TOP

▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.10.30 -- ローテク不気味 --

黒沢清監督『ドッペルゲンガー』を見てきた。以下ネタバレ注意――●役所広司が演じる主人公の早崎は、ドッペルゲンガーとして出現してきた自分の分身を、いろいろあって、殺してしまう。早崎の性格が急変するのがその直後だったなら、筋書きとしては収まりがいい。早崎の分身は、早崎本人の抑圧された部分を体現していたようだから、本人が分身を殺すことで、分離していた人格が統一され一皮むけた新しい早崎が誕生した、とかなんとか、解釈ができる。しかし実際はそうではない。早崎がにわかに暴力的で直接的な行動を取りだすのは、ずっとあと。鼻を補強して顔立ちが異様になり、自家用車を運転し、永作博美演じる由佳がひとり待つところに現れた段階だ。●この映画では、黒沢監督の特技だろうか、誰かがふいに殴りかかるといった生理的な驚きには、なんども出くわす。やがて、筋書き自体がいわばガンと殴られたように転倒していく。その変調は、ちょうど冒頭の重低音ノイズのようであり、嫌らしい振動としてじわじわ降り積もってくる。こうした効果がこの映画のポイントだろうが、なかでも、今あげた早崎の豹変は、最も唐突でそれゆえ最も不気味だったのだ。●だいたい、この早崎は、早崎本人で間違いないのか? それとも殺された分身が蘇って追ってきたとみなすべきなのか? 分身の持っていた暴力性にあふれる一方で、本人特有の上品さも捨ててはいない。偽善でも偽悪でもなくなった正直さが新しい人格にもみえる。●さて、そうなると、本人が分身を殺した場面に戻って、あの場面はわざと紛らわしく演じ分けていたようだが、殺されたのは分身ではなく、もしや本人だったのでは、という疑惑も生まれる。●さらには、ユースケの演じる君島が、川底に落ちたにしては元気に再登場したり、そのユースケにしたたか殴られたはずの早崎と由佳が、その直後にそろって草原を走っているのも、どうも怪しい。これらどれもがドッペルゲンガー的ではないか。最後は、機械仕掛けの人工人体までが、壊されたとたんに、自らの意志のようにして息を吹き返す(そして自殺)。●というわけで、『ドッペルゲンガー』はもちろん「よくわからない映画」という括りになろう。しかし、狙いすまして混乱や逸脱を生じさせたというふうではない。だから深読みで謎を解いても徒労かもしれない。しかし逆に、ことさら不明瞭に投げ出して不満をかき立ててやれとか、そういう意地悪だとも思えない。かといって、作る方も見る方も「何も悩む必要なんかない、好き勝手に楽しもうぜ」というB級精神だけでいけるわけでもないだろう。ともあれ、それらがあいまって、全体にぼんやり際立たない不気味さをたたえている。「わからない」にもいろいろタイプがあるはずだが、うまく言えない。

高橋源一郎君が代は千代に八千代に』には、日常の出来事や思考がまるで雑巾のようにおぞましくなっていくのを止められない、安っぽくてへんな愉快さがある一方、ところどころ不可解な不気味さがぞぞっとよぎってくる瞬間があった。あえて似た感じを探すなら、これか。

●それにしても平日の朝から映画を見にいくやつ。やけにすいていた映画館。私の前に一人。私の後ろに一人。それきり。あれ、もしかして後ろにいたのは…。


2003.10.29 -- 非印刷系 --

アマゾン(米国)で書籍の全文検索が可能になったというニュース。これぞグーテンベルク以来の大革命!? と目を見張ったのだけれど、待てよ、そのまえに、ウェブ日記など(ブログ)を通じて、書籍にすらなるはずのなかった個々人の日々の膨大な思考が、一気に文字化されデジタル化されネットワーク化しつつある変容のほうが、そもそもずっと重大なんじゃないか、と思い直している。●かつて特定の階層が支配していた政治や経済という営みは、近代に入って人々にあまねく開放された。でもこの書き言葉(エクリチュール)という支配構造だけはだいぶ違う。文化や文学の市民革命は、近代史としてあまりに遅きに失したものの、20世紀末になってはからずも勃発した。…なんていうとオーバーか。●焦点は「読む・書く」のうち「書く」にある。「書く」という行為は、インターネットという場と機会が等しく与えられることによって、ようやく一般人の日常に定着しつつある。この話、ここでなんども繰り返しているが、まあそう思う。●マクルーハン(大阪人ではない)、というとテレビについていろいろ洞察した人という位置づけだが、『グーテンベルクの銀河系』という著書がある。どうやら、そのグーテンベルクの印刷術がもたらした激震の意味を考え抜いている(全部読み通したことはない)。書物がことごとく手で書き写すしかなかった時代、読書とは声を出して行なうものだったり、記憶を目指して行うものだったり、といった事情を、無数の資料を滑空するかのようにして追想していく。そして、そこに訪れた「印刷術の出現」は「文字の出現」にも匹敵するとマクルーハンは考える。●そんなわけで、「アマゾン全文検索」や「ブログの出現」は、それに匹敵する激震じゃなかろうかと思うのだ。

●ちなみに『グーテンベルクの銀河系』には『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコの小説)のムードがちょっと漂う。それと、最近『グーテンベルク銀河系の終焉』(ノルベルト・ボルツ)という本も出た。どれも近所の図書館にある(ときどき私の家にある)。これからは全部アマゾンにあると思えばいいのか。


