高橋源一郎『日本文学盛衰史』 「群像」 対談「 明治から遠く離れて」 穂村弘 「虚構へのセッション」 奥泉光 言文一致 『さようなら、ギャングたち』

言葉と現実の直接関係(『日本文学盛衰史』感想補遺)



群像8月号の高橋源一郎と穂村弘の対談「明治から遠く離れて」では、『日本文学盛衰史』について作家が正直な心情を語っているようにみえます。ついでに群像2月号の高橋源一郎・奥泉光の対談「虚構へのセッション」も読みましたが、両者に共通しているのは、現在進行中である高橋源一郎の迷いと願いです。<言葉はいつからか現実と直接ふれあうリアリティを失って、時代とズレてしまった>という迷い。<それをどうにか回復したい>という願い。

そのことを再考するために、 とりあえず「すべての始まりであった明治の言文一致」に戻ったと言います。「今僕たちが置かれている世界や言葉の状況の始まりはどこかと考えたときに、僕は、明治二十年代の言文一致によって近代小説が初めて言葉を持ったときがいわばルーツだと思いました」「それが、何かの理由でその延長線上でものを考えたりできなくなったときに、僕たちは「現在」という感覚を失ったんじゃないか」

じゃあ、高橋源一郎は、言文一致という道具で「内面」が「告白」できると信じられた「近代文学の青年期」を懐かしがり、そこに還りたがっているのか・・・・というと、まさかそう単純でもないだろう・・・・と思いつつも、いややっぱり素朴にそうなのかな・・・・とも読めたりして、でもさすがに・・・・。というあたりが、小説『日本文学盛衰史』の面白いところです。

しかし、ここで忘れられないのは、「現実は存在しない。言葉だけが存在する」という一句ですね(『さようなら、ギャングたち』の著者略歴にあります)。なぜから、このマニフェストは、「言葉と現実の直接性」あるいは「言文一致」とは矛盾するからです。

そこで注目すべきは、高橋源一郎がこのところ一番の共感を表明している二葉亭四迷でしょう。言文一致の創始者であった二葉亭四迷は、『日本文学盛衰史』でもトップバッターとして登場しますが、言文一致が火をつけた自然主義の燃えさかる青春に、むしろ自ら水を差します。二葉亭は、<この現実をいかにすれば強く正しく写しだせるか>という近代文学の大合唱を見守りつつも、<待てよ、そもそも言葉の背後に、現実・内面といった実在など本当にあるのか?>といった疑いと諦めを、どうしても捨てきれなかったのだと思います。そのような矛盾と分裂から出たやぶれかぶれの叫び「現実は存在しない。言葉だけが存在する」は、二葉亭のマニフェストでもあるのです。

そうすると、対談の最後に繰り返される、それ(言葉と現実・時代との直接関係)をどう回復するかの話は、そうした矛盾と分裂からくる複雑な気持ちでしょうか。「言葉自体は非常に間接的なものだけれども、その言葉そのものに直接性の肌ざわりを感じる。その信頼と希望の残りかすは僕の中にまだ残っています」「本当にシンプルな直接性なのか、あるいは初期化されちゃってもとに戻った直接性なのか、もっと全然違うものだかわからないけれども、事態というもの、あるいは物というものに、言葉で直接向き合いたいとは今も願っています」

やけに素直。涙腺がちょっと緩んで? でも高源文学も、もう青春期ではないのです。こんなことも呟かれます。「人間はもしかしたらひどく鈍感な動物で、死の感覚にリアリティーを持っているときだけ表現の直接性を得られるのかもしれない」

死という特異点だけに成立する言葉と現実の具体性・直接性。 『日本文学盛衰史』では、50歳の文豪がこの基本旋律を繰り返し奏でているのです。


Junky
2001.8.1

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