月日の流れは下から上へ
ビッグ対談さっと読んできました。
"色恋連邦"を坂本龍一が知っていてさすがだと思いました。
で、NAM(柄谷行人が主導する革命実践運動)と大きく絡む、
地域通貨(バーチャルでオールターナティブな通貨というか)についてですが、
柄谷行人や坂本龍一が、
国家やグローバル経済に支えられている円やドルで貯えているはずの自らの財産を、
本気ですべて捨て去ってしまうくらいの実践をまず示してくれないことには、
革命など信じられないという思いもあります。
CDやコンサートは今後その新通貨でしか交換しないとか。全く逆の話ですが、しばらく前に野坂昭如が
国が借金でつぶれてしまうというテーマの話で、
そんなもん、また先送りすりゃいいんだよ、あんなものは数字だから、
とかなんとか(記憶不鮮明)放言していて、
顰蹙をかっていたが、私には、なんか妙に説得力がありました。
国の赤字財政というのも、
なんか数字の上の話という気がするので、
その点だけで言えば、信用するも流通するも地域通貨と同じに思えなくもない。
柄谷行人の顔がなんだかヘンだすか。(まだ読んでないだす。)
http://www.mainichi.co.jp/eye/taidan/sakamoto-karatani/index.html
厳選(選り好み?)すれば世間はまだ狭い!
どうぞみなさん今後ともよろしく。
Junkyさんには、いろいろお世話になっているのにもかかわらず、
こちらにご挨拶をしてなかった非礼、何と申し上げたらよいか・・。
「高橋源一郎なページ」から来ました、とでも、申せばいいでしょうか?最近恥ずかしながらようやく「ゴースト・バスターズ」を読み終え、Junkyさんの
HPを興味深く拝見させてもらっています。今日は発熱で早退してきて、一寝しておきて
ネットにつないだという、ところです。こちらのHPの今後ますますのご発展をささやかながら心よりお祈り申し上げます。
>景都さん!
なんとまあ、ひょんなところで!その節は拙掲示板への書き込みありがとうございました!
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9109/
なんかややこしい質問どうもすみませんでした。
そして返答ありがとうございました。
Junnkyさんが言われるまでボクは「マルセル・デュシャン事件」という映画のことを
忘れていました。内容はなんとなく知ってます。どこで読んだのかな・・。
・・・・すごい気になってしまって、考えこんでしまった(笑)大小田景都さんの言われる通り、Junnkyさんの書くものはすーっと、頭に入ってくる
魅力があると思います。ボクのリンク集にいい枠ができたときには
ぜひリンクさせてくださいね!>大小田景都さん
初めまして。しかし、保坂和志公式ホームページ、わりと前にリンクさせていただいて
ます。確かそのときに掲示板に書き込みしたと思うので、伝えてはいますが
無断だったかもしれません。ご容赦ください。お願いします。
掲示板にこんど、書きこんでくださいね.
それにしても、すごい日記。知らない名前もいろいろでてくるけど、Junnkyさんの書くものは
すーっと、頭に入ってくるのはなぜかな。むずかしいのは苦手なんだけど、おもしろく読んでます。わたしもじっくり、読ませていただきます。
いつでも、柿の実とりにきてくださいね
失礼しました。
ややこしいしくみですなあ。
下のアドレスでどうぞ。http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_top.cgi?tpl=dir/01/01080000.tpl
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保坂和志公式ホームページ、今ちょっと見てきました。
読者なら絶対見逃せないページですね。内容豊富。
作家ご本人が自作について垣根をすっかり取り払って語っている感じで、
たいへんありがたい気持ちです。
保坂家の屋敷内にある柿の実が、手をのばせば簡単にもぎとれるとでもいうか。
「世界」の連載、小説論、ともに最も聞いてみたかったテーマといえますね。
時間をかけて読ませていただきます。
早稲田大学の講演会(保坂氏の)も行こうかなという気がしてきました。
保坂和志公式ホームページからきました。
一度、覗きにきてください。HPでしか読めない創作ノート、小説論、小説(「ヒサの旋律の鳴りわたる」は保坂さんの20代のころのもの)など、、、掲示板では、保坂さんも登場します。JunkyさんのHP,大変、おもしろく読ませていただきました。。
「マルセル・デュシャン事件」とかいうビデオがあったので、借りてきました。
ホームズがデュシャンの生い立ちと作品を調べ推理していくという、変な趣向。
まだ冒頭しか見ていませんが、
ホームズが
「デュシャンは有罪であることは間違いない。
だが不思議なことに、なんの容疑なのかがわからない」
てなことを言ってます。変なビデオです。デュシャンが好きと書いたわりには、
たいした情報もないので、返答に変えて。
ビデオを見たら、また何か書きます。
お久しぶりです。98年のコラム「河原温は見に行くべきか?」を読んでました。
ぼくは見にいくべきだったのではと思いました。理由は単純で奥深くもないですが、
彼の仕事を知って「おお、すごい」という感動 ・第1段階
彼の仕事を実際に目の当たりにして「わ、まじでやってる」という感動 ・第2段階
という構図が浮かんだからです。
きっと、その先の段階へもすぐに届くような気がします。直感ですが。。長くなりました。デュシャンです。
デュシャンが好きとあったので。。ぼくはここしばらく「彼はいかにして歴史に・・」
という問いについて考えていて、今ちょっと投げだしてます(・・)
・家庭環境、とくに兄の存在(交流面を含めて)
・当時の美術制度とデュシャンの感性のはじめは不幸的でありのちに幸福な一致
といったことを整理したうえで、
とりあえず当り前のことをまとめちゃおうとしてたんです。
才能やセンス、プロデュース能力、洞察、またブルトンによる評価・・。
こういったことを消していって残るものを捕らえてみたいなと。リチャード・マット事件もデュシャンに対する再評価がくるまでは一過性の衝撃だった
ようなので、彼がグリーンボックス系の仕事をしはじめたことが
歴史に深く自身を刻みつけたその理由、としては大きいと思うのですが、
この非芸術家でありながらテキストを公開するという意図はなんなのでしょうか?駆け足なうえ、ぜんぜんまとまってなくてすみません。
なにか思うことがあったらお返事、ぜひお願いします。
現代美術の先取りを網羅してるとかそういうこと以前のなにかぼくにとって
よく分からないものが気になるのです。
独自ドメイン取得はとても簡単(CGI設計に比べたらはるかに)
お勧めします。サーバ不調は気がつかなかったです。>ムキンポさん(同サーバ利用)
mayq.netでした。すみません。
mkimpo.comもつながりません。
こんなことは初めてじゃないかな。
この前のメール・サーヴァの不具合といいトラブルがつづきますね。
わお♪
皆さんドメインを取得してるんですね。
辻仁成はクラウディって奴だけ読みました。さて、
カウンタのことなんですが、
少しづつ人も増えて、
だんだん「こっそり」じゃ、
なくなってきてるんですが、
その辺は遊びだと思ってご容赦
頂けないでしょうか。
ではまた
私も次は、自家製の掲示板などに取り組みたいと思っています。
ちょっとの頑張りでいいような気もしますが、
そのちょっとの頑張りが、なかなか。
いずれは全文検索なども。
むきんぽ・こむできました。
本当に本当の小説は、おそらく、それを読んだ時はさほどでなくても、
それについて何か考えはじめ、書きはじめると、たいそう変なことになる。
たとえば自分の読書傾向にはからずも気がつくとか。
ということは、ゴーストバスターズのゴールは、
それについてだれかが書くことの中からのみ立ち上がってくるのか。
・・とまたこういう変なことを書いてしまった。
<本当に楽しめる読み方>
そういえば「本当の」というのは、使うと危険な言葉の代表でした。。
超〜個人的なニュアンスもうまくイメージできませんが、とりあえず
ゴールという到達点はイメージしていませんでした。
理解の上での最低限のラインを越える、ほどの意味です。
もう少し具体的に言いますと、
「ゴーストバスターズ」はボクが読んで感じとったそれ以上のもっともっと面白い読み方が
あるんじゃないか、という直感からきています。もしかすればその感想は
「ゴーストバスターズ」から連想されるいまだない未知の小説を想像してのことかも
しれません。その場合、その未知の小説の輪郭をもっと「ゴーストバスターズ」から
読みとれるんじゃないか、という期待と悔い(?)です。・・なんか以上の文章によって自分の読書傾向がよくわかりました(笑)
変な感じですが、ありがとうございます。しかし、辻仁成、なぜか阿部和重ファンサイト・阿部和重-専用-掲示板で
一時期よく名前があがっていました。そういう経緯があったので
少し驚いたのです。なにかボクの知らない繋がりがあるんじゃないか、と。
どうもどうも。
そちらのページは以前から知っていましたが、
ちかごろ阿部和重小説の私なりの感想に辿り着いたので、
やっと掲示板に書き込んだ次第です。「インディヴィジュアル・・」の表紙(常磐響デザイン)は、
内容と無関係なことで知られていますから、
私も、どうせなら全く無関係の辻仁成の表紙を画像にしてみようというわけでした。
しかし、あの画像をクリックすると、5・15事件を検証するサイトにいきます(USO)。<本当に楽しめる読み方>とは何でしょうね。
宮部みゆきなら本当に楽しんで読めたとしても、
高橋源一郎や阿部和重の読者には、実際、そういうゴールがあるのかどうか。
書評ということでボクの掲示板からさっそく飛んできて、拝見しました。>この小説を再び手にとったきっかけは、渡部直己(文芸評論家)の対談本「現代文学の読み方・書かれ方」を再び手にしたことだった。
ボクもまたそうだったかもしれません(その対談を読んだのは「文藝」掲載時でしたが)。
当時、月刊カドカワなどで特集を組まれたりなどしていたので、阿部和重から離れかけて
いたからです。ボクは「アメリカの夜」から本当のファンになりました。・・・と、申し遅れましたが阿部和重ファンサイトの管理者です。
しかしなぜ、画像が辻仁成??(笑)
ボクは高橋源一郎ファンを長いこと続けていたので、しばらくJunkyさんのサイトに
入り浸り、楽しませてもらいました。
源一郎は「ゴーストバスターズ」と「あ・だ・る・と」に興味を持っています。
この2冊を読む視点に自信を持ちきれていないからです。テクノを聴く耳を成長させないと
テクノを存分に楽しめないのと同じように、この2冊(楽しかったし感動もしたけれど)
を本当に楽しめる読み方をボクはしきれてないのではないか??? そのように
思っているからです。
ドメインの話はともかく、盛りだくさんのエッセイに圧倒されました。
たくさん書いて、それでも飽きさせない、というのはすごい。
まるでテレビそのもの?
もとながさん、はじめまして。
たいへんお世話になっています。(もとながさんは、カウンターを無料提供している方で、
私もトップページwww.mauq.netに利用させてもらうことにしたのです)もとながさんのサイトを覗いてみましたが、
さまざまな広がりがあって、にぎやかですね。どうぞ、これからもよろしく。
ハジメマシテ、
無料CGIレンタルのもとながです。
遊びに来ました。東京観光といえば、
昨日、
後楽園遊園地と歌舞伎町と、
新宿の都庁ビルを
ぐるっと回ってきました。
特に都庁ビルの夜景はいいですね。とりあえずご挨拶まで
わし、いつも読んでるんですけど、10月20日号は
「ドメイン情報いろいろその1」でした。
明日は「その2」かな。
MAYQ.COM 残念ながら既に登録されています。
MAYQ.NET 残念ながら既に登録されています。
MAYQ.ORG 今すぐ登録できます!こんなふうに出ました。
でもMAYQ.COMにアクセスしてみたら、サーバーの場所を見つけられません、
と出ました。
いずれにしろmkimpoは大丈夫みたいだから、いろいろ研究してみます。
www.Mayq.netは、私のホームページの新しいアドレスです。どうぞよろしくお願いします。
ふと思いついて、独自ドメインを取得したのです。中身は同じです。
ドメイン取得は、やってみれば、あっけないものでした。かめさんにもお勧め。
いろいろやり方はあるようですが、
以下に示す私の手順は、かなり便利で安い方だと思います。(半プー太郎でも大丈夫)(1)
独自ドメイン(私の場合は*******)は即座に登録できます。
私は、*****というサイトで行いました。
ここは日本語オーケーの正規登録機関のようです。
comやnetが後ろにつくドメインなら、
登録料と*年分の使用料を合わせて**円ポッキリ。クレジットカード払いでした。(2)
次に、この独自ドメインをセットするサーバをレンタルします。
サーバレンタルはたくさんの会社が業務を行っており、ヤフーなどで探せます。
もちろん、********でもオーケーです。
ダイヤルアップをしているプロバイダーがそれをやってる場合もあります。
私はともかく安いところを探し、
*****というところに決めました。
入会金**円、サーバレンタル料は年間およそ**円です。
独自ドメインのメールアカウントが1個ついてきます。それが*****です。
ただし、メール送信のためのアカウント、およびダイヤルアップ用のプロバイダは、
別に必要となります。(3)
このサーバに、HPのデータを転送します。
プロバイダのサーバにftpするのと同じです。
(*その前に、再び******にいって、サーバをどこにしたのかを知らせる必要が
ありますが、それもオンラインでできます)ともかく、******を見てみれば、大半のことはわかりますよ。
MayQ.net、かっちょいいー。
これって費用はどのくらいかかるんですか。
どうすればできるの?
このところ、コミュニケーションのない独り言だけを自分のページに綴るようになってしまいました。
また、問いばかりで答えがない、散逸ばかりで核心がない、そんな感じの毎日です。
松野さんの質問にも答えていないことばかりです。
そのうち流れ始めると思います。ふまじめに日本の明日を考えよう、とも思っていますが
まじめに日本の明日を考えよう、とも思っています。下には、日の丸・君が代に関連したことを書きました。
まじめに日本の明日を考える人のためのホームページをつくりました。
是非、1度、お立ち寄りください。
ともに日本の明日を熱く語り合いましょう。
返信ありがとうございます。忘れられたのかと思ってましたので
私の名前があるのを見てびっくりしています。
個人間の問題解決が即、民族間(場)の問題解決には繋がらない、
ということでしょうか?大変参考になりました。
「あなたと私がなかよくする」だけじゃダメなのですね。>「社会的弱者は正論が言えるから強い」
というくだりは、わたくしのweb日記の中にある文のことを(見てくれて
ありがとう!)指しているのでしょう。おっしゃるとおりわたくしは
問題のレベルをすり替える人なのかもしれません。面倒なのはいやなのです。
面倒だからすりかえる。以前ここで「何か投稿します」と打ち込んでおきながら
何も投稿しなかったのは、面倒になったからなのです。今後は傍聴するだけに
とどめましょう。そのほうが皆さんに失礼なことをしなくて済みそうです。
>私はなんの関心も持てません
ということなので特筆する意見はありませんが最後に、
朝鮮籍の弁護士が増えることを祈っています。
公務員試験や国会議員資格の改定を求める運動を応援します。
「場」の諸問題を解決するためにも!
先ほど、殷蘭さんのHPみました。間が空きましたが、返信しておきましょう。殷蘭さん:
〈ゆえに、あの場合(7月19日殷蘭発言)はどちらかというと
松野さんより匿名さん寄りの発言にしました。確信犯です。
本当はとくめいさんの投稿があった時点で
(松野さん7月24日の投稿による)
>「差別などない」とでもいうかのような「日本人」と「朝鮮人」を
>等置するニュアンスのことが書かれていながら“朝鮮人”という
>匿名化され得ない単語が出てくることの中にこそ差別があります
という反応を期待していたのです。〉「確信犯」をやったり「あれは確信犯だった」をやりながら、私の意見を貴方の
結論に用いるのはなにも言ってないことに等しいですし、「失礼」なことでしょう。
貴方のお考えを「ここ」に書かれてはいかがですか。殷蘭さん:
〈私はいまだに”とくめいさん”の第二段発言があればいいなと思っています。
なぜならばあの二人の会話から見て取れる”話は平行線→やがて仲違い”
の状況は、日本人と在日の抱える問題とあながち違ってはいないのでは?
