君が代は千代に八千代に ゴヂラ 大杉重男
高橋源一郎・多作期について(3)
テクストそのものの快楽?
批評家・大杉重男が、
「知の不良債権----批評閉塞の現状」という題で以下のことを述べています。
(『早稲田文学』2001年1月号)《繰り返して言えば、恐慌とは商品が無価値となり、貨幣そのものがフェティシズム的に欲望される状況であり、更にいえば、紙幣が紙切れとなり、貴金属そのものの物質性が露呈する状況です。この時、無価値となった商品の価値を回復しようとするのは反動的だし所詮無理でもある。しかし無価値となった商品のもはや商品ではない「作品」としての物質性に注目することは一つの道かもしれない。それは決してテクストに再び過剰な交換価値、商品価値を与えるのではない、そのようなやりかたでテクストを読むことです。問題はそこにどのような享楽、あるいは快がありうるかということですが、少なくとも私が今一番希望を持っているのはこの方向です。》
ここでは、商品=小説作品、貨幣=それを取引する評論、と見立てています。
大杉重男は、こんど創刊された『重力』で『日本文学盛衰史』をはっきり批判している立場です。
しかし、
上にある《無価値となった商品のもはや商品ではない「作品」としての物質性》というのは、
高橋源一郎が言う「エクリチュール」と同義だと思います。
そして、『ゴヂラ』や「君が代は千代に八千代に」などを読んでいて、ふと感じるのは、
そうしたエクリチュールと呼べそうな「読み書き行為自体の触感」なのではないでしょうか。
そしてまた大杉の論に戻れば、
《無価値となった商品の価値を回復しようとするのは反動的だし所詮無理でもある》。
だからまあ、『ゴヂラ』は文学的に高価な商品ですよ、さあ買った買った、と強弁するのは、
たしかに、もう無理なんだということになってしまいます。
そうではなくて、問題は、エクリチュールという認知体験に、
《どのような享楽、あるいは快がありうるかということです》。
われわれ高源の読者は、この際、
その享楽、快を「ああ知っていますよ!」と強弁することから、
何かを始めてもいいのではないでしょうか。