月日の流れは下から上へ
前にも書きましたが、とにかく鬱が治ったことが今年一番うれしいことでした。
ただ、それではしゃぎすぎて周りの人間に(ネット界でも)迷惑をかけたことは反省しなければ
ならないんですが…
とにかく本当にお世話になりました。来年もよろしくお願い致します。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
今度は「雅子様流産」
彼女には何の責任もないだけにどうなるか気になるところです。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
湖でした。
大きかったので、つい。
>牛の群れが海岸に来ていて、なかなかシュールな光景だった。
これ、おかしくないですか。
新聞の今年の10大ニュースのトップは「天皇陛下・皇后陛下揃ってご来県」でした。
自分としては休めるのはいいんですが、まあ、ね…
デーモン木暮が「天皇誕生日が12月23日になるからクリスマスはおめでたい日で
なくなるんだ!」なんてことを言っておりました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
あしたはもう天皇誕生日ですね。
そのことについて、私は今どう思ってるんだろうということ、および、
社会は今どういう在り方をしているんだろう、ということに、
興味と疑問の両方があります。多種多様にあります。
当たり前ですね。
そのたくさんの興味と疑問の一つをあげれば、
たとえば下のようなことです。
「天皇アキヒトが誕生日を迎えた」という表現と、
「天皇陛下が誕生日を迎えられた」という表現のどちらに、
より強い違和感・抵抗感を私は覚えるか。
ニュースの言葉として、友人の会話として、掲示板の書き込みとして、
自分が言う時に、他人が言うのを聞く時に、
天皇誕生日を祝う式典の場なら、天皇誕生日に反対する集会の場なら、
その他もろもろ。
妊娠と言えば例の検査もやりますからね。また大衆週刊誌がネタにするんじゃないんですか?
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
かれのまさに身体そのものについて、
誕生から死去まで精密検分実況中継。
これは天皇の特質というよりは、
科学とメディアに彩られた現代の特質ですね。
てな言葉も昔流行りましたな(笑)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
筒井康隆と東浩紀の文学についての対談ですね。
下のページに、ある感想が載っていました。(知ってるでしょうか)
ここでは、東浩紀の「存在論的、郵便的」を
90年代の批評における最大の収穫としています。
最近では「広告」という博報堂が出す気鋭の雑誌で、
東浩紀が特集されています。
いまや文化系の話題および産業における切り札的な役割になるつつありますかね。
インフルエンザ以上に強力な流行の気配?
私は「存在論的、郵便的」をほとんど読まずに今年が終わりますが、
年頭のシンポジウムで東氏を見た印象では、
<なにか適当に思わせぶりなことを言ってさえおけば、
あとは世間が流用して適当に盛り上がってくれるだろう>
という態度からは最も遠い、真っ正直に喋る人と感じました。
その態度が、「存在論的、郵便的」の主張と言われる、
<言論の誤配の可能性>(?)とかいうものと、どう絡むのか、
その辺はやっぱりちゃんと読まねば分からないでしょうね。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkf1721/index.htm/yybbs.cgi
筒井と東の対談を読んでいたら、
東氏が、「大学1年の時に紀伊国屋書店のシンポジウムを聞きにいって、
そこで初めて中上健次を知った」と告白してて、
たぶん、あの場所にいた僕としては、
ああ、この人は信用できるかなあ、少し親近感ももてるなあ、と、
素直に思ってしまった。
へたに言うと生徒から反発が来ますから。
「金八先生」ならいいけど、今時通用しないですからね。
それだけ学校以外の情報が生徒の間にあふれていると言うことです。
置いて行かれるのは確かですね、自分の殻に籠もっている以上は。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
今教師として人前でどんな事を言えば最も格好いいのでしょうか?
GTO(再放送中)みたいな?
ところで、
「人前でなにか言うと必ず格好よくなってしまうので、困っています。
社会とか自分への悪影響はないのでしょうか。
心配で夜も眠れません。」
そういう人生相談をするような者に私はなりたい。
今職場でめいっぱいお洒落して行っています。
前の職場では一年中同じ格好でした。女の子がたくさんいる職場だったんですけどね。
人前で格好いい事を言うというのは勇気がいります。皮肉やルサンチマンを発散していた
方がずっと楽です、世の中厳しいんですから。
教師は大変ですね。常に「正しい」存在でいなくてはならないんですから。
酒だって飲むし、セックスだってするし、タバコだって吸うし、スピード違反だってするし…
何が「間違っているのか」を正しく判断する知識なり判断力なりがやっぱり必要に
なりますね。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
私の場合、義憤は、しばしば、
いかにも正義面(づら)をした者に向けられます。
しかしそれが義憤であるからには、
正義面に、こちらもまた正義面を向けるわけで、
どこか似たものになってしまうので、
結果、消すことも多いのです。
私の場合、講演会では参加の記念に時たま質問します。恥の多い人生です。
昨日、行ったんですね。
私は行きませんでした。
Junkyさん、最近、旅行したり、日々、日記をしたためたり、
講演会に行って質問したり、作曲したり、行動的でうらやましい。
やっぱ、前の席にだれもいなくて、つらかったっす。
Junkyさん、質問がどうにはいってて、かっこよかったっす。
Junkyさま、どうもこんにちは。
11月29日の「ここに書いた義憤は消しました。なんとなく。」
いったいどのようなことに義憤を感じておられたのでしょうか?
読み損ねたので、ちょっと気になります。
通りすがりのしゃぶ猫
当然東京に行って買ってくるのですよ。前に住んでいたことがあるので
店の場所とかは分かりますから。西新宿の「ラフ・トレード」や渋谷の
WAVEが良く行くところですね。
あと、最近立て続けに海外旅行へ行ってきたのでそちらでも手に入れて
きました。
ドイツ物のネタ本は、マーキーから出ている「ジャーマン・エレクトロ・リミックス」
という本です。
最近のテクノのアーティストの紹介がメインですが、CAN、GURUGURUなど
70年代のバンドの紹介、インタビューなども載っております。
一度ご覧になったらいかがでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
TOPページのfreeze.rm、ダウンロードしました。堪能しています。
リンクどうも。
HPの音楽紹介を見ていて、ほとんど知らないのですが、
片っ端から聴いてみたくなりました。
ドイツ系の奇妙なインダストリアル風の音楽などには惹かれるのですが、
なかなか聴くチャンスがありません。これを機になにかCDでも買ってみようかと。
しかし、そちらは確か福島にお住まいのはず。
どうやって音楽の情報やCDを手にいれるのか??
それからシンセとかはやらないのですか?
ともあれ、どうぞこれからもよろしく。
お久しぶりです。Junkyさんのページリンクさせていただきました。
おかげさまで鬱も治り、フラットベッドスキャナーも買い、気合いを入れて
HPを作り直しました。
是非ぜひおいで下さいませ。お待ちしております。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/2893/TOP.htm
こないだ中年資格試験に合格しました。
東京の観光だけはメタ化しない不思議
東京へでてきて、まる10年。
生まれたところを遠く離れ、
故郷(と書いて「くに」と読んでね)を思う今日、この頃です。
「国のことをふとを思い出す」という意味の「国をおもう」なら、
海外旅行中におおたか静流の歌をソニーのMDで聴き、
ああ日本の歌だなあ、好いなあと思う、
ああ日本製品だなあ、良いなあと思う、
そういうことはよくありますが、
それ(おおたか・ソニー)が
まるで自分の手柄であるかのように感じるところに、
私と国のいかがわしい関係があるのでしょう。
てなことを考えながら自分の旅を振り返っていきますので、乞うご期待。
「国をためを思う」という本来の(?)意味だと、
私はそういうつもりで何かをした記憶がなく、
むしろ国のためにならないようにと意識することがあり、
こういう了見でいいのかと時に反省もします。
そこには「国」「国をおもうこと」「国のためを思うこと」の
曖昧さを嫌う気持ちがあるわけでしょうが、
実はそれだけではなく、
「私は国と無関係」と言いながらも、内心大いに関係を感じるから
そういう潔癖な態度に出るのかもしれません。
てことは、やっぱり大いに関係あるのです。
Yoshikiという人が「国のため」のようなことを何かしたり、
大勢の若い人が「国をおもう」ようにとられかねない行動に出たりすると、
「俺には関係ないよ」といいながら、やっぱり気にしているのも、
私と国のへんな関係のうちでしょう。
ではこの、私と国との関係において、天皇や君が代はどういう位置にあるのかと聞かれると、
どうも答えにくい。
もっとよく考えないといけないのか。
あるいは逆にもうあまり考えない方がいいのか。
なにが国をおもうことかわかりませんが、紅白に忌野清志郎を呼んで
皆で「君が代 パンク・バージョン」を歌ったらどうでしょうか(そしたら
未だ延命を続ける紅白にもちょっとは存在意義があると思うのですが)。
どうも。>殷蘭さん。
入れ替わりにそちらのHPが止まりはじめましたが...。(BBSがあるからいいか)
旅行記たぶん長く続きます。めんどくさいけれど、
ここまで来ると中断はできない。当分中国編です。
でふと思ったのですが、この殷という文字、
中国の古代王朝以外に使うことがまずない字じゃありませんか。
私はワープロでしか打ったことがない。たぶん。
ああ、ペッパー軍曹のロンリーハーツクラブバンド。
Junkyさん、おかえりなさいまし。
旅行記ちょこちょこと読んでます。
今後も楽しみにしております。
迷宮旅行社(私のHP)のアクセス先が変わりました。
自動転送ですが万一迷った方のためにリンクしておきます。
しかし、Y2Kとかで世界中のURLが全てめちゃめちゃになったら、どうなるのでしょう。
インターネット黎明期に戻るというのも、いいかも。
http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
Japaneseだけが特別ではないとすると、前提が崩れますね。う〜む。
ま、いいか。
ちなみに私がHPに書いた話は、
ちくま新書「完結・英文法の謎を解く」(副島隆彦著)の第4章から引きました。
下にリンクあり
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/cgi-bin/gwfind.cgi?W-NIPS=9971692848&USID=
五番街さんというひとに教わったので、興味があれば見てください。
この人、奥さんがアメリカ人で、長いことN.Y.に住んでます。
http://www2t.biglobe.ne.jp/~mkimpo/cgi-bin6/minibbs.cgi
でもその、喩えに使うもののほうが、
そもそも言いたかったモノよりも、
ずっと豊かで鮮やかだったりする時代なのでしょうか。
若人あきら(元)、喩えようがなく異様でした。
純文学はいずれ伝統芸能になるそう(高橋源一郎)ですが、
映画はすでに格闘技を見ている感じでしょうか。(さっき極真カラテを見ていた)
じゃ吉本隆明の寄稿は、ローソンの「故郷の味なつかし弁当」?--意味不明--
比喩とは、未知のものを単に既知のものと結びつけて、なにか理解した気にさせる。
我々が最初に頭に浮かぶのは、実は比喩なのかもしれないですね。
だとしたら、本当はじっくり考えて、全く新しい形を取るのを待つべきかもしれませんね。
文章から比喩を全て消し去ったら何が残るのでしょうか。
http://www.alpha-city.co.jp/mika/cgi-bin/taka06.cgi
いい質問だ。
私の旅行記のポイントを見抜いたね。
答は月曜の朝9時45分ごろに明かそう。
>Junkyさん
帰国以来、書く事が次から次から湧き出している様が、文章から窺えて
うらやましい限りです。僕の場合、頭に浮かんだ事柄が形をとるのを
ぼんやりと待ち続けはするが、そのほとんどは消えて無くなってしまうので、
結局は何も考えていないのと同じということばかりなので。
国と国民との関係は、僕もほとんど実感がわきません。ただ国民総背番号制
などが話題になった時、国に管理される感じを受ける鈍感な国民の一人です。
それから『鮫肌男と桃尻女』ですが、若人あきら改め我修院達也が良かったなあ。
公衆便所にドナドナが鳴り響くシーンには爆笑してました。
PS 今日の読書欄に寄せた文章が、吉本隆明の朝日新聞への初原稿だそうですね。
長い間の洗濯物ってどうするんだろう?
ということが気になって夜も眠れないことがままあります。
どうするんでしょう?
>Nickey さん、ありがとう。
フリードリッヒの絵「雲海の上の旅人」(下のリンク)、
英語ではワンダラー(wanderer)=旅人というんですね。
私の場合「a one-doller wanderer」でしょうか。
http://www.artchive.com/artchive/F/friedrich/sea_of_fog.jpg
旅行記、興味深く拝見しています。
なかでも値切ったお金を返しに行かれた話、
様々に考えさせられながら、読ませて頂きました。
私自身、値切り過ぎたり、相手の善意を食い物にするようなことになってしまって、
どうも後味が悪かったと思い続けていることもありますが、
謝罪に行ったり、返金までしたことはないようです。
きちんと謝罪すれば、気持ちもすっきりするかもしれないと思うこともあるのですが、
謝ろうが謝るまいが、許してくれる人は許してくれるし、
そうでない人は、いくら謝ろうが、そうでないという気がして、
ついつい横着になってしまいました。
誠意の相手には誠意をもって、そうでない人にはそれなりに、という感じで、
過ちを繰り返さないように気をつけてはいますが……。
(ちなみに私も値切るのはあまり好きではありません)
戦争責任の場合、いくら謝罪しても、
そもそもが償いきれるものではないのでしょうが、
自分が犯した過ちならともかく、日本人というだけで、
罪を償う責務があるかのように言われても、
なんだかやりきれない気もしています。
自分が値切りすぎた分を返金しに行かれた善意には、
非常に感銘を受けたのですが、
一緒にいた人の分まで、返金すべきだということになったら、
なんだかやりきれない気もします。
(50年前の戦争責任の場合、日本人の末裔だというだけで、一緒にするいなかった…。)
それはともかく、いかに値切れたかとか、
景気のいい「武勇談」を自慢するもの多い中、
Junkyさんの旅行記には、どこか良心的なものが溢れているようで、
味わい深い旅行記、続編楽しみにしています。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/namaste/duzh.htm
ピカソだったりして。
どらえもんの?