という感があるからです。解決の糸口が見えない話には逃げ腰に
なったり、開き直ったりする人間についての話です。
それでどうしたらよいのだろう?とか、あの二人はどうしたら
パッピーエンドになれるだろうか?という所まで話を持っていって
くれれば嬉しいのですけど。〉それは貴方が考えたり、話を持っていったらいいのでしょう。「貴方がそれをやって
みたら」というのが、私から貴方への意見。話を結婚問題、恋愛問題に限定すれば、カップルの日本人側(家族も含めて)が朝鮮、
韓国文化を尊重できるかどうかということになるでしょう、というのが私の意見。「日本人と在日の抱える問題」が「ハッピーエンド」になるには様々な難問がありま
すが、その「問題」をユング派の分析家であったアーノルド・ミンデルが創出した
「プロセス指向心理学」(略称、「POP」)の視点から捉えて「世界に偏在する不
平等の問題」にまで延長して考えてみた場合、そこにはどんな「問題」があり、具体
的な方法論としてどういうものがあるかについて紹介しておくことで、返答としまし
ょう。POPでは、身体症状や病には意味や目的が内在化されているという考えがとられて
います。ところでPOPでは、社会・世界の「場」に偏在する諸問題(民族差別、環
境問題、性差別、戦争等)に対する取り組みとして「ワールドワーク」ということが
行われています。簡単に言っておけば、それは「主流派」と「非主流派」が直接対話
できる「場」です。「ワールド・ワーク」のような「グループ・ワーク」では、「場」
に浮上してきた問題を、参加者の多くが身体症状や病に対するのと同じように扱う傾
向があると言われています。個人が多くの場合、症状や病気を排除しようとするのと
同様に、諸問題を無視したり排除しようとするわけです。なぜ「ワールド・ワーク」という取り組みが行われるようになったか、簡略に説明し
ておきましょう。個人心理療法のみを行う伝統的なユング派の分析家であったミンデルは、個人の症状
が解消されても、今度はその症状が家族の他のメンバーから顕れるという現象を観察
し、それを機に、ある場合には個人を超えた「場」全体により直接的に関わる必要を
感じ、家族療法を試みることになりました。個々人の症状が解消されても、「家族という場」それ自体を考慮に入れない限り、病
は「場」の中で、一個人から他のメンバーへ移行するだけということがあり得るので
はないかと、ミンデルは考えたのです。個人療法によって一見問題が解消されたよう
に思えても、セラピーを終えて従来の「関係性」や「場」の中に戻ると、問題や症状
が再浮上することが、よく起こるということでもあります。さらに、この「場」は、人間関係や家族に限定することなく、地域や社会、世界にま
でその射程が広げられています。地域、社会、という「場」の観点なしに、ある家族
と取り組みなんらかの成果が上げられたとしても、地域全体からすると、その家族の
テーマが他の家族に移動しただけということも論理必然的に考えられるためです。マジョリティとマイノリティの問題は、まさに「関係性」(さらには「関係性の断絶」)
の問題であり、「場」の問題です。それは「家族内の関係性」「家族という場」以上
に「固定化された関係性」の「場」になりますから、より困難な問題がそこに生じて
いると言えます。問題を矮小化するべきではなく、ありがちな「社会的弱者は正論が言えるから強い」
などという問題のレベルをすり替える人、問題の所在がみえない人の「上っ面の意見
のようなもの」に私はなんの関心も持てませんが、なにか意見があったら、どうぞ。
Junkyさん:
>そのほか、その前に書いた<「差別(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるよう
>ですが)の実態や構造が明らかになること、それを明かにすること、それこそが私の
>本意です。>という部分が、いかにも高潔そうで、ちょっと照れもあって<というこ
>とにしておきたい>と書いたというのもありましょう。Junkyさん「議論現実主義者より」での書き込み:
>日本が差別されたら、私は日本人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみます。
>アジアが差別されたら、私はアジア人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみ
>ます。では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どうい
>う立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味
>深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。だけどJunkyさんは私に対して言うときは〈ということにしておきたい〉はけしてつけ
ないと思います。建前としてつけないということではなく、本心としてつけないでしょ
うし、照れも感じないと思うのです。だから私は「Re:議論現実主義者より」で《賢明
なご意見だと思いますが、むしろ文末の〈気はしています。〉のほうが、本心なのだろ
うと思います。》と書きましたが、これについては、早計だったと思っています。しかし同じ日本人である東北の現実主義者さんに言うときは、それをつけないと「照れ」
があるとか、おさまりがつかないということがあるのならば、まさにそれは上の「議論
現実主義者より」から引用した部分の問題をなのであるとも言えてくるように思います。
Junkyさんの感じる「照れ」や差別を指摘する行為や人に感じる俗なものと、Junkyさんの
私に対する真摯な姿勢のギャップがなにを意味するかということ、私にとって大きな関心
事です。Junkyさんの考えを聞かせてもらえたら、嬉しく思います。Junkyさん「議論現実主義者より」での書き込み:
>では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どういう立場
>で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味深い問
>題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。Junkyさんのこの問いは真摯な姿勢からくる内容を含んでいて、それは差別を指摘する
人や行為に俗なものを感じることがあるという問題認識と、無関係ではないのだと今は
思っています。今後は「差別を指摘する人や行為が陥りがちな俗」とはどういうものか、
そうならないためにはどうすればよいのか、という方向で話が進められれば、と思って
います。
「差別を指摘する人や行為が陥りがちな俗」には、ひとつには「物語に回収する」とい
うことがあるのでしょう。必然的にそれは「物語」の外部にいる他者との間に通路をつ
けていく作業によってしか、乗り越えられないのだと私は考えています。おそらくそれ
はマジョリティの物語、マジョリティ的身体を解体することと同義になるでしょう。そ
れを放棄してしまったら、私にしても差別者ということになります。
(岡真理著「記憶/物語」(岩波書店)は、この問題を考える上で比類のないごまかさ
ない考察がされています)。Junkyさん「俗に非ずの志向性、に答えて」での書き込み:
>俗に非ずが反動を形成するのはよくないと思います。一方で、反動を形成しないかぎり
>俗であっていいという価値観もよくないと思います。差別を指摘する行為や人に、私は
>たまにそういう価値観を感じるのです。ここをもう少し言ってもらえればと思います。
Junkyさん:
>「興味深い」は、「考える対象として新しい枠組みが明らかになってきたこと」を形
>容しましたが、たしかに「モノ化」されている感じを与えます。この表現に「切実で
>深刻な問題ではないという印象」「よそ事、ひと事のような印象」を感じたというこ
>とだと、理解しました。書き方がまずかったのですが、ですから正確には〈興味深い〉という表現がされた箇所
そのものに「いいしれない違和感を感じた」ということではないし、その部分だけをも
って「モノ化サレテイル」と感じたわけではないということ、言っておこうと思います。在日コリアン差別は切実で深刻な問題です。たとえばそれは正確な数字はわかりません
が、在日の大多数が通名(日本名)で暮らしているという現実ひとつをとってみても、
深刻な問題であると言えます。しかしこれを切実で深刻な日本問題ということもできま
す。仮に(SF的に)在日と日本人を入れ替えてみても同じことになるに違いありませ
んから。丹生谷貴志が「天皇と倒錯」(青土社)という本で、『天皇の存在が日本における「文
学の不在」に決定的に加担している』として、ルネ・ジラールの言う「第三項排除」と
の違いについて述べつつ、中上健次の「路地の者」という「外部」に言及しながら、こ
んなことを言ってます。『「天皇」は「外部」ではなく、「天皇」そのものがまさに「外部」に触れることの禁
忌の中にあり、言わばこの国の国人は「天皇」を「外部」に触れさせまいがためにこの
国から「外部」の気配を、始めは意識的に、ついには知らず知らずのうちに、消し去ろ
うと、営んで来たのである。』つまりはそういうことなのだと丹生谷の文章を読みながら思ったのですが、とくに「つ
いには知らず知らずのうちに」以下のくだりが印象的で、おそらくそれは具体的に言え
ば、日本敗戦後、アメリカが日本の共産主義化を怖れ、あるいはそれ以上にアメリカに
とっての利用価値として象徴天皇制という形で残したがために「この国の国人」は「外
部」を「ついには知らず知らずのうちに、消し去ろうと、営んできた」のであるとも言
えるのでしょう。それらの結果として「第三項排除」というよりも「第三項消去」が推
し進められてきたとも言えるでしょうか。中心が空虚な無根拠を根拠としてしまえる天皇制というシステムが、政治的かつ宗教的
な支配に利用される道具であるのと同時に、あるいはそれ以上に、だからこそそれは
「決定的に欺瞞的な文学」であり、その「文学」の内実が「虚」であることによって
「権力装置」足り得ているのであるならば、日本の隅々にまで広く行き渡ったマスコミ
による「あからさまな暗黙の号令」が、天皇家に対する過剰な敬語表現と、記号化され
た表面的な差別反対コールに引き裂かれた、両者が呼応する形の上滑りな「通俗」の流
通再生産となるのは必定で、日本人から「リアル」を収奪し、「リアル」を消去するこ
とが自己目的化された「知らず知らずの日本人」を維持し、さらには「透明な存在とし
て自分を感じる若者」を産み出すことにも貢献することにもなってきたのであるとも、
言えるのかもしれません。そんなふうに考えるとJunkyさんの考えとどこかでリンクして
くるようにも思えます。
Junkyさん、こんばんは。長文になりました。Junkyさん:
>さらにいろいろ書いたり話したりすることで、誤解であれば徐々に消えるでしょうし、
>私の正体であれば徐々に露わになるでしょう。いずれにしても、この問題に関してこ
>の機会に一歩でも二歩でも認識を新たにしたいと願っています。もう少しおつきあい
>ください。そう言ってもらえると気持ちが楽になります。さすがに東京永久観光でこの話題を続け
るのは、気が引けるところがありました。掲示板の運営者でもあり管理者でもあるJunkyさんの立場は理解しているつもりなのです
が、それを言い出すときりがなくなりますし、齟齬も生じると思いますので、率直に書
いていこうと思っています。Junkyさん:
>ただし、そういう議論が成り立つためには、最低限の礼儀や知識をわきまえる必要が
>あります。私はそういうわきまえはあるつもりでした。が、ちょっと心配になってき
>ました。相容れない意見、相容れない語り方というものが、それは差別を容認したり
>助長したりする意見や語り方ではないと信じたいのですが、絶対そうとも言い切れな
>いようで心配になってきたのです。言われてることの意味が掴みにくいのですが、思うところを書きます。
掲示板上での語り方の問題というのを除外した上での、語り方の問題というのはたしか
にあって、それはあからさまに言ってしまえば、事実として日本語のうまいJunkyさんが
曖昧な日本語の特性を利用して(生かして)、日本的な「和をもって尊しとする」かの
ようなコミュニケーションを第一義とした場合には、必ず在日コリアンを、利用する、
使用する、モノ化する、というニュアンスが浮き彫りになるということではないでしょ
うか。Junkyさんとこれまで話を続けてきて、「掲示板管理者」としての含意を込めた書き方で
あることをそれなりに理解するのと同時に、なにか私は「このあたりで妥協しくれ、在
日コリアンの松野さん」と「日本の管理者」から言われているかのようにも感じること
がありました。しかし「賢明な日本的表現に長けた管理者」でもあり、思慮深い書き手
のJunkyさんでもあることによって、権力関係のその構造から析出されるそれが、多少な
りとも明瞭な形をとったということであるのならば、それはひとつの収穫であったと考
えることができるかもしれません。
洋生さんへ。
貴方の正直な言葉は、けっして醜くはみえていませんよ。
もう、この時期って、
残暑なのでしょうね。
Junkyさん。暑中見舞い申し上げます。ここの掲示板の大人っぽさは、きっと
Junkyさんの人柄なのでしょうね。
静かで激しい。クールで暖かい。僕は、ちょっと、最近、うちひしがれています。
自分の醜さを、自覚しているはずの醜さを、
改めて指摘されることが、これほどつらいとは。
すいません。愚痴です。
また、きます。
松野さんとのやりとりで、自分の考えの浅さや誤りに気づかされることが多いですが、
それだけでなく、私の文章の性格も浮上します。それが下のような部分です。松野さん
<しかし文末の〈ということにしておきたい。〉は、どうにでも読めてしまいます。
つまりどうにでも読めるように書いてるのでしょうけど、これ重要な問題を孕んでき
ます。>たしかに白とも黒とも取れる書き方でした。こういう書き方になるのは、一つには、
誰からも拒否されない八方美人を願う気持ちが私にあるせいでしょう。八方美人が絶
対悪とも思いませんが、今回の議論はそうならないほうが意義がありますから、改め
ます。また、なにか断定すれば当然反論されるわけですが、議論を求めつつどこかで
議論を避けたい気持ちが私にあるのでしょう。それも今の場合は良くないことですか
ら、なるべく改めます。そのほか、その前に書いた<「差別(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるよう
ですが)の実態や構造が明らかになること、それを明かにすること、それこそが私の
本意です。>という部分が、いかにも高潔そうで、ちょっと照れもあって<というこ
とにしておきたい>と書いたというのもありましょう。さらにもう一つ大事な点。
上の部分だけでなく、<東北の現実主義者さんへ>として書いた文章全体が、この問
題(在日コリアンが被ってきた、また、被っている差別問題)に対して、私なりのバ
ランスを取ろうとした結果かもしれません。松野さんの意見、松野さんの語り方を支
持する一方で、それと相容れない部分も自分の中にあって、そういう気持ちへのバラ
ンスということです。松野さんが<ところでJunkyさんの文章のトーンが変質したと感
じます。これはなにを意味しますか?>と尋ねていますが、それに対する答えでもあ
ります。私がここでいろいろ読み書きしている動機は、この問題の当事者である松野さんと、
共通する部分よりも、むしろ共通しない部分を見極めたいということだと思います。
だから実は自分の中でも違和感のある自分の意見をあえて出しているということがあ
るかもしれません。ただし、そういう議論が成り立つためには、最低限の礼儀や知識をわきまえる必要が
あります。私はそういうわきまえはあるつもりでした。が、ちょっと心配になってき
ました。相容れない意見、相容れない語り方というものが、それは差別を容認したり
助長したりする意見や語り方ではないと信じたいのですが、絶対そうとも言い切れな
いようで心配になってきたのです。さらにいろいろ書いたり話したりすることで、誤解であれば徐々に消えるでしょうし、
私の正体であれば徐々に露わになるでしょう。いずれにしても、この問題に関してこ
の機会に一歩でも二歩でも認識を新たにしたいと願っています。もう少しおつきあい
ください。松野さん
< Junkyさん:〈では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒
り、どういう立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはな
かなか興味深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。〉〈興味深い〉とい
う表現が東北の現実主義者さんへ主に向けられたのであろう、私も読む書き込みでさ
れたことにいいしれない違和感を感じたということ、表明しておきます。「モノ化」
サレテイル感じがする。「興味深い」は、「考える対象として新しい枠組みが明らかになってきたこと」を形
容しましたが、たしかに「モノ化」されている感じを与えます。この表現に「切実で
深刻な問題ではないという印象」「よそ事、ひと事のような印象」を感じたというこ
とだと、理解しました。
フォトニア(http://www.photnia.com)の記事で、立教大生の迷宮事件が載っていた。
立教の大学生が駅で殴られ死亡したらしい。
ざまーみろ。調子に乗って、遊びまくって、かわいい彼女とやりまくっているからだ。
神様が、あなたはもう死になさいと判断を下したのだろう。
大体、立教生は屑だもんな、まじで殺してくれてありがとう。
どうせなら、もっと過激なショーにしてくれればよかったのにね。
っていうか、別に俺でも良かったんだけどね、その立教生の変わりは。
誰か、殺してくれないかなー、派手に、むごく、汚らしく。
待ってるよ。
ちなみに、俺のやった×××をフォトニアに投稿しておいたけど、記事になったかな?
なってたら、見ておいてよ。
Junkyさん:
〈また、自分で上に書いた<国籍や民族性の違いで人を「わけへだて」するような現実
は、たいていの国にある>という大ざっぱなくくりも、もっと吟味したほうがいいと
も思います。つまり、日本国と日本人が行ってきたこと、あるいは行っていることは、
世界的に歴史的にみて本当に特別なことではないのかどうかです。ただし、「日本だ
けは特別わるい」という事実が証明されたとして、それをことさらうれしく感じる日
本人もいるようですが、私はべつにそういう立場ではありません。しかし、「日本だ
けは特別わるい」という言説に、ことごとく怒ったりする立場でもありません。差別
(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるようですが)の実態や構造が明らかにな
ること、それを明かにすること、それこそが私の本意です。ということにしておきたい。〉賢明な考え方だと思います。しかし文末の〈ということにしておきたい。〉は、どう
にでも読めてしまいます。つまりどうにでも読めるように書いてるのでしょうけど、
これ重要な問題を孕んできます。(最後の段を参照してください)。Junkyさん:
〈では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どうい
う立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味
深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。〉〈興味深い〉という表現が東北の現実主義者さんへ主に向けられたのであろう、私も
読む書き込みでされたことにいいしれない違和感を感じたということ、表明しておき
ます。「モノ化」サレテイル感じがする。
妻と子の待つ(先に行ってるということです)韓国済州島行きのチケットがとれず、し
ばらく日本にいることになり時間ができました。ところでJunkyさんの文章のトーンが変
質したと感じます。これはなにを意味しますか?Junkyさん:
〈日本でたとえば「差別を考えるシンポジウム」といったイベントがあると、日本政府
や日本人が旧植民地出身者やアイヌの人々にどんな差別をしているかが指摘され、差
別はなんだか日本特有の問題なのかという印象を持つことがあります。もし仮に、他
国の政府や他国の人がどんな差別を行っているかをわざと隠して、日本国や日本人の
差別だけが特別悪いと言うなら、それは不公平だし、むしろ差別解消への道は遠のく
だろう、という感じを私は時々持ちます。こういうカンカクは、私と東北現実さん
(略称にて失礼)に共通している部分ではないですか。〉日本での旧植民地出身者やアイヌの人々に対する日本特有の差別はもちろんあるわけで、
それがJunkyさんの中では〈差別が日本特有の問題なのかという印象〉に変質してしまう
のですね。少々驚きました。Junkyさん:
〈国籍や民族性の違いで人を「わけへだて」(つまりは差別ですかね)するような現実
は、そりゃたいていの国にあるだろうと私は思うし、そういう大ざっぱな話の方が、
私は実は気が楽で好きなのです。〉そうでしょうね。Junkyさんの考え方(個人主義と言っていいのかな)からすれば、そん
なふうに帰結するんだろうなという感じがします。Junkyさん:
〈ただ、今回は、石原東京都知事のいわゆる「三国人発言」をめぐって、韓国籍の在日
朝鮮人である通称松野さんからの問いかけで議論が始まったので、日本の問題に絞っ
て話をしたということが、まずあると思います。〉正確には違いますよね。From Junkyで、「三国人発言」に関すること、小浜逸郎の「弱者
とは誰か」への評価が書かれる以前から、在日コリアンである私は東京永久観光への投稿
者でもあり、From Junkyを含めた迷宮旅行社の読者でもあったわけで、Junkyさんが前記の
ふたつを書くとき、東京永久観光には在日の投稿者もいるということ、頭の片隅ぐらいに
はあったのではないでしょうか。ですから、私にとっては前記のふたつは、私に対する問
いかけのようにも思えました。ですから議論の出発点は私とJunkyさんの関係性、あるいは
関係性の齟齬から、ということになりませんか。Junkyさん:
〈しかし、それだけでなく、「日本人である私にとって、差別問題とは、まずはなによ
り、在日コリアンがおかれてきた歴史や、おかれている現状を指すのだ」という認識
に立って、それで大きく間違えることはなかろうとも思います。だから差別の中でた
またまこの問題を選んだのではなく、この時代にこの場所にいる私にとって身近な現
実問題として語っているという気はしています。〉賢明なご意見だと思いますが、むしろ文末の〈気はしています。〉のほうが、本心な
のだろうと思います。つづく
東北現実さん<差別を語るときには、世界同時解決的発想を取り入れることがもっと
大切なことなのではないでしょうか。Junkyさん。場は絶対必要だけど、いまだに、三
国志の時代そのままの、隣国の力を弱めるためにはあらゆる戦術・戦略を用いる、ア
ジア、ヨーロッパ各国からは、ナイーブすぎることによって利用されてしまうことの
危惧を感じてしまいました。>これはむしろ日本政府の外交に対する批判でしょうかね。私は河野外務大臣ではない
ので、私の発言が利用される心配はないでしょう。いずれにせよ、東北現実さんの指
摘している観点は、国際政治において平和を獲得する手段としての「現実主義」と
「理想主義」といったことでしょうか。それはそれで、私はもう少し学習したいです。
ま、しかし、私が政治の是非を判断する最大の眼目は、第一に「私が戦争に行ったり
しなくてすむかどうか」であり、第二に「誰もが戦争に行ったりしなくてすむかどう
か」です。もしも、ナイーブであることが戦争に直結するのだとしたら、それは改め
たいと思いますが、実際どうなんでしょう。東北現実さん<Junkyさんはアナキストだったの?それとも日本だけは差別されるべき
だ!って考えてるの?>たとえば国旗を降ってオリンピック観戦というのは、とても楽しい体験でしょう。ナ
ショナリズムというのは楽しいんですね。日の丸を廃止し新たな国旗を考案したとし
ても、オリンピック観戦には結局のところ支障ないでしょう。ナショナリズムは同じ
ように残るでしょう。一方で、ナショナリズムは戦争や差別をはらむ。その危うさゆ
えにナショナリズムは甘美なのでしょうか。あるいは、ナショナリズムなんて500
年もしたら世界から消えてなくなるかもしれないから、絶滅危惧精神としてのナショ
ナリズムに今しばらく酔いしれたいと思うのでしょうか。ともあれ、ナショナリズム
の危うさを自覚する者は、ときにコスモポリタンを夢想します。アナーキストにあこ
がれます。ナショナリストもコスモポリタンもアナーキストも、どこかフィクション
なのでしょうが。日本が差別されたら、私は日本人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみます。
アジアが差別されたら、私はアジア人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみ
ます。では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どうい
う立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味
深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。
東北の現実主義者さん、ご意見どうも。<7月30日(日)17時28分43秒の投稿>に対して、
松野さんとのやりとりは別にして、私も返答します。松野さんより長く書く、という
ことを心がけているわけではありませんが、長くなりました。最近仕事がらみで風力発電や太陽光発電の研究や利用を見てきました。私がいわば
「風車は羽根が多いとすぐ回るが、出力は上がらない」とか「光をエネルギーに換え
る半導体のメカニズム」という牧歌的な話に熱中していたところに、そもそも「アラ
ブに原油価格を下げさせる条件は」といったアプローチに気づかされたといった感じ
でしょうか。まあ、それはそれとして。東北の現実主義者さん<これらの差別に言及しない方が、国内の差別についてだけ繰
り返し語ることの意味はなんなのでしょうか。>日本でたとえば「差別を考えるシンポジウム」といったイベントがあると、日本政府
や日本人が旧植民地出身者やアイヌの人々にどんな差別をしているかが指摘され、差
別はなんだか日本特有の問題なのかという印象を持つことがあります。もし仮に、他
国の政府や他国の人がどんな差別を行っているかをわざと隠して、日本国や日本人の
差別だけが特別悪いと言うなら、それは不公平だし、むしろ差別解消への道は遠のく
だろう、という感じを私は時々持ちます。こういうカンカクは、私と東北現実さん
(略称にて失礼)に共通している部分ではないですか。国籍や民族性の違いで人を「わけへだて」(つまりは差別ですかね)するような現実
は、そりゃたいていの国にあるだろうと私は思うし、そういう大ざっぱな話の方が、
私は実は気が楽で好きなのです。ただ、今回は、石原東京都知事のいわゆる「三国人発言」をめぐって、韓国籍の在日
朝鮮人である通称松野さんからの問いかけで議論が始まったので、日本の問題に絞っ
て話をしたということが、まずあると思います。しかし、それだけでなく、「日本人である私にとって、差別問題とは、まずはなによ
り、在日コリアンがおかれてきた歴史や、おかれている現状を指すのだ」という認識
に立って、それで大きく間違えることはなかろうとも思います。だから差別の中でた
またまこの問題を選んだのではなく、この時代にこの場所にいる私にとって身近な現
実問題として語っているという気はしています。また、自分で上に書いた<国籍や民族性の違いで人を「わけへだて」するような現実
は、たいていの国にある>という大ざっぱなくくりも、もっと吟味したほうがいいと
も思います。つまり、日本国と日本人が行ってきたこと、あるいは行っていることは、
世界的に歴史的にみて本当に特別なことではないのかどうかです。ただし、「日本だ
けは特別わるい」という事実が証明されたとして、それをことさらうれしく感じる日
本人もいるようですが、私はべつにそういう立場ではありません。しかし、「日本だ
けは特別わるい」という言説に、ことごとく怒ったりする立場でもありません。差別
(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるようですが)の実態や構造が明らかにな
ること、それを明かにすること、それこそが私の本意です。ということにしておきたい。
> Junkyさん毎日暑いですね、東京。8月中はあまりインターネットできなくなります。だからとい
うわけではまったくないのですが、とりあえず私のほうは、この話題はひとまず終えて
いいのではないかと思っています。Junkyさんの返信とても楽しく読みました。9月頃に
でも会って話せればと思っています。炒飯のうまい店、知ってますよー。Junkyさんの日記で書かれている共感覚の話、面白いですね。小野リサ、私にとっても
「涼しい」アイテムです。
東北の現実主義者さん:
>大体、日本みたいなこんな弱っちい国、他にないでしょう?松野さんそう思い
>ませんか?日本がホントに偉いと思っていってるわけじゃないでしょう?
