが漂う曲であっても、「BUY」のボタンを押ぜば『amazon(米)』につながって直ちに素性がわかるのが凄い。ただ稀に『amazon』にリストがない場合もある。そのときは仕方ない。グーグルの果てが滝になって流れ落ちているのと同じだ。「アマゾンの限界は世界の限界である」とウィトゲンシュタインも言うだろう(言わない)。

●それにしても、たとえば旅行したことのある国なんて少ししかないわけだが、そこの音楽を聴いたことがある地域というものも相当限られているのだなあと気づかされる。だから、せめてこういうサイトでいろいろ知りたい。しかし、地球の多様性をまるごと反映するには、ここにあるラジオ局ではまったく不足かと思う。だいたい、各ラジオ局がその地域で運営されているということではないようだ。もっといえば、各音楽がその地域自体で流行しているということでもない。地球の各地域に流れている音楽に均等なアクセスができるようには、インターネットも音楽産業も私たちの意識も出来ていないのだ。少なくともワールドカップくらいの偏りは当然生じてしまうはずだ。

●しかし、それ以上に不思議なのは、そもそも、人々が地理的に分離しているのに合わせて、音楽も分離して存在しているのかというと、そんなことは全然なさそうだということ。言うまでもなく、英米のロックやポップスなどは日本をふくめ世界中でかなり満遍なく消費されている。●そんななかで、たとえば邦楽や民謡が「日本の音楽」の主流だと言われたら、それは正しいと思えない。それよりは、サザンやモー娘なんかを「日本の音楽」として外人さんには紹介したい気がする。かといって、そのサザンやモー娘が「世界スタンダード」に対する「日本エスニック」なのかというと、それもうなずけない。まあ「インターナショナル」に対する「ドメスティック」という括りならいいのかもしれないが、だったら「エスニック」は「ドメスティック」とまったく別概念なのかというと、それも難しい。●そういうわけで、日本の音楽についてはこうした微妙なところを分別できるのだが、じゃあたとえば、フィンランドではどこの国の音楽が主流なんだろうとか、メキシコの音楽って何を指すんだろうとか、そうなると皆目わからない。ベトナムの人が浜崎あゆみを聴いたら、「インターナショナル」なのか「アジアン」なのか「ジャパニーズ」なのか、とか。●このことは、ロックとかジャズとかクラシックといった音楽の分類が、たいして整合性をもって分岐しているわけではなく、それに応じて均等に演奏され視聴されているわけでもない、という事情にも似てくる。●つまるところ、音楽の世界地図というのをどう描けばいいのか、まったく途方に暮れてしまうし、それはじつに楽しいということだ。

●さて、こうした理屈はさておき、好きな音楽に出会うという体験はよいものだ。『live365』には、以前ふれた「Radio Free Klezmer」があり、このところずっと聴いている。クレズマーは東欧ユダヤ系の音楽で、クラリネットやバイオリンを基調にした哀愁のある旋律が特徴。アラブ系やインド系の音楽も面白いし、ラテン系ももちろん心地よいが、クレズマーには格段にハマったと感じている。しかし、このヨーロッパのエスニックが、私には欧米人に響くようには響いていないのではないかと思うと、また奇妙な気持ちだ。こういう好みというか偏りというか、そういうものが私のなかにいつどのように形成されたのか、それを探究するのもまた楽し軽部氏。●某大手レコード店の「ワールド」のフロアにも「クレズマー」の一角はあるのだが、ストックはわずかで視聴もできない。それに比べて「Radio Free Klezmer」なら、多数のアーティストの多彩な楽曲が終日流れてくる。そのうち何か買おう。●参考


2003.9.5 -- この世では仕事だけがリアル --

東浩紀さんは、はてな日記を余技だと考えておられるフシがある。だったらちょっと寂しい。id:hazumaの出現と震動は、屏風の虎がいきなり這い出してきた印象であり、マトリックスオフ折り鶴運動に並ぶ重大事件かもしれないのに。しかし、ということは、『自由を考える』があくまで書物や言語の領域にとどまっていたのに対し、はてな日記は違うとでも私は言うのか!(Yes)。はてなの巡回はもう読書ではない。なんというか、腹がへってコンビニに行くとか、日ざしが良いので蒲団でも干すとか、そんな感触に近い(どんな感触?)。『ファウスト』を読むのとサイン会に行くのとの違いみたいなものか。●日記書き(原稿書き)も、金の移動が伴えば、もしやもっと現実らしくなるのだろうか。サイン会は稼ぎにならないらしいけれど。現実とは何だ。