2003.10.26 -- 何が言いたいの、言いなさい、早く。 --

仲正昌樹「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』。内容盛りだくさんだったが、行き着くところはこの書名に要約されている。すなわち――。ほんとは自己なんてあやふやなのだから、しっかりした決定なんてすぐにはできない。それなのに、近ごろは何でも自己決定しろと迫られて、とても不自由だ。●この終盤の展開を私なりにまとめると――。なぜ自己はあやふやなのか。そもそも自己=私が何ものであるかは周囲の他人や集団との関わりを通じてしか形成されない。これはもう正論だろうが、それだけでなく、周囲に規定されていた古い自己を捨てて新しい自己を得ようとした場合でも、その新しい自己がちゃんと機能するまでには、やはり同じく周囲との関わりなどのプロセスが要る。●《それまでなれ親しんだ共同体的な文脈の中に自分の「アイデンティティー」がはめ込まれているので、いきなり別の文脈に移るという「自己決定」は、「したくても」なかなかできない。》●ここから引き出されるのは、実にあっけないが「自己決定には時間がかかる」という真理だ。ところが、世の中は教育で医療でも闇雲に自己決定を迫る。これではまともな自己決定はできない。●では、世の中はなぜこんなに自己決定を急かすのか。それは、資本主義というものがとにかく効率を求めてやまないせいだ、と理由づける。●《…「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ邪魔である。》《言わば、市場における効率性の原理に従って、「主体」であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて"不自由"な状態に置かれているのである。》●ありきたりな解答にも思えるが、まあやっぱりそういうことなのだろう。

●こうした分析は、「ひきこもり現象」あるいはそれに似た「いい年をした大人が仕事もせずぶらぶらしてる現象」の理解にも繋がると思えてきた。ゆっくり時間をかけて決めていったのでは自己決定とは呼んでもらえない。そんな現状を仲正氏は憂える。自己決定ができる人は単に気が短い人のことなのだ、という論まで持ちだしてくる。《…「自分では決められない」という態度を取り続けるのも、やはり「自己決定」の一形態である。》のんき者の味方。●さらに、上に示された経済効率の原理が、やはり「ひきこもり現象」「大人ぶらぶら現象」とは切り離せないんだ、という思いを強くする。この観点に立てば、ぐずぐず自己決定しないことこそ真っ当なのであり、「そのために私にもっともっと時間を」と訴えることは社会批判でもありうる。●ただし、それを訴えているうちに給与が振り込まれている仲正氏はいいが、そのうちに稼ぎや仕事がなくなってしまう人は、なかなか大変だ。資本主義や経済の歪みは、実際には各自の生計の歪みとなって覆いかぶさる。本当の悩みは「時間がない」ことなのに、現実の悩みとしては「金がない」。そうして社会の問題が見かけ上は個人の問題となり、やがては「ひきこもりは生産しない、だからひきこもりは悪い」と、単純な経路や内面化によって個人を必要以上に苦しませる。

●追加:同書の前半ではこんな話も出る。《市民社会に生きる「我々」は、各自の「経済活動の自由」を、実現すべき普遍的価値であると考えがちだが、アーレントに言わせれば、利害調整が問題になる「経済」においては、本当の意味での「自由」はない。とどのつまり、資本主義であれ、共産主義であれ、「経済」的利害が人々の中心的関心事である限り、我々は「人間」にはなり切れないのである。》この前段としてアーレントは、古代ギリシアにはその本当の自由があった、ただしそれは奴隷や女性のおかげで衣食住の心配が要らないという極めて特殊な条件に支えられていた、と指摘しているそうだ。●これを踏まえると、「ひきこもる自由は家計を気にしては成り立たない。でもその家計は誰が支えるのか」という悩みが、いっそう本質的に思えてくる。

●ところで仲正氏は、自己決定への短絡という悪弊は、なぜか左翼系の文化研究や市民運動にも生じている、との恨み言を漏らす。例としては、マイノリティにマイノリティとしての自己しか見出そうとしないとか、活動に自主的に参加するよう強制するといったことを挙げている。●どうも、この本は全般に「切り返した筆で左翼を斬る」の傾向が強い。《最近は、哲学・思想をやっている人に、こうした「非自己決定」への「自己決定」を迫る人が増えてきたので、非常に疲れる。》 なんか実際いやな目にあったのかなと想像させるところが、可笑しい。

●では、自己決定という不自由さを回避するにはどうしたらいいのか。仲正氏は、ネグリ&ハート『〈帝国〉』が示した「マルチチュード」に希望を見出している。《簡単に言えば、"何となく"変化を求めている人々の非常に緩い集まりである。》そのネットワークのなかで《"自己"はなんとなく変容しつづける。》《筆者は、こうした意味での「マルチチチュード」は、「○○の主体」への転換を性急に要求してきた従来型の左翼的「主体」思想から卒業するためのいい契機になるのではないかと考えている。》●さらに、その兆しが先のイラク反戦運動の一部には現れていたと、思い当たるフシのあるところを突いてくる。

●終盤の内容にしか触れられなかった。『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』は、全体としては、ヒューマニズム・自然人・普遍的な正義といった大それた自明の価値観がどうやって生まれ、そのエクリチュール的な反復が西欧の思想にどのようなバイアスを与え、そこからどのように自己決定万歳という過ちが導かれたのか、を解いていく本だ。が、そこは省略。