新聞に「どらえもんvs.吉本隆明」って書いてあるけど、
本人が出るのかしら?
国と国民の関係っていうのが実感としてよくわかりませんね。
納税とか徴兵とか国民の義務は法的には逃れられないのでしょうが、
それも絶対的なものかどうかとか。
既にある文章の構図とか言葉の用法をずらすのが好きなのかもしれません。
なぜ好きかというと、そう単純なことでもないと思いますが、なかなかうまく説明できません。
さて、またずれるかもしれませんが(かつ、いきなりオーバーな例になりますが)、
例えば戦争責任ということに関して、
事実に基づいて法的あるいは道義的に関わりがあるとみなされる国や組織、個人は、
その当事者と呼んでいいですよね。
さらには、そうでなくても、主観的になんらかの関わりを感じたり、
関わりを持ちたいと望む個人もまた、当事者といえるでしょう。
自分がどれでもない時、我々は「カンケイないね」と言います。
日本の戦争責任ということについて、
私個人は、どういう意味においてなら当事者でありうるのか、
あるいは日本政府が当事者である場合、私は当事者なのかそうでないのか、
なんてことがついつい気になるこのごろです。
別の例ですが、
キルギスの拉致事件で日本人救出の誤報が新聞に載ったあと、
朝日新聞では天声人語担当者も当事者として謝罪の意をそれなりに表していたようでした。
それは当然のことでしょうか。
では私の家に朝日新聞を持ってくる人は果たして当事者でしょうか。
あるいは当事者意識を持つべきでしょうか、
なんてことを考えるわけです。
手元にある広辞苑で「当事者」を引いてみると、「その事または
事件に直接関係をもつ人。」とあって、僕もそのようにこの言葉を
認識していました。ですが、Junkyさんの文章を読むとちょっと
違っていて、事件に直接関係のない人でも調べたりすることで、
当事者になりうるように受け取れます。これは、Junkyさん流の
レトリックなのか、あるいは僕が知らない特別な用法があるのでしょうか。
妙な話ですね。
人前では歌わないようにしているのでしょうか。
日本国および日本国民統合の象徴が国の式典で歌わない国歌。
先生「でも諸君は歌うように」
「陛下は通常の式典で
は歌われません。少なくとも平成になって
以降は歌われていません」
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hottopics/kimigayo/content.html
>散人さん
毎度どうも。雲隠れはしませんからご安心を。
隠者の森、時々深く分け入っています。
永井荷風に惹かれますね。(あまり読んではいないのですが)
齢をいくら重ねても枯れない欲望ゆえの隠遁、という感じがするあたり。
ご無沙汰しています。
Junky さん、ご帰国されたとのこと、お帰りなさいませ。
ところで、URL変更されるそうですが、
新しいのが決まったら、ぜひ教えて下さいませ。
そんなにたびたび見に来れるかどうかわからないので、
予告期間が短いと、行方不明になってしまいそうで、心配です。
それはともかく、今後もホームページ拝見するのを楽しみにしています。
最近、以下のページ↓(「隠者の森」)の宣伝をしています。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/namaste/inzya.htm
どうも。>fukj松原さん
車でも買おうかな。紅葉シーズンだし。
しかし車なんて買っては・・・買えない。
あ、そうそう、ムキンポさんのページにちゃんと載っていたんでした。
正しいコメントはそちらを参考に。
この人、いつもズバリ核心を突くねえ。
私もこの言葉、気に入ってました。
RealPlayer G2がインストールしてあれば聴けるはずなんだけど。
http://www2t.biglobe.ne.jp/~mkimpo/1999/99-10-01.html#99-10-20
旅(の上から見たこととか考えたこととかの)話しってほんとにおもしろいです。
もう涼しくなってきたので多少熱は冷めたんですが、私もこの2、3か月バイク
買って国内たらたら流したくてしょうがなかったでした。春んなったらバイク
買おうかな。買ってはいけないのかな。
あのページ(http://mp3.music.co.jp)行ったけど、
まだうまく視聴できないので、聴いていないのです。
それはそうと、私も編曲したのに、あまり注目されなかった・・・
↓
http://hot.netizen.or.jp/~junky/daregayo.html
なんか気の利いたことを言おうとして、ややこしいことになるのが私の常ですから、
テキトウにどうぞ。>shadeさん
しかし、当事者とは何かを考えることは、
たとえば時事ネタに対してものを言うときの倫理と絡むことであると思います。
西村次官辞任の件。
防衛庁政務次官が日本も核武装すべきだと考えていることを非難する理由が、
「政府の方針や平和憲法の理念と違うじゃないか」というだけなら、なんか卑怯な気がする。
「私は核武装なんて最悪だと思うから、私にとって西村は最悪だ」
というならすっきりします。
それより
http://member.nifty.ne.jp/matimura/appeal.htmlにあるごとく、
強姦発言の方に私は関心がある。
これについては、
辛スゴ氏の朝日新聞に載ったコメントがすがすがしかった。
「政治家が痴漢になったのではなくて、もともとの痴漢が政治家もやってただけ」(記憶のみ)
とかいうやつです。
時事ネタには疎いのでちょっと意見を聞いてみようかと思ったのですが、
いつもJunkyさんからは変わった切り口の答がかえってきますね。謎を
はらんでいるというか、常に読者に考えさせるというか、一筋縄では
いかない答が。少し考えてみることにします。
そうそう、話は変わりますが、昨日ようやく『ワンダフルライフ』を
見ることができました。素人も役者も等しく思い出を語る姿を見て
いたら、これがフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからなく
なりました。一昨日に見た『鮫肌男と桃尻女』とともに日本映画も
どんどん変わりつつあるんだなあと思いました。
RealPlayer G2 で無料で視聴できますよ〜ん。
http://mp3.music.co.jp/songlist/JPN-MCJ-1999-00000167.html
旅はいいですねえ。私もまた行きたい。
http://member.nifty.ne.jp/matimura/appeal.html
九州の事件。あったね。伝わってきましたよ。
あれは正直けっこう驚いた。
ウズベキスタンのイスラムの街で、早寝早起きを愛するような人々がいて、
がむしゃらには働かず、でも毎日のんびり幸福で心が穏やかだ、そう話した人々がいて。
そういう人々には、九州の人の気持ちはわからないだろう。
私もまあわかるわけではないが、やっぱり、そういう人の起こした行動は、
私と同じ時代に同じ土地に生きている人の行動ではあるという、
それこそ当事者意識がわく。
さてではそういう我々は誰が救ってくれるのか?
たとえばシンプルな生活にイスラムのシンプルな救いがあるのだとしたら、
我々の救いはモスクに行って必ずしも見いだせるとは限らない。
でも我々の救いは、我々自身の場所で、ふとしたきっかけで見いだせるはずだと信じる。
我々は少しはそのことをわかっている。
お陰様で無事帰りました。
1年かけて旅している人にも会います。10日ほどで帰る人にも会います。
私は2ヶ月。それぞれどこが違うかというと、長さが違います。
当たり前ですね。でも、それぞれうらやましい所がありますよ。
で、実感として言えば、2ヶ月は、
キイボードを打つのが十分に待ち遠しくなり、
東京の街を見て図らずも懐かしいと感じてしまうくらいの期間でしたね。
訪れた国にあっては、その国の歴史とか政治・経済状況、
あるいは人々の衣食住がどうなってるのかと、
好奇の心でいっぱいになります。
しかし実はそれすべて観光気分。気楽な見物人でしかありません。
実際に当事者として神経を尖らせるのは、
乗ったバスがちゃんと時間通り着くかとか、
このホテル代もうちょっと安くならないかとか、
連日食べ過ぎで困ったなとか、そういう些末なことです。
臨界のニュースはNHKのラジオで聞きました。
もしかしたらそれすら私は観光気分、よそ事、見物人として聞いたかもしれません。
台湾の地震とかと同じで。
国のエネルギー事情や政治家の歴史認識に対して、自分がそれの当事者であるかどうかは、
構造的に決まっているのというのではなくて、
当事者になるかどうかを自分が決めることなのではないかと思います。
当事者になる方法は、知ること、考えること、喋ること、書くこととかもしれないし、
あるいはそれ以外なのかどうか、それははっきりわかりませんが。
それにしても私は、何の当事者になるべきなのか。
あるいはそれ以前に、少なくともなんらかの当事者にはなるべきなのか。
そういうことから疑問は広がっていくのでありました。
というのは長いんだか短いんだか良く分かりませんが
ジェット機をのっとってレインボーブリッジをくぐろうとして機長を刺した男も
池袋で真っ昼間から通り掛かりの人間を切り裂きまくった男も
九州のどこかで人をひき殺したり刺し殺したりしまくった男も
多分二ヶ月前はそういう事をすることになるともおもわなかったんでしょうかね。
でもみんな、「誰でも良かった」って言うんだよね。
太陽のせい?
だったらムルソーも泣くのだろうか。
ここは異邦人の街。僕も、もしかしたらあなたも?
いろんな国に滞在したことのあるJunkyさんの目には、臨界事故が起きたり、
防衛政務次官が就任早々に「日本の核武装」発言が原因で辞任したりする国は、
どのように映っているのでしょうか?
中篇の旅はいかがでしたか?
疲れが癒えたら、ゆっくりおきかせねがいます。
Kikoku mae ni Seoul ni tachiyori masita.
Sinya no Internet-manga-cafe, konbini, purikura,
saraniha kuukou de mikaketa kogal syuudan(made-in-Japan)
ni
sokoku no chikasa wo jikkan hamunida...simasu.
Hankagai wo arukeba Sibuya ya Shinjuku ni ikiuchusi.
Hotel no TV niha NHK-BS.
Tabi ha owatta noka tuduiteiru noka?
Aruiha, Nihon ni modotte mo kono kankou kibun
ga itsumademo owaranai node syouka?
Sonna koto wo kangae nagara ato a few days
in Seoul.
(Tokorode minasama, Roma-ji no kakikomi gokyouryoku
arigatou gozaimassita.)
Uzbekistran ni imasu.
INternet jijou ga waruinode kyou yatto kokoni
akusesu dekimasita. Tabun korega saigo no kakikomi desu. 15 nichi goroniha
kikoku desu.
Hontouni iroiro na kotowo kangaemasu. Ketsuron
to siteha warewareni wazawaza suruhodono, iuhodono nanigoto ga nokotte
irunodarouka troiuyouna kotodesu. Seizei joudan wo iitsudukeru kuraisika
nainodeha naika. Tada discommunication toiu imi no communication dake ha
omosiroku tudukeraremasu.Koreha kessite hikantekina ketsuron deha nakute
totemo sekkyokuteki na ketsuron desu. Aikawarazu rikutsuppoku nattekitanode
nandaka hennna nazo wo nokositutu konohende sayounara. Demo kankouryokou
ha yappar
Tabisakikarademo access dekirundesune.Tyotto
bikkuri simasita.
Bokuno kakikomiha Simokitazawa no ficciones
de shortcut119gou nado
iroiro honwo kattatoiu houkokudesu.Muzukasii
kotowo kaitawakedeha
arimasen.(Demo kanji ni mozibakesita bokuno
kakikomimo mitemitai
to omoimasita)
tabini eigoha fukaketsu deha naito omoimasu.
one two three kuraishika shabere nakutemo
rucksack shotte sekaiju tabi shiteiru hito
tokidoki iruyo.
Junky san sugoi kakkoiidesu.
bokumo ituka sonna tabiwo sitemtainaa.
demo eigoga zenzenn dekinainode saishokara
akirameteru
damena watasidesu.
himato kaneni yoyuugadekitara NOVA nidemo
ikoukana majide.
Junky sann honntouni korekaramo yoitabiwo
tanosinnde kudasai.
Kondoha Kazafstan no Almaty kara desu.
Taitei no ryokousya ha kono kuni ha satto
toorisugite
sugu Uzbekistan nanka ni mukau you desuga,
Watashi ha koiu toshi wo burabura aruiteiru
houga tanosikute,
kekkou nagai site simaimasaita.
Asita Kirugisu ni mukaimasu.
namaste!
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/namaste/
Shodouka tsukattara Urumuchi demo kanji yomenaikashira?
Demo ima yatte mitara zenzen tsunagaranai noyone.
Tsubure chattano kashira?
http://www.shodouka.com/
Junky de arimasu.
Ima China no urumuchi wo ryokouchuu.
Internet cafe ga atta node kaite mimasita.
Shitano Shade sanno Kakikomi ha
zenbu chuugouno kanji ni mojibake surunode,
totemo muzukasii koto ga kaite aruyouna kini
narimasu.
shortcut119 toiu moji dake yomerunode tabun
toukou sareta no desyouka?
Kyou korekara Kazafstan ni ressya de mukaimasu.
Sarani Kirugisu ni haitte, rachisarete nippon
ni kaeru keikaku desu.
Aa sikasi communication toha tanosii desune.
TOKUSYUU#1
Junky ni mail wo dasite miyou!
junkyjapan@hotmail.com toiu address de
sousin jusin dotiramo dekimasu.
上京中、話題の本屋フィクショネスに行ってきました。少しずつ読んでいる「重力と恩寵」や、
図書館で借りて読んだ「Xのアーチ」等を本棚に見つけて、うれしくなりながら店内を見て歩き、
次の本を買いました。
ロード・ダンセイニ「妖精族の娘」、「魔法使いの弟子」
朝吹亮二・林浩平・松浦寿輝・松本邦吉・吉田文憲「レッスン」
「会田誠作品集 孤独な惑星」(会田誠の名前すら知らず、表紙に惹かれて手に取ったら、
店長に「サイン本ですよ」と声をかけられて、思わず買ってしまった)
shortcut119号
棚に置いてない「マラルメ詩集」や「文学空間」の版元まで教えてくれた店長はとても
親切な人でした。店を出てから、一緒に来ていたいとこに「こんな本屋が近所にあったらなあ」
と言うと、返ってきたのは「(僕の住んでいる田舎じゃ)三日でつぶれるだろう」という言葉
でした。
上温湯隆みたいな旅をすると、生きて再び帰れません。
うむ、素晴らしい!
