言語 認知 音 言語の意味
電話のベルが話しかける

pirororororororo

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pirororororororo

昼寝は、電話のベルで破られた。

電話のベルというのは、常に一定な電子音である。
にもかかわらず、
その時々で、驚き、喜び、不安、嫌悪などなど、
かなり違った感情がかき立てられる。
これは不思議といえば不思議だ。
電話のベルの、いわば意味が、その時々で変わる、ということになるからだ。
もっとも、音にはもともと意味なんか無いわけで、
その時の心の状態が、その音に勝手に意味を与えるだけだ。
とすると、意味がころころ変わるのは、不思議でもなんでもなく、
むしろ当たり前ということにもなろう。
つまり、
電話のベルは、それを聞く私の心に依存しつつ、その時々で意味を変える、と。

では次に
電話のベルではなく、声という音のことを考えよう。
たとえば
ヨロシクオネガイシマス
ワレオモウユエニワレアリ
サヨウナラ、ギャングタチ
ソコチョットツメテモラエマセンカ
ピロロロロロロロ、ピロロロロロロロ
これらもまた一定の音である。
しかし、これらの声もまた、
それが発せられた場の状態や、
それを言った人や聞いた人の心の状態によって、
その時々で、意味を変化させる。(注1)

音=声=言葉

こうして、次のことが納得できそうな気がする。

言葉は、電話のベルと同じで、
固定した意味がそれ自体に付属しているのではない。
言葉の意味は、場や心の状態に応じて決まり、それらに応じて変わる。
同じ言葉が、場や心の状態に応じて、違った意味になる。
その時々の場や心の状態が、
その時々の言葉に、
その時々の意味を生じさせるのである。

どうもおかしい。
きょうは、こんな原則的な話をしたかったのではない。

方向をがらりとシフトして。

電話のベルという信号は、意味が自在に変化する。

それに比べて、
言葉という信号は、その時々で意味が変わるといっても、
過去の使われ方や過去に生じた意味の集積から完全に自由にはなれない。
それを嘆く文学者もいる。

しかしこれを逆に考える。

電話のベルなどという、単調な電子音の単調な繰り返しにすぎない信号ですら、
不定ではあれど意味らしきものを、どうしても生じてさせてしまうのである。
あるいは雷鳴とか猫の鳴き声とか、あるいはあらゆる音楽だって、
本来意味がないはずなのに、つい意味のようなまとまりを形成してしまう。
それが私たちの生活というものである。

だとしたら、
電話のベルなど問題にならないくらい、はるかに複雑多様で、
長年のうちに「大系」と呼んでふさわしい集積を形成してきた言葉が、
ある程度固定的な使い方や固定的な意味に縛られてしまうのは、
いたしかたないと言うべきだ。
いや、むしろ言葉は健闘している。
言葉が、
それよりずっと自由な身である電話のベルに並ぶくらい、自在な生成変化を遂げる現場に、
私たちは遭遇することがある。
それはごくごく希ではあるが、皆無ではない。

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(注1)
その時の心の状態というものは、
過去の経験や認識や、現在の感覚や思考などが、複雑に絡みあった状態だということができる。
したがって、言葉は、経験・認識・感覚・思考なとと呼ばれる働きによって、初めて意味を成すのである。
しかもこの場合、
その言葉を聞いている人の心の状態だけでなく、
その言葉を話している人の様子や、それを周りで見ている人の様子も、
その言葉の意味には大きく絡んでくるだろう。
それだけでなく、
かつてその言葉で無数の人々が生じさせていた無数の意味ももちろん絡んでくるのであろう。

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「ベル」って言わないか、最近。

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Junky
2001.6.1

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迷宮旅行社・目次
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