ひきこもり現象については、最近『Freezing Point』というサイトを中心に深い考察や議論が続いている。なかなか機会がなかったが、きょうはぜひリンクしておこう。そういえば、このサイトを知ったのも、日付はやや古いが、家計に絡んだこのつぶやきだった。それに応じた「即身仏は立派な社会人か?」(『圏外からのひとこと』)も合わせて、ぜひ読むべし。●ついでながら、私の昔の日記もひとつ


2003.10.24 -- 蓮實重彦は、凄い。← × --

●「蓮實重彦 とことん小津安二郎を語る」を聴きに行った(10月18日・青山ブックセンター)。これは『監督 小津安二郎(増補決定版)』の刊行に合わせたもの。この増補版は『秋刀魚の味』のアイロンのシーンから書き始めなければなりませんでした。それは20年前からわかっておりました。といいますのも、このシーンで岩下志麻は肩に手ぬぐいを掛けているのでありますが、それが一体何故なのか。そのことを私は20年間ずっと考え続けてきました。その答えがようやくわかったので、増補版を書くことにしたのです。――とだいたいそんなふうに語りは始まって、毎度ながらすぐ引き込まれた。●この日の話はその増補分とほぼ同一内容だったようだ。『偽日記』(10.18)に増補版の紹介があったのを読んで、わかった。『偽日記』ではその評価もきっちり下しており、イベントのまとめにも代用できそう。●さて、こうした流れがあって、河出書房新社から次々に出ている蓮實氏の映画関連本を一冊開いてみた。インタビューと講演を集めた『帰ってきた映画狂人』だ。どれもこれもぶっちぎりの独創・独走で、今さらながら凄い。小津安二郎についても「映画からの解放」という講演が収録されている。●蓮實フリークには常識かもしれないが、これらを通じてはっきり悟らされたポイントを一つ言うなら――。「映画に映っていないもの(物語・テーマ・主張)ばかり見ているくせに、映画に映っている画面そのものはちゃんと見ていない」。膝の裏を突かれたような驚き。

●さてさて、ここで「映画」を単純に「小説」に置き換えたらどうなるか。小説に書かれていないこと(物語・テーマ・主張)ばかり読むくせに、小説の書かれている文章そのものは読まない――ということになる。●これまた奇妙だが、あえてこの視点で反省してみれば、純文学系の小説などはいわゆる行間に気を配りながら読むものとされている。ところが、まったく対照的に、書かれている文章自体にいやでも注意を傾けざるをえない形式の小説がある。それがミステリーだ。これは実は、高橋源一郎氏が『小説トリッパー』でおおよそ述べていたことだ(03年夏期増刊号、「歴史」と「ファンタジー」=大塚英志氏との対談)。●事件は行間で起こっているんじゃない、文面で起こっているんだ。犯罪の真相や犯人の正体は、背後に隠されているのではなく、文章として書きこまれている。読者は手がかりをすべて読んでいる。

●なお、「映画からの解放」のなかで蓮實氏は、小津の映画について「知ったかぶり」も必要だとする。そして「知ったかぶる」ためには、「小津の映画は…」という主語を受けて「…美しい」とか「…退屈だ」といった形容詞を使ってはダメであり、「小津の映画は…」「…ローアングルだ」「…視線が交わらない」という述べ方ができなければいけないと言う。これまたはっとさせられる。●というわけで。「犯人はかなり寂しがり屋の性格でしょう」「この犯罪は社会への挑戦として憎むべきものです」といった形容をしても仕方ない。「犯人は○○で○○を○○した」「犯人は○○氏だ」と分析できてこそ事件は解決する。ミステリーを読むこと解くことと、小説や映画の批評ということが、ここに重なってみえてくる。

●参考:以前も行った蓮實氏のとことんシリーズ


2003.10.22 -- 雨が長く、文も長い --

自由とは? 正義とは? …とそういう大文字・大マジの議論は最近けっこう盛んなようだ。仲正昌樹『「不自由」論』でも、ポスト構造主義に代わる現代思想の潮流でもあると書いてあって、へえと思った。もちろん、このあいだの『現代倫理学の冒険』は良き入門書だろう(10.5日記)。●そうした議論では、リベラリズム(公正こそ正義)とリバタリアニズム(自由こそ至上)という二つの主義の名がしばしば目に入る。それぞれロールズとノージックという人名もくっついてくる。加えてもう一つ、コミュニタリアニズム(共同体主義)という立場もとりあげられる。●関心を引くために言うと、宮台真司宮崎哲弥の対談本『ニッポン問題』では、宮台=リベラリズム、宮崎=コミュニタリアニズム、をあえて鮮明にしたうえで、その違いはさておき、二人ともリバタリアニズムを馬鹿にします、と述べている(下に引用)。ただし、ロールズのリベラリズムがまずそびえたち、それを批判する立場としてリバタリアニズムとコミュニタリアニズムが新しく出てきた、というのが本来の流れらしい。念のため。●それにしても、カタカナばかりで見分けがつきにくく、口にしてみてもタイプしてもミスしがち。ここはひとつ、リベラドン、リバタゴン、コミュニタ星人と怪獣名で呼ぶのも手か。そこに宮台、宮崎両氏の顔を結びつければ記憶もバッチリだ。ついでながら、リバタリアンとオバタリアンは紛らわしい、とは誰しも思う。「せやかてそんなんうちの自由やろ、もう自由いうたら自由なんや、あんたら黙っとき!」という主張の激しさが似ているのかもしれない。●さて、宮崎が一応その立場だというコミュニタリアニズムとは、早い話、共同体の慣習にはまあ従おうよ、というものだ(と思う)。で、私は、年齢のせいかもしれないが、この立場が妙に気になる。「これが正しい」というのは、少なくとも最初は、ことごとく共同体(家族や仲間、地域や会社、民族や宗教)のなかで作られる。この大前提は、そうおろそかにしないという程度でなく、もっとしっかり見つめたほうがいいなと、上記3冊を読みながら思い始めたのだ。