私なんかすっかり生活が保守的になってしまって、
もう6年か7年くらい海外に行ってません。
猿岩石はいけません。
蔵前仁一氏のような旅をしてきてください。
猿岩石のようにまっすぐな目標や情熱を欠きつつも、
落ち着き払った旅職人にもならぬよう、
中途半端に迷いながらの旅をしてきます。
その固有名をここに記せば、あああの凡庸な、と、
誰でも即座に彼の長い顔と長い文体が、
80年代の懐かしさを伴って浮かんでくるにもかかわらず、
実のところ90年代においてこそわが国の知性の頂点に迂闊にも立ってしまった人物であり、
それでいて、昔はともかく現在も、
その思想については誤解以外の理解が示された試しがないように思えるところの、
かの人物の言葉なのである。
表現になにかと癖がある人ですね。
しかし、癖のない表現など無に等しいわけで、存在価値を感じます。
「(国立大学が)みんなで独立行政法人化すればこわくない、
なんていう考え方は、ビートたけしのギャグのようだ」。
http://spin.asahi.com/0811/news/national11028.html
猿岩石のようにまっすぐな目標や情熱を欠きつつも、
落ち着き払った旅職人にもならぬよう、
中途半端に迷いながらの旅をしてきます。
その固有名をここに記せば、あああの凡庸な、と、
誰でも即座に彼の長い顔と長い文体が、
80年代の懐かしさを伴って浮かんでくるにもかかわらず、
実のところ90年代においてこそわが国の知性の頂点に迂闊にも立ってしまった人物であり、
それでいて、昔はともかく現在も、
その思想については誤解以外の理解が示された試しがないように思えるところの、
かの人物の言葉なのである。
表現になにかと癖がある人ですね。
しかし、癖のない表現など無に等しいわけで、存在価値を感じます。
「(国立大学が)みんなで独立行政法人化すればこわくない、
なんていう考え方は、ビートたけしのギャグのようだ」。
http://spin.asahi.com/0811/news/national11028.html
夏になると、どこか東南アジアに出かけたくなります。
アフリカでも、南米でもいいんだけど、とりあえず、近いから、東南アジアで我慢。
それも出来ない寂しく成ってきます。変わりに、猿岩石していて下さい。
どちらへお出かけかな?
マダカスカルなんか、行ってみては?
じゃ。 帰ってきてからの、hpを楽しみにしています。
http://www2.nsknet.or.jp/~msakurai/
どうも、みなさま。
旅行の出発が当初の計画より遅れました。
テープを投げ終わっても船がなかなか出ていかないみたいなへんなことになりますが、
まだ2週間ばかりここにおります。そういうことで。
つまり、今、難局です。(ビザなど)
なんてすばらしい!
といいつつ私もささやかな旅行のために
MDウォークマンの購入を考えていたりするのでした。
新幹線の中じゃ歌えない、よなあ。
船旅は、のんびりゆっくり、贅沢気分で甲板の風に吹かれ・・・
寺田寅彦の南洋旅行のイメージが固着しています。
でもモールス信号も廃止されてしまって、今はどんな感じなんでしょう。
なにはともあれ、道中ごゆるりとお楽しみを。
(紙テープを投げる手、そしてフェイドアウト。音楽、スタート。)
なぜか出発済みだと思っていたです。
シージャックに遭遇せぬよう。
ボンボヤージュ。
(ここで一同 大きく腕を振り見送る)
一人で行くのかな? 誰か、と行くのかな?
自堕落っていいですね。
チキンの件、ありがとうございます。
fukujuさんのbbsのやつが9号(制作中)なので、
ここのは10号になると思います。
>ロッカー様
チキン収録、かまいません。期待します。
チキンの件は、私はokです。
多忙なロッカーさんに議論の継続を「強制」するような気はもとより無いんですが、
それでも、もし気が向くことでもあったら、私の文章を読み返し誤りを指摘してほ
しいです。私自身は間違って書いているつもりはないんですが、私の考え方の傾向
による自身では見えない穴があるんじゃないか、という気がいつでもしているから
です。これは、まあ、ロッカーさんにだけでなく、私の文章を読んでくれた方すべて
に対するお願いではあるんですが。
http://www.tky.3web.ne.jp/~fukuju21
やはりbbsできちんと議論を進めていくのは限界があると感じました。
fukujuさんはきちんと答えてくれていて、議論自体がイヤになったわけではないんですが、
ここでこのように続けることは疲れました。
逃げるつもりはありませんが、逃げたと思われても仕方がないですね。
とりあえずこのやりとりは、ショートカット別冊「チキン」に収録しておきたいと思っています。
重要な論点がたくさん出ているし、消えてしまうともったいないので。
構いませんか?>fukujuさん、Junkyさん
(4)ここで、仮りに「正義を定義」してみます。『正義とは神の御意志を為すことである』
『神の御意志とは某野某介の言葉である』。このような「正義の定義」を受け入れた『み
んな』の間では、某野某介氏の言葉は『強制力、あるいは厳密さ』を持っていると想像で
きませんか。(どうもこれこれの言葉は曖昧だがなぁ)みたいなことを言ったりする人は
『みんな』から強制ならぬ矯正をされるなり、爪弾きにされるなりするでしょう。私たち
が、「科学的概念の定義」に『強制力、あるいは厳密さ』を感じるのだとしたら、それは
その「定義」を受け入れているからそう感じるのだ、とは思われないでしょうか。「微分
可能」という概念の定義を知らない人は、その概念が「厳密かどうか」なんて見てとらな
いでしょう。「これこれこんな風にこんな風にこんな風に定義されているのだよ」という
ことを知って初めて、「厳密だなぁ」となる。厳密に定義される、というより、定義され
るから厳密になってる、んじゃないかという気がします。(また「定義」されているから
「科学的概念」のほうが「日常的な概念」より厳密だ、と言えるんじゃないですか。)
(5)「科学的概念の定義」を使う、とは、その「定義」を受け入れ何事かを為す、というこ
とですよね。もちろんその「定義」を使わないこともできる。『使いたくない人は使わな
くていい』わけです。さらに、「正義の定義」を使う、ということも言えますよね。つま
りそれは、その「定義」を受け入れ何事かを為す、と。さて、(4)でしたような想像をもう
一度してみます。『正義とは神の御意志を為すことである』『神の御遺志とは某野某介の
言葉である』、という「定義」を受け入れた人々の間では、それは断じて曖昧なものでは
なく、厳密でもあり強制力もある。しかし、そんな「定義」を受け入れていない私たちに
は、それをもとに何か為す(使う)なんてこと考えられもしないし、はなはだ曖昧だし何
の強制力も感じない。・・・・・ところが、です。「メートル」の定義を使いたくない人
がいたとして、その人はこの世界では少なくない不便を被ったり、馬鹿にされたりするで
しょうが、使わないなら使わないでなんとか暮らしていけるでしょう。では『正義とは神
の御意志を為すことである』『神の御遺志とは某野某介の言葉である』という「定義」を
使いたくない人は、使いたくないから使わない、でいつも済ましていられるでしょうか。
ことは、「メートル」の「定義」、とは違います。なにしろ、それは「正義」ではないこ
と、と見なされているのです。「好きにしろ」とでも言われるならまだ結構なことですが、
その「定義」を受け入れ何事かを為す、ことをしない、のは、「正義」ではない、と見な
されてしまうんです。「正義ってのはああだよねえ」「こうだよねえ」「いやいや違うよ、
これこういうことだよ」。そのような議論の叩き台として「提案」されている状態のとき
には、微笑ましくも見える「正義」なんですが、一度「正義とはかくかくのことである」
みたいな“限定”、「定義」をされると、それを受け入れた者たちにとって「かくかくの
こと、でない」ということは「正義」でなくなってしまうんです。「正義とはかくかくの
ことである」とはとても思えない人は、「正義とはかくかくのことである」と認める者た
ちに、「正義がわかっていない」と見なされる。某野某介の例でなかったとしても、何か
非常に嫌なものを感じないでしょうか。
どうも書き足りない感があるので続けます(迷惑だ、とか、うっとうしい、等々、思
われる方がいらっしゃいましたら、どうか指摘してくださるようお願いします。)
(1)まず、私は「強制」することがいいとか悪いとか、は、言っていません。「自由」
がいいとか悪いとかも言っていません。「正義を定義」することは正義ではない、と
言っています。
(2)ロッカーさんは「科学的概念の定義」と「正義などといった概念(日常言語、自然
言語)の定義」を分け、それぞれに何らかの「レベル」または「度合」の「差」を認め
られている。ロッカーさんにおいて、そこで比較されているのは『強制力、あるいは厳
密さ』であると私は理解しました。私は、そこ(「科学的概念の定義」と「もう一方の
定義」の間)に「差」を認めるとすると、それは、その定義を受け入れている人(『み
んな』)の数である、と思っています。
(3)「定義する」ということは、広辞苑を参考にしてみますと、「概念の内容を限定する」
ということ、と言ってもいい(定義するのではなく)と思われますが、どうでしょう。
「定義」においては(科学的概念だろうがなんだろうが)、なにがしか“限定”されて
いなければならない。その“限定”を持ってして初めて「定義」と言う。科学的概念だ
ろうがなんだろうが「定義」という語を使う以上、そのような“限定”を持ったときに
「定義」と言うべきなんじゃないか(“限定”しているわけでもない辞書で行われてい
る説明とかに対して言うのではなく)。この“限定”を「定義」の『強制力、あるいは
厳密さ』とロッカーさんの言葉を借りて言ってみたいところがある(ので、本性上、
「定義」には『強制力、あるいは厳密さ』が含まれていると思われる、などと書いた)。
> 定義はなんでも、強制力あるいは厳密さをもつ、と言っても間違いではないかもしれません。
> だとすれば、「しかしその度合には差がある」と私は答えます。
07月07日(水)06時12分41秒の繰り返しになるかもしれませんが、私は、その「差」のある
「度合」というものを、『みんな』の数、であると思っています。『
そういう「定義」と、
科学的な概念の「定義」は、はっきりレベルが違います。』と言われているところの「レベル」
というのもまた同じことです。科学的な概念の「定義」と、正義みたいな語の「定義」の間に、
なんらか「レベル」「度合」、の、「差」を見てとれるとしたら、そこに共通に計れる何かを
想定していなければならないでしょう。それがロッカーさん言われるところの『強制力、ある
いは厳密さ』(07月07日(水)00時31分24秒の投稿)ということではないのですか。まずは
ロッカーさんが『強制力、あるいは厳密さ』ということを書いたのであり、そして、私もそれ
はなかなか「定義」の説明に便利だと思って、尻馬に乗せてもらっているわけです。
>辞書の説明ていどの「定義」は、強制力を持たない、あるいは持つとしてもごく弱い。
>科学的な概念の「定義」は、強制力を持ちます。
そもそも辞書で行われていることは「定義」なんでしょうか。というか「強制力を持たない
定義」というものが、まったく想像できません。ためしに広辞苑を引いてみました。
『定義・・・・概念の内容を限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成
する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。・・』
これは私の「定義」観にわりとしっくりくる説明なんですが、ロッカーさんはどうでしょう。
私は『強制力、あるいは厳密さ』ということをロッカーさんが最初に書いたところを見ると、
それほど異存はないのではないかと想像します。<概念の内容を限定すること。>・・
辞書は、概念の内容を限定しようとしているのでしょうか。私にはそのように見えません。
辞書は、「#####とは******である」という風に“限定”しようとしているのでは
なく、「(今現在)#####という言葉は******のように使われている」という風な
現状報告をしているように見えます。つまり、それは「定義」に見えません。(ところで
07月04日(日)23時30分46秒のロッカーさん書き込みには<辞書の説明は「定義」とはい
えないと思いますが、>とあります。今はどうでしょう?)。「定義」の強制力、みたい
な話題を扱っているときに、「定義」に見えないものを例に出すのは納得できません。
>数学の意味体系は厳密であり、
>国語(自然言語)の意味体系はそれほど厳密ではない。
上のように見えるのだとすれば、それは、数学ははじめから厳密さを要求する「定義」