>松野さんは、ご自身が国籍を持つ国ををお嫌いでしょうか?
>私は日本を、欠点も多い国だと思いますが、嫌いではないです。それだけのこ
>とだと思っています。なぜなら嫌いなものを良くしようなんて私は本気で考え
>られません。私は日本も韓国も好きですよ。善い国にしたいものですよね、日本も韓国も。
アメリカからは見下され、アジアからは突き上げられ、さらに不況に追い打ちをかけられ、
可哀想ですよね、日本。ドイツに住んでいたことのある親愛なる日本人の友人から聞いた、
こんな話を思い出しました。
ヒットラーがあのような極端な自己愛的な性格になったのは、容姿や両親との関係などに
よる劣等感の補償としてなのだけれども、そうした人はいつの時代でもいるのに、何故あ
の時代に彼が崇拝されたかと言えば、ドイツという国が第一次世界大戦での屈辱、経済的
疲弊など劣等感と鬱状態にあり、そのフィールドがヒットラーをある意味でつくりあげた、
もしくは必要としたのであると。「人を殺してなにが悪い」という倫理観を喪失したかのようにみえる若者の話題、よくメ
ディアでとりあげられますが、ここには「間接的に人を殺してなにが悪い」という「ふる
い大人の自国主義的倫理の非倫理性」への感覚的な反問が間違いなく含まれているのだと、
私は考えています。多分にそれは自覚しにくい性質のもので、それとして明確に意識して
はいないでしょうけど。言い方を変えれば、〈世界〉との関係性を通じてしか〈国家〉は
倫理を持てない、そこをみない倫理はことごとく反動にしかならない。そういう時代に既
に突入していて、そういう時代に私たちは生きているのではないでしょうか。
東北の現実主義者さん:
>「文明人」「野蛮人」と書かれましたが、中華=「文明人」、倭(と百済)=
>「野蛮人」とお考えなのでしょうか、念のためにお聞きします。そんなわけないですよね。ちゃんと読んでますか?
東北の現実主義者さん:
>日本と百済の(共同幻想における)「劣等感」というのは、フロイトの学説な
>のでしょうか、それともユングなのでしょうか。わたしはユング的だと理解し
>てます。(心理学の学説論争はしたくありませんのであしからず理解して欲し
>いです。はなしを進めましょう!)(共同幻想における)という部分、意味がわからないのでそれはおいといて答えますが、
フロイトの考え方は便利なのでかなり広い使われかたをしてますから、あまりこだわら
ずに一般論として読んでもらってかまわないですよ。発達論とエディプス複合、近代を
席巻してますが、白人の中産階級の男性を基に作り出されたフロイトの自我モデルに、
疑問を感じたりします(余談ですが)。
ちなみに私はユング「元型派」が好きです。ユング派にも「発達派」とか「タイプ論派」
とかいろいろあって、アメリカではそれぞれ仲が悪いなんて話を聞きます(笑)。東北の現実主義者さん:
>ちなみに松野さんは、Korea内で原人が発掘されたというニュースを聞い
>たとして、喜びに関する感情を全く持たれないでしょうか?先住民文化をかっぱらうような単一民族主義に反対しているだけ。話をずらすべきではな
いですよ。「メルヘン」を求めてアイヌ民族を訪れる観光客って、差別的だと思いませんか?松野:
>それから「チョッパリ」というのは、在日に対する差別語でもあるので、使
>うべきではないですよ。やめるようにね。東北の現実主義者さん:
>その言葉を、わたしは大韓民国籍の方が口にされるのを聞いたことがあり、チ
>ョッパリ=日本人、半チョッパリ=在日。と口語的に理解していたのですが、
>これは、誤りなのでしょうか?それ以外に本当の意味が存在するとしたら、わ
>たしは、それを今、理解していません。実際の意味はどうなんですか?教えて
>下さい。残念ですが、今の私はこれ以上コメント不能です。だからコメントは要らないということなんです。
たとえば貴方が韓国で何年間か暮らしてきて「チョッパリ」と罵られてきた、差別されて
きたということがあって、それを書くなら許されるかもしれない。差別されるのがどうい
うことか身体でわかってるだろうから。しかし貴方は突然最初の投稿で被差別当事者でな
いにも関わらず「差別なんてこんなものだろう」というスタンスで、必要のない言葉をわ
ざわざ持ち出してきました。このこと自体、差別なんです。わかりますか?
たちの悪い本国韓国人(少ないですよ)は在日に対して「チョッパリ」とか「半(パン)
チョッパリ」とか言う輩もいます。親戚関係でこの言葉が出たらその時点で絶縁。あとは
本で調べてください。東北の現実主義者さん:
>ただし松野さんが指摘されるようなわれるような人もいるんだと思います。松
>野さんなりの苦しい経験があったかもしれないと思うのみです。ちょっとドラ
>イすぎる言い方だったかもしれません。同情してくれんでいいです(苦笑)。買春ツアーのおっさん連中、どこからどうみても韓
国人女性、アジア人女性、見下してます。日本人である自分のこと「偉い」と思ってますよ。つづく
>それから「チョッパリ」というのは、在日に対する差別語でもあるので、使
>うべきではないですよ。やめるようにね。
その言葉を、わたしは大韓民国籍の方が口にされるのを聞いたことがあり、チ
ョッパリ=日本人、半チョッパリ=在日。と口語的に理解していたのですが、
これは、誤りなのでしょうか?それ以外に本当の意味が存在するとしたら、わ
たしは、それを今、理解していません。実際の意味はどうなんですか?教えて
下さい。残念ですが、今の私はこれ以上コメント不能です。
>「棄民としての在日コリアン」についてもよく勉強しておくようにと、貴方
>だけには繰り返し言おうと思います。
「棄民」という言葉については、松野さんと見解が一致できる可能性を感じて
います。「民を棄てる」まさに暗黒です。古代・中世・近代・現代を通じて人
類が避けるべき重要なテーマであると強く感じています。
>では、その「世界同時解決的発想」とやらを取り入れた差別を語るものを書
>いてください。貴方はどうすればいいと考えているのですか?
これは、現実主義者としては、すぐには解決不能と考えています。あたりまえ
ですね.....。
ただし、ローマ・ユダヤ・イスラム・東ローマ(キリスト)・ギリシャ正教の
例にも見られる、怨念の拡大再生産に、ストップをかけることが、その第一歩
だと思っています。怨念って利用されちゃうんだよね。装置になっちゃうんだ
よね。
悲しいよね。
>さて、話を戻しますが、だいいちアメリカにくっついていち早く近代化を成
>し遂げ経済大国になった日本のほうが、とっくの昔に中国や韓国より「偉い」
>と思ってるんじゃないですか?
少なくとも私は、偉い何て全く考えてもいません。全く。松野さんだって近代
化が偉いだなんてフィクションを信じてはいないでしょう。
ただし松野さんが指摘されるようなわれるような人もいるんだと思います。松
野さんなりの苦しい経験があったかもしれないと思うのみです。ちょっとドラ
イすぎる言い方だったかもしれません。
大体、日本みたいなこんな弱っちい国、他にないでしょう?松野さんそう思い
ませんか?日本がホントに偉いと思っていってるわけじゃないでしょう?
松野さんは、ご自身が国籍を持つ国ををお嫌いでしょうか?
私は日本を、欠点も多い国だと思いますが、嫌いではないです。それだけのこ
とだと思っています。なぜなら嫌いなものを良くしようなんて私は本気で考え
られません。
最後に、「偉いと思ってるやつが嫌い」という松野さんと私の共通点に、今、
気がつきました。本日終わり。
>>基本認識とか言葉の定義が一致していなくても、行間や発言の背景を読む
>>ことで、むしろ話は進むし、深まります。文学のわかる人の場合は。
経済学部出身の現実主義者としては、文学の理解度は松野さんよりも下ではな
いかと想像しますが、基本認識が違っても議論は深まるという松野さんの言葉
を受けた、私自身のケーススタディーという意味も含めて、まず、文学者とし
てではなく、現実主義者としてお話ししてみたいと思っています。(返信に時
間的な「間」が空くことがあっても、ご勘弁頂きたいというお願いを、最初に
申し上げておきます。)
>フロイト的に言えば古代中国文明への劣等感から倭(と百済)がその反動形
>成と して、中国王朝を模した国家体制をつくりだしたという議論はあるわけ
>で、そこに「文明人」の「野蛮人」差別をみてとることはできますが、それ
>ならばその問題に着目して差別の問題を考えてみては如何ですか。
「文明人」「野蛮人」と書かれましたが、中華=「文明人」、倭(と百済)=
「野蛮人」とお考えなのでしょうか、念のためにお聞きします。
日本と百済の(共同幻想における)「劣等感」というのは、フロイトの学説な
のでしょうか、それともユングなのでしょうか。わたしはユング的だと理解し
てます。(心理学の学説論争はしたくありませんのであしからず理解して欲し
いです。はなしを進めましょう!)
>もうひとつ聞いておくと、青森の三内丸山遺跡を「縄文時代の日本人」の遺
>跡として嬉々として掘り返している現実をどう思われますか?縄文時代に日
>本人はいなかったわけですが。
縄文時代の相当長期間にわたる定住遺跡が、各地で発掘されていることは松野
さんもご存じのことと思います。それが国か、それは日本人かと言われると、
松野さんご指摘の通り、日本人も朝鮮人もいなかったと言う表現は誤りではな
いと思います。
ロシアのにおいても、アイヌも含むと言ってしまっていいのかどうかわかりま
せんが、北方民族が海を越えて存在していたという研究成果があるようです。
それ以前の年代について、最近日本国内で原人発掘のニュースもありましたよ
ね。ちなみに松野さんは、Korea内で原人が発掘されたというニュースを聞い
たとして、喜びに関する感情を全く持たれないでしょうか?
さて、話を戻しますが、だいいちアメリカにくっついていち早く近代化を成し遂
げ経済大国になった日本のほうが、とっくの昔に中国や韓国より「偉い」と思っ
てるんじゃないですか? 岸田秀風に言えば、国民国家日本は黒船来航でアメリ
カに強姦され原爆まで落とされましたが、にもかかわらずアメリカに対する劣等
感、怒りは、経済的発展によって打ち消され、忘れ去られる傾向にあります。こ
っちのほうが問題でしょう? 欧米(の白人)に対する劣等感がアジアに対する
優越感にすり替わるのは心理学的な問題でもあるけど、そこには(資本主義)経
済の問題も大きく絡んできますよね。東北の現実主義者さん:
>差別を語るときには、世界同時解決的発想を取り入れることがもっと大切なこ
>となのではないでしょうか。では、その「世界同時解決的発想」とやらを取り入れた差別を語るものを書いて
ください。貴方はどうすればいいと考えているのですか?それから「チョッパリ」というのは、在日に対する差別語でもあるので、使うべ
きではないですよ。やめるようにね。(私は日本人に対して「チョッパリ」とい
ったことなど、一度もないよ)。東北の現実主義者さん:
>文化的同化具合ではかるとすれば、韓国人度が高いと偉い。韓国人度が低いほ
>ど差別される。ということに大韓民国領内ではなっているようです。これらの
>差別に言及しない方が、国内の差別についてだけ繰り返し語ることの意味はな
>んなのでしょうか。なにを言ってるのかわけがわかりませんが、貴方の文章の意味はなんなのでしょ
うか。あなたは植民地支配の結果として在日コリアンが日本に定住することにな
った歴史的背景さえ知らずにものを言ってるんでしょうね。「棄民としての在日
コリアン」についてもよく勉強しておくようにと、貴方だけには繰り返し言おう
と思います。
先にこっちにレスします。> 東北の現実主義者さん
基本認識とか言葉の定義が一致していなくても、行間や発言の背景を読むことで、
むしろ話は進むし、深まります。文学のわかる人の場合は。それには緻密さも必
要になってきますよね? 貴方の文章はあまりにも「大胆」に過ぎます。フロイト的に言えば古代中国文明への劣等感から倭(と百済)がその反動形成と
して、中国王朝を模した国家体制をつくりだしたという議論はあるわけで、そこ
に「文明人」の「野蛮人」差別をみてとることはできますが、それならばその問
題に着目して差別の問題を考えてみては如何ですか。文化人類学の本や吉本隆明
の「アフリカ的段階について」などが、参考になるでしょう(吉本の言う、西洋
近代の野蛮に対してネイティブ・アメリカンなどの原初的な「自然」と結びつい
た世界観を対置させるというの、私は好きですけど)。さらにこの問題は日本と
いう国家がいつどういう経緯を経て成立したかという、興味深い話にもなってき
ますが、七世紀前半頃まで半島と列島西部で倭・百済・新羅・高句麗などの「部
族国家」による覇権争いがあり、倭・百済連合軍が「白村江の戦い」で、唐・新
羅連合軍に敗退(百済滅亡)し、七世紀後半に初めて「倭」に変えて「日本」と
いう国号、「天皇」という称号が制定され、畿内人と関東人は、「日本国」とい
う国家の制度の内に入った。これが日本の始まりであるという網野善彦などの議
論があります。大和言葉は百済言葉だったのではないか(両者の間に通訳がいら
なかった)という興味深い話もあります。半島と列島の間に画然と線が引かれた
のもこの時期だと考えられるでしょう。これはそれ以前には「日本人」も「朝鮮
人」もいなかった(その概念がなかった)ということも意味します。これについ
ては、金達寿著「日本古代史と朝鮮」(講談社学術文庫)が参考になると思いま
す。
遺伝子学者の埴原和郎によれば弥生時代から古墳時代にかけて半島から列島への
大量の人の移動があったと考えなければ理解できないことが多い、現在の朝鮮半
島に住む人と西日本に住む人との間には極めて濃い類似性があるのに対して、関
東以北の人と西日本人の差異は、その差よりもはるかに大きいとのことです。やっと本題です。ところで大和朝廷にとって東北の列島先住民「蝦夷」は「まつ
ろわぬ民」であり「野蛮人」として差別されていたのではないでしょうか。
「被差別部落」にはこれらの「まつろわぬ民」の末裔の人々が多いという話も聞
きます。「蝦夷」の英雄、アテルイの話でも聞かせてもらえると、個人的には嬉
しいのですが。もうひとつ聞いておくと、青森の三内丸山遺跡を「縄文時代の日
本人」の遺跡として嬉々として掘り返している現実をどう思われますか? 縄文
時代に日本人はいなかったわけですが。津軽アイヌの人によれば、あそこは津軽
アイヌの聖地であるとのことです。三内丸山遺跡のパンフレットには「アイヌ」
の「ア」の字も出てこないのだそうです。この現実をどう思われますか? アメ
リカの白人がネイティブ・アメリカンの人骨を発見して古代のアメリカ人と考え
るなんてことはありえないわけですが、日本人が列島先住民文化を日本文化の延
長として考える背景には、万世一系を標榜する(近代)天皇制支配形態による単
一民族擬制の刷り込みがあると言えます。つづく
基本認識とか言葉の定義が一致していないと、議論が堂々巡りになると思い、初めて投稿いたします。
わたしの認識では、
大陸における差別は、中国人→韓国人→日本人という順番で、とにかく中国が一番偉いという前提に立っていると感じています。日本人よりも、文明を教えてやった俺たちが偉いんだということでしょうか。(中国へ行ったことはないんですが。)
半島における差別は、韓国人→在日(半日本人という蔑称あり)→日本人(チョッパリ=豚の足?)という順番ではないだろうかと思います。(韓国へは行ったことあります。)
文化的同化具合ではかるとすれば、韓国人度が高いと偉い。韓国人度が低いほど差別される。ということに大韓民国領内ではなっているようです。これらの差別に言及しない方が、国内の差別についてだけ繰り返し語ることの意味はなんなのでしょうか。
差別を語るときには、世界同時解決的発想を取り入れることがもっと大切なことなのではないでしょうか。
Junkyさん。場は絶対必要だけど、いまだに、三国志の時代そのままの、隣国の力を弱めるためにはあらゆる戦術・戦略を用いる、アジア、ヨーロッパ各国からは、ナイーブすぎることによって利用されてしまうことの危惧を感じてしまいました。
>日本列島の代わりに東アジア列島とか、日本国の代わりにヤマダ国とか。しかし、そういう風に考
>えていくと、それより先に、やっぱり君が代、日の丸なんてものを、どうしたって改
>めないことには埒があかないのだという実感もわきます。
Junkyさんはアナ キストだったの?それとも日本だけは差別されるべきだ!って考えてるの?
