pirate? who? when? what?
FIU-JAPAN(自由国際大学)が主催して世田谷区北沢タウンホールで5月12日に開かれたFIUレクチャーシリーズ2『電子ネットワークと表現をめぐって』で、講師の小倉利丸さんと粉川哲夫さんが話した内容の要旨を載せます。僕が聞き筆記したものを元にしています。間違いがあれば僕の責任です。
関連ページ
小倉さんが作る検閲関連のページ(通産省の文書や抗議の文書などの資料と運動関係のリンクが充実しています)
粉川さんのホームページ(検閲があるのならそれをいわば乗り越えていくような発想の土台があります)
ついでながら僕の抵抗(黒頁)もごらんあれ。
小倉利丸さんの話
粉川哲夫さんの話
インターネットの特異性
インターネットの特異性は端末操作者が情報発信できるところであり、それがマス中心のネットワークとの大きな違いだ。既存のメディアは一対多の通信で双方向はありえなかった。20世紀もこれでずっと作り上げられた。
コンピューターネットは個人がポケットマネーで接続できるネットワークだ。それによってマスコミが独占していた情報発信の特権性は解体され世界的規模のネットワークに組み込まれていく。インターネットに中心がない、管理者がいないと言い切れるかどうかは微妙だが、受け手であることを強いられていた者が発信の担い手になれるとは言える。
インターネットに対する政府の規制
アメリカの通信品位法案は、未成年に有害なもの危害を与えるもの、また、いわゆる猥褻なものを処罰の対象にしている。クリントン大統領が2月に署名して成立した。現在それが合衆国憲法修正第一条「表現の自由」に違反するとして訴訟が続いている段階だ。
日本では通産省と電子ネットワーク協議会が秩序づくりをし、二月半ばにガイドライン(実際には自主ガイドラインと倫理綱領のふたつがある)というものを出した。私は通産省に質問状と抗議文を出し、ガイドラインの撤退を求めた。また、この問題で新たににメーリングリストを作って運動をしている。
ガイドラインの問題点
通産省のガイドラインは一見常識的であたりさわりがないが、それこそ問題だ。また自主規制の形をとっているのがやっかいなだ。
抽象的に書いてあるが問題は具体的に起こる。たとえば新聞記事をあるネットに再掲載したいときなど、シスオペが「転載の許可を取るまで出せない」と言ってくる。
綱領は具体的には書いてないので現場判断となるわけだ。あいまいだからこそ、ネットワークの業者に内容チェックの権限を認めるということになる。ちなみにアメリカで子供のポルノは禁止だが、子供の頭に大人の体を合成したポルノが結局ダメと認定されたという話もある。
いずれにしても、抽象的であることは「抜け道がある」のではなく「意志決定がユーザーになくプロバイダーおよび通産省にある」ということなのだ。知的所有権とはなにか、猥褻とはなにかについて、ユーザーは全く関われないのである。
自主規制という手口について
あくまでも自主規制の建て前をとるガイドラインを、通産省は自分が作ったとは決して言わない。
すると、検閲の定義は「公権力による民間のチェック」だから、民間自らが自主的にチェックするのを検閲とは呼べないことになる。教科書も同じで文部省が民間の出版社に自主規制をさせる形だ。日本政府の表現規制のやり方はこれまでも自主規制だった。米国政府のように正面突破をしない。
自主規制の場合、違法と言えないため裁判でなかなか争えない。ニフティであれPCバンであれ「これ規制)はわが社の方針だ」といえば。法律的に争いにくいのだ。そこに今回の倫理綱領の重大な問題がひそむ。
表現者に及ぼす問題
ホームページに作品を発表しようと言う場合、セクシャリティーの面などで表現がどの程度許されるのかという問題が浮かぶが、公序良俗などという価値をアートの世界に持ち込まれては困る。アートは公序良俗にしばられるものではないからだ。
猥褻論議の陰であまり焦点があたらないものに政治的表現の問題がある。天皇の肖像を使った絵画の公開が禁じられた問題で私は裁判をしている。禁じた富山県は「外国の象徴や元首を侮辱した場合に処罰できる」という刑法があり、そこから「ましてや日本の」という論理を導いたりして、あきれてしまう。アメリカの司法は、星条旗を燃やす行為も表現の自由として保護されるという判断をしている。
著作権の問題
クラシックファンが自分のホームページに音楽を使いたい場合、たいてい編曲者が楽譜の著作権を現在も持っていて使えない。また、アイドルの写真を事務所は金を取ってページに使わせるなど商売にしようとしている。「知的所有権」ということをいかにも文化的に意義があるかのようにいうが、実際は儲かる者だけの知的所有権だ。ビッグネームのみ保護され金が入る。そうしてユーザーは戦線恐々としている。情報発信をしようとする人たちとっては、著作権の問題は実は表現の幅を狭くしている。アート特にコンピュータグラフィックスなどでコラージュ、モンタージュが非常になりにくくなる。
規制の現況
インターネット規制のインターネットのプロバイダーがユーザーの情報にチェックを入れ始めている。プロバイダーが警察と一緒になってユーザーと対立するという構図になってしまっている。
インターネットの規制を推進する者は、新聞、雑誌以上のテレビ並の規制をしていいと考えている。しかし特定のメディアのみが一方的に権限を持つテレビなどとインターネットは違うという点を踏まえていない。今ネットワークで行われているのは、日常の世間話あるいはちょとした他人の悪口など下世話なものである。マスメディアとは違う。しかし今まで情報発信の権限を持っていた者は「こういう風にお行儀良く」というそれまでのルールやマナーを押しつけている。インターネットに法的強制力または自主規制という強制力が働くことは、日常の世間話に規制が入り込むことであると考えたほうがいい。