でもって体系建てているのに対し、国語(自然言語)の体系は「定義」されつつできた
ものではなく、まさに「自然」にできたから、厳密に見えないのだ、ということではな
いでしょうか。
最後に、再び繰り返しますが、私が書いたのは「正義を定義」することは正義でない、
ということであって、「定義することはすべて正義ではない」と書いているわけでも
ないですし、また「強制」がいいとか悪いとか、「自由」がいいとか悪いとか、役に
たつたたない、とか書いているわけではない、ということを御理解願います。
「強制力」について、付け加えます。
ウォークマンか何かの、製品を買ったとします。
あるいは、Photoshopなどのソフトウェアでもいいです。
それにはもちろん、説明書がついていて、「使い方」があります。
しかしこれを、私は「強制」とは思いません。
概念が「製品」だとすれば、意味は「使い方」です。
概念は、厳密であればあるほど「役に立つ」はずです。
これは「強制」ではない。
逆に、どんなふうに使ってもいい概念は、意味を伝えません。
どんなふうに使ってもいいから「自由」だ、と感じるでしょうか。
概念の厳密さを「強制力」と呼ぶのは、適切でないと思います。
概念は厳密であればあるほど、みんなの役に立ち、
コミュニケーションや共同作業を可能にします。
それはみんなの「自由」を増すはずです。
「強制」は、「自由」を奪うものだと私は考えます。
定義はなんでも、強制力あるいは厳密さをもつ、と言っても間違いではないかもしれません。
だとすれば、「しかしその度合には差がある」と私は答えます。
たとえば、辞書で「正義」を引けば、辞書によってその説明は違うでしょう。
このレベルのものを、「定義」と呼ぶのは適切でないかもしれませんが、
ラフにいえば「定義」と呼んでもいいと思います。
そういう「定義」と、科学的な概念の「定義」は、はっきりレベルが違います。
辞書の説明ていどの「定義」は、強制力を持たない、あるいは持つとしてもごく弱い。
科学的な概念の「定義」は、強制力を持ちます。
しかしこのときの「強制力」は、「強制連行」のような「強制」」ではない。
まさにfukujuさんが書いているように、「使いたくない人は使わなくていい」ものです。
「使わない」ならむしろ問題ないわけで、問題なのは「誤用する」ことです。
たとえば「微分可能」という数学の概念は、「正義」という概念よりも、厳密に定義されています。
なぜ数学とか科学の概念は厳密で、日常的な概念は厳密さに欠けるのか、という問題は、
じつに面白い話だと思いますが、とてもここでは論じきれないので、別の機会に譲ります。
ただ、誰でも次のような経験があるんじゃないかと思います。
数学の問題なら、自分が間違えたとき、自分が間違えたことがはっきりする。
しかし国語の問題で、問題集の解答が自分の答えと違うとき、自分が間違えたとはどうしても納得できない。
なぜこの違いが生じるのでしょうか。
数学の意味体系は厳密であり、
国語(自然言語)の意味体系はそれほど厳密ではない。
というのが理由だと私は考えます。
自然言語の場合、語(あるいは概念)に割り当てている「意味」が
人によっていくらか違うので、こういうことが起こるわけです。
つまり誰でも、語を「自分が使う意味で」読むからです。
この話は、まさに意味論/語用論の話題です。
こうしてbbsで論じるのも面白いのですが、本当にきちんと議論を前進させるには、
叩き台になるような、あるていど長い論考が必要でしょうね。
Junkyさんが私の文章を読んですっかり合点がいった場合どういう行為を選ぶかは、
私にはわかりませんが、私が誰かの文章を読んで「なるほどそのように書くより他
ないよなぁ、」となった場合、ほとんどなにも書けなくなるような気がします。ただ、
まあ、いまひとつうまく想像できないんで、やはり、その都度、どういう行為を選ぶ
か考えるしかなさそうです。
なるほど『この場合の定義』というのはわかりました。しかし、相変わらず、それが、
どうして「提案」になってしまうのかがわかりません。ロッカーさんも「投稿日:07
月04日(日)23時30分46秒」の発言で、
>私の考えでは、「正義」でもなんでも、概念を「定義」しようとする試みは、
>ひとつの「提案」であると思っています。その提案にみんな賛成なら、まさ
>にそれが定義になるでしょう。
ということを書いておられるように、「提案」の後、「定義」になる、という風に書い
ています。ここに『その提案にみんな賛成なら、まさにそれが定義』とありますが、
「定義」ってのは、少なくとも、その『みんな』の間では、『強制力、あるいは厳密さ』
をもっている、ということではないのでしょうか。
「1m」の定義に賛成した覚えはないけど、『みんな』の仲間に入るために、「1m」
ってのはこの定規の長さだってことに従う。これは一種の強制力ですよね。『みんな』
が承認している「1m」の定義にどうしてもなじめず、それを客観的な尺度として認めら
れない人がいてもまたいいはずです(そういう人が集まってメートルじゃない基準を持つ
かもしれない。電気やガスや石油を使わないで生活するとかいう人々がいるように)。
正義の定義になんか賛成した覚えはないけど、『みんな』がそう言ってるし、それに
従おう。『この場合の定義』が強制力を持たなかったり、厳密に見えなかったりすると
すれば、それは「1m」の定義を承認している人より、『みんな』の数が少ないからそう
見えないだけで、「定義」の本性には、やはり『強制力、あるいは厳密さ』が含まれて
いるように思われます。
http:
>fukujuさん=投稿日:07月06日(火)14時26分08秒=
う〜ん、確かにそうですね。
...と思う一方で以下のようにも思います。
私はfukujuさんの書いたものを読んで、なにか考え、なんらか合点がいった。
考えること合点がいくことの手段であり結果であり、
考えること合点がいくことそのものでもあるような行為が、
たぶん、ああいう風に書くことだったのだという気がします。
仮に私がfukujuさんの書いたものについて
「なるほどそのように書くより他ないよなぁ、」とすっかり合点がいった場合、
その時は
全くなにも書かないことや、
全く同じ言葉を繰り返して書く行為を選ぶのでしょうか。(反語ではなく疑問)
その時が究極の幸せなのでしょうか。(反語ではなく疑問)
あるいは、
「ある考えを理解する」という言い方が可能だとしたら、
それが実際に現れる行為の形としては、
その考えの変奏(つまり見かけのうえでは違うことを書く・言う)、その繰り返し、
でしかないのではないかと思います。
もちろんこれは一般論で、
少なくともfukujuさんがもうちょっと「すっきり」できるような
私の合点のいき方すなわち書き方は、現実にありえたと思います。
そうできなかったことは少し悲しいです。
(なお、どうせだから、正義の話でしめることにしますが)
私が悲しいからといって私が正義でないというのではありません。
ここ一ヶ月ほど、僕はこんなことを考えている。
この国においては、そもそも「正義」という観念はなかったか、
あったとしても薄かったのではないかと。
僕がものごころついて最初に教えられた、
社会的観念は「和」であったように思う。
つまり「みんななかよく」である。
このなかには実は、嫌われものもいれば人気者もいるが、
「正義」の為に「悪」を懲らしめるという意識はなく、
「和」(或は調和)こそが社会運営上尊いものだったのではないか。
「正義」は西欧的或は一神教的観念であり、さらにいいかえるなら、
「合理的」社会運営の為の観念であるように思う。
「コソボ」での、僕の違和感はここにあったような気がしている。
むしろ語用論でした。
意味論は、意味をとりあえず固定して、話が始まるものです。
(と私は理解しています)
というのは、「正義」概念のようなものの定義の場合、
その人がいくらそう定義したからといっても、
みんながそれに従わねばならない強制力、あるいは厳密さをもたないということです。
例えば、科学概念の定義は、もっと厳密ですよね。
「1m」という長さ、「1秒」という時間、といったものは、
きちんと定義があります。
もちろん、普通の人はいちいちその定義を用いずに、
定規で計ったりするわけですが。
しかし定規程度でも、客観的な基準たりえていますよね。
これに対して「正義」概念のようなものには、定規程度の客観的な尺度さえもない。
そういう概念の「定義」、まあ辞書の説明と似たりよったりの「定義」に対して、
「この場合の定義」と書きました。
科学や数学の概念と比べて、日常生活で用いる概念は、定義がゆるくならざるをえないと思います。
これも結局、「意味論」の話題になるでしょうね。
>この最初の「私が」をはずして、
>「考えることは正義だ」
>としてしまうと、fukujuさんの主張とずれますか?
ずれます。投稿日:06月29日(火)16時01分28秒あたりの私の投稿等を参照してみてください。
><考えることは正義だ>という主張なら、「正義」概念を拡張しすぎだと思うにせよ、
>どちらかといえば賛成できます。
>しかし、<正義を定義することは正義でない>というfukujuさんの主張には、賛成できません。
>私は、その行為はどちらかといえば正義だと考えます。
>この場合の定義は立法行為や強制ではなく、有意義な「提案」だと思うからです。
>「正義概念の提案」も、「考えること」の一貫だと思えます。
ここでのロッカーさんの書き方には少し疑問があります。
『この場合の定義』とは普通の定義となにか違っているんでしょうか?
『この場合』というのは、「正義」を定義するときには、とかいうこ
となんでしょうか?私は、定義は定義、提案は提案、だと思っています
ので、どうして『この場合の定義』が「提案」になってしまうのかよく
わかりません。「正義概念の提案」なら別にそれを「正義」かどうか、
なんて言う気にならないですし、確かに「考えること」の一貫でもある
んだろうなぁ、とは思いますが。
私の書いた『ポイント』には、無条件、とか、根源的、とか、正当性、とかいう
言葉は使われていないですし、『ポイントのポイント』“のようなこと”、とし
て納得されるのはすっきりしません。私が、『ポイントのポイント』“のような
こと”、を書きたかったのなら『ポイントのポイント』のように書いたんでしょ
うけれども、やはり『ポイント』で書きたかったことは、まさにそこに書かれた
ようなことを書きたくて書いていたんです。それ以外の書き込みも、まさにそこ
に書かれたようなことを書きたかったんだ、と思って読んでほしいし、私でなく
とも、ある文章はまさにそこに書かれたように書きたかったんだ、と思って読ん
でもらいたいのではないでしょうか。(本人が何を書いてるか分かってなかった
りでたらめを書いたりしたもんでもない限り)。少なくとも私は、他人の文章を
読むときは、その文章を「○○“のようなこと”」を書きたかったんだ、として
納得するのではなく、そこに書かれたように書きたかったのだ、と思って、どう
してそのように書かれなければならないのか、ということを分かろうとがんばっ
てみます(そのように書いた人に直接聞いてみたりして)。その上で、どうして
も、どうしてそう書かれなければならなかったのか、ということが分からない文
章というのはあって、そういうのは、さらにもっと読み込んでみて分かるように
がんばるか、私には分からないということで脇によけておくかするようにしてい
ます。私の『ポイント』文章も(またそれ以外のものも)、「○○“のようなこと”」として簡単に納得されるより、脇にうっちゃっておかれるなりダメの烙印
を押されるなりするほうがむしろ“すっきり”するくらいです(私が一番望んで
いるのは、なるほどそのように書くより他ないよなぁ、と合点していただけるこ
となんですけど、いつもいつもそういうわけにもいかないでしょうし)。
(もちろん、私の文章を読んで、誰がどのように納得されようがそれはそれでど
うこう言うことではないと思うんですが、「○○“のようなこと”」として納得
した、みたいなことを公共の場で書かれたので、それは違いますよ、くらいのこ
とは書くべきだろうと思って反応しているわけです)
正義とは何なのか、というのにちょっとこだわってみます。
fukujuさんは
「私が考えることは正義だ」
と書いていますが、これは私にはあまりピンときません。
この最初の「私が」をはずして、
「考えることは正義だ」
としてしまうと、fukujuさんの主張とずれますか?
<考えることは正義だ>という主張なら、「正義」概念を拡張しすぎだと思うにせよ、
どちらかといえば賛成できます。
しかし、<正義を定義することは正義でない>というfukujuさんの主張には、賛成できません。
私は、その行為はどちらかといえば正義だと考えます。
この場合の定義は立法行為や強制ではなく、有意義な「提案」だと思うからです。
「正義概念の提案」も、「考えること」の一貫だと思えます。
ポイントのポイントは...