差別に関する過去ログをまとめました。
さてもう少し話を進めますが、仮に私が西洋人などと向き合った場合、最初にあげた
日本を説明するアイテムは、私には日本のことであると感じるとともに、自分のこと
であると感じます。ときには自分の誇りや恥であるようにすら感じます。それこそが
ナショナリズムであるかもしれないことを自覚しつつです。松野さんは実際に、こういったアイテムを自分のこととして感じることはないのでしょ
うか。松野さんがこの国を自分の国と呼び、この社会やこの文化を自分の社会、自分の文化
として語るまでには、日本国の制度や日本人の意識は、どこをどうを改めなければい
けないのでしょう。・・・と書きつつ、天皇制のことも含めて改革しなければならい
ことは多すぎるのだと改めて気が付いたりします。しかし。それでもなお、差別的な社会制度が完全に廃棄されないうちであっても、私
と松野さんが同じ国の民であると納得しあう道がどこかにないのだろうか、と考えます。その答えということではありませんが、たとえば日本列島という名称や日本国という
名称を意図的に変えてみるというのはどうかと考えたことがあります。日本列島の代
わりに東アジア列島とか、日本国の代わりにヤマダ国とか。しかし、そういう風に考
えていくと、それより先に、やっぱり君が代、日の丸なんてものを、どうしたって改
めないことには埒があかないのだという実感もわきます。なんだか、考えがあっちへいったり、こっちへいったりしました。これを読んで不快
な気持ちになった人がいたらご容赦ください。私は、松野さんをはじめとした在日コ
リアンに「日本国や日本人にちょっとぐらい妥協してはいかがですか」などと言うつ
もりはカケラもありません。少なくともそういう立場ではないつもりです。本当に一度お会いして話をしましょう。8月半ば以降になってしまうのですが、また
連絡します。
時間があくと、ポイントが何だったのか、わからなくなってしまうところがあります
が、思うままに少し書きます。松野さん(07月10日(月)02時48分45秒)<「差別によらない同化」「権力によらない
同化」という言い方をどう読んでいいのか単純にわからなかったので、それを聞きた
かったのですが、書き方が不明確でした。だけどそれもわかった上での返信なのだと
おもっています。>いや私こそ質問の要点を取り違えていました。そこで、「差別によらない同化」「権
力によらない同化」という言い方が、私のどんな内心を表していたのかを、ちょっと
考えることにしました。海外旅行中に出会った外国人に日本を説明するような場合、私なら畳の部屋とか醤油
の味などがよく思い浮かびます。トヨタとか味の素とかドラえもんとかの話も便利で
す。世界的な支持を得ているウォークマンや映画監督北野武の名は、べつに自分の手
柄でもないのに胸をはって言います。このほか自嘲的ながら首都の満員電車とか土地
のバカ高さとか、さらには少子化、高齢化、若年層のフリーター化といった現象、あ
るいはコンビニやプリクラについてもぜひ聞かせてあげたくなります。同じ時代と同じ地域(日本列島)に暮らし、同じ言語を使い、同じようなメディアに
触れ、上にあげたようなものごとを共通に形成し体験している人たち。そういう人た
ちは「同化している」と見ることができると思います。私もその一人です。ふつう同化といえば国籍の同化、自覚する民族性の同化を指すのでしょうか。その場
合は「差別によらない同化」「権力によらない同化」は、事実上、難しいのかもしれ
ません。しかしそれ以外に「社会的な同化」「文化的な同化」というものをイメージ
することもできると思います。社会的といえば、在日に参政権がないなど社会制度の不備は明白ですが、そういうこ
ととは別に、善悪の価値観とか時代の風潮や流行を同じように作りだし、同じように
それに縛られているという点での社会性です。また文化的というのも、衣食住などは
コリアン系の人と私とではいくらか違うのかもしれませんが、それでも、同じように
ファミリーレストランに行ったり、同じように底の厚い靴を履いているのなら、それ
は日本人固有の文化でもコリアン固有の文化でもなく、いわばこの列島に生まれた共
通の文化であると考えることができると思います。私が文化的な同化といったのは、
そういうことを指します。そういう点では、松野さんと私は、かなりの部分で社会的に文化的に同化していると
言えないでしょうか。私は漠然とこういったことをイメージしつつ「差別によらない同化、権力によらない
同化」と述べたのだと思います。理想的には、日本に同化するというより、気がつけ
ばお互いに同化していたというようなイメージでしょうか。そういった同化の意識が自分の存在の主要な部分を占めたと仮定すれば、いずれは
「国籍はもはや住民票と同じで単に住む場所を示すにすぎないから、コリアンである
という気持ち(あるいは日本人であるという気持ち)が侵されない限り、国籍は韓国
であっても日本国であってもいいや」というふうには絶対ならないものでしょうか。
韓国籍から日本国籍に変える場合の条件が完全に改善された場合の話ということにな
りますが。
作曲:山本直純ですね。
松野さん、ご返答ありがとうございます。
読者の皆様がJunkyさんと松野さんの文章を楽しみにしている所へ
私などが余計な投稿をしてしまい、話の流れと気分を
削いでしまったのでは?と心配しておりました。
まず「もしや」について。あれはわたくしの間違いです。
最初「もしや”とくめい”というハンドルの人なのでは?」
としたかったところ、何気に語尾を変えてしまい
「・・・・ハンドルの人だと思えばいいのでは?」にしてしまいました。
あとで「言葉としてヘン」ということに気が付いたのですが、
大まかなところでは違っていないと判断して、また訂正が
できるわけでもないのでそのままにしておりました。
それと、わたくしは匿名性を認めている者です。
匿名うんぬんがメインの話じゃないと思うので細かい理由は省きます。
ところで、匿名による発言というのは「本人のモラル」に多分に頼るものです。
そのためいわゆるモラルがない掲示版では言いたい放題、書き捨ての状態から、
やがては閉鎖、という例を知っております。また、概してその手の掲示版では
メールアドレスを記載することで被害が出る場合がある、と聞いております。
しかしこの東京永久観光においては皆、問題を見出す能力と、受け売りでは
ない意見をお持ちの方々で成り立っていると信じています。
誰かが気に入らない発言をしたからといって嫌がらせをするような人は
居ないと信じています。でも、そこまで信じていない人が
たとえ匿名にしてメールアドレスを記せずして発言したとしても
その気持ちの動きを想像することは出来ます。で、本題。
件の「とくめいさん」の場合。あの発言に対する松野さんの反応を
見た時点で「問題は別な所じゃないか?」と感じたのです。
松野さんが反応すべきは「匿名」という個所ではなくて
「最後の行」ではないかと思ったのですよ。どうですか?
”空白に「日本人」もしくは「朝鮮人」を入れよ。”
これってムカつきませんか?
まずはそのことに言及すべきではないのかと。
人がどの個所に憤慨したらいいかについて指南するなんて
余計なお世話だといわれそうですが、ともかく本質は
見逃してはならないと思ったのです。
私には、松野さんが”わざと”内容には触れずに
「とくめい」をスケープゴートに使ったように思われたのです。
(勝手な解釈で申し訳ありません。)
ゆえに、あの場合(7月19日殷蘭発言)はどちらかというと
松野さんより匿名さん寄りの発言にしました。確信犯です。
本当はとくめいさんの投稿があった時点で
(松野さん7月24日の投稿による)
>「差別などない」とでもいうかのような「日本人」と「朝鮮人」を
>等置するニュアンスのことが書かれていながら“朝鮮人”という
>匿名化され得ない単語が出てくることの中にこそ差別があります
という反応を期待していたのです。私はいまだに”とくめいさん”の第二段発言があればいいなと思っています。
なぜならばあの二人の会話から見て取れる”話は平行線→やがて仲違い”
の状況は、日本人と在日の抱える問題とあながち違ってはいないのでは?
という感があるからです。解決の糸口が見えない話には逃げ腰に
なったり、開き直ったりする人間についての話です。
それでどうしたらよいのだろう?とか、あの二人はどうしたら
パッピーエンドになれるだろうか?という所まで話を持っていって
くれれば嬉しいのですけど。
差別に関しては、個人的な見解を持っています。
私などが話に入り込む余地があれば投稿したいなと考えています。
長々と失礼しました。
殷蘭さん:
〈たんに「とくめい」というハンドルの人だと思えばいいのでは?
名前を隠したいのならテキトーなハンドル名にすればいいだけ。
投稿者の欄に「とくめい」とするからには「とくめいさん」と
認識しましたよ、私の場合は。〉私が匿名変数云々、自己紹介云々を書いたすぐあとの「とくめい」(さん)というメー
ルアドレスなしのハンドル名でのああいった書き込みですから、私に対するなんらかの
メッセージではありますよね?どうせ匿名メディアなんだぜ、とか。殷蘭さんのタイト
ルに「もしや」とありますが、これ「もしや偶然ではないだろうか」ということだとし
たら、それはちょっと、ありえないと思います。殷蘭さん:
〈とにかくああいう形を取ってでも話に参加したい意向があると見ました。
それは歓迎できることではないでしょうか?(これを言いたかった)〉とくめいさんの書き込みはこういうものです(全文引用)。
>「あなたは私のことなんか○○○くらいにしか思ってないのよ!」
>「何言ってるんだ、誤解だよ!僕はいつも君のことを○○○だと思ってるんだから。」
>「そ〜ゆ〜言い方が、かえって傷つくのよ、○○○は。 全然分ってないのね。」
>「君こそいつもあげ足とりばかりじゃないか。もっとお互い素直になろうよ。」
>「ほらまた冷静ぶって。そうよあなたはオエライ○○○なのよ。」>(空白に「日本人」もしくは「朝鮮人」を入れよ。)
とくめいさんの書き込み、話に参加することを拒否した書き方ですよね。意味もよくわ
かりません。あと2、3歩でネット上によくある「落書き」になる質のものという感じ
がしてしまいます。言われるとおり、たしかに話に参加したい意向がT本当はUあるの
でしょうけど。私はとくめいさんの書き込み、この投稿の冒頭で書いたことも含めて歓迎できない、い
いかげんな水準のものと判断しました。歓迎できる水準(基準)が私と殷蘭さんでは違
うということ、現時点では致し方ないことですけど、ここ大事な部分も含まれています
ので、肝心なところだけ書いてみます。朝鮮人差別というのは“匿名性としての日本人”による差別であるということが、ひと
つの核心部分となります。インターネット上で今回のとくめいさんのような、その人がみえてこない書き込みに
「差別などない」とでもいうかのような「日本人」と「朝鮮人」を等置するニュアンス
のことが書かれていながら“朝鮮人”という匿名化され得ない単語が出てくることの中
にこそ差別があります。“匿名性の自由を持つ日本人”による「差別などない」という典型的、一般的な言説は
“朝鮮人”から匿名性の自由を剥奪することを強化し、“朝鮮人”を差別します。殷蘭さん:
〈わたくしも、この掲示版で交わされている話題に大変興味がある
一人です。なにか思いついたら投稿しようと思っています。〉それはもう是非。楽しみにしています。
※殷蘭さんの文章全体から「フォロー」のトーンも感じたこと、言っておこうと思いま
す。
また!
このところ掲示板を見るだけになっています。
しばらくしたら書き込みます。しばしお待ちください。
たんに「とくめい」というハンドルの人だと思えばいいのでは?
名前を隠したいのならテキトーなハンドル名にすればいいだけ。
投稿者の欄に「とくめい」とするからには「とくめいさん」と
認識しましたよ、私の場合は。とにかくああいう形を取ってでも話に参加したい意向があると見ました。
それは歓迎できることではないでしょうか?(これを言いたかった)
わたくしも、この掲示版で交わされている話題に大変興味がある
一人です。なにか思いついたら投稿しようと思っています。
> とくめいさん偏差値教育とインターネット文化の犠牲者が、期末テストでほめられたり、けなさ
れたりした想い出に拘泥してるのでしょうか。あるいはそんな人物を演じて見せた?
んなこたあないだろ?いずれにしてもつまらんけど。○○○のところは「空虚」とか「くうきょ」と入れるとしっくりきませんか?
字足らずだったり、字余りだったりしながら、あなたという人間がみえることを
書いたらいいんじゃないでしょうか。昨日、COCCOというワン・アンド・オンリーのミュージシャンのインタビューを立ち
読みしてたら、わたしはインターネット撲滅運動の委員長だ、みたいなこと言って
たけど、わかるよなあ、この気持ち。
ステレオタイプの匿名書き込みのそのまたコピーって物悲しいよねえ。ミヒャエル・
エンデの「モモ」にでてくる「灰色の男」をおもいだします。
記号の記号、コピーのコピー、匿名変数にひっかけたなんとも浅はかな匿名のとくめい。
おー、とてもついていけない。通俗にもほどがある。凡庸や普通であること、恥ずかしいことでもなんでもないけど、「とくめい」で中
身のないこと書きながら、中身があるかのように自分に誤解したがるのは、ものす
ごくみっともないことだよね。
オリンポスの果実の田中英光と
SF作家の田中光二
親子ですね。
アレンと言えばスキタイ人の姓名ですね。
「あなたは私のことなんか○○○くらいにしか思ってないのよ!」
「何言ってるんだ、誤解だよ!僕はいつも君のことを○○○だと思ってるんだから。」
「そ〜ゆ〜言い方が、かえって傷つくのよ、○○○は。 全然分ってないのね。」
「君こそいつもあげ足とりばかりじゃないか。もっとお互い素直になろうよ。」
「ほらまた冷静ぶって。そうよあなたはオエライ○○○なのよ。」(空白に「日本人」もしくは「朝鮮人」を入れよ。)
私の知人の梶野さんのHP・・みなさんも見てください。
↓
Junkyさんの発言
《説明ではないのですが。「それを日本人が問うことが正当なのかどうか」とい
う言い方の背後には、早い話が、議論で正答を見つけだす意欲よりも、単に差別者と
思われたくないという消極的な気持ちがあるのだと今感じています。そういう風に、
なんというか後ろ向きの気持ちにさせてしまうような何かを、日本人と在日コリアン
との問題で、少なくとも私はたまに感じるからです。差別の根本がどこにあるのかを
忘れてはいけないと思う一方で、そういう後ろ向きの気持ちにさせてしまうこと自体
には、日本人だけでなく、在日コリアンにも非があるように感じるのです。で、今ま
たそういう微妙なことをこうして指摘しようとして、やっぱりそういう微妙なことを
書くと自分の無自覚さや差別をあらわにしてしまうのではないか、と心配したりして
しまうのです。》「差別によらない同化」「権力によらない同化」という言い方をどう読んでいいのか
単純にわからなかったので、それを聞きたかったのですが、書き方が不明確でした。
だけどそれもわかった上での返信なのだとおもっています。個人にしろグループにしろ、まったく非がないなんてことはありえませんけど、差別
の一般論としてこんなことは言えるだろうとおもうことについて書くことにします。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」という言い方がありますが、こ
れをもう少し現在的に言い換えてみると「365日足を踏んでいる者には、365日踏
まれている者の痛みはわからない」ということになるとおもいます。それに対して36
5日足を踏んでいる者が、踏まれている者から年に10日ぐらい踏まれるということが
あります。そうすると、365日足を踏んでいる者は、踏んでいることを知らないのだ
から、10日ほど踏まれたことを自分のあずかり知らないことで責められていると感じ
るのではないか、相手の非と感じるのではないかということを、ひとつおもいます。日本人を一括りにして差別者だと、私はおもっていません。いろいろな人がいますから。
ランクの問題はありますが、個人と個人の関係では、お互いの自覚によって解消される
ところも大きいとおもいます。
暇なときに一度メシでも喰いませんか。
Junkyさんの発言
《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、
難を避けるためにここでは日本人と思わせているのかもしれない
という疑いも持つべきでしょう。》という部分、読み違えてました。おっしゃる文意で読んだほうが自然だとおもいます。
ただ、「私のnationality 」のすぐ前の書き込み「コミュニケーション不全症候群2」
で、Junkyさんの下の書き込みがあり、少し混乱する感じがありました。《だけど実は、妖々さんが下に述べたような、
言葉を交わすことそのものに由来するコミュニケーション不全については、
差別のことよりもっとうまく書けないというのが実感です。
だから、むしろ差別のことについては、
考えることをさぼらず、もっと明快に語れるようにならないとダメだと思います。》話の流れとしてここで単純な比較を持ち出すことに疑問を感じたということがありま
した。だけどこのあたりの推移は、もしかしたら掲示板運営の経験から導きだされた、その
秘訣としての「匿名変数」まで考慮に入れたインターネットというメディアの特性に
根ざしたものの言い方で、そのあたりのことはなかなか難しいものがあるのだろうか
ということを、おもってきました。−−−−−−−−
エスニック・マジョリティとしての日本人ではない人への差別を問題として指摘する
際、日本の言説空間の制約性にあらかじめ拘束される困難を抱え込むことになるとい
うところに焦点を当てた場合の、私のおもう〈俗〉について書きます。
差別を指摘する行為や人が「俗」っぽくなる傾向、価値観があるのだとしたら、天皇
制に言及することのしんどさが、天皇制に言及しない範囲で収まる個別の事象に過剰
に向かわせるのだと、言えるところがあるのではないでしょうか、大雑把な言い方で
すけど。それは偽善的に見えるかもしれませんが、言説の制約性に拘束された場面で
の差別を指摘する行為や人の「俗」っぽくなる傾向を、私は俗とはおもいません。
逆にそこを見ないで、その問題を棚上げしておいて、差別を指摘する行為や人の「俗」
を批判することが、時流に乗った俗な反動を形成してしまうという構造を自覚できな
い行為や人は、まさしく俗だとおもいます(これはもちろんJunkyさんを指して言って
るのではありません。それから私がJunkyさんの掲示板に書き込んでいるのは、話をし
ているのは、Junkyさんに一定の信頼感と共感を感じているからそうしている、という
ことを言っておくべきなのだろうという気がしています。それと一番最初の書き込み
をした時点では、HPをろくに読んでいなくて、その後に読んでみたところ、きちん
とするべきだったとおもい、あわてて自己紹介をしたという経緯があったことも言っ
ておこうとおもいます)。
で、この二項対立の図式それ自体を指して陳腐と言うことは可能でしょうが、二項対
立が形成されていかざるをえない笑うに笑えない日本的必然を問うていくこと、たえ
ずそこへ立ち返ってものを考えていくことが、とても大事なことなのだろうと考えて
います。それから俗なレベルで差別をする人はいくらでもいるということがあります。私は普
段本名で暮らしているので、ニューカマーの外国人(アジア人)と間違われることが
結構あります。そうすると少なからぬ日本人がいかにアジア人を見下しているか、よ
くわかります。で、そういう人に対してはJunkyさんと話してるようなこと、言いませ
ん。言ったってわかりませんから、ある程度紋切り型の対応をします。「俗」な対応
をしなければしょうがない場合のほうが、現実には多いということがあります。在日
コリアンに対する俗な差別にしても同じことです。
それはまた、そういうレベルでJunkyさんが差別する人だとはまったくおもってないと
いうことでもあるので、そのことを言っておきます。つづく
ムキンポ掲示板のリンクたどってやってきました。
よろしく。
