渡辺淳一と高橋源一郎
渡辺淳一と高橋源一郎では、 そもそも世界の認識が違いすぎるということはないだろうか。いきなり「世界の認識」というのもナンだが、それは、 「世界はこう成り立ってるんだぞ、どうだわかったか」というようなものではなく、 「世界は少なくともこんな感じで成り立ってるわけではなさそうだけど、どう?」というようなもので。
そして、世界の認識が違えば、 「セックスはどんな風に不可解で、どんな風に魅力的なのか」という認識や、 「文学って何?」という認識も相当違うだろう。 だから二人の書いたものも全然違ったものになるはずだ。 高橋源一郎の文章が、彼の世界認識と切り離せないところで書かれているならば、 どんな文章のどんな一節からも、 読者は必ず高橋源一郎的な世界を見つけることができる。 それは渡辺淳一の小説であっても同様だ。
それはそうとして、とても知りたいことは、 高橋源一郎が、そして私が、あなたが、 世界や文学を、どういうものだと認識しているかだ。 そのために、言葉の定義をもっと考えてみたい気がしてきた。--たぶん、それは、私も「文学なんかこわくない」と同じ土俵に上がるようなことだ。--
たとえば、 (**さんの文章から引きますが)
<「あ・だ・る・と」は純文学である。>
<「あ・だ・る・と」はもっとも文学に見えない手法で描かれている。>
<「あ・だ・る・と」をこれから小説として読み解く>
ということに、私なりの印象でとても共感するが、 このとき、私は「純文学」「文学」「小説」を、どういう定義でとらえているのだろう。 うんざりしてしまう気持ちを込めた「文学」と、ひそかにあこがれ目指している「文学」は、 どこがどう違うのだろう。 自分の信じている「文学」が、自分が忌み嫌っている「文学」と、実は同じ構造をしていた、 なんてことには、絶対にならないだろうか。 その辺のことをちゃんと考えたいといつも思っている。(が、いつも思っているだけ。)新しい掲示板に接して、ぼんやり考えたことを自問するつもりで書きました。
これからもどうぞよろしく。(は、どういう点で文学的でないか)
P.S.
「コミュニケーションの不可能性」というのは、 ちかごろ私が海外旅行をしたときのメインテーマでした。