●というところで、気になるニュースがあった。高橋歩という若者が沖縄の島に理想郷を作ろうという「島プロジェクト」が、地元で騒動になったというのだ。参照:『JANJAN』『はてなの杖日記』●このニュース実にいろいろ考えさせられるが、上の話との関連でふと気づいた一点だけ――。高橋氏の進出に島の住民が反対する理由をまとめた記事のうち、これが象徴的だと思ったのは、《私たちは島を大切に守ってきたウイビト(お年寄り)たちの生活を守ることを第一に考えたい》というフレーズだ(上記『JANJAN』)。●つまりこれがコミュニタ星人の原則だろう(島人だけど)。共同体に目を向けようという思想は、実際はこのように、どうも何かに反対するときの根拠としてばかり、あるいは何かを悔恨するときの根拠としてばかり、ポンと持ち出される。それがなんだか歯がゆい。

●ところで、高橋氏について、または「島プロジェクト」について、写真の姿やウェブサイトのパッと見で是非を判断するのは、コミュニタリアニズムとしては「正しい」か? それはともかく、「島プロジェクト」の紹介文はとても素晴しい。ユートピアへの道。理想の社会システム。まるで総選挙を前にした政党のマニフェストだ。

●『ニッポン問題宮台真司のあとがきから。《…リベラリズムとは、立場を入れ替えても堪えられるかどうかを吟味する「構成原則」に固執する立場で、コミュニタリアニズムとは、自由に振るまった結果が自由であるための共同体的原則を壊すという逆説に敏感たろうとする立場です。双方とも、単に自由の至高性を強調するリバタリアニズムの「頭の悪さ」を馬鹿にし、人々が「自由」であるための前提に固執する点で共通しています。》

仲正昌樹「不自由」論』(ちくま新書)は、まだまだ他のことでもすこぶる面白いので、またいずれ。


2003.10.20 -- ハードボイルド携帯電話 --

●若い頃の日本と、数十年を隔てた今の日本。それを比べて驚きと悔恨と懐かしさにどっぷり浸る。それは誰もがやってみたいけれど、ちょいと恥ずかしい。そんな感傷が堂々たる必然であるために、主人公は浦島太郎でなければならなかった。かといって、おとぎ話や異化SF(たとえば石川啄木と渋谷ギャル=『日本文学盛衰史』)ではないように、東アジアの現代史としてありえた浦島太郎でなければならなかった。というわけで、矢作俊彦ららら科學の子』。●全共闘世代とは、戦後生まれの先頭であり、人口も目立って多い。その青春のベースになった60年代は、日本現代懐旧史においてまさに金塊。70年代や80年代とは扱いが違う。しかもその70年代や80年代のバージンスノーも、結局彼らが踏み分け自在に分節してきた。この先、年金も自在に分配しそうな勢いだ。後の世代は割りを食うばかり。それは、彼らの青年期が世界(欧米や日本)の青年期とたまたま重なった幸運だろう。鉄腕アトムも長嶋茂雄もあしたのジョーもこの世代の所有物だ。●しかし、それでもこの小説は、矢作俊彦(1950年生)のかなり年下の世代までが、「自分たちの歴史」として十分共有できるのではないか。なんといっても「戦争がすんでそれから戦争していない日本」という区切りは決定的であり、しかも相当長く続いているということだ。●だから、68年から97年にトリップした浦島太郎と、78年に拉致されて02年に帰還した人とでは、懐かしがり方はさほど違わないのだろう。●とはいうものの、もし今20歳の青年が、たとえば米英日の連合軍と闘おうとイラクに義勇兵として入り、そのまま行方不明になって2030年ごろに戻ったなら、その青年の懐かしがり方は、さすがにがらりと変わるのか。いや、案外00年代から30年代への日本はたいして変化がないような気もしてくる。でもそれは、過去はいくらでも詳しく回想できるが、未来はまるきり貧相にしか空想できないがゆえの錯覚か。●それにしても、松浦寿輝はちょっと褒めすぎ、溺れすぎ。


2003.10.19 -- 理解中枢の薬物刺激 --

活字中毒。なにか読んでいる状態が平常で、そうでないと煙草や酒を欠くのに似てじっとして居られず手も震えだす。…のかもしれないが、結局そうなる前にそこらの本でどこかのページをめくってしまうので、どうにかなっている。では、煙草ならニコチンやタール、酒ならアルコールに当るものは、読書のばあい何か。小説などをちょっと除外して考えると、それは結局「なにかがわかる」というエッセンスに行き着くと思う。ラーメン屋に本を忘れて入ってしまい、待っている間の手持ちぶさたを「取締役島耕作」やテーブルのメニュー表で紛らす時を思い出そう。当店のラーメンは何々で出汁をとり、麺はこう打ちました。ああそうだったのか。だから旨いのです。はあなるほど。何かを読んで何かを理解していくという、頭と心の平常運転がこうして維持される。読書なんてその繰り返しにすぎないのかもしれない。●そんなことを感じつつ、『ユークリッドの窓』(レナード・ムロディナウ著、青木薫訳)を読んでいた。アメリカ東部の夢多き高校生が夏休みに読むべき課題図書の一冊ということだが、それを日本のいい大人が将来の当てもないのに苦労してでも読み進まずにはいられなくなる現象は、読書の目的や価値をそうした無償の快感に置かないことには説明できない。いやもちろん、高校生にもそうした勉強の無償性を伝えたいという願いなのだろう。●参照→『リリカの仮綴じ〆』。