<俗に非ずの志向性 投稿者:松野 投稿日:06月25日(日)04時44分03秒>に答える 形で、書きます。 Junky 俗に非ずが反動を形成するのはよくないと思います。一方で、反動を形成しな いかぎり俗であっていいという価値観もよくないと思います。差別を指摘する行為や 人に、私はたまにそういう価値観を感じるのです。しかし、だからといって差別に寛 容であっていいわけではないし、差別をしていいわけではないに決まっています。決 まっていますが、ついそういう方向で書いてしまう私、そういう方向で感じてしまう 私が、やはりどこかにいるようにも思います。こうして、なんと、最初に批判したは ずの「俗にあらずが反動を形成する」の事例に私がなってしまうのかと暗い気持ちに なってしまいます。 松野さんの発言 < Junkyさんと私の関係には、個人と個人という関係以外に、日本人 と在日コリアンという関係もあります。そうすると別の問題もでてきます。 日本人で あるJunkyさんが、《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにこ こでは日本人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》とい うことを在日コリアンである私に言うこと自体、特権的ということになります。自身 の難を避ける必要のない日本人というランクに無自覚であるということが言えるので はないでしょうか。> Junky たしかに、「自身の難を避ける必要のない日本人というランク」のことを私は つい忘れてしまいます。わかりきっていたつもりが、このように言われてああそうだっ たと思いました。どうもこういうことを私は繰り返してきたようです。私の普段の生 活環境や社会環境がそれを忘れさせているとも言えますが、いずれにしても改めたい と思いました。 ただ、《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにここでは 日本 人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》という部分は、 松野さんに向けたものではなく、まさに日本人としてのランクに無自覚な人にあてて 書いたつもりでした。しかし、在日コリアンである自称松野さんをあまり意識せずに 書いたというそのこと自体が、やはり私が日本人としてのランクに無自覚であったこ との証拠かもしれません。 松野さんの発言 <Junkyさんは『松野さんへ2』で、こうも言ってます。《これを、も うちょっとゆっくり考えてみたいと思います。在日コリアンが日本社会に「権力によ らない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのかどうか、そのことには 意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、また、それを日本 人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。》 このくだり(の特 に最後の部分)を読んで、やはりよく考察する人だなとおもいましたが、括弧内の文 言、かなりわかりにくいです。どうとでもとれますから。もう少し説明してもらえる と、ありがたいのですが。> Junky 説明ではないのですが。「それを日本人が問うことが正当なのかどうか」とい う言い方の背後には、早い話が、議論で正答を見つけだす意欲よりも、単に差別者と 思われたくないという消極的な気持ちがあるのだと今感じています。そういう風に、 なんというか後ろ向きの気持ちにさせてしまうような何かを、日本人と在日コリアン との問題で、少なくとも私はたまに感じるからです。差別の根本がどこにあるのかを 忘れてはいけないと思う一方で、そういう後ろ向きの気持ちにさせてしまうこと自体 には、日本人だけでなく、在日コリアンにも非があるように感じるのです。で、今ま たそういう微妙なことをこうして指摘しようとして、やっぱりそういう微妙なことを 書くと自分の無自覚さや差別をあらわにしてしまうのではないか、と心配したりして しまうのです。 反省して恐縮して、単に問題から逃げているような気もします。それでもやっぱり、 いろいろ指摘されたり意見を聞いたりして、考えることで、少しずつ、進歩はする のだと、なんか真面目すぎますが、本当にそう感じてはいます。積極的な建設的なこ とを次は書いていきたいと思います。http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
私のページにでも再掲載したいと思っています。 ですが、その前に、もう少し返答をしないといけません。 徐々にやります。
実に深くて面白いです。 スリリングといっては軽薄かもしれないけど。 このまま埋もれてしまうのはもったいない。 往復書翰としてできたら残して欲しいような。
Junkyさん。 デフォルメされる差別ということに関しては、まったくその通りだとおもいます。 「俗」についてもそのとおりでしょう。 マスコミが本質的に差別を掘り下げて考えるなんてことないですし、 デフォルメが流布されるから、本質が語られなくなるとさえ言えるかもしれません。 しかし同時にそれは、差別さえも記号化される、記号文化に回収されるという、 根っこを持てない戦後日本文化の問題とパラレルな関係にあると言えるかもしれません。 それを建前文化と言ってもかまいません。 小浜逸郎の主張のトーンはそれに対する苛立ち、本音を言ってみたということに 過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。 ところが、それ以上でも以下でもないのだけれども、にもかかわらずそれが反動を形成する という問題がひとつあるのだとおもいます。これ結構重要な問題でしょう。 「俗に非ず」がなにを志向するかということ。 今回の返信を読んでJunkyさんとはかなり読む際の重点の置き方が違うことがわかりました。 私は、小浜氏のものを言う視点が、総じてひどく特権的な視点であることに いびつなものを感じます。 一箇所だけ引用します。 ============ 小浜逸郎「弱者とは誰か」(PHP新書)(P162) たとえば「売女!」とののしられたときに、ひどいことを言われたと感じて怒る女性は、 理屈から言えば、「自分は売春婦などという軽蔑されるべき存在ではない」という気持 ちを表明していることになり、それは、売春婦を卑しい職業と見る差別感情を持ってい る証拠ということになる。 ============ 男性権力からひどいことを言われて女性が怒るというそもそもの問題を、 小浜氏はここでおもいっきり捨象しています。男性という特権に無自覚であるところから、 こういう論理のすり替えが起こってくるのでしょう。 ところで「売女!」とののしられた女性が「男権主義者!」とののしったところで、 「売女!」とののしるような男性の依って立つ男性というランク(権力の地位)は 確立されてしまっているため、たいしたダメージを被ることもなければ、 その地位が揺らぐこともありません(※)。 小浜氏を無自覚にさせている背景、のみならず差別の背景には必ずそういうことが あるのではないでしょうか。 小浜氏は男性と女性の権力関係の問題、女性差別の問題を、女性相互の問題に すり替えるという、ひどく差別的なことを多分に無自覚にやっています。 『差別の自覚』と題した投稿で書いたことと、同根の問題でもありますが、 ほっといてもそうなりがちなことを、この人は詐術的な論理でもって補完している わけです。 「俗に非ず」という志向性が特権的な地位に帰着するという性向をも孕んでるということに、注意深くあるべきでしょう。 ※たとえば都道府県ランク最上位の東京都民は埼玉県民を「ダサイタマ」と言って 「からかう」ことができますが、埼玉県民はとりあえず言い返す言葉を持ちません。 仮に怒りをこめて「都会野郎」と言ったというようなことがあったとして、 東京都民の地位は揺らぎません。 これ、あくまでも例示で、実際には日本人というカテゴリーのランクが圧倒的に高いので、 差別ではなく冗談ということにしかなりませんけど。 ただ、字義通りの差別として綿密にみていった場合、ここにも差別はあるということになりますが。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− Junkyさんの書き込み『私のnationality』、個人としてはよいものだとおもいながら 読みました。 しかしJunkyさんと私の関係には、個人と個人という関係以外に、 日本人と在日コリアンという関係もあります。そうすると別の問題もでてきます。 日本人であるJunkyさんが、 《さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、難を避けるためにここでは 日本人と思わせているのかもしれないという疑いも持つべきでしょう。》 ということを在日コリアンである私に言うこと自体、特権的ということになります。 自身の難を避ける必要のない日本人というランクに無自覚であるということが 言えるのではないでしょうか。 ところがJunkyさんは『松野さんへ2』で、こうも言ってます。 《これを、もうちょっとゆっくり考えてみたいと思います。在日コリアンが 日本社会に「権力によらない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのか どうか、そのことには意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、 また、それを日本人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。》 このくだり(の特に最後の部分)を読んで、やはりよく考察する人だなとおもいましたが、 括弧内の文言、かなりわかりにくいです。どうとでもとれますから。 もう少し説明してもらえると、ありがたいのですが。
さいきん、そもそも文章を書くというのはどういうことなんだろう、 書かれた文章とはどういうものなんだろう、とよく考えます。 そのときに、文章が表している内容や、文書を支えている論理を評するよりも、 たとえば「上品であるかどうか」「嫌みがあるかどうか」という観点は、 とてもツボをついたものだと思いました。 私にとっての良い文章を形容する言葉として「上品」というのはたぶんかなり上に来ますね。 私が判断するAさんの人格とは、私がAさんと接して得たさまざまな印象の総和でしょう。 文章にもいわば「文格」といったものを想定してもいいかもしれません。 それは結局はそこにある文章を読んで得たさまざまな印象の総和ということでしょう。 村上春樹に私は80年代に強くひかれました。今も基本的にはそうです。 いろいろ賛否両論ある人ですが、私は村上春樹小説の文格に、 まるで人にひかれるように、結局は非論理的にひかれたということだと思います。 「ねじまき鳥クロニクル」、読み返したくなってきました。
松野さんの発言 <「被差別部落出身者」や在日コリアンに関して、 この人は排除だけが差別で、同化する権力、呑み込む権力を差別とみなしていません。 日本人としてマジョリティ化すれば、それでこの差別の問題は終わりというようなことを言っていて、 トンチンカンなことを言う人だなあとおもいました。> これを、もうちょっとゆっくり考えてみたいと思います。 在日コリアンが日本社会に「権力によらない同化」「差別によらない同化」をすることは可能なのかどうか、 そのことには意味がないのかあるのか、それが具体的にはどうすることなのか、 また、それを日本人が問うことが正当なのかどうか、といったようなことです。 ---------------------------- 石原発言について一言だけ。 石原発言の内容は、世間でときおり耳にする俗説のたぐいだと思います。 報道した人たちも、その俗説の存在は十分知っているでしょう。 報道した人の中にその俗説を信じている人がいないとも限らないとすら思います。 それでも、ああいう人がああいう所でああいうことを発言したからニュースにしよう、 そういう価値判断や態度そのものは(報道することの方便は大いにあると思いますが) 実は極めて俗だと私は思います。 いやほんとうは私はその俗説を耳にすることが、 いろいろと屈折したメディア状況、差別論争の中で、 どことなく刺激的で面白いと感じたのかもしれません。 それはつまりは差別とおおいに関係あるとも思います。 もちろん最終的にはどうか私は差別する者でなくなれるようにと強く望んでいるのではありますが。 --------------------------------- 私はいつもその都度の思いをそのまま書いてしまいますが、 時には論点をしぼってきっちり質疑応答しなければと思います。 あるいは直接会って話をするチャンスがあれば、それはまた有意義だなとも思っています。
唐突ですが。 象というものを初めて目にした徳川吉宗は、 それまでデフォルメされた絵で知っていた象ほど大きくないのでがっかりした、 という話をきょうテレビでやっていました。 私たちが差別というものをイメージする時にも、もしかしたら、 吉宗が期待していた象のように、デフォルメされた形になっているということはないでしょうか。 石原発言が差別的であったことを説明するのに、 「三国人という言葉は差別語だから使ってはいけない」と単純にまとめてしまうなら、 まさに差別をデフォルメしていると言っていいのではないでしょうか。 差別をある程度デフォルメして伝えざるをえないのが報道機関の宿命かもしれず、 そしてまた、 そういうデフォルメ報道をいっそうデフォルメして受け取ってしまうのが視聴者や読者の宿命かもしれません。 しかしそれだけでなく、差別を「差別である」と指摘しその過ちを追及する人であっても、 その人たちの抱く差別の認識が、 同じようにデフォルメされたイメージでしかない場合が、時としてあるような気もします。 「こんな差別がある」「こんな差別はいけない」と追及する側が、 その問題を語りやすく白黒つけやすい側面と言葉でしか語っていない例を、 小浜逸郎は非難したのではないでしょうか。 さらに、差別に反対する行為であれば多少デフォルメがあってもそれは無視してかまわないのだ、 といった傾向があるとしたらそれは良くないと非難したかったのではないでしょうか。 仮に小浜逸郎がそう非難したのではないとしても、 少なくとも私はその非難は正当だと思います。 ただし、「そんな絵に描いたような差別などどこにも存在しないじゃないか」と咎めることで、 「そうさ差別なんてないのさ」と早合点してはいけないということを、 私はもっと強く感じとるべきだったかもしれません。 やはり、なにより重大なことは、絵に描いた差別がどういうものであれ、 問題にすべき本当の差別が常に潜んでいることを忘れないこと、 そして、本当の差別を本当の差別そのままに見つめ描くことだと思います。 小浜逸郎のあの本は、デフォルメされた差別のおかしさに目を向ける一方で、 実際の差別がどんなふうに成り立っているのかを徹底分析してはいないかもしれません。 しかも徹底分析がないゆえに、差別が成り立ってしまう、そう単純でない社会構造を、 けっこう単純にしか見ていないかもしれませんし、 その社会構造の中で自らが差別者となってしまう恐れというものを、かなり甘く見ているかもしれません。 松野さんの書き込みを読んでそう思い返しました。 さて、再び自戒を込めた結論です。 絵に描いた鮮やかで巨大な象に空想ばかり膨らませていた吉宗は、 ホンモノの象が意外に地味であることにがっかりしたのでしょう。 もう象なんてどうでもいいやと興味を失ったかもしれません。 差別もまた「これは差別だ、これは差別ではない」と絵に描いたようには存在していない。実在する差別とは、実在する差別の本質とは、認識するには相当に複雑で面倒くさく、 またむしろそれほど極悪には見えず色鮮やかでもないのかもしれません。 そういういわば「地味でややこしい差別」をどう見極め、どう解消していくかということに、 私は興味を失わないようにしたいと思います。http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
返信として私にとっての「差別の自覚」について述べておくとよいのではないかとおも いました。 私が差別に対して自覚的であろうとするとき、注意するのは権力関係のその構造です。 日本人と在日コリアンという権力関係の中には、たとえば男性と女性という権力関係も あります。そうするとこういう問題が孕まれてきます。差別の権力構造に無自覚なフェ ミニストの日本人が在日コリアン内部の女性差別に言及し、在日コリアンの女性がそれ に乗せられてしまった場合、在日コリアンの男性が差別者にしたてあげられ、在日コリ アン差別の問題は棚上げされるということが起こってきます(話をわかりやすくするた め、すこし極端な状況を想定して言ってます)。 これは一例で、ひとくちに在日コリアンと言っても、朝鮮籍、韓国籍、日本籍、いわゆ る「混血者」(ダブル)など、様々な差異があります。ところで、このマイノリティ内 の差異が得てしてマジョリティに利用されやすいという権力構造の問題があります。 本来、日本権力〜マジョリティとの問題であるはずのものが、マイノリティ内部の差別、 対立、疎遠などの問題として顕れるという問題を解くことが、現在的な差別の課題だと 考えています。だからといって、在日コリアン内部には差別がまったくないということ ではなく、差別はあるのですが、日本人、在日コリアン双方が差別の権力構造に自覚的 でないとき、輪をかけてそうなるということです。 Junkyさんが「日記」で評価している小浜逸郎の「弱者とは誰か」という本、前回の 「まとめレス」と題した書き込みをするまえに読んでましたが、たいへん小浜氏に差別 的なものを感じました。ニュース23出演のときもみていたので予想していましたが、 「被差別部落出身者」や在日コリアンに関して、この人は排除だけが差別で、同化する 権力、呑み込む権力を差別とみなしていません。日本人としてマジョリティ化すれば、 それでこの差別の問題は終わりというようなことを言っていて、トンチンカンなことを 言う人だなあとおもいました。他にも日本人で男性で健常者で知識人(なんですよね、 この人)であることの特権に無自覚でなければ言えないようなことを多々言っていて、 困った人という感想を持ちました。 「日本人」を自称することの問題について鋭敏に見抜くJukyさんが小浜氏を評価すると いうことが、よくわかりません。 「日記」で書いてるマスコミ批判としての石原都知事発言評価(?)についても、含み がありすぎてよくわかりません。あの人、極端に親台湾、反中国というなにかパフォー マンスがかってみえることをやりますが、ああいうことが在日の台湾人、中国人のあい だの対立の火種となりうることなど想像もしないのでしょう。というか、どうでもいい のでしょう。私はそんなことを考えます。 石原都知事の「騒擾事件」発言、「・・・歌舞伎町とか池袋とか。12時過ぎたらどこの 国かわからないよ。ヤクザだって怖くて歩けないよ。日本のヤクザだって。そういう現 況があるんだ。」発言によって、確実に多くの日本国居住者に歌舞伎町の外国人は恐い というイメージが刷り込まれましたが、私、何度か歌舞伎町、夜中ひとりで歩いてみた ところ恐くありませんでした。石原発言以来、偏見で恐がる人々に怒っている外国人は すこし恐いかもしれませんが。石原発言が恐い外国人を捏造したということ、言えてし まいます。ニューカマーの外国人の場合、反論の場さえないですから、余計イメージが 先行してしまいます。 柄谷行人が「倫理21」(平凡社)という本で、南北問題が国内化すること、資本主義 が環境を破壊し南の人々を餓死させるシステムであること、資本主義というガンに対す る対抗ガンとしての、生産消費協同組合〜不買運動の可能性について言及していますが、 差別の問題としてたいへんな射程をもっているとおもいます。
6月17日付けのFrom Junkyを読んで、あの口調は 皇室に関する報道を模したものというよりも、村上春樹氏の 「ねじまき鳥クロニクル」に登場する「加納マルタ・加納クレタ姉妹」の 口調に似ていると感じました。 そう思った方が他にもいてくれれば嬉しいのですが、いませんかねえ。 この小説が一般的だと思っているのはHanako世代の私くらいかも しれませんし(小説に一般的なのもの、そうでないものがあるかどうかに ついては論議を呼びそうなので、またそれに対抗する手段も能力も 持ち合わせていないので、サラッと読み流してください) 東京永久観光の読者で加納姉妹を思い出す方が他にいなくても ガッカリはいたしませんけど。(わたくしの尊敬するメメントモリ藤原信也氏の 言うところによれば、村上春樹氏は”Hanako御用達”らしいのです・・・・ ※注 Hanako=若い女性のバイブルとして一世を風靡したグルメスポット案内と 流行発信雑誌。それを鵜呑みにしていそいそ出かける女子大生。) ところで、この小説に登場する「加納マルタ・クレタ姉妹」は驚くほど上品な 話し方をするのですが、ぜんぜん嫌味がない。先日までよくワイドショーで 話題になっていた「叶姉妹」と比べるまでもなく、まったくもって上品です。 叶姉妹は丁寧・上品に振舞っていますけど、どことなく下品に感じます。 上品に振舞っていながらも下品に感じさせるということは、その「上品さ」は 実は「まがい物」であって、本当に身についているものではないのではないか? と思うのです。そして、同じ「かのうしまい」なのに、かたや上品に、かたや 下品に映るのはナゼ?と考えてみたところ、それは映像の「あるなし」にも 関わっているのではないかと思いました。画面上で丁寧な話し方をされると 慇懃無礼に感じるのです。 何を投稿に来たのか判らなくなってきました。 ならば投稿するな!と叱られそうですねえ。 ともかく言いたいのは、叶姉妹をたんにコキオロシに来たのではないという事、 それと「過度の丁寧さ」は「心が入っていない」と感じるという事です。 つまり「皇室報道は心を込めちゃいけない」という鉄則なのです。 どちらかに「ひいきめに」とられる発言をしちゃいけないし、 場合が場合なので自分の内心を言っちゃいそうな事態になることを恐れて いるのではないでしょうか?今回のチクシさんは。 訳のわからないことを長々と失礼しました。 で、皆さん、暇つぶしくらいにはなりましたか?http://www2.comco.ne.jp/~riripat/
> ムキンポさん レス、有り難うございます。HANBoardへの投稿は少し考えてみます。どうしても HANBoardの場合「議論」になりやすいですから、体力と気力をはかりにかけねば。 知らない者同士の掲示板上の速い「議論」というのは喧嘩じみてくる、「議論」 中毒になる、あまりなにも産み出さないというのが、ネット歴八ヶ月の者の感想 です。 > Junkyさん こんなふうに丁寧にきちんと応答してもらえることが嬉しいです。Junkyさんの 真摯な姿勢に感謝します。内容についてはもう少し考えてから、後日書きます。 日記はいつも読んでます。 > 妖々さん 投稿、いつも興味深く読んでいます。 「在日」(や「被差別部落出身者」)に対する差別というのは、「いるのにいない ことにする」という差別で、学校教育の問題→文部省の問題→戦後の未清算の問題 →日本という国のありかたの問題、という具合になってきますが、なにはともあれ 「いるのにいないことになっている人々がいる〜なんでそんなことになってきたのか」 という「認識〜問い」が一般に広がると、「朝鮮」という言葉も普通に使えるよう になっていくのだとおもいます。