私が今こうして考えている。
この行為は無条件に根元的に正当なものだ(あるいは正義だ)と感じる。
もちろん、その行為に意図や目的を探すこともできるが、
そうしたからといって、この行為の正当性が弱まることも強まることもない。
ただ私は考える。ゆえに私は考える。
...というようなことでしょうかねえ。そう納得すると、すっきりします。
すいません、下の書き込み、
改行しなければいけないのを忘れていました…
「正義」もそうですが、どんな概念でも、それの「定義」はどうして可能なのか、は面白いです。
まったくデタラメに使われているわけではないので、その意味はみんなぼんやりとわかっている(つもり)ですが、いざ定義するとなるとむずかしい。
私の考えでは、「正義」でもなんでも、概念を「定義」しようとする試みは、ひとつの「提案」であると思っています。
その提案にみんな賛成なら、まさにそれが定義になるでしょう。
その提案に反対の人がいれば、その反対している人にもっとよい提案を出させる。
こうしていけば、とりあえずその概念の定義が落ち着くと思います。
それはまさに「とりあえず」でしかないのですが、「概念の定義なんてできない」とあきらめてしまうよりも、やっぱり役に立ちます。
たとえば、辞書がそうです。辞書の説明は「定義」とはいえないと思いますが、辞書はやっぱりそれなりに役に立つし、じっさいいろいろな辞書が売れているわけです。
だから、「正義」概念についても、それを定義しようとする人の試みを、私は無駄とは思いません。
なお「正義」概念については、ロールズの『正義論』というのがわりかし有名ですね。あまりにヘヴィで、私は挫折しましたが…。
fukujuさんへ。
ウィンブルドン女子準決勝。グラフとルチッチのラリーは見応えがありました。常に
相手の待つ場所を予測し、なるべくその場所にはボールを打たないのがテニスの試合
というものですね。いわゆるディベートというやつも同じなのでしょうか。しかしfu
kujuさんとのこのやりとりは「勝ち負けのあるディベート」という意識は全くありま
せん。だからできるだけ相手が待つ場所にボールを打とうとはしているのです。でも
結果的に見当違いの方向にボールが飛んで迷惑をかけてしまうことはあります。だた
その場合も決して「アウト」ではなく、その瞬間コートのラインがそこまで延びたこ
とになるのがテニスとの違いということで、続けます。
私が編成した「正義」というクラスは、中にいて気持ち良いか気持ち悪いかというと
、さほど気持ち良いクラスではありません。「ただ考える人」にはもっと気持ち良い
クラスがあります、きっと。定義の問題というのはそういうことです。というわけで
、「ただ考える人」と「書く人」のどちらが「正義」という言葉にふさわしいかはさ
ておき、「考えているだけではなく、書こう!」と呼びかける意図について、もう少
しだけ。
なんらかの問題に対して正しい解答に近づきたかったら、ひたすら考え続けることだ
。そう感じることがあります。なにか書いたとたん、考えていたことや考えているこ
とがするすると逃げていくような気すらします。また、考えることの純真さに比べた
ら書くことにはどこか不純な動機がつきまとう、そういう風にも感じます。そういう
時、私は「正しく考える」ことはできても、「正しく書く」ことは原理的にできない
んじゃないかと思ったりもします。
しかし一方でこうも思います。他人の考えを知るためには他人の書いたものを読みま
す。書かれなかった他人の考えは、なかなか知ることができません。それどころか、
書かれなかった私の考えですら、私はなかなか知ることができないのではないか。つ
まり「ただ考える」だけでは、私の考えを私が知ることができないのです。私の考え
がたとえば悪い考えだという烙印を、私が押すことができないのです。「考えるだけ
でなく書いてみること」に価値があるとすればこういうことではないでしょうか。
それはそれとして、考えたり書いたりもいいですが、久しぶりにしゃべったりするの
もどうでしょう。
不本意ながら倒産します。
6月30日10時34分の私の書き込みには間違いがありました。『思い込みでない正
義とはどこにあるのか。』に答えたとして、それが「正義の定義」になるというわけ
ではないですね。正義を定義することは正義でない行為、のように私に見えるのは確
かなんですが、『思い込みでない正義とはどこにあるのか。』という質問に答えると
したら、『「これここに」(と胸をたたく)と答えるより他ない、それだけが正しい
答えだ』、と書くべきでした。つまり、約束を破られ「それは君の思い込みだよ」と
言われたとして、証拠がないのであれば、その証拠が『どこか外にある』かのように答
えるのは、嘘、になり、正義ではない(「これここに」と言うより他ない)。それと
同じく、正義が『どこか外にある』かのように答えるのは、嘘、であり正義ではなく、
「これここに」と言うよりほかないのだ、ということが書きたかったことでした。
>正義の定義が、私とfukuju氏の間で、あるいは私の中でも、
>揺れているのだと思いました。
>『思い込みでない正義とはどこかにあるのか。』
>この解釈だけはfukujuさんは誤解しているように思います。
>これは反語ではなく純粋の疑問形として私は書きました。
下の引用部分、私の説明不足でした。Junkyさんの『思い込みではない正義とはど
こかにあるのか。』という書き込みは、私も反語としてではなく、疑問形として捕
えていました。私の書き込みはまさにそのような疑問文に対して書かれたものです。
そのように問われ、いったい誰が答えられるというのか。それはまさに約束をやぶ
られた相手に「君の思い込みだよ。そんな約束をいつしたというのか」というのに
対して答えようとし、しかし、どのような答えも説得力を持たないような状況とよ
く似ているように見えた。もし『思い込みでない正義とはどこかにあるのか。』な
どと問われ、その疑問に答えられたとしたら、それは正義の(ひとつの)定義です。
正義の定義。私はそれこそまったく正義に反した行為のように感じます。だから、
「正義なんてどこにある?」と問われたら、これここに、と、胸のひとつもたたく
より他ない、と思うのです。
>『ひとりで考えているだけでは、それは正義ですらありません。』
>などと言っているのだから、矛盾していると思われるかもしれませんが、
>これは「考えているだけではなく、書こう!」と主張しているわけです。
「考えているだけでなく、書こう!」。こういう主張、呼びかけなら私は別に文句を
言いたくもなりません。しかし『ひとりで考えているだけでは、それは正義ですらあ
りません。』などと書かれたら、一般的にそうなのだ、と思われかねないでしょう。
Junkyさんが掲示板やHPに書く勇気を自分に与える意図、というのは、「ただ考える人」
より「書く人」の方に価値があるかのように印象付け、正当化し、そして勇気を得よう、
としているようにも見えます。Junkyさんの意図はともかく、私は前に書いた通り、
考えているだけ、でも正義だ、と思っていますから、そういう言葉(正義ですらな
い)そのものが許せないのです。
><言葉の力に促されて書いている>
>これは書くことの理想に近いのだろうと思います。
>これに、最大級の褒め言葉として「正義」の名を
>与えることに異存はありません。
私は褒め言葉として「正義」の名を与えているわけではありません。「正義」のクラ
スのメンバーとして扱っている、と言ったほうが正確です。つまり、それは正義だ、
と言っています(自信なく、ではあるが)。
正義の定義が、私とfukuju氏の間で、あるいは私の中でも、揺れているのだと思いました。
正義とは行動の性質か思考の性質か、というようなことです。
そこを使い分けて読むと、私の文章もfukuju氏の文章も、私はどちらも納得できる。
正義という評価を実践・運動・政治などについてだけ当てはめたからといって、
実践・運動・政治をする人の方が偉いと言いたいわけではありません。
むしろ考える人・書く人の方が、どちらかといえば自分に近いし気が合うので、
偉いと言いたい場合が多いです。
『ひとりで考えているだけでは、それは正義ですらありません。』
などと言っているのだから、矛盾していると思われるかもしれませんが、
これは「考えているだけではなく、書こう!」と主張しているわけです。
それは、たとえば掲示板やHPに書く勇気を自分に与える意図もあったかと思います。
『思い込みでない正義とはどこかにあるのか。』
この解釈だけはfukujuさんは誤解しているように思います。
これは反語ではなく純粋の疑問形として私は書きました。
さて、とてもおおざっぱながら正義の問題はさておいて(もよければ)。
<言葉の力に促されて書いている>
これは書くことの理想に近いのだろうと思います。
これに、最大級の褒め言葉として「正義」の名を与えることに異存はありません。
ただし。
考えること自体は、言葉の力に促された自然な行為だと思いますが、
書くことは、ちょっとそこから離れた行為のように感じます。
考えることは自明・無償の行為ですが、
書くことはそれほど自然でもないように思うのです。
それでも上のように「考えているだけではなく、書こう!」と呼びかけたりするし、
ここに、整理されないままでもなんらか書き込みはしようと決めた私の気持ちを、
これから、おいおい解明していきたい。
『正義が大事だから、書く』というのも、どうも正義に見えないところが
あります。私は書きたいから書くのであって、正義が大事だから書くので
はなく、ただ書くに際して正義であろう、という気構えでいるだけです。
『正義とはたぶん実践です。運動です。政治です。』と書きたくなるとこ
ろは私にもないことはないのですが、やはりそれは間違いでしょう。正義
は正義で、実践でも運動でも政治でもありません。
『ひとりで考えているだけでは、それは正義ですらありません。』
私は他人が何を考えているのかわからないので、確かに、他人がひとりで
考えているだけ、の時には、それが正義かどうか言うことはまったくナンセ
ンスなことだと思います。んが、こと私に関して言えば、ひとりで考えてい
るだけで、正義だと思っています。というか正義です。これは実践です。運
動です。政治だ、と言いたくもあります。私に向かって「君はただ考えている
だけで実践も運動も政治もしていないではないか」と人に言われたとしたら
「それは違う!!」と強く言いたい。私は考えた結果沈黙を選ぶことがよ
くある。それはそうすることが正義だと思ったからです。沈黙してはいけ
ない場面では発言することになるでしょうが、のべつ発言したり行動した
りすることが正義だとはとても思えない。私の発言や行動が人に影響を与
えリアクションが返ってきたなら、またそれに対して正義だと思われる行
動(謝罪したりさらなる説明をしたり腕力に訴えてみたり)をとるだけです。
『思い込みでない正義とはどこかにあるのか。』
これは、約束を破った相手に「そんな約束はした覚えがないなあ。君の思
い込みだよ」と白をきられるのと似てるような気がします。証文も証人も
なく、相手が白をきっているとしか思えないのに「証拠あんのかよ」とか
言われたら、はなはだ説得力のないことでしょうが「ここにある!」とド
ン!と胸をたたくくらいのことはするかもしれません(実際にはそんな小っ
恥ずかしいことしそうにないですが、そんなような気持ちでいるだろうな、
とは思います)。
『 たとえばこういう掲示板における正義とは、
やりとりされる言葉の力をできる限り信じて書くこと、』
振り替えってみると、私は、掲示板でもホームページでも紙媒体でも「書
くこと」における正義観は変わらないという気がします。『言葉の力をで
きる限り信じて』というより、日々言葉の力に圧倒されているという気が
してしかたない。私が『言葉の力を信じて』『書く』・・・・というより
・・・・言葉の力に促されて書いている、書かされている(これに快感が
あったりするので“書きたく”なるのかもしれない)・・・そして、それ
が、書くことにおける、「正義」、なんじゃ、ないか、と、最後はちょっ
と自信ないが、でも、そう書きたくなってる。
http://www.tky.3web.ne.jp/~fukuju21
<「正義は大事だ」という思いこみ的価値観が私にある以上、
「盗聴は許せない」と書くしかありません。>
こういう態度は本当の正義ではない、と指摘されるのはもっともです。
そう感じ取ってもらえることを期待して書いたかもしれません。
で、ちょっと正義について考えました。
正義は、
こうだろうか、いや違う、ああだろうか、いや違う...
と、どこまでも考え続ける働きよりも、
むしろ、思考をいったん中断し、
そこまでの結論をもって自分の世界(価値観)を塗りつぶし、
周囲の世界(価値観)も塗りつぶそうとする働きの方が強い。
だから、
そこまでの結論が誠実な思考をもってなされたのなら、
それはそれで自分なりに尊重してよいが、
誤った思いこみかもしれないという謙虚さも大事だ。
正義という言葉はたいてい偉そうな顔で現れる、
だからこそ正義に対する疑いを忘れないほうがいいだろう、
だったら少し臆病そうにこの言葉を使ってみようか。
そういうようなことで、ああいう書き方になったかと思います。
もう一つ。
<>の文章のポイントは、
正義が大事だから、盗聴は許さない
ではなくて、
正義が大事だから、書く
だとしたらどうでしょうか。
正義とはたぶん実践です。運動です。政治です。
ひとりで考えているだけでは、それは正義ですらありません。
結論がまだ熟していないことを恐れつつも、
胡散臭く受けとられることを恐れつつも、
発言することでしか正義は現れない。
<>の文章からは、そういう決意(これはある程度本当の正義だ)も読みとれます。
それにしても、(言葉上は矛盾しますが)、思いこみでない正義とはどこかにあるのか。
たとえばこういう掲示板における正義とは、
やりとりされる言葉の力をできる限り信じて書くこと、そういうことかと思います。
この場合ポイントは「書く」ではなく「言葉の力をできる限り信じて」です。
私も「正義は大事だ」と思いますし、それどころか「正義こそが大事だ」、
と思うくらいなんですけど、そこから「盗聴は許せない」と書くことには
繋がらないです。
Junkyさんの“正義”の実践が「盗聴は許せない」と書くこと、にあるように
為政者の“正義”の実践は盗聴すること(で犯罪を防ぐこと)、にあっても
いいですよね。それとも為政者のそんな“正義”は本当の正義ではなく、よくない、
のでしょうか?「盗聴は許せない」からそう書く、のならば納得できるので
すが、Junkyさんに「正義は大事だ」という思い込みがある以上そう書くしか
ない、と書くことは、私には本当の正義ではなくよくない、ように見えます。
田原氏は
「ジャーナリストである私がやくざなどと電話しあうときに盗聴されると不都合だ」
という趣旨のことをエラそうに述べたくせに、
「ジャーナリストでも革命家でもない一般人は、聴かれてもどうってことないでしょ?」
てなことを言っていたみたいだったから、なんかカチンときたのです。
さて僕の場合は電話やメールを盗み聴き(盗み読み)されたらイヤですよ。
ムカツクというか。それと、
「正義は大事だ」という思いこみ的価値観が私にある以上、
「盗聴は許せない」と書くしかありません。
でも「困る」というのとは、ちょっと意味が違いますかね。
「一般人が電話を盗み聞きされたからといって実際に何が困るの?」
そんなこと言ってたのか。俺もいっしょだったりして。
雨の中、東京都現代美術館まで行ってきました。
会期はあと1週間、Junkyさんは行ったんでしたっけ?
http://www.tef.or.jp/mot/special/special33.html
何にしろ素晴らしい。
http://www.tcup5.com/535/miho.html
コミュニケーションの必要が郵便を生んだのではなく、
郵便制度がたまたまあったから
我々は年賀状だの、暑中見舞だの、LOVE LETTERだの、退職のお知らせだのといった、
コミュニケーションをせざるを得ないようになった。
掲示板システムも同様で、
我々は、期せずして、いやでも、
ほんの5年前、いや3年前でもまるで経験したことのなかった種類の、
変なコミュニケーションを、実は行っている。今ここで行っている。
すごいことだ。すごいことだ。すごいことだ。すごいことだ。
まだ、「存在論的、郵便的」読んでいない。はずかしながら。
そのくせ、こんなことを考えるのはフトドキこの上ないのですが。
かつて、「交通」といった批評家がいたことを念頭においた上で。
もし、「郵便」というシステムをコミュニケーションシステム、つまり、
「存在」認識の方法として、捉えるならば、
私は、今現在そして近い将来、「掲示板」というシステムもまた、
「郵便」とは違う、そしてより現在的な、コミュニケーションシステム=
「存在認識」システムであると言えるのではないかと。
日比谷、行きませんでしたが、
きょうもニュース23でやってましたね。
宮崎学、佐高信、辛叔玉の3氏がインタビューを受けていました。
・・・しかし、集会についてのニュースについての報告をして、どうしようと
いうのでしょうか、私は。
ムッキー氏がリンクしていた集会が、ニュース23で報道されていましたよ。
で、テレビの中での圧倒的な主役は、なんと東浩紀氏でした。
「古いメディアの認識しかないくせに、新しいメディアを制御しようとするところが
実は盗聴法の最大の問題だ」といった趣旨で、例の縦板に水弁舌。
大真面目で超鋭敏なところが、けっこう笑えてしまうという不思議なキャラクター。
しかし宮台氏をはじめ他の著名人の顔は一瞬ずつしか映らず。
実際の集会はどうだったのでしょうか。
下のリンクは、盗聴法案と国民総背番号制度への反対イベントですね。
翌24日(木)には日比谷野外音楽堂で、宮台真司氏を含め似たような人々の呼びかけで、
やはり盗聴法反対の集会があるようです。連絡先TEL03-3496-1422
午後6時30分開会。6時からはアトラクションがあり、
ランキン・タクシー(ラッパー。この人面白い!)が出ます。
先着25名ではちょっと参加はきついですね。
http://www.tcup5.com/535/miho.html
あー、『トラスト・ミー』『シンプルメン』
また見たいなー
良質のアメリカン・ロックみたいな、映画が見たい
映画、『TRUST』ではなく『SIMPLE MEN』のほうでした。
昨晩気付きました。どちらも良いんですけど。
初めまして。Junkyさんの文章を読むと、なんだかつられてしまって
ノスタルジックな?気分になりました。夜に潜む静けさが持つ、厳かな
雰囲気がします。
ハル・ハートリーの映画をビデオに撮っていたので、日曜日に観ました。
『TRUST』です。旅は、人の純粋な感覚を呼び戻すような気がします。
AIC(アサヒインターネットキャスター)の金曜日版
坂田栄一郎さんの今月の肖像写真ミュージアムで
http://www.asahi.com/paper/aic/index.html
高橋源一郎さんが無邪気に笑ってます。(たしかこちらには
高橋さんファンが多いという認識があるのでご報告)
村上(龍)さんは飛んでるし北方さんなんか
ハードボイルドを通り越して思わず”ぷっぷ”としちゃいます。
そういえば今週のAERA表紙は平野(啓一郎)さんだし。
タレントよりも作家顔のほうが味わい深いし雑誌も売れるのでしょうか。
阿部和重と東浩紀は仲がよく、平野啓一朗となかが悪いらしい。
でも、東も平野もオタクだから、実際にあうと仲良くなるのでは、
ということだった。
結構、おもしろかった。
>Junkyさん
旅に出ちゃうんですか?