●『ユークリッドの窓』は、幾何学ないしは数学の歴史において画期をなした5人(正確には5つの革命)を順に追っていく。5人とは、ユークリッド、デカルト(意外にも)、ガウス、アインシュタイン、ウィッテン(ひも理論の俊英という)。●で、「わかった」とか「理解」とか言ったけど、じゃあ一応何がわかったのかというと――。やはりタイトルからいっても、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学への転換、そのツボが少々わかったというのが最初のポイントだろう。それに続いて相対性理論、ひも理論がそれぞれ概説される。ここはもちろん難しいけれど、非ユークリッド幾何学がもたらした「空間が曲がっている」という発想をまずいくらか押さえ、その発想なしでは構築できなかったという相対性理論さらにはひも理論を続けて読んでいくことになる。おかげで、まったく知らないとは言わないが知っているともまさか言えない相対性理論やひも理論について、独特で即効性のある理解演習になったとは思う。●このほか、関数はなぜグラフになるのかという、当たり前のようだが、そういえば大昔ヘンだと思ったおぼえもある、そんな疑問が抽出されてくるのも新鮮だった。これは幾何学と代数の統合というこれまた重大なテーマらしい。デカルトはここで登場する。●そうこうしているうちに、数学を中心に西洋における思考や学問の基盤がどう変遷したかのダイジェストが、なんとなくわかってくるのだ。また、たとえばローマ帝国やキリスト教ヨーロッパがオリエントやギリシアの知的遺産をいかに捨ててしまったか、中世の大学教師はいかにひどい待遇と環境にあったか、といった歴史もピンポイントで味わえる。●もうひとつ。随所にふりかけられた皮肉の描写が、カート・ヴォネガットを思わせる洒落っ気と意地の悪さに満ち、最後には笑うだけでなく拍手までしたくなってしまった。著者は大学教授からサイエンス番組の脚本家に転身したとあるが、この皮肉のセンスは、きっと数学への愛およびその困難をともに熟知しているがゆえなのだろう。

●さらに私としては、数学と物理学の微妙な関係について、改めて感じ入るところがあった。数学は絵空事なのかという問いの解答ともいえる。●もともと数学は土地を測量したり利子を計算したりといった実際の世界を把握する道具だった。ところが、非ユークリッド幾何学というどんでん返しが起こるなかで、数学の方程式や証明は、それに対応する実際の現象がなくても、つまり抽象的な世界だけを相手にしても成立するんだ、という話になってきた。逆にみれば、数学は現実世界という後ろ盾を失ったということだ。それに加えて、でも数学の新たな基盤である抽象世界というのは当然完全無欠なんでしょう、という願いも、そうではありませんでしたという結論になってしまう。●さてその一方、数学がいったん手を放したこの現実世界は、物理学が引き受ける。ところが、その物理学は、我々がどっぷりつかっている時間や空間あるいは物質や力という現実が、実は相当ヘンテコなものであることを徐々に明らかにしてしまう。そして、そのヘンテコな物理世界の法則を見つけだすために、非ユークリッド幾何学から生じたヘンテコな抽象数学が改めて呼び寄せられるのだ。そのヘンテコ数学をこのヘンテコ物理に当てはめたら、あら不思議、すかっときれいに説明できてしまった(相対性理論)!●ひも理論にもまったく同じ構図があるようだ。だいたい、ひも理論は大勢の研究者にずっと嫌われてきたが、それには、ひも理論の数学が超難解だからという理由も大きかったらしい。しかしその一方で、物理学の究極問題として「この宇宙の物質や力はそもそも何から出来ているのか」というまさしく超難解な問いがある。そして、その超難解な物理学に、その超難解な数学を当てはめてみたら、あら不思議もしかしたら解けそう、というところに差しかかっているのが、ひも理論なのだ。ただし、相対性理論は完成し証明もされたが、ひも理論はまだ完成すらしていない。だから、結局ひも理論は数学としては正しくても現実の物理には当てはまらなかった、つまり「ひも理論は絵空事の数学だった」となる可能性は残っている。●とかなんとか長々まとめていると、ラーメンが伸びる。

●でもさらに一言だけ。上に述べた物理学と数学の関係は、言語生活という現実を、言語哲学の理論で説明することにも似ている。そのとき、言語生活という複雑怪奇な現象を解釈するために、言語哲学がどんどん複雑怪奇になっていくのは、まあ仕方がない。ただその瀬戸際において、言語哲学の美しい抽象性をどこまでも極めたくなってしまい、それと裏腹に、言語生活のややこしい具体性にどこまでも拘るという姿勢がついおろそかになってしまう、そのようなことはないか。ウィトゲンシュタインという人のことがやはり思い浮かぶ。彼は言語生活の具体性への拘りのほうを、いつまでもいつまでも捨てられなかった人なのではないか。『論理哲学論考』から『哲学探究』への移行も、言語哲学の抽象性から言語生活の具体性への重点変更というふうに捉えられるかも? ●とはいえ、こうした構図は、なにも言語でなくても、あらゆる現実と理論の問題として普遍化できるような気もしてきた。最近『はてな』で話題の「ひきこもり」の議論にだって当てはまるだろう。あるいは、何にも当てはまらなくても、現実と理論という構図はそれ自体で深化していく、という気すらしてくる。そうまるで抽象数学のようだ。ふと、柄谷行人の『内省と遡行』を思い出す。あそこで言う「形式化」という見方をやっぱり踏まえておくべきか。まあしかし、あの内容はほとんど把握していないし、そもそも話が広がりすぎた。もうこのへんで。