>Junkyさん
僕も廃虚の博物學行ってきました。
一緒(?)のポストカードも買いました
それにしても、どうして人間は絵葉書を買いたがるのでしょうか
一瞬を写し取ったといいつつ、やがて基盤で行く
それこそが一番の廃・景のようにも思うのですが
閑話休題
オーストリアの留学生に「日本人はまだ植民地意識を持っているのか!?」
といきなり尋ねられたことが有ります
それはニュースで「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国が・・・」
といっている最中で
僕はその時朝鮮というのは地名だから云々といって終わらせてしまったのですが
あの時のダブル・バインドな感覚
*朝鮮=差別用語
*朝鮮=地名・古くからの呼び名・正式名称
は忘れてはいけないなあと思います
というか、「支那」も「朝鮮」も、元を正せば由緒正しい言葉であったのに
その意味合いを変えてしまったのは
確かに日本人の一世代・二世代前の行いなのでしょうから・・・
もうひとつ大事なことを書くのを忘れていました。
私は日本国政府発行の旅券を持っていて、
「nationality」を問われれば「日本」「Japanese」と答える人間の一人です。
「私のnationality」をはじめ「私の性別」「私の職業」「私のアイデンティティ」などは
けっして自明でも固定的でもなく、
本来は心の中に隠しておいて必要に応じて決めてよいと私はつねづね考えています。
しかしここでは、国籍やnationalityについて、
黙っていれば、どうせ「日本人」と思ってもらえるだろうという甘え、
どうせ「日本人」と思われてしまうだろうという恐れ、
そういうことに対抗するために、あえて書きました。
さてこの「日本人」という言葉は、
差別の構造上は「朝鮮人」という言葉と対称的な位置にあるわけです。
そうだとしたら、それを自覚しないままで「日本人」を自称することもまた、
正しい訳語としての働きと同時に、
もしや差別する立場から差別を確定してしまう側面があるのでしょうか。
私はこれまで「私は日本人です」と自称することにためらいを覚える時がありましたが、
それはそういうわけもあるのかもしれません。
さらには、私は実は外国籍の日本語話者で、
難を避けるためにここでは日本人と思わせているのかもしれない
という疑いも持つべきでしょう。
だけど実は、妖々さんが下に述べたような、 言葉を交わすことそのものに由来するコミュニケーション不全については、 差別のことよりもっとうまく書けないというのが実感です。 だから、むしろ差別のことについては、 考えることをさぼらず、もっと明快に語れるようにならないとダメだと思います。
私は「朝鮮人」という言葉は差別の感じを与えるので使いづらいような、 逆に差別のつもりがないならむしろ積極的に使うべきじゃないかというような どっちつかずの態度でいます。 松野さんの指摘は、その曖昧さを解読していくための大事な基盤になると思いました。 これに絡んで、少し書きます。 私は幼いころ「朝鮮人」という言葉をある特殊な感情を持って聞き使っていたと記憶します。 しかしその後、日本の朝鮮侵略や「朝鮮人」という言葉の背景をいくらかは学びとり、 その結果この「特殊な感情」をめぐるもろもろをこそ「差別」と呼ぶべきであると考えるに至りました。 それ以降私は「朝鮮人」という言葉を差別を伴わずに使うようなんらかの努力はしているつもりです。 しかし、今後も私が「朝鮮人」という言葉を使った時に 「あなたは差別をしている」と言われることは、やはりありうるとも思います。 一般に、「**」という言葉を使った人が「私は差別のつもりで使ったのではない」と言い、 しかし一方で「**」と呼ばれた人が「あなたは差別のつもりで使った」と言うことがあります。 こういうとき、まず考えられるのは、 「**」という言葉を使った人が相手を差別しているにもかかわらず、 それが差別と呼ばれていることを全く知らない場合です。 この場合は、差別の自覚がないわけですから、 その人は同じ言葉を同じように使い続けることになるでしょう。 しかし、むしろ注意すべきなのは、 「**」という言葉の差別性をある程度知っている人が、 その自覚の範囲を超えたところでやはり差別をしてしまう場合だと思います。 この場合は「私は差別ということを知っている。 だから私は差別をするような人間ではない」と信じているだけに、もっと深刻です。 「差別は、それが差別であると自覚できない場合にこそ発現する」ということになるのかもしれません。 自戒の言葉として書き留めます。 とはいえ、私は実はときおり自分の日記に下(アドレスを示します)のような 「差別(語)を禁止する側に対する漠然とした疑念」のようなことを書いてきました。 だから、本来ならそういう立場で私が、 この微妙な問題を解く道筋をあえてこの掲示板に示してくださっている松野さんに、 なんらか質問をすべきかと思うのですが、まだ的確に書けませんでした。 きょうのところはここまでにします。 http://www.tk1.speed.co.jp/junky/junky15.html#000503 http://www.tk1.speed.co.jp/junky/junky15.html#000412
松野さんの文章、とても面白く読みました。 HANBoardにもそのまま投稿して、人びとの反応がみてみたいなあ、と思いました。 あるいは反応がないかもしれないけど、その場合でもインパクトはあるんじゃないだろうか。http://www.han.org/hanboard5/index20.html
しかし“朝鮮人”にもともと差別的な意味合いはなかったという想定から考えたほう が、差別に関する考え方一般としてはもう少し普遍的になるかもしれません。 差別とは権力関係であり、権力の地位の格差が大きければ大きいほど権力の地位が高 い側が低い側に、同じ言葉で“差別語”を“名付ける”ことが可能となる。 権力の地位の高い側による出鱈目な意味付与、恣意的なイメージ操作、ファンタジー 形成によって、権力の地位の低い側の“自称”を“他称”化する、事実上“差別語” 化することができてしまう。それが同じ言葉であったり、正しい言い方であっても、 相手の名前を奪い(言葉を狩り)、恣意的に名付けなおすことができてしまう。 さらにここで問題となるのは、この構造はいったんそれが成立して、“朝鮮人”とい う言葉に孕まれる権力関係の非対称性が不問に付されてしまうと、日本語話者である 「在日」が正しい訳語である“自称としての朝鮮人”を名乗る場合であっても、差別 語だかどうだかはっきりしない差別語である“他称化された朝鮮人”を引き受けざる を得なくなる構造であり、差別者ー被差別者という関係性の枠組みが反復されること ともなる。 だから“朝鮮人”という言葉の内実を調べるのはなかなか大事なことなのである。そ んなふうに考えます。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− “朝鮮人”という言葉に孕まれる権力関係のメカニズムを解いておくことが 「『在日』がなぜ名乗れないか(名乗らないか)」という問題に対する、ひとつの考 え方の契機ぐらいにはなるかもしれない、「在日」と日本人の疎遠、緊張を解きほぐ すひとつのきっかけぐらいにはなるかもしれない。 “名前を奪うメカニズムとしての差別”を明らかにしていくこと。“言葉狩り”とい うことがよく言われますが、ここには問題の転倒があり、言葉(名前)を狩ってきた のは、つねに権力の地位が高い側であったことを明らかにしていくこと。それによっ て、言葉を狩らない、言葉を取り戻すことの端緒につけるのではないか。 同時に「在日」や他のマイノリティとエスニック・マジョリティとしての日本人のコ ミュニケーション回復の端緒にもつけるのではないか。 このあたり考えどころで、差別(語)問題の急所のようにおもいますが、どうでしょ うか。
なんだかもう梅雨ですね。インターネット、ひさかたぶりです。コミュニケーション、 言葉、差別などについて少々おもうところを。 石原発言がいろいろと世間で論議を呼んできましたが“朝鮮人”という言葉に孕まれ てきた差別性、問題点について少し言及してみたいとおもいます。そうでないとなに かものすごく中途半端という気がします。 “朝鮮人”がマクロレベルでの“差別語”だとすれば、「三国人」等はミクロレベル での“差別語”であると言っておきます。ここをクリアに、鮮明にしておくことが大 切なのだとおもいます。 マクロレベルとは植民地支配時代の“日本権力による名付け”ということで、 “朝鮮人”とは圧倒的な権力の地位の格差のもとに、日本権力が“朝鮮(チョソン) 民族”の言葉と名前を奪い、破壊的かつ、強烈な差別性をもって名付けた日本語によ る“差別語”であり“他称”です。 ミクロレベルとは日本国内的というか、“一般的な正しさ〜字義としての正しい名称” をいじってるかどうかが主に問われるレベルを指して言ってます。ミクロレベル的に は「鮮人」「半島人」「三国人」などは、わりとしっかりと“差別語”とみなされて きましたが(あたりまえですが)、“朝鮮人”は“差別語”なのかどうなのかはっき りしないまま、にもかかわらず“朝鮮人”を一般的な比較級の基準にするという形が とられてきました。 これは“朝鮮人”という言葉は権力関係としては差別語であるが、訳語としては正し いというダブルバインド状況(〜レベルの混同)に幻惑されてきたという捉え方がひ とつにはできるかとおもいます。 ほかには、朝鮮人(特に一世)の東アジアのラテン系とも言われたりする細かいこと を気にしない民族気質、生活に追われてそれどころじゃなかった、などの理由がおも いつきますが、やはり訳語として正しいからという理由が大きかったのでしょう。 マクロレベルとミクロレベルが混同されると、“朝鮮人”という言葉は「在日」の名 乗る自称としても、日本人が呼ぶ他称としても、つまり関係性としてもダブルバイン ド(二重拘束)状況をつくりだしてしまいます。“差別語”なのか“正しい言い方” なのかわからなくなる。こういうのは健全なコミュニケーションが成立する状態では ないので、問題をクリアにしておくことが必須なのではないか。クリアにすることで コミュニケーションの端緒につける。言葉を取り戻せる。そんなことを考えます。 つづく
伝えたかったのに言えなかった言葉 そんな気はなかったのに口から出た科白 小さい頃に栞に書いてあった一遍の詩 誰が詠んだか知らないけれど ずっと心に残っている。 何がなんだかわからなくなって 吐いた言葉はもう拾えない 吐いた言葉はもう拾えない だから慎重に慎重に言葉を選んで選んで 選び疲れ果てて 言葉遊びの振りしてみれば お前はコミュニケーションなど望んでいないのだろうという罵倒の声。 言葉を軽々と越えていく関係性を望んでも 言葉以外持たない僕たちは 言葉にすがって這いつくばって生きていくしかないのでしょうね。 吐いた言葉は拾えなくて 言葉で上塗り ああ 情けないね
ひとりごとは弱い。吐き捨ては強い。 というのは錯覚だ。 弱い調子を保ちながら言葉をつないでいくのは、 けっこう持続力のいることで、 そういう頑張りがきかない時に、 コントロールを失った言葉が暴走し、 吐き捨てになってしまう。 思わず吐き捨てるしかなかったほどの、コミュニケーションの不全と渇望。 その悲しさ。 でもやっぱり吐き捨てを聞けば「ああもういいや」と思ってしまう悲しさ。 思わせぶりに共感を迫るひとりごとのほうが、 本当はもっと狡猾なのかもしれない。 しかし、吐き捨ての暴走、ひとりごとの狡猾、 すべてをくるみこむ慈悲の心を持てるなら、 どんなことがあっても、話は続いていくのでしょう。 話をしましょう。 とぎれとぎれ、息切れ息切れではあっても、話をしましょう。 妖々さんが吐き捨てタイプにはとても思えないのは事実ですが、 誰かに吐き捨てと言われたのも事実なら、 それはそれでどうしたもんでしょうね。http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
あんまり詳しいことはわかりませんが僕も 「吐き捨て型コミュニケーションをする奴は嫌いだ」 と言われたことが有ります。 今もって僕には何を僕が吐き捨てたのか僕自身にすらわからないのですが。 それはそうとして「吐き捨て」と「独り言」はどのように違うのでしょう そしてまた独り言/吐き捨てであればそこから先へと 話はやはりつながらないのでしょうか それは相手が吐き捨てと認識した時に 「ああもういいや」と思ってしまうと言うことなのでしょうか 僕には切実な問題です。 追伸: 「伝染るんです」のお馴染み包帯秀才少年と フロイトの精神医学の成り立ちとの関係を論じた文章も有りますよ。 『知の技法』だったか『知の論理』だったかで 僕が勝手に敬愛している石光泰男先生がやっています。
「あのページを他人の目に触れるようなところにおくのは、 探究を深めようというのが目的というより、ひとりごととして味わってもらいたかった」 は皮肉っぽいですが、よく当たっています。 私には言い放しで議論を避ける傾向があると、しばしば反省します。 しかしそのことが言葉を禁じてしまうことにはならないよう念じています。 どうぞもっと書いてください。 息切れするから休み休みいきますが、松原氏の言葉と一緒に走りたいのは本当です。
たとえば 『三国人は日本から出ていけ』 みたいなことを、手書きで書いた「薔薇」の字みたいにしてHPに載っけ、不愉快に 思った人が抗議したとします。そういう人に「あれはひとりごとを書いたもので、 音楽の旋律みたいなものとして味わってくれませんか」とか、「あれは一個の芸術 作品で、何かを言おうとしているのではない」みたいなことを言われ、納得するで しょうか。また、そのようなことを言われ、その言葉そのものも含め「音楽の旋律 みたいなものとして味わって」いるだけで済ませていられるもんなんでしょうか。 それとも、そういう反応をしないのは無粋でよくないのでしょうか。確かに、味わ うような読み方をするのもおもしそうだったり粋だったりするものなのかもしれな いませんけど、私はそのように、人間、できていないものですから、まあ、いたし かたない。 私は、あの『脳内夢想』が、脳や心、言葉、といったものに関して探究していこ うとしているものと見え、そのへんの話題にかなり興味がある私にはどうにも“気 持悪く”読めるところがあったのであのような書き込みをした。しかし、あのペー ジを他人の目に触れるようなところにおくのは、探究を深めようというのが目的と いうより、ひとりごととして味わってもらいたかった、という訳なのですよね。わ かりました。字義通りに受け取った私のセンスがよくありませんでした。 (ちなみに『茄子の論理』のひとりごとは、気持ち悪いというより、少々腹が立つものでした)
松原氏の(1)に対して・・・ 「あなたの眼が1を見たとき、あなたの脳には2が見えている。 つまり1の光の刺激に対し、脳が2のように反応している。」は、 「私が見るのはとにもかくにも同じ一つのものだけだ。」と言い換えることにします。 松原氏の(2)に対して・・・ 「偉そうで思い上がった雰囲気」と感じられたのは、 つまり私の文章がそうだったからなのでしょう。 とりあえず今「私としてはそういうつもりじゃないのですけど」と書いておきますが、 そうすると「あ、そういうつもりじゃなかったのか」と感じてもらえるような性質を、 文章というものが本来持つのかどうか、それはわかりません。 松原氏の(3)に対して・・・ 「私のあの感じ」というのは、大胆にも「私のあの感じ」のことだと思ってください。 また、説明できないものはもちろん説明できませんが、 「説明できること」は、大胆にも「説明できる」のです。 そういうことで「私の・・・あの感じが・・・・説明できる」です。 よくわからないか。 松原氏の(4)に対して・・・ 「ピアノのドの波形だけで、ピアノのドの響きが説明できる。」というのを、 「ピアノのドの波形とは、ピアノのドの響きの説明なのだよ。」と言い換えます。 それにしても、いろいろ考えさせられるのは、 言葉をいくつか連ねた文章というものは、 意図しなくてもなんらか論理を成してしまうので、 「納得できない」ということが起こりえます。 しかし、実はあの文章は、 論理に気を配る余裕がなくひとりごとを書いたもので、 音楽の旋律みたいなものとして味わってくれませんか。 そしたら、納得するしないという反応よりも、 気持ちいい悪いというような反応になって、 そのうえで「気持ち悪い」ということであれば、そういう責めは受けます。 これもすべてひとりごとです。(でも言葉は論理をなす)http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
(1) 厳密に言えば、1の映像を見たとき、私は1の映像を見ているのであって2が見
えているわけではないです。1の映像を見ているとき、と、2の映像を見ているとき、
は、たとえ小さなものにしろ回りの状況の違いによって脳全体の反応も違ってい、それ
が1を見たときと2を見たときの違いとして影響しているだろうと思われます(2の映
像を見ているときは、たぶんたいてい1の映像を見た後だったりしそうでもある)。も
ちろん、1の映像を見ているとき、と、2の映像をみているとき、の脳の反応に似たよ
うなものが現われるであろうことは予想できますけれども。3の字の映像と4の字の映
像についても同じで、私の目が3を見たときには3が見えているのであって、4が見え
ているのではありません(これもまた、3を見たとき、と、4を見たとき、の脳の反応
に似たような事態がおきているであろうことは予想されますが)。
(2) >「薔薇の花を見たときの鮮やかなこの感じ」や「ラーメンを食べたときのぐっとくるあの感
>じ」は、すべて、感覚器からの刺激に対し脳内でニューロンが反応して生じているすぎな
>い。私たちはこの事実を知ってはいても、時としてそれを受け入れがたく思ってしまう。そ
>れは何故か。
「私たち」が、ほんとに受け入れがたく思っているのかどうかは疑問なんですが、少な
くとも私は『脳内でニューロンが反応して生じている』らしいという事実(らしいもの)
を受け入れがたくは思っていません。私が受け入れがたいのは、『生じているにすぎない』
というような言い方で、つまり、どのような人間がどのような感動や思想や希望や思いや、
等々言ってみたところでそんなものは脳内現象にすぎなく、でも、その脳内現象を扱う私
たちは、そんなような感動や思想や希望や思い、などといったようなものとは違う“たい
したこと”を扱っているのだ、それだけを扱っていればみんななんでも“わかる”のだ、
とでもいいたげな、偉そうな思い上がった雰囲気が感じられ、そんなところが受け入れが
たいように思われます。
(3) >ピアノのドの音の刺激に対するニューロンの反応だけで、私がピアノのドの音を聞い
>たときのあの感じが説明できる。(A)
私は、この(A)が、(B)と関係なくそれ単独で受け入れられません。ピアノのドの音でも
薔薇の花でもなんでもいいのですが、それらに接した“私のあの感じ”なるものをどの
ように同定するのか。ニューロンの反応というのはどのようなものだろうとあますとこ
ろなく、かならず“私のあの感じ”として感じられるのか。それとも、“私は感じてい
ない”けれども実験している者が、これこれのニューロンの反応はこれこれの感じとし
て感じているはずだ、として説明するのか。私にはとても“私のあの感じ”なるものが
“説明”されるとは思われないです。
(4) (B)も(A)とは関係なしに、これ単独で受け入れられません。ただ、こちらは、他の
波形との比較によって説明されたりしたら受け入れるのにやぶさかではありません。無理
すれば、「それがどうして“ピアノの音”なる語として言えるのだ、とかなんとか、受け
入れないでがんばれないでもないような気がしますけれども。“響き”ってなんだよ、とか。
http://www.tky.3web.ne.jp/~fukuju21
私はだから今日はくつしたをはかなかった 投稿者:Junky 投稿日:05月27日(
土)07時47分49秒
おおなんと、みどりのくつしたさん。
はじめまして。
といっても私は、そちらのHPや各掲示板でのやりとりなど、ときどき見ております。
ひそかに「掲示板テロリスト」「旅の過激派」のレッテルを貼り、
とても楽しく読んでいます。(いやほんとうに)
旅には人それぞれ(私を含めて)いろいろ理屈や根拠があって面白いですが、
インターネットもいろいろで面白いですね。人生いろいろ。くつしたはみどり。
Junkyさん、どーも。
チョー百カ国世界旅行者みどりのくつした といいます。
どこからか、迷宮旅行社にはいって、やってきました。
僕は中央アジアは、ツアーで行きました。
でも、中国からクンジュラブ峠を越えて、パキスタン、イラン。。。
というのは、去年やりました。
掲示板があれば、書き込む主義なので。
そうそう、僕のHPにはこの「アジア超特急地獄旅行」が、ちょっと書いてあります。
それではまた。
みどくつ
http://member.nifty.ne.jp/worldtraveller/
悩み抜いたあげくに何も返答しないことと、
全くなにも考えず見もせずに何も返答しないこととの区別が、
とにかく何も書かないでいては難しいのが、この種の掲示板と言えますが。
を拝見。何度かは見てるのです。私が迷宮旅行社に迷い込んだ
きっかけは、あのページのいずれかのキーワードが検索に
かかったからなのです。久しぶりに覗くといつのまにやら
持っていく候補が増えていますよね。
「候補の人そのもの」なのか「その人の作品」なのかは
わかりませんが、あれだけ持っていければ寂しくなさそうです。
>本格作業はまたいずれ
とありますので、待っていまーす。
ところでヨヨギコーバンの件はどうなりましたか?