私も遠くに行きたい・・・此処じゃないどこかへ。
僕はパキスタンは行ったことありますが、中国方面には抜けた
ことがなかったのですが、なかなかよかったですよ。
疑似体験できました。デジャヴュとでもいうのだろうか。
http://www2q.biglobe.ne.jp/~mkimpo/satchie/
どこどこへいったら、ああだった、こうだった、という話は、
そこへ行ったことのある人以外には、
なかなかつまらないだろうと思いつつ、
話したいことは山ほどあって、
当人は書きたくてしょうがないもので・・・
でも、とりあえず↓こう言ってもらえてほっとした。
調子にのって書き足していくことにします。
1999年6月5日の日記、そして旅の話。
Junkyさんは、旅のことを書くとイキイキするような。
旅をしていないときでも、「心はいつも旅人」なんでしょうね。
「迷宮旅行社」とか「東京永久観光」のネーミングからして。
インターネットで言葉をやりとりすることは、
脳髄と脳髄が直接つながっていることであるように思えるのです。
だから、奇妙で繊細な思考も生きのびやすいのは、現実世界よりも電脳世界だ。
ただ電脳世界には身体がない。
ま身体なんて思考には不必要かもしれないようにも見えるが、
実際のところ、どうなんだろうか。
脳ミソだけで生きているホーキング氏に聞いてみるか。
また、現実世界では入院していました。
脳髄はかなりのダメージを受けた模様です。
やれやれ・・・
でも、入院する前の私と退院した後の私は本当に同一なのだろうか?
思考と言葉のようにうまく重ならない。
ま、電脳世界の僕には関係ない話ですが。
ひとしきり遊びました。何も考えずにね。ふふふ。
プラグインは最新じゃなくても大丈夫だと思うんですが。
画像が出た方は、それをクリック!
次に出たものをマウスで追いかけるべし。
ほとんどそれだけです。あまり期待しないでください。
「ところで、これ、どういう意味?」
それを考えていただくことこそ、それの意味です。
おーJunkyさん復活してる!
死んだかと思ってました(いつかのお返しじゃ)
「考える仕組み」みられるけど動かない・・。
これでいいのでしょうか?
Shockwave Flash
ファイル名: C:\PROGRAM
FILES\NETSCAPE\COMMUNICATOR\PROGRAM\plugins\npswf32.dll
Shockwave Flash 3.0 r8
今、時間がないからまたあとでアップデートしてみよ。
プラグイン「Shockwave 7 & Flash Players」は
下のURLからクリックひとつで持ってこれます。
あるいは、メールで郵便物の受け取り先を教えていただければ、
フロッピーでデータ(プラグインでなく、考える仕組みのムービーデータ)を
送りますよ。ただし、マックでないと見られない。
他の方でも同様の要望があれば、メールをお送りください。
http://www.macromedia.com/jp/shockwave/download/
入れてみたけど何も起こりません。
それとも一時間ぐらい見ているとぐにょぐにょするのかな?
あるいはネットサーファーが目を離した瞬間だけ変形するのか・・・。
骨折の次は原因不明の高熱で身動き取れません。
病気に好かれるしくみでも、体にダウンロードしちゃったかな?
プラグインがないので見えん。
ダウンロードの仕方もわからん。
考える仕組みが備わってないのかもしれまへん。
http://www2q.biglobe.ne.jp/~mkimpo/satchie/
いつもなら目をつぶってでも出来てしまう手順も、
きょうばかりは、なんだかひっかかりがちなほどでありました。
つぶれません。ビジネスではないので。
経営理念だの、決算だの、リストラだの、
そんなつまらないことは、すべて金儲け世界の仮想現実。
しかし、不況でなくとも、「いよいよだめかな」という弱気はHPには常にありますがね。
つぶれちゃったの??
ああ、不況だ・・・トレヴィルもなくなっちゃったし。
つぶれたらしいんだけど、涼子ちゃん知ってた?
え、つぶれたの!?...涼子ちゃん知ってた?
いや本当に知らなかったみたい。
僕なんかちょっと自信がつきましたよ。
これって演出(しかも程度の低い!)じゃないですかねえ。
広末涼子はともかく筑紫哲也がそんなこと知らないわけがない。
それにしてもTVってつまらない演出しますよねえ。
だなあ、と思ってたら「光琳社」って「COLORS」日本語版出してたとこじゃないすか。
つぶれちゃったみたいすね。「COLORS」どうなるんだろう。
レイモンド・カーヴァーの小説に、こういうタイトルがあったね。
" Please be quiet, please." 村上春樹の訳。
しかし東氏。あの絶対確信のノンストップ早口は、
思考ノイズ系?哲学サンプリング?
「DJ技的、レイブ的」、頭を空っぽにして向き合うべし。
...無理か。
こんなんありました。
僕は「存在論的、郵便的」も全然、読み進んでません。
http://www.i-s.co.jp/is_html/co_html/co-eb1.html
広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋、に落ちてください。
---from「スプートニクの恋人」(村上春樹)
ということだし
せっかくだったら東京の大半を焼き尽くし、
後世の教科書に「Junky火事」とでも載るようなのにして下さい。
私はアルミ製の松葉杖とのデートを許される事になりました。
長い付き合いになりそうです。
銀色の恋人二人、ずいぶんと冷たい肌の持ち主ですが。
と思いきや、あしたは出勤となりにけり。
ふざけた会社だ。
もし火事にでもなったら、それは私の仕業だと思え。
を、送ることができればいいのだけれど、いくらたっても
今だ沸点に達しないやかんの湯を待つように悶悶と過ごす
連休です。採用通知は来ないらしい。うぅぅ←泣いてる
怠惰で厭世的な連休生活
Take it easy !
はやく「鼻紙からの生還」ならぬ「病院からの帰還」を果たされます
ように。
を、送る羽目になりました。
というわけで日記の更新はしばらくありません。
ベッドに縛り付けられていては、あまり優雅ではないかな・・・。
ハスミ氏特有の
思いも寄らない妙な角度からの分析と、
エレガントで精緻な文章が面白い。
「齟齬・違和・隔たり」について語るのでなく、
「齟齬・違和・隔たり」そのものであろうともくろみ、
「成功した」と一人ほくそえんでいることでしょうね。
しかし。フフフ、まだ甘いよ、ハスミくん。
入学式で「齟齬・違和・隔たり」を本当に体現したいなら、
もっとすごいことしてくれなくちゃ。
それこそ東浩紀氏のような絶対難解マシンガン祝辞とか、
「そご・いわ!」しゃれの一つも入れる茶目っ気とか。
ガマの脂売りでもやって終わるとか。
ま、そういうものを、大学という制度の頂点に立つ人に求めるのは無理か。
そのくせ東大ホームページのポートレートは、
ちょっと<選挙ポスター>入っていて、なかなか齟齬感ありなのに、
たぶん本人は気が付いていない鈍感さ。
そこまですごい人ではないのでしょうか。
知の権威批判を結局は知の権威を借りて行った印象でした。
ところでどさくさまぎれに「ムッキー」ってのはいったい?
これが
「普段は隠されていながらもそれが総体として機能するのに不可欠な
もろもろの異なった要素の組み合わせ」というやつですか。
*あ私もジャンキーなどとぬかして人のこと言えませんか。
http://www.u-tokyo.ac.jp/division/president-j.html
式辞はテクスト・ファイルにしい保存してあるのですが、
実はまだ読んでないのです。
http://www.yomiuri.co.jp/newsj/0422i605.htm
なにをゆっているんだか、誰がきいているんだか、この方↓(ムキンボさんではないよ)は。
ちなみに、彼が書いた学部内の新入生向けの文章は
“「誘惑」と「目覚め」”
という意味深な題名でした。読みやすさは格段ですが。
意図的な読みにくさ?ヘタウマかいな。
蓮實重彦・東大総長の入学式式辞の全文が読めます。
http://www.yomiuri.co.jp/newsj/ic17i606.htm
なるほどその通りだと思わせますが、
それはそれとして、相変わらずパフォーマティブな人ですね。
この前、すぐに消えちゃったみたいなので、念のため。
http://www.yomiuri.co.jp/newsj/ic17i605.htm
社会とは、いくつもの齟齬(そご)感
や、違和感や、隔たりの意識が複雑
に交錯しあう過酷な空間にほかなり
ません。そこでの言葉は、あらかじめ
の同意の確認を目的としてはおら
ず、普段は隠されていながらもそれ
が総体として機能するのに不可欠な
もろもろの異なった要素の組み合わ
せを、すなわち、複数の差異をきわだ
たせる役割を担っております
http://www.yomiuri.co.jp/newsj/0417i605.htm
matiには0から3まであるのですね。
でも相互の関連はよくわからない。
http://member.nifty.ne.jp/900SS/index.htm
これは、入れますね(笑)、間違いなく。
まずいのか、こういうのは。
いや、いいアイデアだと思うがなぁ。
(絶対当選はしなさそうだけど)
宮崎氏。どんな人かは全く知りませんが、
フォトショップでペイント風のエフェクトをかけたみたいな、
変なポスターが印象的でした。
みんなけっこう話題にしてたんじゃないでしょうか。
得票多かったのがそのせいだとしたら面白いですが。
僕は新宿南口で本人が運動しているのを見ました。
青年実業家にして現代都市型隠れ任侠道のニオイを感じました。
運動員も背広ネクタイの男衆。
下のポスターだったら票入れます?
http://hot.netizen.or.jp/~junky/mati3.gif
「宮崎よしふみ」さんってどんな人か見てみたくて検索して
みましたがgooでは出てきませんでした。infoseekで唯一
引っかかったのが宮崎出身のふみこちゃんのページ。はは。
しかたがないので日記などを読んでまいりました。
さんとかいいましたっけ、あの人、大物どころ(ドクター中松含めて)を
除いて、一番得票があったような覚えがあるんですが、あれは多分、ポス
ター見て入れた人が多いんじゃないかなぁ、と思いました。<都知事選
(お花のなかのおめめがキラキラ光るよしふみさん、って感じで乙女チック
入ったかなり笑えるポスターだったのです)
選挙告知盤のポスターをみて、誰に投票するか決める
人っているかなあ。デザインがいいからこの人にしよう!
とかいって。今回は選挙に行けない状況に陥っていたけど
今度の選挙はそういう決め方にしてみようかな。
美味しそうな匂いを感じるから七輪とか、何が出てくるか
ドキドキしたいから風呂敷とかね。
私の友人Kは、若いころ松田優作に似ていないこともなかった。
一方、松田優作の晩年の写真は、どことなくハヤノボンペイ風に見えた。いやホント。
しかして、友人Kいわく
「実はオレのおやじ、昔よく言われたらしいんだ、ハヤノボンペイに似てるって」。
だからどうした。
明石氏と三上氏は笑顔がクリソツ(かつトウダイソツ)だった。
嘘だと思ったら掲示板で確かめて・・・
・・・ありゃ、もうなくなってる!
選挙関連の特集でチラッとテレビに映ってませんでしたか?
気のせいかなぁ。
昔新宿に住んでたとき、銭湯から出たら海江田万里が徒歩で選挙ねりあるきして
たんで握手してもらったことがある。日本新党から初めて立候補したときだったか。
手の小せー人だなぁ、と思ったけど俺がでかいだけだった。
COLORS日本語版は大きめの本屋なら売っているでしょう。
隔月刊。1000円はちょいと高い。
マガジンハウス社屋にある世界の雑誌コーナーに、
英語版のバックナンバーがありました。発行元はイタリア。
君が代日の丸について議論を戦わせ得るという事が
日本人の証だったりするのかしらんと、思いたくなったりもするが。
輝かしい未来の為の国歌はどこにある?
