ちかごろ文学的な |
「十七歳の風景」と題した佐野眞一のルポを雑誌アエラ(00.8.14-21号)で読んだ。愛知県のいわゆる「人を殺してみたかった」少年。佐賀県のいわゆるバスジャック少年。岡山県のいわゆる金属バット母親殺し少年。3人がそれぞれ暮らしていた家や町を佐野眞一自身が訪ね、事件の背景にあるものを考察する。 どんな考察かというと、たとえば愛知県の少年の場合、家庭環境や住環境の問題点を指摘するほかに、こんなことを述べる。<彼の通学路を実際に自転車で漕ぎ、彼の逃走経路を同じ電車に乗って追ってみて、この不条理としかいいようのない少年犯罪には赤という隠喩がみえかくれしているような気がした>。見ず知らずの家の主婦を金槌と包丁で殺した時に吹き出したはずの赤い血に、少年が逃走に使った電車の車体の赤、家の近くに開店したばかりのマンガ喫茶の看板の赤、逃走中に横を通った豊川稲荷の幟の赤を重ねる。 あるいは、岡山の少年が母親をバットで殴ったのと同じ時刻に、近くの信号機のスピーカからは学童に帰宅を促す「家路」のメロディーが流れていたことを示し、<岡山の少年はこの旋律を聴きながら、母を殺し、家を捨てた。しかし十七歳の少年が向かうべき「新世界」は、ついにやってこなかった>と締めくくる。 これを読みながら私は、同じアエラや朝日新聞でも一般の記者の報告だとあまりこういうアプローチにはならないだろうなと思った。その読んだ印象の違いをどう言い表そうか考えて、浮かんできたのは「この佐野眞一のルポは、どこか文学的なのだ」ということだった。 文学というのは、あれである。作家の肩書きのつく人が、文芸の名を冠する雑誌や書籍に綴っていく、小説と呼ばれる文章のことである。そして、この場合「文学」「文学的」という言葉に担わせた私の思いは、「通俗」ということに尽きる気がする。 べつに佐野眞一の分析や視点が的外れだとは思わない。また、全般に抑制を効かせつつも鮮やかな映像と論旨を浮かび上がらせる展開には、書き手の手触りの影が濃く、読み応えがある。 しかし、この佐野眞一の文学的ルポの傍らに、唐突かもしれないが、たとえば近ごろいわばどこか「コワレ」つつあるのかとの疑惑もたちのぼる高橋源一郎の連載小説「君が代は千代に八千代に」 を置いてみる。(村上龍の小説などは決して置かないように) ・・・・・・・・・・・ 十七歳がどうしてこういう犯罪を犯したのか。たいていの人はそれを考える。私もそれを考える。その答が佐野眞一のルポには、少しある。そして、高橋源一郎の「君が代は千代に八千代に」には全然ない。 しかし私は、高橋源一郎の小説の、その答の全然ないところに、どうしてもひかれてしまう。 ここまで書いてきて、私が次に書いてしまいたいことは、「いわゆる文学的であろうとすることほど文学から遠いことはないのではないか」ということだ。枠やイメージを描くのが容易な「文学」など、まさに「通俗」であるということだ。 十七歳の犯罪を通して今の社会を洞察する。その行為は、ごく自然であり、たぶん社会にとって意味のある行為でもある。その一方で、たとえば高橋源一郎はいったい何をやっているのか。 しかし。 さざれ石のような小説の言葉が、いつかほんとうに巌となることがありうるのだと、あなたは信じますか。私は信じます。もちろん小説の言葉など、目の前で誰かが振り上げた金槌や金属バットを阻止する力にはならないでしょう。十七歳の少年の行動を解き明かすチャートにもならないでしょう。それでも、本当の小説というものがあったならば、それは少なくとも、通俗ということがこの世の言説の隅々までを完全に覆い尽くしている事実に、いやというほど気が付かせてくれる存在なのではないでしょうか。
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