善意の第三者であるJアンドKのその後、進展ありましたか?
ホームページ見てきました。たぶん私は貴方にお会いしています。
ブハラのファティマおばさんの民宿に同じ時に滞在し、
ラビハウズのカフェでも一緒に食事しました。
懐かしいですね。
おばさん宅の娘さんたちには、私は会わせてもらえなかったなあ・・・
ムキンポさんの言うとおり、私もよくそうやって上位ディレクトリにアクセスします。
しかし、私のページの場合、実は上位ディレクトリ(フォルダ)は存在せず、
ファイルはすべて並列なんです。
こうしておくと
あとでページ内の構造を変えたり、リンクを組み替えたりする作業が楽だからです。
それと、実は、http://www.tk1.speed.co.jp/junky/にアクセスしても、
トップページにはいかないようになっています。
だから、私のメールアドレスしか知らない人は、
それをもとに私のホームページアドレスを割り出すことは難しいはずです。
・・・ついでながら。
「A」の森達也監督は現在もオウム信者の取材を続けているという話です。
だから昨年あたりから住民登録や児童の就学が拒否されてきた様子も、
いずれ続編で見ることができるんじゃないでしょうかね。
下のリンクに、例の、警官が信者を押し倒した場面の写真がありますよ。
http://www.spice.or.jp/~cineaste/l/959.htm
はじめまして、conbeafともうします。
中央アジアのお話を拝見しました。
旅程を見ると自分と同じ時期にウズベクなどを移動されているので、
もしかしたらどっかでニアミスしているかもしれませんね。
ではでは
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9234/index.htm
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
たとえばこういうURLがあって、そのページに興味をもつと、
僕の場合、ほとんど必ず末尾の****htmlとかを削って
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/
も見ます。
「A」は僕も見たよ。
笹塚交番の件、ご意見ありがたいです。
また進展があれば書きます。
>たぐちさん
その話、この際だから、詳しく書き残しておくというのはどうでしょう?
同類憐れみのリンク。
>妖々さん
警官の職務質問が不法だの不当だのとうるさく言わないような人には、
たぶん松永氏は親切なおじさんなんだろうと思います。
(話は代わりますが、そろそろ日記の再開もよろしいのではないでしょうか)。
>殷蘭さん
警官が個人的に悪かったと思っても、警察全体に関わってくるのを避けるために、
「謝罪など絶対するな」ということになってるんじゃないでしょうかね。
ただ私としては警官個人に誠意のようなものが見えればそれで気がすんだかもしれないのです。
それもないからケンカっぽくなってしまったのです。
>ムキンポさん
これだけ独立して読んでほしいという気持ちがあって、
元のページにリンクしなかったのですが。
その後、メールアドレスだけ載せておきました。
それはそうと、今トレンディなのは、警官にやられるよりも、
警官をやっつける方かも。
「最近の警察が悪いのでやってやろうと思った」アイスピック事件のごとく。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
私も、警察に言われない罪に問われたことがありますよ。
殺人容疑(笑
とりあえず、身分は「重要参考人」らしいのですが、指紋を採られ、且つ、アリバイまで聞かれました。
朝早くから叩き起こされ、警視庁に連れて行かれて、写真まで撮られて・・・
おまけにバイトまで遅刻するし。
詳しい説明も無し。さらに刑事の態度が下品極まりない。
非常に不快でした。
でも、チキンだから何も言えません。
謝っちゃうと、日の丸が下がっちゃうからいけないんじゃないんですか
(日の丸しょってる皆さんは)。
何しろ掲揚しないと校長降格とか平気で脅すくらいですからね。
それにしても春らしい・・・
きっぷのいい気○○いぶりを見せてくれてますね、バスジャック。
あやまらないものなのですねケーサツって。
「ごめんなさい」ってとっても大変なことなのかなあ。
ウチとこのBBSにリンクはっておきました。
笹塚交番のおっちゃん(氏名不明)…同一人物かは知らないが
僕が笹塚に住んでいた頃は優しかったんだけどねぇ。
でもそういう小さな苛立ちが大きな不信を招くということを
もうちょっと権力のある人は考えなくちゃいけないんじゃないかな。
「権力のもつ者はいじめられなくてはいけない」(柴田元幸)
此れは
大学の教官は学生に対して権力を振るえる(単位・在学の可否)立場に有るから
少々からかいのネタにされても仕方がない、という意味だったんですが、
そこらへんがわかっている権力者(とかくと偉そうだがまぁそこらの警官・先生)
って少ないですね、本当に。
ページ内にどこにもリンク貼ってませんね。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
謝っちゃうと、日の丸が下がっちゃうからいけないんじゃないんですか
(日の丸しょってる皆さんは)。
何しろ掲揚しないと校長降格とか平気で脅すくらいですからね。
それにしても春らしい・・・
きっぷのいい気○○いぶりを見せてくれてますね、バスジャック。
あやまらないものなのですねケーサツって。
「ごめんなさい」ってとっても大変なことなのかなあ。
ウチとこのBBSにリンクはっておきました。
笹塚交番のおっちゃん(氏名不明)…同一人物かは知らないが
僕が笹塚に住んでいた頃は優しかったんだけどねぇ。
でもそういう小さな苛立ちが大きな不信を招くということを
もうちょっと権力のある人は考えなくちゃいけないんじゃないかな。
「権力のもつ者はいじめられなくてはいけない」(柴田元幸)
此れは
大学の教官は学生に対して権力を振るえる(単位・在学の可否)立場に有るから
少々からかいのネタにされても仕方がない、という意味だったんですが、
そこらへんがわかっている権力者(とかくと偉そうだがまぁそこらの警官・先生)
って少ないですね、本当に。
ページ内にどこにもリンク貼ってませんね。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
なんかこういうのもトレンディでいいですね。
なんてコメントするとこういうのも記録に残って不利な証拠に
なったりして、なんてことはありませんよね。
つづきに期待。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
自転車泥棒と疑われていることの経過です。
いろいろ迷いましたが公表します。
どうぞ読んでください。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/sasaduka.html
で、どうなりましたか?
ますますおもしろいことにでも?
興味津々。
http://www2.comco.ne.jp/~riripat/
私のボロ自転車が盗品だと警察に疑われ、
たいへんおもしろいことになっています。
警官の方は、どうやら本気です。
人生長く生きてみるものだなあと思います。
なんかしらんが誰かが私を定義しようとする。
しょうがないな、対抗して、私も私を定義してみるか。
それがアイデンティティとか?
アイデンティティじゃ長いのでアイデンティでいいんじゃないかと言ったのは、
赤瀬川原平氏です。
とかいろいろ。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
結局「日本語(大和語?)」には成らなかった言葉の一つ、アイデンティティ。
アイヌの言葉や、琉球の言葉には有るのだろうか?
常に他国の言葉でしか表せない‘ワタシヲシメスモノ’。
ということは、
‘ワタシハツネニガイブカラノテイギヲウケテイル’という隠喩かもしれませんが・・・
しかし、その他国の言葉をあえて自国語の中に取り入れようとする試みは
‘ワタシガワタシヲテイギスル’という意味に成るのかも。
おやおや、下らぬ戯言ですね。
東京は
桜盛りなれども
時雨多くして
時おかずちりゆく
親戚以外からの投稿がまったく無いコーナーというのは、なかなかですが、
ただ、親戚からの投稿があるコーナーというのも、こりゃまた。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
とは、和歌らしくてきれいだと思います。
その才能をもって俳句などどうでしょうか?
私のサイトにBLUE TALK という俳句コーナーを設けて
いるのですが(宣伝に来ているわけでは断じてありません)
親戚以外からの投稿がまったく無いという
うら寂しいコーナーなのです。気が向いたらお願いします。
http://www2.comco.ne.jp/~riripat/
そういえば、紀貫之は歌人でしたね。
土佐日記、こんど図書館で探してみるとしよう。
日本語の文学史を真面目に調べたくなってきました。
それはそうと、
紀貫之は東浩紀より積白雪(つむしらゆき)に似ているような。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html(でもきょうはまたサーバ
不調)
土佐日記は紀行日記であるとともに歌本でもありますよね。
(”でもある”というか歌本のつもりで書かれたのかもしれない?)
各所に即した五七五七七が散りばめられています。
その歌をその日の日記の「タイトル」と見立てることも出来ませんか?
なぜならば詠んだ歌を見れば作者の気持ちを垣間見られるからです。
これはタイトルと言っていいと思います。
ということは日記にタイトルをつける作業は堂々と、
パクリでもなんでもなくお断りすることなく行っていいという
ことですよね、紀貫之が始めたことなんだから。
(自分で勝手にパクルとか言っておいて、いまさらながら
それはパクリじゃないという結論は非常に変ですけど)。
ということで今日からはタイトル付き日記を始めたいと思います。
ここでふと新たな疑問のようなものが浮かび上がって
きました。キノツラユキは歌人です、当然のことながら。
(といいつつ、恥ずかしながら古今集さえ読んだことありません)
歌人たる貫之が書いた「土佐日記」はもしかして歌のほうが先にあって、
歌を読ませるための手立てとして前後のお話があるのではないかという・・。
そうなると思い出されるのはまたまたJunkyさんのことば。
>なにか出来事があったからなにか書くのではなく
>なにか書くからなにか出来事があった。
>のではなかろうか。もしかして。
(ずっと以前のものを度々引用してすみません)
もしかしてJunkyさんは日記の本質に数年前から
かなり近づいていたか、もしくは気が付いていたのでは
ないですか?
とにもかくにも、いままでと視点を替えて「土佐日記」を
読む気にさせてくれたjunkyさんに感謝。
Junkyさん、じゅうぶん答えになっています。
さらしな日記ファイル、痛快、驚きの連続!
「日記に関する数々の疑問の答えは土佐日記にあった!」
と確信しています。「自分の日記をweb上で公開するのは
バカみたいではないか?」という気持ちをどこかに持ちながら
web日記を続けていたのですが、そのモヤモヤも晴れました。
土佐日記が祖だとすると「日記は公開を前提に書かれるもの」と
いうことですよね、違いますか?
ここ数十年?数百年?は引き出しにしまいこまれるアイテムだった
日記にとって、そんな(非公開という)不遇な時期はやっと
終わりをつげて、インターネット上で陽の目を見たのですね。
web日記は土佐日記の正当な後継者であると思います。
あと「一行日記」の件ですが、土佐日記にはこういう部分が!
六日 昨日の如し。
二八日 夜もすがら雨やまず。今朝も。
他にも一言・一行で終わる部分があります。日記の祖が
一行で終わらせているのだから一行日記はあっていい!
ここまででいったん投稿。
http://www2.comco.ne.jp/~riripat/
殷蘭さんへのレスを書いていたら、長くなったので、
下のリンクにおきました!(答にはなっていませんが)
それはそれとして、
一行でもそれを「日記」と強弁し、むしろ日記の定義を変えていく。
今やそれがよいのではないでしょうか。
なお皆様、ホームページをお持ちの方は、
差し支えなければ、その都度、下にURLを記入してはいかがでしょう。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/nikki1.html
なるほど。逮捕する事も大口を開けてぱくつく事も
出来ないのでさしずめ私のぱくり行為は
「かすめとる」に近いのでしょうか。
ムキンポさんありがとう。
Junkyさん気をつけてください。迷宮旅行社には
窃盗犯が出入りしているようです。
ぱく・る
#他五#
#大口を開けて食べる。ぱくつく。
#店先の商品などをかすめとる。また、金品をだましとる。
#逮捕する。
[広辞苑第五版]
From JunkyあるいはWhat's Newに題がつくように
なったのですね。その言葉だけ並べてもそこに意味深いものを
感じます。私が勝手に感じるだけでしょうけど。
「題」を付けるという作業パクろうかなあ。
(ところでパクるって語源は何んだとおもいます?英語でしょうか。
警察にパクられるとか聞きますけど。あ、答えなくていいです。)
近々”真似”しようともくろんでいます。その日の内容を要約した
題になるか、内容に関係なくてもぜひ使いたい言葉にするか、
もしくは一行だけ書くかはその日の気分で。
その日の気分ということはたとえ一行でもやはり「日記」と
呼べるのでしょうか?(これは聞きたい)
福田和也の作家100人格付け採点本。
文学という虚構世界の、その中心に自らが位置しているという虚構の、
デモンストレーション。
しかし、文学者はだれしも、
こうやって「俺が中心だ」という見栄を少しも崩さない態度も大事なのだと思います。
だから、けなされた作家も、ほめられた作家も、
そんなの俺の知ったことか、という態度で応じるしかないでしょうね。
なんにしても、これだけ具体的に言うのは偉いし、楽しい。
お祭り騒ぎあるいは対岸の火事を黙って眺められる、観衆の特権。
作家100人格付け採点本に文壇騒然!
話題のベストセラーもバッサリ
http://www.zakzak.co.jp/top/top0328_2_01.html
通称名松野様
了解しました。
気が付いてよさそうなことでした。
心理学のことで一言。
私は、自分の性格や人づきあいの仕方が、どうも他人とは違うように感じ、
その説明を心理学的なことに求めた時期がありました。
つまり「人間の性格」「性格の要因」という標準的な座標・公式を見定め、
そのどこに自分は位置しているのか、なぜ自分はこうなのか、
そういうことばかり考えていました。
しかし、いつのころからか、そういう気がかりも消えました。
どうしたってもうこのままでやっていくしかない、
あるいは、このままでもどうにか生きてはいけるだろう、
そういう諦めの方が強くなったのでしょう。
それは自分自身が座標軸となったということかもしれません。
自分が見えている世界を基準にすることにしたということかもしれません。
その結果、今では、
自分の「性格」は、悩みの対象ではなく、興味の対象です。
また「他人は知っていて自分は知らない私」あるいは、
「他人も自分も知らない私」という領域についても、
昔なら「そんなの私ではない」と抵抗したかもしれませんが、
そういう神秘の部分も、興味の対象です。
それはそうと、
「これが私です」とアイデンティファイする自分の像には、
自ら意図して選び取った部分と、
否応なく意識させられた部分とが混在していると思います。
しかも、いずれの場合も、歴史や社会、さらには風俗や流行にすら影響されるものだと感じます。
ナショナリティーはどんな感じで出来上がるんでしょうね。
こういうことについては、またいろいろディスカッションしたいものです。
頑固なのは母と韓国文化、両方だと思いますが、本国韓国人の男もこれまた頑固です。
韓国に一時期住んでいたことがありますが、サウナでなにかの拍子で勃起してしまっ
たのであろう男が、腕組みをしたまま堂々と座っていた光景に出くわしたことがあり
ます。頑固と言うより堅固?