2003.10.16 -- 2ch原論 --

●「藁う日本の…」じゃなくて「嗤う日本のナショナリズム」と題された北田暁大氏の論文(世界11月号)は、評判にたがわず面白かった。2ちゃんねるとは何か。その分析が絶妙な焦点と配分で濃縮されている。たとえば、《八〇年代が涵養してきたアイロニズムの精神と、《繋がり》を前景化した九〇年代的(動物的?)なコミュニケーション様式の狭間で、2chはいまなお揺らぎ続けている。》と。●アイロニズムとは、「オレたちひょうきん族」などのテレビ視聴で鍛えられた、内情を裏読みして皮肉る、といった高度なリテラシーのこと。しかし、ここが肝心だが、そのリテラシーは80年代には結局メディアや巨大資本という特権的な中心に寄りかかったものだったのに対し、2ちゃんねるはそうした共同性をも無価値化していると見る(こうした評価が的確な表現でプッシュされるところに、この論への納得と信頼を感じた)。また、この80年代から00年代への変遷の背景には、自足的な《繋がり》の志向、たとえば携帯電話などに象徴される「コミュニケーションのためだけのコミュニケーション」というものがあるとしている。●そのうえで北田氏は、2ちゃんねるの危うさをも摘出する。すなわち、《偽悪を装う「2ちゃんねらー」たちは、本音を語るリアリストというよりは、「建前に隠された本音を語る」というロマン的な自己像を求めてやまないイデアリストであるように思われる。》さらには折り鶴プロジェクトなどに触れつつ、《アイロニズムが極限まで純化されそれ自身を摩滅させるとき、対極にあったはずのナイーブなまでのロマン主義が回帰する。》そして、ここから最も厄介な部類のナショナリズムが生じかねないと警告する。●う〜む、これぞ「ネタがいつしかマジになる」というやつか? ただまあ、ネタとは常にマジなところに流れがちなものであり、ナショナリズムもそうかもしれず、そうした危うさこそが面白さであり、そのことをだいたいわかっていながら、一夜限りの、スレッド限りのロマンチストあるいはナショナリストをちょいと演じてみる、という部分もあるだろう。たまには嗤う側だけでなく嗤われ側にもあえて立ってみるテスト、というか……。そうしたネタかマジかの区分ができないものとしての「祭り」があるのかもしれない。北田氏は、2chの揺らぎを正確に捕捉する言葉が必要としているが、この「祭り」の分析こそ、その核心かも?

●仮に「良いナショナリズム」というものがあるとして、それが「参加しないナショナリズム」ではなく「参加するナショナリズム」として可能だろうか。それとも「参加するナショナリズム」はすべて「悪いナショナリズム」なのだろうか。それと同じように、「良い2ちゃんねる」が「参加しない2ちゃんねる」ではなく「参加する2ちゃんねる」として可能だろうか。


2003.10.13 -- ワンダーランド --

●とくに前後の脈絡はないが、メルヴィルの小説『白鯨』を読んでいる。いつも思うが、長い小説を読むのは長い旅行をするのに似ている。長さゆえにもたらされる特殊事情それ自体を堪能する中毒性を抜きにしては、その醍醐味を語れない。●さて、この『白鯨』の語り手イシュメイルは、なぜ船に乗ったのか。《陸上には何一つ興味をひくものはなくなった》からだ。《口辺に重苦しいものを感じるとき》《心の中にしめっぽい十一月の霖雨が降るとき》《わざわざ町に飛びだして人の帽子を計画的にたたきおとしてやりたくなるようなとき》《できるだけ早く海に出てゆかねばならぬと考える》(阿部知二訳)。これは、私たちが先の見えない青春あるいは先の見えない晩春をどうにも持て余したあげく、「そうだインド行こう!」とかなんとか、なおさら先の見えない航空チケットをふいに手にするのと近いものがある。●捕鯨船はいったん航海に出ると2年や3年は帰国しなかったという。故郷や家族と離れるのはもちろん、世間日常の営みや情報というものから完全に隔絶した状態で、地球の辺境ばかりを定まることなく動き回る。そうした破れかぶれの心情がまた、現代のバックパッカーには受け継がれたかもしれない。●鞄一個を抱えたイシュメイルが、捕鯨船に乗り込もうとやってきた港町で、まずしなければならないのも、やはり安宿を探すことだった。むろん格安旅行における期待と不安いっぱいの定番業務だが、イシュメイルはその最初の晩からとんでもない男と同室になる。はるか南洋の孤島から鯨の銛打ちとして来ていたクィークェグという男で、顔と全身の入れ墨や、腰にぶらさげた頭骨、寝床に入る前の儀式など、想像を絶する風体とふるまいに仰天してしまうのだ。しかし二人は友情を深め、同じ捕鯨船の相棒として命運をともにすることになる。それでもイシュメイルは、クィークェグのことを尊敬しつつ「人食い」「蛮族」「邪教徒」などなどさんざんな言い方をしている。●実をいうと、海外をあてなく旅する人は、こうした文化的な仰天にあわよくば遭遇したいと願っている。しかし、今たとえばアメリカを旅行してどこかの町でクィークェグほどの衝撃に出会えるかというと、なかなか難しいだろう。いやアメリカでなくとも、現代文明によって均質化した慣習や価値観あるいはインフラというものは、地球の隅々に行き渡りつつあるようで、異境への憧れのことなど意に介してはくれない。