インターネットの規制はフランス、ドイツでも起きている。次回のG7、OECD、APECなどでもネットワーク規制が問題に次々に話題になるだろう。中国は、人権問題が海外に流れることを嫌って、インターネットを使うには警察に登録してからでないと出来ない現状だ。
今後の運動
規制の動きに対し、ユーザーとして運動体をどう作り、プロバイダーや政府にどう働きかけるのか。あるいは個人としてどう独立できるのか。そういう視点でゆるやかな運動を作って行きたい。アーティストの参加も望んでいる。
品位なんてわかりたくない
これまでFIU-JAPAN(自由国際大学)が課題にしてきたポリティカルコレクトネスと今回の通信品位法の品位がどうつながるのだろう。個人的にはポリティカルコレクトネスなんて何のことかわからないし、わかりたくもない。
アメリカ政権検閲への道のり
カーター政権で比較的表現が自由だった時代が終わる1970年台の後半に、たとえば公共図書館からいわゆる有害な図書を外していく動きが起こっている。関わるのは地域住民の力である。そういう映画を上映していると住民がスクリーンの前に立ちはだかり、次にそこへ警官が来て調停をする、といった事態もあった。
80年代の前半には、レーガンのブレーンがパソコン通信を駆使し政治的キャンペーンを起こしていく。電子メディアをいち早く利用したのは左翼の側ではなかった。そういう中で教育、家庭、性などの問題で規範を古い枠組みに戻す動きが強まってきた。
湾岸戦争は、公然と検閲が行われた場であった。現地にリポーターを入れず、情報はすべて軍がプールしてマスコミに発表するシステムがとられた。
日米の違い
アメリカでは検閲の動きが下から起こっている。逆に言えば、下に闘いがあれば勝てるということだ。
一方日本では中間団体がどんどん検閲をする。おまけに抗議の動きが見られない。大島渚監督の「愛のコリーダ」という映画がある。社会がどんどん戦争へ向かっていった1936年という時代に、全く個人的な性にふける人間を通してミクロレベルの反戦ということを示した、いわば政治性の強い映画であり、大島渚の最高レベルの作品だと思う。しかし、この映画が日本では上映できない。それに対して抗議運動もあまり起こらない。
愛のコリーダにそって
ここで「愛のコリーダ」の場面を見ながら、これがいったい猥褻なのかどうかも考えてみよう。
(「愛のコリーダ」を映す)
この作品が日本で公開されたとき、画面が何カ所も黒くぼかされ、映画としての意味が失わされてしまったのである。
インターネットの検閲などできるわけがない
インターネットで厳密な検閲などまず出来ないだろう。資本主義的論議からいってもありえない。
日本とアメリカでは、ビジネスレベルにおける背景が違う。アメリカにはVチップというものがある。テレビのアダルトチャンネルなどを自動的に関知してスキップする製品だ。それを整備しないとテレビを製品化出来ないようになってきた流れがアメリカにはある。
テレビとインターネットの違い
テレビでは久米弘とか筑紫哲也とかのパーソナリティーを介して事実に接しているのが現状だ。キャスターが怒れば視聴者も怒るという具合。
インターネットなら直接データを見られる。香港の町中を24時間眺められるサイトがあったりする。インターネットではメディアをコントロールするのが個人となる可能性がある。テレビもデータベースになるべきだ。そうすればインターネットを恐れる必要はない。
インターネットで本当に発信者たりうるのか
発信とか受信とかよく言われるが、インターネットを手にしたことで現実に発信者になれるかというと、それは難しい。大部分のユーザーのインターネットの使い方は、多チャンネルテレビを変わらない。
逆にテレビは受信ばかりでなく送信もしている。たとえば、テレビを見て受け身になっている場合、沈黙していることが、実は同化あるいは猜疑を発信しているといえるのではないか。
たくさん発信手段があれば選択肢が広がるようだが、たとえば双方向テレビがあっても、普通の家庭からはなにもできない。
マイクを向けてもしゃべり慣れていなければ、なにもしゃべれない。マイクをつかむことイコール送信だという考えは誤りだ。
脱近代のインターネットに近代が入り込む
インターネットの面白さは、受信と送信のレベルが限りなくたくさん設定されていることだ。1対1でもよいし、一人対何万人でもよい。分離もできる。管理するものはこれまではグルーピングを予測できたが、インターネットはそこから外れる。管理体制にとってはそこが危険に見えるのだろう。
しかし規制は続かないだろう。統合していくことができないから。統合に変わる方法が出てきたら、ちょっこわいが。そういう流れの中で、インターネットという脱近代としてすべてが問われるはずの場に、品位、規範といった近代の悪しき概念が引き出されるという退歩が起こっている。
対抗手段
インターネットへの規制に対し、抗議と同時にパイラシー(海賊行為、著作権侵害)を積み上げていく必要があるのではないか。どんどん法を破る試みをやっていた方がよい。
米国では通信品位法にある種、従順なようで、心配だ。ポルノサイトは一斉に後退した。不法な挑発は出てきていない。品位法の問題は、decency(品位)とは何かがはっきりしないことだ。猥褻というのと同じ。それなのに法が通ってしまったのが問題だ
ヒラリーのページを品位のないものにする実践
(ヒラリー・クリントンのページが映される。ヒラリーの得意満面といった笑顔とカン高く元気な声が出る)
法案を通したクリントンからすればまあ、このページが品位があるということになるんでしょう。私はさほど品位も感じないが。それでもこれが品位のあるページとみなして、それなら私は次にこれを品位のないページに変えてみます。
(ヒラリー氏のページの中身を変えたページが映される。まず、声のアイコンをクリックするとヒラリーの声の代わりに性交中の女性の声が流れる。次にヒラリーの顔の代わりに、性器がまる見えのポルノ画像が動く。)
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