その前に「COLORS」はどこに行ったら手に入るのでしょう?JUNKYさん。
ぴかちゅーマウスパッドが大学生協においてあって、
なんというか、無念というか。
いきなり内堀埋められた気分です。
http://home.age.or.jp/x/eiji/bbs.cgi
ベネトン社の雑誌「COLORS」が好きで毎号(日本語版)買っています。
今回のテーマは「輝かしい未来のためのおもちゃ-」。
ふと思ったのですが、たくさんあるこの雑誌の魅力の一つは、
日本が中心ではない座標軸で世界を総覧できるところにもあるようです。
そんな中で今号に登場する数少ない日本製おもちゃは、
ラヴゲッティ(僕ははじめて知りましたが、友達ほしい人同士が出会うとアラームが
鳴るように仕掛ける携帯発信器)、そして、ぴかちゅ〜でした。
>というわけで、世を忍ぶ仮の姿であるかのような、ぴかちゅ〜さんに、
なにかおもちゃはありますか。
ベネトン社の雑誌「COLORS」が好きで毎号(日本語版)買っています。
今回のテーマは「輝かしい未来のためのおもちゃ-」。
ふと思ったのですが、たくさんあるこの雑誌の魅力の一つは、
日本が中心ではない座標軸で世界を総覧できるところにもあるようです。
そんな中で今号に登場する数少ない日本製おもちゃは、
ラヴゲッティ(僕ははじめて知りましたが、友達ほしい人同士が出会うとアラームが
鳴るように仕掛ける携帯発信器)、そして、ぴかちゅ〜でした。
>というわけで、世を忍ぶ仮の姿であるかのような、ぴかちゅ〜さんに、
なにかおもちゃはありますか。
>ムキンポさん
町田康の話。きょうの朝日でやっと知りました。
この件は「引用はどこまで許されるか」という点で興味あります。
それにしても「人間になるために煙草を吸おう!」なん言われると、
そうか僕は煙草を止めたとき人間も止めたのか、と膝を打ってしまいました。
耐えるのは辛いね、なにごとも。消えるのも辛いだろう。
マシなのはどっち?分からない。どっちもダメだ。本当にわからない。選べない。
というのは嘘か。単にあしたの細々したことが心配で、きちんと悩めないだけか。
きれいに消える?それはできない。だから、ぶざまに生きる。
だから僕は寝る。
そうだ!永く眠るつもりで12時間ほど寝ればいいじゃないか。あるいは24時間。
今ここにいる事が耐え切れない人は消えていく。
電子の海からも。原子の大陸からも。
選挙権も持たないうちに。
グッドナイト、スイートハート。
http://kusuri.net/private.html
http://www.yomiuri.co.jp/newsj/ic06ic26.htm
朕はたらふく食っている。
満足じゃ、満足じゃ。
朕はここに存在しておるのじゃ
満足じゃ、満足じゃ。
世の奴隷ども、人民どもよ
働くのじゃ、満足するのじゃ
本当の自分なんて、ある訳ないのじゃ
この現実に満足するのでじゃ
現状を肯定するのじゃ
>「本当の自分や本当の人生というものは、このとりとめない日々とは全然関係なくて、
>別のところにしっかり存在しているのだ」という調子のよい思い込みが打ち砕かれる。
>一目瞭然。自分はここ以外のどこにもいないし、これ以外の何もしていない。
こういうちょっとした無意識的実感を引っぱり出してくれるのが、Junkyさんです。
いやほんと、そのとおりだと思います。
その「ここ」というのが物理的場所ではないところが、またおもしろいわけで。
なーんだ、騙された。
これから新聞読んで探そうと思ってたのに、
読む前に答えを教えられてしまったのか。
「さざれ石も巌」という中国故事をご存じですか。
「小さな借金も積み重なると巌のように大きな額になるから気をつけよ」という
戒めです。この場合「苔むす」はもちろん「利息が付く」ことです。
というのは嘘ですが、
中国唐の「伝奇小説集」に
「水中から拾ってきた石を仏殿に長年放置しておいたら大きな岩になった」
という伝説があるらしいですよ。
虚仮。
》さんきょうだいは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで (てことは、もう食べられない?)
<いわお>が風化して、<さざれ石>となり、苔がむすというのなら、よくある話ですが、
<さざれ石>が<いわお>となることなど、果てしてあるのでしょうか?
<さざれ石>が<いわお>となって、苔がむすことがあるのなら、
シュウマイも蒸して食べるとおいしいかもしれません。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/namaste/laby/x.htm
途中の過程は、国内での配達より一層制御不可能な事故が起きる
可能性がありそうですね。郵便的に。くすくす。
そもそも北海道国後島という住所は個体としては”ある”かも
しれませんが、外交では”ない”のですものね。存在論的に?ぷっぷ。
ショートカット見に行ってみまーす。
むむ。出張催促!
のんきにしてたら遅れてしまい、
そしたら発行が延びて、これ幸いとのんきにしてたらまた遅れてしまい、
もう一回延びないかなと、またのんきにしています。投稿確率50%前後の見込み。
以上、ショートカットというミニコミ(independent
mediaともいふ)の話です。
私は3回連続投稿したのです。読もう!下のリンクへ。(ここ見に来る人は知ってるか)
北方領土へも配達できるのだろうか。それは80円切手?
http://www.tky.3web.ne.jp/~shortcut/
ちょっと緊張してます(笑)。
大辻清司の回顧展、6日で終わりだったんですか!
観たかったなあ。
お忙しそうですが、SCの発行が延びましたので、
ぼちぼち、原稿なぞお送りいただければ幸いです。
この寒さが終わると、春がまたぐっと近づきそうですね。
なにげにBSで古寺を扱った番組を見ていたら真行寺君江さんが
出ていました。高音を奏でる1本のハープの弦のような澄んだ
印象の持ち主で大変好感が持てました。
北海道と沖縄以外は思いつきませんよね。ヘンな問題を出して
しまいました。ごめんなさい。北方領土の住所も登記簿上では
北海道国後島とかですものね。
北海道、沖縄。
あとは北方領土?
問題2
宮城県 大分県 岐阜県(これは岐阜県でしょ!)
京都府 大阪府 愛知県(愛知も怪しそうだけど京都かなあ)
富山県 石川県 新潟県
(新潟は遠いし富山は石川の向こうだから、石川県!)
なんて、実は地図見ながらだったりして。ははは。京都は意外でした。
さて、隣接する都道府県がひとつもない都道府県は
いくつあるでしょうかっ。
二つ以上思いついたら答えを教えて。
インターネットで合コンか。う〜む。忙しいのに。
青酸カリの出来事もそうかもしれないけれど、
ネット上の純粋言語関係だけではやっぱりだめで、、
どうしても地上でのつながり、ブツのやりとり、身体への関わりを求めてしまうのは、
われわれが見たり聞いたり歩いたり(その他いろいろ)
できるがゆえの性ですかね。
合コンの手段としてのインターネットではなく、
インターネットの手段としての合コンというのをひとつどうですか。
つまりインターネット的合コンではなく、
合コン的インターネットの誕生です。
・・・って、なんじゃそりゃ。
合コン相手を探すホームページがあってですね、
まんまと、合コンできたんす。
で、彼女らは年の頃30を過ぎてるぐらいでですね、
その手の飲み会になれてるようで、
まあ、欲望を露骨にだすんですね。
「あんたたち、私たちを楽しませなさいよ。楽しませられないのに
合コンの募集なんかすんじゃないわよ」って感じなんすね。
自己紹介も嫌がる人たちだったんですけどね。
で、思うに
匿名というのは、欲望なんですね。
ずーっと思ってたんだけど。
でも、希望を捨てちゃいけませんよね。
だって、匿名とはパンドラの厘でしょ。
このマシンもね。
問題2
福井県に隣接する都道府県を一つずつ選び、あなたの福井県についての知識不足を思え。
宮城県 大分県 岐阜県 ( )
京都府 大阪府 愛知県 ( )
富山県 石川県 新潟県 ( )
>遠目にみて敵を観察、
という気持ち、なんとなく分かるなあ。
サインをもらうというのは、イベント性や話題としてそれはそれで面白いけれど、
高源の顔より、高源のサインより、
とにかく高源の小説や文章を読む方が、僕には楽しいしタメになる。
現実社会のふるまいにおける、
ある種のスノッブ性がイヤなんです。そういうものを直視したくない。
高源のファンのじゃなくて、高源自身の。
でも皆様とはまた会いたいです。行くかも。
小林よしのりの戦争論を支持しないわたしは「日本軍の侵略を食い止める
ためでも、アメリカ軍の空爆は許せない」と言います。
3月14日、k-hiroさんはサイン会を遠目にみて敵を観察。
http://www.kt.rim.or.jp/~loft/lpoindex.htm
>審査会
覗きに行けなかったんだなー。
>Junkyさん
やーやー、お隣ですね、地元が。
などとリアル世界の話をバーチャル世界で展開することに
意味はあるのか?などと大澤真幸を片手に唸っております。
「あ、きょうはウチの手紙ある?」
「手紙が在るとは、つまり、どういうことですかな」
不良学生
田原総一郎?
やっと筋が通った。
でも読む!
僕はまだほとんど読んでいないのです。
本が本棚に在るとはどういうことなんだで存在論的な、
いっそ誰かに送ってしまおうかなと郵便的、とか。
しかし、ごくわずか目にしたところ、
とても論理的で明快で、曖昧な解釈なんか絶対許さんぞ、といった意気込みを感じました。
例のシンポジウムでも、東氏は、かの早く強い口調で、
言論を発する段階では、
そういうわざとどうとでも取れるようにした(パフォーマティブな)態度じゃだめなんだ!
とかなんとか、言ってたような気がします。
しかしまあ、この本は、デリダの著作とかを相当読みこなしているような人でない限り、
なかなか読めたりはしないのでしょう。僕も、だから、読めないです。
だれか、彼が詰まるところ何が言いたいのか、平ったく書いてくれませんか。
親切論的、平目的
もっと餌をまいて、甘い汁も吸わせながら、最後には本質的な面白さに持っていく感じの。
しかし、こういう題材ではそういう芸当はできないのが宿命なのかもという気もします。
じゃ、こうしよう、この世界に近づくために、
黒っぽい丸首セーターに茶色っぽいジャケットを羽織る、というのは?
シンポジウムでは、
パネラーのみならず主催者も参加者もなんかみんなやけにそんな服装だったので。
審査会はどうなったのでしょう。
私には難解なので、哲学用語辞書を片手に第一章を読み終えた
段階のまま手が止まっています。この先へ進む自信がない。
髪の長い胃拡張の図書館のリファレンス係の女の子もよいですが。
ちなみに彼女はデザートにチョコレートケーキを食しています。
チョコレート(カカオ)はWHOによれば軽いアッパー系ドラッグに分類されている
そうで、秋波を送る相手に食べさせ続ければもしかしたら媚薬がわりになるかも?!
これこそまさに錬愛術。
ピンクのスーツ!
...これは解説してあげない。
ウィトゲンシュタイン大学入学試験に(勝手に)出された詩は、
大滝詠一のアルバム「ア・ロング・バケーション」の
B面1曲目「雨のウェンズデイ」です。松本隆作詞。
たしか1980年リリースだから、なんと19年前!!!!!!!!!!
どうしたもんでしょう。
大瀧詠一もね。
今日、「徹子の部屋」に出てましたね。
松本隆、懐かしいなあ。
動いているのは良いことだ、とおもいます。
いつも元気に見える人が、本当に元気かどうかは分からないけど
自分が人から元気に見えるなら、多分自分は元気なんだろう。
東浩紀の博士論文「存在論的、郵便的」審査会が13日にあるそうです。
博士論文なのに先に本になっちゃったのか。びっくり。
ほんの10日間ばかりネット上から遠ざかっただけなのに
迷宮旅行社がすごく懐かしくここちよい空間に感じます。
たとえばビタミン剤を毎日飲んでいても効果はあまり感じないのに
それをやめたときに急に調子が悪くなる、で、また飲み始めると
調子が戻り改めてビタミン剤の効能を知る。というような・・
食っては寝るの生活でピンクのスーツが似合うかもしれない
体型になったようなならないような。
しかし、死をよく口に出している人間がネットをお休みしただけで
死亡説が流れるということを知りました。わたしは生きてますです。
ピザ1枚北海道まで。30分過ぎたらだめ。
ずるずると生きていくのはあっさり死ぬより大変ですが
世の中のしがらみを気にかけてしまうとなかなか決断できないものです。
そういう意味で、悩ましい人間関係や腹の立つ社会構造なんかが
あんがい命綱になってたりするんかいな、とまあ逆説を弄してみたり。
死にたい人、死にたくなかった人というのはいません。
死んだ人と、死なない人がいるだけです。
でも死ぬのは自由だけど死なれた人は辛いんだよなー。
死んだひとには関係なくなると思いたいけど生きてる人には傷が残る。
自殺者(未遂を含む)の8割以上は鬱病であったと、報告していた精神科医がいました。
鬱病だから自殺したのか、自殺したから鬱病と診断したのか……。
まぁ、真相がどちらであっても、どうでもいいのですが、
自殺は病気に過ぎないというのが、その人の発表の趣旨だったのかもしれません。
現実逃避? 苦しいから? 狂ったから? 文学的苦悩? 哲学的達観?
理由なんて、いくらでも、後からとってつけられますが、
何か理由を見出さないと、落ち着きの悪いものを感じているだけなのかもしれません。
人様のことは、よく知りませんので、自分のことを言わせてもらうのならば、
自殺は、人間の決断の根本というのか、最高のものというのか、
もし、自殺することが許されないのならば、
生きていることが単なる惰性になってしまうような気がしています。
宗教やイデオロギーによっては、
生きることは神聖な義務だと、主張しているものがあるようですが、
「たった一つの冴えたやり方」が決断できないとなれば、
なんだか、非常に虚しいものを感じます。
そんな「神聖な義務」なんて、糞食らえ!というのが、私の根底にある思いなのですが、
それを我執であって、人の道に反しているとか、いろいろ批判する理論はあるのでしょうが、
いずれも単なる好みの違いの問題に過ぎないのかもしれません……。
「死にたい人は死ねばいい」「死にたい人を助けることは善行である」
助ける? 死なせてあげることが善行なのか、死ぬのを思いとどまらせることが善行なのか?