●ところが、なるほどアメリカでは消えたかもしれない仰天遭遇が、こと中国でなら今なお十分可能だという確信がある。先月のこと、NHKで「麦客(まいか)」というドキュメンタリー番組を見たのが忘れられないのだ。何気なくつけたテレビに、中国大陸の茫漠とした幹線道路を、なぜかコンバインが20台も30台も連なって疾走するシーンが映って、目が離せなくなってしまった。●中国の河南省に麦の大産地があり、実りの季節には麦刈りが集中して行われる。どうやらコンバインはその収穫作業のために遠く河北省から集団で越境してきたらしい。なんでも河北省では経済開放政策のおかげで金回りがグンとよくなった農家がいて、投資としてコンバインを購入し、河南省まで出向いて刈り入れを請け負い、それでまた一儲けしようと、そういうビジネスが生まれてきたのだという。●それにしてもびっくりではないか。あのコンバインがそのままアスファルト道路を走るのだから。農家の父ちゃんや母ちゃんが、それぞれ虎の子のコンバインに自ら乗り込み、二晩ほど寝ないで運転し、一団となって南進していくというのだから。ようやく河南省の麦畑に到着すると、こんどは現地の農家の父ちゃん母ちゃんとの間に発生する、けんか腰の値段交渉がまたすさまじい。これらのことごとくが、経済成長や農業近代化といった意味を超えて、目を見張らずにはいられない。そう、『白鯨』で語られる捕鯨業の有りようのごとくだ。

●しかし、仰天はこれだけではなかった。●もともと河南省の麦刈りでは、鎌一本を手に出稼ぎにやってくる人たちが昔から活躍している。番組では、コンバインの大移動と平行し、この出稼ぎの一団をも追っていく。彼らはいっそう遠く、さらに内陸の回族自治区という所からはるばるやってくる。頭には回教徒の白い帽子。彼らはまず路線バスで西安まで出て、そこから列車移動となる。ところが、持ち金が1人75元(1元=14円)しかないらしく、切符など買えない。だから貨物列車にそろって只乗りするのが通例だという! 貨物駅近くの線路ぞいにたむろしていると、駅員に追い払われたりもするが、適当な貨車を探してどうにか忍び込む。現地入りした後のインタビューでは、たしか、貨車では夜通し風が激しかった、手足や顔が煤で真っ黒だ、などと苦笑いしていたと記憶する。彼らは鞄すら持たない。穀物入れに使われる白い袋で代用している。袋の口をしばり棒を通して上手に担ぐ。●「麦客(まいか)」とは麦刈りの働き手を表す言葉だ。コンバインで刈る人が「鉄麦客(てつまいか)」、手で刈る人が「老麦客(ろうまいか)」と呼ばれる。当然だが、麦刈りに要する時間はコンバインのほうが圧倒的に早い。だから重宝されるし、一日に稼げる金も莫大だ。逆に、手作業の彼らは、コンバインの入れない土地しかあてがわれず、賃金も下がってきた。番組では、伝統的な職能集団である老麦客が、経済開放で出現した鉄麦客に駆逐されていく現実を見つめつつ、それでも鎌一本の仕事に誇りと熱意を失わない彼らに、そっとエールを送る。●そんな彼らの姿は、今から思えば、クィークェグに出くわしたような驚きだった。

●つくづく思う。中国は途方もなく広い。腰を抜かすほど奇異なことにまだ出会う。それは、19世紀アメリカの捕鯨について聞かされる驚嘆にも匹敵しよう。現在の中国は沿岸部を中心に経済発展が著しいと言われる。しかしそうであっても、いや、そうだからなおさら、信じられない話、面白すぎる話は、どこへ行っても、どこを切っても、こうしてぼろぼろこぼれ出てくるにちがいない。

●なお、上記ドキュメンタリーは02年に制作されたハイビジョン番組。大きな賞も受けている。私が見たのは再放送。

●それにしても、だらだら書いてずいぶん時間を食った。それより『白鯨』を読み進めればよかった。まだ半分。


2003.10.8 -- はてな? --

●『はてなダイアリー』には「キーワード」という機能があって、さまざまな用語とその説明文を共同で作成できる。そこで今「言葉狩り」という用語をめぐってちょっと変なことになっている。lovelovedog氏が示した説明(1)に対し、jouno氏が別の説明(2)を示したが、lovelovedog氏は、説明(2)は「訳が分らない」と言っている。

●lovelovedog氏の説明(1)《言葉狩り 特定の言葉に対して、もっぱら私的感情にもとづき世間一般に使えないようにする行為。/ヒステリックなイメージがあるらしいので、そう思われたくない人は配慮が必要。》