サウナ、公衆浴場といった場所はその国の文化が結構見えてきたりもする(陰茎がではない)
おもしろいところのような気がします。
自分探しの真面目な答えとしては、心理学方面に携わっていることもあり、普段「私」
がアイデンティファイしていない、あるいは自覚していない「夢人物」との対話、統合
の果てしなき過程とでも言えるでしょうか。
普通の答えとしては、時折散歩などしている時に、幸福な時間が訪れることがあり
(もちろん去りますが)、そんなとき自分探しをしていない自分を感じます。
名前のことですが、「在日」がカミングアウトする場合、だいたい「在日韓国人の○○です」
というように本名を名乗るということになり、「在日韓国人の通称名松野です」という
かたちのカミングアウトは、現実にはまずないと思います。だけど、ネット上の特に東
京永久観光という場では、ありだと思いました。ですから、「通称名松野」と呼んでもらえると、
その意味でのコミュニケーションは達成されたということになります。「松野」と呼んでもらって
全然構わないのですが、そんな意図があったことを説明しておく必要を感じました。
柄谷行人については、あの人は論理の人ではないのだろうと、私には感じられます。
どちらかというと「直感の人」もしくは「知恵の子ども」という比重が「論理の大人」より、
大きいように思えます。私などはタイプ的にわかりやすいと感じたりもします。
特に「探求」シリーズはおもしろかったです。
「ウィトゲンシュタインは一番遠くまで行ったんだぜ」と言っていた友人がいて、
「へえ、そうなのか」と思っていたあとで、「探求」で引用をみつけ、おお、なるほど、
と思ったことがあります。
「世界があること自体が神秘なのだ」というのと、「ゲームのルールはその都度つくられる」
という言葉が印象に残っています(言い回し違っているとおもいますが)。
ところでその友人も観光好きなのですが、ウィトゲンシュタインと観光ってなにか関係があるのですか。
「発見」「起源」「隠蔽」という言葉で柄谷行人が言わんとしていることは、
なにかとても新しい見方なのだと感じます。 が、私には、まだよくわかりません。
(とっくにあの本を読んで理解した人には、なんだ今さらという話でしょうが)
ただ、とにかくそういう見方で、WEBでの我々の読み書き習慣を考えてみるなら、
大変おもしろいと思うのです。
べつに柄谷の本ばかり参考にせず、独力でいろいろ考えればいいのですが、
それはなかなか困難が伴う。
かといって、じゃ柄谷の本をきっちり読めばいいかというと、
それはもっと困難だったりして・・・
まあこんなことばっかり言って、本題を避けてばかりいてもしょうがないので、
なるべく、核心と思われることを機会あるごとに考え、
考えたことはなるべく素直に書こうと思います。
その時に「隠蔽」という言葉で、柄谷が、ではなく、
私が喚起されたことを、どんどん書いていけばよいのです。
皆様もそうしましょう。
お詫び:
猿の話で、「指さしで示す」と書きましたが、記憶違いかもしれなくて、
「目線で示す」が正しかったような気がしてきました。
今度ちゃんと調べておきます。
ただ、いずれにしても「猿にはそれを察する能力がある」ということです。
以前Junkyさんが
「なにか出来事があったからなにか書くのではなく
なにか書くからなにか出来事があった。
のではなかろうか。もしかして。」
と書いていたことがありますね。それに触発されて私も
「web日記」についてすこし考えてみた事があるのです。
しかし浅はかゆえに「どうして書くのか・読むのか」
という程度しか考察しませんでした。
とうてい起源までは考えようとしませんでした。
さすがJunkyさん、面白いところに目を付けられますね。
”指差し理解”の話ですが、
「猿はついに【察する】ことが出来るように進化した」
ということを書いておられるのでしょうか。
ところで、言葉ではっきり言わなきゃわからない人って
いませんか?私思うにそういう人は、耳に聞こえる言葉に
頼り過ぎてきたせいで【含みを悟る】とか【察する】という
能力が退化してしまったのではないかと。
察する能力がなければ、隠されている「何か」を
見つける事は難しいでしょうね。
でもJunkyさんなら文章内(web上でいえば日記とか)の中に
巧みに隠蔽されている、ちょっとやそっとじゃ見ぬけそうも
ない「何か」を見つけてくれるのではないかと思います。
いずれ「ウェブ日記の発見および起源の隠蔽」についての
レポートがあるのかな?そうであれば楽しみにしています。
自意識は、常に、
過剰に感じられる形で発見される。
過剰な自意識は、
過剰に発現されることによってしか解消されない。
発現とは発言でもあります。
自分を持て余すなら、自分をなんとかして現すしかない。
殴るなり、書くなり、走るなり。
でも結局、そのどれによっても、
真に自分が現せたとは感じられない思いに至り、
人は、
自分などなかったのだということにして語らなくなる。
自意識はどこにいったのか。
「自分などない」という自意識に変成された。
昔「自分に徹底的にリアリティがないんだ」という仮説から、入るのが楽だと思いました。
その頃、太宰とか安吾とか読んでいたことを洋生さんや松野さんの話で思い出しました。
とりあえず太宰の津軽に惹かれて、あの辺を鈍行でたらたら旅行してたりするのを通じて、
最初の仮説を持つことで折り合いをつけていたのかもしれません。
過剰なる自意識の邪魔さといいますか。
安吾の堕落論は、当時すごく楽になった覚えがあります。
そうやって置いといた問題を、最近ちょっと考えてます。
けど、それから10年ぐらい経って、時代の雰囲気も自分の立場も変わっていて、
もうあの時ほど考えることができない感覚も持ちます。
実は、私は、安吾は「堕落論」他数作しか、
殆ど読んでいないのです。もちろん、印象深い作家ではあります。
無骨さや荒あらしさの中にある悲哀のようなものが記憶に残っています。
個人幻想が、「その役に入る」という幻想であるならば、
太宰は、「他者に敏感な役」を演じ、安吾は「あえて他者に鈍感な役」
を演じて見せたのではないでしょうか。
これは芝居だ、命がけの芝居だと思いつつ。
そういう、ことを今、思いました。
そして、上手い下手ではなく、役者の持つ存在感として
太宰のほうが万人受けしたのではないのでしょうか。
>ゆーすけさん でも本当に「自分に徹底的にリアリティがない」とも思わないでしょう? どうですか。 私は、自分の痛烈なこの気持ちとかアイデンティティへの拘りとか 人生を物語として成り立たせようとする作用とか、 そういうものに冷水を浴びせるつもりで「私なんて関係の束にすぎない」と書いたのですが、 そもそも「自分というリアリティ」は、そうやって冷水をかけたくなるほど熱く、 見かけ上であれなんであれ、やっぱりあるように思えます。 とはいえ、脳科学的な本は、哲学者の論に対してどこか冷静になる働きがあるとは思います。 >松野さん はじめまして。 太宰治のことはあまりよくわからないのですが、それより、 <母が「松本」、父が「天野」、結婚してできた名字が「松野」 本当の話です。母の頑固な韓国文化意識が反映されています(^^)> という話がおもしろいですね。 ちなみに、「頑固」なのは「母」ですか、それとも「韓国文化」ですか。 私は北陸の出身で、 北陸の人は「暗い」「我慢強い」などと言われたことがあり、 当たっているかなと思うこともあります。 そういう世間的な話として、 よく「韓国の人は頑固だ」と言われるようですが、実際のところ、いかがですか。 <作家太宰にとって、いわゆる「自分探し」や「自分らしさ」など茶 番であり関心外であったが、太宰にとっての(いわゆる)のつかな いそれは「書くこと」であったとは言えるかもしれない。> う〜〜むなるほど、と思いましたが、 松野さんにとっては、(いわゆる)のつかないことは、何かありますか。 >洋生さん 自殺した太宰治の傷つきやすさが、自殺しなかった坂口安吾の傷つきやすさよりも、 偏差値としては高かったとするならば、 その理由は、 共同幻想も個人幻想もつまらないものだと二人とも同じように知ってはいながら、 それでも太宰はなんらかの意味で弱く、安吾はなんらかの意味で強かったからでしょう。 あるいは太宰がなんらかの意味でより敏感で、安吾がなんらかの意味でちょっと鈍感だったのでしょうか。 私もまた、 生きていくことは恥ずかしいことの連続で赤面逆上することしきりですが、 それでもけっきょく生きのびているのだから、 本当に繊細な人から見れば、ずいぶん鈍感なのだろうと思い、それがまた恥ずかしくもあります。
ご説明、理解いたしました。ありがとうございました。
自我とは、「他者の認識」だとするならば、 私がいってる「強い自我」とは、「他者と自分との違い」 への強い意識或いは関心という、意味で使っています。 つまり、自我のはっきりした輪郭のことです。 そうして、「弱い」と表現されるのは、 その輪郭が傷つきやすかったことがいわれているのだと 思います。 「個人幻想」とは、「共同幻想としての共同体」に投影されている 「自分自身のイメージ」という意味で使っております。 まあ、たぶん、通称名松野さんがおっしゃっていることと、 おなじようなことだと思うのですが。
一般的な文脈として、太宰は自我が弱かった、不安定だったと言 われていますし、私もそれに首肯します。 >太宰は、もう幼少のときに、その自我についてさんざん鍛えられ、 >個人幻想の外堀をうめてしまったのではないかと思ってます。 普通に読めば「健全な自我」と、堅固な安定した「外界(世界)」 が形成されたというようにも読めてしまえますが、もちろんそう いうことをおっしゃりたいのではないのでしょう。もう少し敷衍 してもらえればと思います。 >ただ、その「個人幻想」がたうたうと動いていることに、 >敏感だったのではないかと、思ってます。 「個人など幻想である」〜その都度ちがう「私」がある、というよ うな、敏感な感性が太宰にはあったという理解でよろしいでしょう か。 >つまり、「強い自我」への過剰な自覚があったからこそ、 >作家となった時にはすでに >「自分探し」や「自分らしさ」にかまっている暇 >なんかなかったのではないかと考えています。 「弱い自我」、常に動いている定まらない「私」という自覚が太宰 にはまずあった。それは「強い自我」に対する過剰なまでの疑いで もあった。 作家太宰にとって、いわゆる「自分探し」や「自分らしさ」など茶 番であり関心外であったが、太宰にとっての(いわゆる)のつかな いそれは「書くこと」であったとは言えるかもしれない。 以上のように理解し考えましたが、どうでしょう。
太宰は、「自分探し」なんかしてないと思ってます。 太宰は、もう幼少のときに、その自我についてさんざん鍛えられ、 個人幻想の外堀をうめてしまったのではないかと思ってます。 ただ、その「個人幻想」がたうたうと動いていることに、 敏感だったのではないかと、思ってます。 つまり、「強い自我」への過剰な自覚があったからこそ、 作家となった時にはすでに 「自分探し」や「自分らしさ」にかまっている暇 なんかなかったのではないかと考えています。
洋生さん、こんにちは。 > 所謂「自分探し」とか、「自分らしさ」という時の、自分とは、 > 「個人幻想」になるというか、例えば、「自分探し」という行為は、 > その幻想の外堀をうめていくような作業のように思います。 言ってることはわかりますが、これ太宰に適用できますか。時代も違い ますし。 太宰に「自分らしさ」などあったのでしょうか。いわゆる「自分探し」 に向かえる「ある程度強い自我」さえなかったのではと、思えます。 ボーダーラインの元祖のように言われてる人ですよね。 「個人幻想」に敏感で「共同幻想」に鋭敏だったというと しっくりくるような気がします。
所謂「自分探し」とか、「自分らしさ」という時の、自分とは、 「個人幻想」になるというか、例えば、「自分探し」という行為は、 その幻想の外堀をうめていくような作業のように思います。 太宰は、その「個人幻想」に敏感だったように感じます。
ご挨拶をど忘れしていました。はじめまして。在日コリアンの 「通称名松野」と申します。 > 私の名前は東京永久観光です というの、いいですね。 私の名前は「文字通り」の関係の束です(笑)。 母が「松本」、父が「天野」、結婚してできた名字が「松野」 本当の話です。母の頑固な韓国文化意識が反映されています(^^) 実際は通称名使っていませんが(捨ててしまいましたが)、 なんとなく愛着もありますので、 ここではふと「松野」を使う気になりました。 ムキンポさんのHP(見ていただけですが)を経由して、こちらに たどり着きました。 Junkyさんと読書の傾向が似ているので、いろいろとお話がで きればなあと思っています。(あ、ウィトゲンシュタインは、ほと んど柄谷行人経由でしかしりません)。 それでは、どうぞよろしく。
太宰って人は、時代(戦前、戦中、戦後)によって変遷する思潮と肌が合わない人 だったんじゃないですかね。 ヒジョーに、うわべとか偽善とかそういうのに敏感で、いい悪いは別にして、そこ を突く人だったんじゃないでしょうか。。 うーん、だから反語的な文脈でさえない、普遍的とも言えるかもしれない独自の文 脈から言われたのではないでしょうか。 加藤典洋が「敗戦後論」所収の「戦後後論」で言及してますよ。
すいません。天の声まで呼んでしまいまして・・。 ちょっと言葉が悪かったですね。 「ぼく」の使い方とかも、generalな部分と分けたつもりが、 かえって分かりにくくなってしまった。 >自分しかいないことにびっくりしてるんです。 そうそう。この感覚は、読んだときにちょっと感じました。 その主体性に対する自信みたいなものは、私にはない部分でした。 「よく、そんな自信が持てるなー」と素直に感心してしまいます。 このギャップは何なんだろうな?というところから少し考えるようになりました。 徹底的なリアリティの無さがあるという前提とすれば、 どこにリアリティを持てるのかという問題なのかもしれません。 永井さんの本をよんで、自分というものに対して持てる人もいるでしょうし。 それをクオリアという概念から、それを脳に持てる人もいるでしょうし。 (↑これはこれで、脳の問題と私の問題が混在している所が良いところでもあり、 悪いところでもあるのですが。) けど、そういう概念の重さについていけなくてなったとき、 ゲームと言って楽になってしまうことはないでしょうか? リセットボタンを押せばいいみたいな楽さというか。 言語ゲームもありなのかな。
「おれってこういうやつなんだなあ」と自分で描いている自分の像も、
実は、他人や社会との関係の束にすぎないと、私も思います。
他人や社会につきあわされ、ひきずられ、時にはひきずる、
そういう風な他人がらみで現れている、自分の様子や態度の全体像、というか。
言葉もまた、その内実とか意味とか目的とか使命とかが、
その言葉の中に普遍のものとしてあるというのは、錯覚なのかもしれない。
そういう話になると、ウィトゲンシュタインっぽくなってくると思います。
「ぼく的には」の「ぼく」は、
「いったいなにを」の「いったい」と同じ働き、
あるいは、枕詞とか慣用句みたいなものでしょう。
とりあえず、今はこれだけですが、みなさまも、どうぞ、どんどん書いてください。
こういうみなさまとともに、わたしは存在する。
というか、みなさまとの関わりこそがわたしです。
わたしの名前は東京永久観光です。
私は「自分探し」はしてません。
「自分探し」みたいなこと、もしてません。
自分しかいないことにびっくりしてるんです。
ゆーすけさんの書かれる「ぼく的には・・」の『ぼく』とか
「ぼくの場合・・」の『ぼく』とかが、
いったいなにを言ってるのかわからないんです。
こんばんは。ゆーすけです。
文章とか、あんまり得意じゃないんで、人に伝えるようなものは持ってないです。
金沢さんとは、ある時期に交流がありました。
その時期に、永井均氏が盛んに本を出していたのですが、
それらの本が、ぼく的にはあまりしっくりいかない部分があって、
何でだろうなぁって考えた時期がありました。
結局、この辺の話、ぼくの場合「自分」って何もないじゃんっていう所から、
始まっていたような気がしました。関係を持って、初めてそれは成立するからみたいな。
その方が楽だと、10代後半で感じていたようです。
で、どうも「自分探し」みたいな話は、しっくりいかないんです。
ウィトゲンシュタインっていうのもこの流れなのかなぁ・・。
ちょっと違うような。気になる人ではあるんですけど。
なんでか、理由が分からない。ココが好きな理由と同じような気がするんだけど。
きっとそうなんでしょうね。ありがとうございました。
太宰治の件。
詳しく知らないんですが、彼は若い頃に共産党員だったはずですね。
まあ昔は共産主義に傾倒しない知識人は少なかったという感じでしょうが。
ともあれ、そういう若い自分の過去に対する、複雑な羞恥心から出た言葉なのでは??
天皇コラージュの件。
でも、パロディとしての作品そのものは、これまで通り認められているようですね。
朝日と読売で報道内容がちょっと違うみたいだけど、残念でした。
http://spin.asahi.com/0216/news/national16023.html
>health=健康状態 good health=健康
その通りです。祖国の言語感覚は変わりありません。
ちょっと誤解される書き方だったんでしょう。ま、いいや。
common sence が分からなくなりますか。
どういう事情なんでしょう。
そういう時は、「common sence」とは「常識」ということだ、と
思い返すと、なんとかならないですか?
我々は逆に「常識」という言葉が色あせた時、
常識って、つまり「common 」な「sence」のことだから・・・
と考えて、なるほどと一瞬わかった気になったり。
似たようなことで、「思考」とか「思想」とかの言葉を、
ためしに辞書(下のリンク)で調べると、
最初に出てくる訳語が、思考=thinking、思想=thought、で
ああそういうことか、と感心したり。
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/je-top.cgi
>オウム追い出しの住民運動、見ててちょっと不快です。
そう言ってもらえると、ほっとします。
既成住人とオウム住人との対立について、
私が既成住人の側を非難すると、それが=オウム住人の支持、
つまり私がオウム信仰を支持し、オウム行為を支持している、
と受け取られてしまうことがあるので、なかなか、ああいうことは書きにくい。
(でも、だからといって、今、オウム信仰・オウム行為の不支持を述べているわけでもありません。
そんなことは、公に言うことでもないでしょう)
私は、オウムの人がふつうに住むことを、
みんなそろって徹底的に排除しようとする行為を非難しているのです。
既成住人の既成信仰・既成行為のうちの、悪い信仰・悪い行為です。
久しぶりに来ました。 あー楽しかった。 日本語の少ない環境で、さらに「楽しい」日本語の文章の少ない環境でこのページは実に楽しめてしまいます。
ありがとう。
ところで日本語で「健康」って、それだけで良い健康状態を現すのではなかったでしょうか?
ゆえにhealth=健康状態では。 で、good health=健康。
それとも変わったのか?
言葉って10年くらいでも結構変化してしまいますね。
日本を離れて10年目。 最近、common sence
ってなんじゃ? どうつきあっていったら良いの?
と思う事多々。
今日、Junkyさんの導きで千代丸健二氏の記事ようやく読んだのですが、
私は、オウム追い出しの住民運動、見ててちょっと不快です。
http://hainori.com/chiyomaru/view.cgi?1057
橋爪大三郎氏には以前から注目していました。
「社会学講義」とリテレールの巻末に載っていた
文章が印象に残っています。東工大で講義を受け
たことがある友達が言っていたのですが、まるで
論文を朗読しているみたいにしゃべるといってい
ました。つまり、論理的にきちんと整理された状
態で言葉が出てくるのだそうです。内容以前にそ
のしゃべりに驚愕したと言っていました。なるほ
どと思ったものです。
広告批評の特集への感想はまた改めて。
残念、それはまだ書けない。
そういうものだ。
進んでますね。
食べ物や飲み物の話が出てくると楽しいです。
アルマトゥで買ったコーヒー豆を砕く件では
情景を想像して、つい笑ってしまいましたが、
>ドリップして飲んでみると・・・。
で終わっていたので「いったい味はどうだったんだー!」と
気になっていました。ビシュケクのコーヒー話を読む限りでは
チョルポンアタでのコーヒーはコーヒーにしてコーヒーにあらず
だったのか?想像はつきますがあえて聞きます。
自力ミルコーヒーのお味は?
橋爪大三郎氏。
この人の指摘には、いつもはっと驚いて、
それから大きくうなずかされますねえ。
あまり世間的流行的ノリには合わせないような感じで、
(まったりもしていない)学者でありながら、
どうやら時代の要請のほうが、自然と、
彼の知性や姿勢にぴったり寄り添ってきた、といった感じ?
よろしければ広告批評の感想でもまた。
はじめまして、ショートカット何でもベスト10から来ました。
迷宮旅行社自体も今年になって始めてきました。
広告批評での橋爪さんの記事について触れていたものが
とても気になって、すぐに広告批評を買いに行きました。
教えていただいて感謝しています。
>「health」に対応するのは「健康」ではないでしょうか。
ご指摘の通り。
英語の「health」と日本語の「健康だ」を対比するのは
ちょっとおかしいのではないでしょうか。
「health」に対応するのは「健康」ではないでしょうか。
<この地方の人々は今も素朴な暮らしをしている。>
こういう言い方が、テレビでよくあります。きょうもありました。
それはボヘミヤ。
ふと、コンビニとファストフード続きの我々もまた、
素朴といえば素朴な日々ではなかろうかと思いました。
「勝組み、負組み」って言い方、私もちょっと気になってました。
ほんとはちょっとじゃなく、かなり苦々しく思ってました。
「負けるが勝ち」、とは、昔の人はうまいこと言ったもんですね。
今後もプロバイダを代わると起こり得ますねえ。
この掲示板のアドレスの方が、長持ちするかもしれません。
じゃあ、旅行記はりきって続けます。ありがとう。
念のため、私のHPのトップページ
昔=http://hot.netizen.or.jp/~junky/(5月まではここから自動転送)
今=http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
はじめましてです。
断続的に「迷宮旅行社」を楽しませていただいたのですか、
ある日、トップページに突然アクセスできなくなり、行方を心配しておりました。
もう、迷子になった子供を捜すような心境でして・・。
ようやく見つかりました。これからも旅行記、楽しみにしています。
こちらからどうぞ。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/utu.htm
治さずに付き合う
というのはダメでしょうかね。
ともあれ、ことしもよろしく。