自殺幇助が犯罪でなくなることを期待しています。
しかし、死にたい振りをしているだけの人の背中を押してしまったとしたら……。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/namaste/laby/x36.htm
本当にイヤでイヤでしょうがないことは、日々あります。
長い歴史を通して、あるいは地球のあちこちで、
いろいろな人が感じるいろいろな悩みと比較しての話ではなく、
世紀末ニッポン社会の片隅で今自分が苦しんでいる<このこと>が、
自分の世界のすべてなので、
「そんな小さなことで悩むなよ」というアドバイスは、ほとんど力がありません。
ただ、こうして苦しむことと自死を遂げることの間には、
なにかミッシングリンクがあるように、僕には思えてきました。
悩み苦しみと自死とは、別もの、行為として遠いことなのかもしれません。
そうすると、仮に悩みというものが具体的現実的なものであったとしても、
自死の理由は、それとは独立して、やはり抽象的理想的なのかもしれません。
fukuju氏が言うように、
いわゆる生活系人間系の具体的悩みならば「逃げて生きていく」ことが、
けっこうできそうですからね。
芥川龍之介の遺書には「将来に対する漠然とした不安」
とあったようです。=「新修国語要覧」(京都書房)参照=
ぼんやりとしていたのは私の不安ではなく私の記憶でした。
さて、その自死が哲学的な理由か生活的な理由かの判別は、実は誰もできないことで、
遺書に哲学的理由が記されていたか、生活的理由が記されていたかによるしかない、
としましょう。
すると、すでに行われた自死の理由は、残された言葉が決めることになります。
さらに、これから行う自死の理由も、これから書こうとする言葉が決めることになります。
なんてね。
遺書とは、死ぬことにかっこをつける余裕があった証拠ではなかろうか。
哲学的な遺書か、生活的な遺書か、それはその人の美観が選ぶもの。
自分がこんなにも苦しいのはどうしてなのか
訴える時の美的センスの問題なのである。
について。僕のおぼろげな記憶では、「芥川はメランコリーでしんだのではない。
彼は自分が梅毒にかかってしまったのではないかと悩んでいた。貴族趣味の芥川には
それが許せなかった。彼はぼんやりとした不安で死んだというより、自身のプライドを
守る為に死を選んだのではないか」という説をきいたことがあります。
僕はずっとそう思ってます。
「死ぬ」ということは辛く痛く苦しいことでしょう。
「生きる」ということは、普通の人にとっては辛く痛く苦しいこともあるけど、
それより楽しく気持ちよいことのほうが多く、
だから、多くの人は「生きる」ことを選んでいるわけです。
でも、人によっては「生きる」ことによる苦痛の方が、
「死ぬ」ことの苦痛より何倍も大きいことだってあるわけで、
そして、自ら「死ぬ」ことを選んでしまうのでしょうか。
僕もまた、そのことを否定できない。
かといって社会がそれを肯定すべきとも思えません。
それでおわりじゃないような気がするのです。
本当は何か大切なことを忘れているような。
私の感覚でも「悩む」ってことは生活などに関わる諸矛盾からきている
ように思えます。「哲学的」な苦しみというのはさっぱりわからない。「哲学的」
なことを言おうとしてうまく言えなくて「悩ましい」というのはありますが、だったら
はじめから言わなければいいので、「言いたい」なんてしゃばっ気がなくなれば別に
そんなのは悩みでもなんでもなくなってしまう。
私は芥川の書いたものをほとんど読んだことがないのでよく知らないのですが、
(ぼんやりとした不安、というのは聞いたことがある)芥川ははたして「悩」んで
いたんでしょうか?哲学的な悩み苦しみ、というものが私にはわからないですから
それを理由に自殺する、というのは嘘なんじゃないの、と思います。ただ、これも
私の感覚ですが、「哲学的」なことというのは普通の生活をしていく気力を失わせる
ところがあります。(気力がないから「哲学的」になるのかもしれない)。
ですから悩みとか苦しみじゃあなく、まあそろそろいいか、というような精神のガス欠
みたいな状態になって、フッ、とビルから飛び降りたり、っていうのはなんとなく
わかります。なにか「理由」があって死んじゃうんじゃなくて、ただなんとなく手首
切っちゃえ、みたいな。私はむしろ生活上の悩み苦しみから逃げたくて死ぬ、という
ほうがわからない、どこか積極的なところが。私は嫌なら生きながらにして逃げちゃいま
すから。
http://www.tky.3web.ne.jp/~fukuju21
生きてることに意味などないと僕も思います。
でもそれが本当に死にたくなるほどの原因になるものなのですか?
これは反語ではなく純粋な疑問です。
人ははたして哲学的な理由で死ぬということがあるのでしょうか。
芥川龍之介の悩みは、どこまで抽象的なものだったのでしょうか。
あなたの悩みもわたしの悩みも芥川の悩みも、
実をいうと、かなり具体的なのではないですか。
少なくとも僕は、哲学的な命題以上に、
ごく卑近な生活関係や人間関係に苦しんでいます。
死ぬほどの苦しみの原因は生きていることです。
生きていることに意味なんてそもそもないでしょう。
かってに生まれて来てしまったのだから。
それでも、何の影響も残さずにこの世界から消えることは出来ない。
だから、「たった一つの冴えたやりかた」は最後までとっておく。
それが粋な生き方ってやつかも。
国家が、個人の死ぬ権利を規制する権利など、
果てしてあるのだろうかと疑問に思っています。
個人に死ぬ権利がないのなら、
生きることが義務になるような、
そんな気がします。
死ぬことが非常に素晴らしいことだとも思いませんが、
生きていることがそんなに素晴らしいことだとも、とても思えません。
国家の役割は、個人が自殺することに干渉することよりも、
他人に危害を加える凶悪犯を取り締まる方が、
よほど有益な気がします。
青酸カリが死ぬためでなく死なないためのお守りになっているという構造は、
なるほどと思います。
しかし、死にたくなる現状がどういうものかもっと理解する(される)必要があるでしょう。
ただしそれは自殺の権利を認めるためにという話ではありません。
死にたいほど苦しい気持ちは、
どこに原因があるのかを正しく知る必要があるからです。
どうしても死にたくなるのは死にたい人の心に原因があるのだというような説は、
死にたくなる当人がそう信じていたとしても、
僕はほとんど誤りだと思います。
死にたくなるのは、死にたくさせる状況があるからです。
それは、たとえば、
視力が悪い人やセクハラぐせの悪い人ならさほど生活しづらくないのに、
全身の筋力がない人だと生活しづらく、
同性を好きになった人だと生活しづらく、
米国で肌の黒い人が生活しづらく、
あるいは学校-社会のエスカレーターに乗り損ねた人が生活しづらいのと同様、
たいていはなんらかの周囲の環境、世間の価値観がそうさせるのです。
強い性格、弱い性格が存在するというのも嘘だと思います。
人と人、人と周囲の環境や価値観との間の関係性が
弱い場合、強い場合の違いが存在するだけです。
そういうことを明らかにしたうえでなら、
僕は安楽死を支持しますが、
明らかにするのは、それこそ死ぬまでかかりそうな大変な作業だし、
かりにそれが明らかになったら、安楽死ももういらなくなるかもしれませんね。
知っていたからといって、何かをしたかった訳ではなく、
今さら、知ったとしても、これまた、どうなる訳でもなく……。
でも、もっと早くに知っておきたかったような……。
SS-CLUBの方は、もう一つピンと来ない感じですが、
妖々さんのページは、時々拝見しています。
今年の風邪はほんまにひどかった。
おかげでもう一年学生をやることになりました。
ふわふわと毎日を送っています。
演劇でも見に行くか。
松尾スズキ、気になりつつ、僕もまだ見たことがない。
演劇をことしこそちゃんと見たい。
しかし、公演の情報を得るにも、日を決めてチケットを買うにも、
ふらりと入れる映画とちがって、
イベントとしての温度が高いというか、
モチベーションのハードルが高いというか、なかなか。
>風邪。
今の仕事場では、8人中、僕を含めて6人がやられた。
全員判明しています>送付された身元。
あと、多分御本人、でしょう>下のリンク。
だからといって何がどうなるわけでもなく、
生きている人は生きているし、死んだ人は死んでいる。
>Junkyさま
生まれ変わるなら(あるいは生まれ変わっても)東かなあ。
松尾スズキは見たい見たいと思いつつ、機会がありません。
嘘ということもないんじゃないでしょうか、なんとなく。
受け取った人のうち、身元がわからない人が一人いたんでしたっけ。
まあ、それはどうでもいいですが。
草壁氏がマスコミで悪く言われても、
実際にネットで交流していた人にとっての印象は
揺るがないのでしょうね。
新聞だって、聞いた風な文句の垂れ流しが多い中で、たまに、はっとする言葉に出会います。
ネットでも同じです。
草壁氏の言葉もそうだったのでしょう。
下のリンクもそうかもしれません。
このサイト(↓)って、本物(?)なんでしょうか?
ドクター・キリコ関連を探していたら、出てきました。
http://www.members.tripod.com/~ninniteisyutukyohi/a.html
懐かしのニューデリー。
公園でくつろぎたい僕と、その僕の靴をぜひとも磨きたいおやじ。
攻防は5ルピーをめぐって白熱した。
宿はバックパッカーの多いメインバザールにあった。
そこに20ルピー(600円)で泊まれたとして、
それが、地元の人が避けるほどの極端に安い宿だとも思えないが。
朝刊の記事では「インドに20年以上住む僧りょ」はなぜか
「インドに長く住む邦人」に書き直されとる。
http://spin.asahi.com/paper/national.html#SK20393
「インドに20年以上住む僧りょ」の発言とは思えませんね。
地元の人も避ける東京の安宿街ってどこのことだ?
「猿岩石のようなタレントの貧乏旅行番組には、カメラマンやスタッフが
同行している。決してひとり旅ではない。旅行誌に影響され、いかに安く
旅をするかを競うのはやめた方がいい。東京に来た人が、地元の人も避け
る安宿街に泊まるだろうか、考えてほしい」
http://spin.asahi.com/flash/finternational.html#finternational_659
「変だ、良くなっている」...患者取り違え手術(朝日夕刊)
↓同感です。
>なにか書くからなにか出来事があった。のではなかろうか。もしかして。
うわ、これは名言だ!
もしかしたら妖々さんにとっては先輩ですか?
将来、松尾スズキと東浩紀のどちらかになれるとしたら、
どちらになりたいですか。
僕は生まれ変わってリカになりたい。青酸リカ。
見て頂いたようでうれしいです。
企画大賛成。
女子大生リカさんと現役東大生東氏の対決!
東氏のたたみかけるような攻撃は果たして
ワールドワイドリカさんに効果があるのか?
と、ここで勝手に盛り上がっても本人たちは
知る由もないですね。ははは。
東浩紀は天下無敵の印象だったのですが、
好敵手が現れた!
おそるべし、リカ。
東vsリカの口げんかを企画したい。
難解なので読了するのには時間がかかりそうですが。
東さんの話で盛り上がってますね。
ところで、どなたか松尾スズキさんの「ヘブンズサイン」という演劇を
ご覧になった方、いらっしゃいませんでしょうか。
ちょっと探しています。
話題になる人というのは同時期にいろいろな場所で
話題になっているのね〜と思ってしまった。
9日の日経35面左下に東浩紀氏の事が書かれていたので
興味を持って調べていたらなぜかこんなとこへと辿り着き
ました。これが面白かった。今年最初のブックマーク。
ちなみに郵便的東氏とは関係ないかも。
http://home.att.ne.jp/yellow/rikako/index.htm/
私が今日買った本というのも『存在論的、郵便的』です。
読み終えるのはいつになることやら。
気に入っているでした→気に入っているようでした
彼女もいらっしゃったのでした。
浅田彰は東浩紀と鎌田哲哉をキチガイと呼んでました。
私も東浩紀はキチガイだと思いました。
Junkyさんは彼のことが気に入っているでした。
帰りにホールで『存在論的、郵便的』を買ってたもんね。
年が明け、ひさしぶりにうかがいました。
それにしても、なんたる偶然。
今日、僕は東浩紀の小難しそうな本をかったのでした。
帯の浅田のこのうえない賛辞にのせられ。
で、タコ社長殿、並びにJunky さん、セミナーの方はいかがでしたか?
T列12番におります。これしかなかった。
しかし行こうかな。
『いま批評の場所はどこにあるのか』
1月9日午後6時30分
ディスカッサント:東浩紀、鎌田哲哉、福田和也、浅田彰、柄谷行人
わしはこれに行きます。
「謹賀新年」代わりに、「業務連絡」として、
「これを最後に年賀状をやめます」の年賀状を出そうかともくろんでいたのですが。
それすら実行できず。
あるいは年賀状をビエンナーレ方式にするというのはどうでしょう。
その場合は年賀状に「2000年正月もおめでとう!」と書いてもよい。
世間が2000年問題で大騒ぎしているので、
てっきり今年が2000年だと勘違いしておりました。
正月早々高熱に見舞われ脳細胞の大半が失われたかも
しれません・・必然的エポケーへと突入してますが
皆様、本年も何卒よろしくおねがいします。
僕はちゃんと書きました(ただし返事を出すだけ)。
↓これに参加したことにしたら?
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhh1899/nenga.htm
年明けから勤め先は激震で、仕事もいきなり忙しく、
挨拶を書き込む気持ちの余裕がありませんでした。
改めて、ことしもどうぞよろしくうさぎます。
それにしても、真っ白なままの年賀状の束。どうしたものか。
わしは今日は天皇陛下に会ってきました。
これで天皇陛下とお友だちだ。
入り口でわしには日の丸くれんかった。
http://www.kunaicho.admix.go.jp/
今年もふらっと来させていただきます。
何卒宜しゅう。
とりあえず、希望を持って。
希望はすこぶる嘘つきではあるが、とにかくわれわれを楽しい小道を経て
人生の終わりまで連れていってくれる・・・・
ラ・ロシュフーコー
A happy New Year!