●jouno氏の説明(2)《言葉狩り 差別用語など不適切と想定される言葉を、意図や用法にかかわらず一律に規制する行為。政治的適切さ(Politically colectness)への行き過ぎた対応。その単語を抹消することで、差別が存在したという事実そのものも抹消してしまうことや、その語の差別的、侮蔑的でない用法や歴史を一律に無視することで検閲的に機能することがありうることから批判が多い。/ただし、単に特定の語を使用した、ということを一律に規制しているのではなく、相手がその言葉を差別的、侮蔑的に使用しているという、文脈の中での使用の仕方が問題になっているような、差別的な発言への正当な批判の場合でも、批判された側がこの言葉を罵倒語として利用する場合もあるため、扱いには注意が必要な言葉である。》(×colectness→correctness)

●今や日本の言葉活動をいくらか先導している「はてな」社会において、そのまさに言葉使いにまだこれほどの格差があったのかと思うと、しみじみとアホらしい。

*一部訂正しました。


2003.10.5 -- 正義は閉架にあった --

●区の図書館では中央館に一冊置いてあるくらいで、しかもそう古くないのに閉架に押しやられ、やはり借り手が少ないのかリクエストすればすぐ出てくる。そういう本は実は無数にある。『現代倫理学の冒険』(川本隆史)もそうだった。ぱらぱらと読んでみる。予想どおり堅苦しい。一般教養の授業を大教室で受けている気分だ。しかし、とても丁寧で系統立った概論だった(基礎編である前半部を主に読んだ)。●この社会で産み出される財貨などは、どう分配されたときに「正義」が実現されていると言えるのか。その基本になる考え方を総ざらえしている。たとえば、単純で乱暴ながら捨てきれない功利主義(最大多数の最大幸福)。それに対して公正や平等を軸にしたロールズの新しいリベラリズム。逆にそうした福祉国家的なものをことごとく退けるノージックの自由放任主義(リバタリアニズム)。あるいは共同体の伝統的な規範をもっと重んじようとする立場。そして、これらのエッセンスを熟慮して《現代正義論を着実に前進させている人物》としてアマルティア・センという人の理論が最後にプッシュされる。●これについて長いレポートをここに書いて皆様に分配しても、だれも幸福にはならないだろうから、やめよう。それより、最後のまとめに出てきたたとえ話を、はしょって紹介したい。1本の笛がある。これをA、B、C3人の誰に与えるのが正しいか。(1)笛を吹くのが上手でみんなを喜ばせるAに。(2)いちばん貧しくて笛をまだ持っていないBに。(3)そこにころがっていた竹でその笛を自力で作ったCに。などなど。

●さてこの本を読んでいて、ふと深刻な困難に気づいた。●こうした正義や倫理の原理は、誰しもあるていど発想したことがあるだろうし、それが念入りに検討され整理されているので、まずは納得するし感心もする。しかもそれは空理空論ではなく、当てはめるべき実際の社会あるいは実際の課題というものが、我々の前にはちゃんと存在している。たとえば今なら、年金や消費税はこの先どうしたらいいのか。日本道路公団総裁藤井治芳の退職金は高いのか安いのか(というか、もらうつもりなのか)。というか私の給料だって社会正義という観点からいくとどうなんだ? などなど。イラクをなぜどう支援すべきか、なんてことを考える基盤にもなっているはずだ。●もちろん、その解答が容易に出ないことは重々知っている。なぜ容易でないのか。ひとつには、解答を出すまでに考慮すべき要素や論点があまりに多く複雑すぎるということがあるだろう。笛1本の分配すらややこしいのに、年金や消費税、給料のありかたとなれば、ますます正答は難しい。とはいえ、これを乗り超えるのは不可能ではない。十分考えたうえでとりあえず結論を出せばいいだけの話だ。●それよりいっそう厄介なことがある。それは、こうした課題にこうした原理を当てはめて真面目にコツコツなんとか解答や結論が引き出せたとしても、それを適用させ実現させる手だてや仕組みのほうが、ますます複雑すぎる、遠すぎると感じられることだ。自らたどりいた社会正義を自ら流布させ実現させようとしたら、総理大臣かニュースキャスターにでもなるしかないのではないか。いや彼らでもできないことのほうがはるかに多い。なんというか、1億2千万人というスケールの社会とは、正義の理論が複雑になるだけでなく、それのストレートな実践が実質的にできない社会なのかもしれない。この社会についての理解ならどこまでも進むが、この社会への介入となると個人ではどうにも歯が立たないのだ。

●そんな状況の社会にあって、個人ウェブにおける言論は、さまざまな課題について日々思案を重ね、さまざまに鋭敏な解答を捻出しながらも、いきおい評論家としてニヒルに冷笑するような態度が目立つ。インターネットによって発言の機会は圧倒的に広がったのに、発言が実現する機会はほとんど広がっていない(ように見える)。そんなポジティブなようなネガティブなような社会系ブロガーとはいったい何者なのだろう。その倫理や正義をどうやって測ればいいのだろう。これは社会学が案外まだ触れていない部分ではあるまいか。あるいは社会学の範疇ではないのか。

●ところで『現代倫理学の冒険』は、私の所にある掲示板で紹介されていたのがきかっけで手にした次第。そのなかで私は、社会学や生物学は理論を当てはめる社会や生物が実際に存在するが、哲学となると当てはめるべき対象はけっきょく哲学それ自体になってしまうのか、などと思った。が、上述のことをいろいろ考え含めると、社会学や経済学というのも、実際の社会や経済からはある程度離れて独立した営みなのかもしれない、という気もしてきた。


03年9月

日誌 archive

著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)