2003.9.4 -- はなわも出演 --

黒沢清アカルイミライ』をDVD鑑賞。やはり印象に残るのは赤クラゲ。つかみどころなく、もの言わず、他と交わらず、毒を持ち、やがて、帰っていくべきところに、ひたすら流れていく。浅野忠信は、キレたというふうではない。社会と分離せず一体となっているがゆえに、その機構が周到な必然として備わっていたかのような殺人。その浅野忠信が、絶望としてか希望としてかは知らないが、遺した未来が、赤クラゲだったということになるのか。十代の少年集団。彼らが段ボールを蹴りながら歩いていくラストは、やけに清々しく、終わるのが惜しかった。「未来は明るい」という主張は、未来が若者に属することと同様、いわば絶対の理屈かもしれないのに、ふだんはそのことを忘れている。●20××年に小惑星が地球に衝突する可能性がある。そんなニュースをつい最近読んだ。自分が死ぬのは想像の外なのだが、ともあれ地球のほうは滅びてしまっていいかと思う。その思いはどこから来るのだろう。もしも小惑星が東京を直撃し、地上のすべてが燃え尽きてしまったとき、あの赤クラゲの一群だけが近所の川を行くのだろうか。それを私は見ることができない。


2003.9.3 -- 涼しくならず熱くなる --

●「幽霊を見た」「あの世がある」と信じる人にとって、「幽霊」や「あの世」の説明や定義は漠然としていて神秘化もされている。だから、「幽霊を説明してください」「あの世を定義してください」と問われてもうまく答えられないが、かえってそれが「幽霊は説明できないものとして存在する」「あの世は定義できないものとして存在する」といった思いを強めていく。「だったら物理的存在ではないんですね」と科学者が詰めよっても、「そのとおり、物理的存在ではないんです」と堂々としている。一般的にはそんな構図があるだろう。

●幽霊は物理的存在でない。物理的存在以外に存在はない。だったら「幽霊は存在するか」と問うのはナンセンスだ。――これは常識というべき理屈だ。そこは踏まえたうえで…。●「幽霊が、従来の物理的存在の範囲を拡張させる新しい物理的存在だったことが判りました」という事態なら、将来も絶対ありえないとは言えない。たとえば、サッカーボールというのは、PK戦でそれを蹴ったときにゴールに入るか入らないかどちらかでしかないものとして、通常は存在している。ところが、一個の電子というのは、板にあいた二つの穴を同時に通り抜けるものとして存在する。この電子の奇妙なふるまいが発見されるような事態だ。しかし、今言われている幽霊がそのような存在であるとはまったく考えにくい。●一方、物理的存在ではないが「存在する」という言い方をするものはある。たとえば、現在クジラより大きな哺乳類は存在するか。「うちにあるよ」「うそだ、あるわけない」「あるさ、作ればあるさ」。ではクジラより大きくかつ蟻より小さい動物は存在するか。「それもあるよ、作れば」。しかし、幽霊がこのような存在だと思われているわけでもないだろう。

●ともあれ、私たちは「幽霊」や「あの世」という言葉をふつうに使う。そうして、だれかが死んだあともその人がなんらかの形で残っていて、生きている人ともなんらかの形で交われる、そういった世界を思い描く。上にあげた理屈をぜんぶ踏まえても、そんな存在は無茶とわかっていても、やっぱりそういう言葉を使い、そういう世界を思い描く。そのとき私たちはいったい何を思考しているのだろう。思考しているものについてうまく語ることはできないし、なにも思考していない可能性もあるけれど、そのとき「あまりに不思議なかんじ」がすること、それだけはたしかだ。

●それはどのような不思議だろう。たとえば「宇宙には果てがある」とか「宇宙には果てがない」といったことを空想するときの不思議さに似ている。「その宇宙の果ての外はどうなっているの?」と考える不思議さに似ている。もちろん「死んだらどうなる」と考える不思議さにも似ている。●ほんとうの不思議。今こうして宇宙が存在しているけれど、なぜ、これらすべては無いのではなくて、これらすべてが有るのだろう。まったく何も無いというふうになっていないのは、どうしてなんだ。●さらなる不思議。これがもしも、そういうふうな、まったく何も無いということだったなら、それはいったいどういうかんじなのだろう。わからない、まったくわからない。●しかも、そういう、無いのではなくて有るようなところに、こうやって私が、いないのではなくて、いるというのも、とほうもなく不思議だ。生まれてこなかったとしたら、「なにかが有るというこのわけのわからなさ」も、「なにも無いというあのわけのわからなさも」、もっぞずっとわけがわからなくなってしまうのだから。そんなたいへんな違いを生じるようななかで、私が生まれてこなかったのではなくて、私が生まれてきたというのは、どういうことなんだろう。ましてや、生まれてきたのではなくて、生まれてこなかったというのは、どういうかんじであると空想すればいいのか。……え、あなた、幽霊が見えるんですか。そうですか。いやそれは不思議ですね。不思議ですけど、今そこまではかまっていられなくて……。

●以上、『圏外からのひとこと』essaさんと『幻燈稗史』jounoさんの議論に触発されたが、応答ではなく自由に書いてみた。入り口は、http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030828#1062079571あたりがよいだろうが、今もどんどん進展しているので注意。


03年8月

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著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)