16日
「あらかじめ煮詰まっていたWWW」
17日
コンピュータと脳、ほかにも大きな違いがありました。コンピュータは人間が造ったため仕組みが始めから明らかである一方、脳は今から調べていかないとなにも分からないという点です。
18日
先ほどのテレビ朝日スーパーモーニングの中で「先ほどの…の中で乞食同然という表現がありました。訂正しておわびいたします。(おじぎ) さて…(次の話題へ)」という表現がありました。
19日
「夜の流刑地よりくもざるに愛をこめて」
20日
私たちは1995年の福井市議会議員選挙に立候補した高原一郎とその仲間です。掲示板にヘンなポスターを何種類も貼り、選挙カーで「投票なんていかないよ」とラップした私たちの選挙運動。さまざまな反応がありました。「ふざけてる」「頭がおかしい」という非難が直接届いたこともありました。
21日
絵の鑑賞方法は人それぞれです。背景を押さえてから見る人あり、権威筋の言い分を頼りにする人あり、直感で味わう人あり、批評のひとつも書かないとおさまらない人あり。さらに**さんが言う「やっと本物にめぐりあえた」というような、事物としてよりも出来事としての絵画鑑賞に重きを置く場合も実はけっこう多い。(灰色絵画を見たいという僕の心情もその絵画に事物としての価値を見るのではありません)
22日
哲学について
23日
「日本人」という言葉を無前提に使わないという**さんの見識に、目から鱗が落ちる思いでした。
24日
伝統というものがいつも手放しで褒められるので「なあに伝統を守ることも大事だが、前衛を守るという考え方だってありうる。その意識なしには前衛もすぐ通俗化する。」そんなことを思った。で、書いているうちに「待てよ、通俗だって努力して守っていかないと、みんな高尚になってつまらない!」と言いたくなった。
25日
安楽死を選んだ患者や、いじめによって自殺した高校生や、お国のためにと軍艦に当たった先人や、切腹をした大石内蔵助さん。その人たち個人に罪ありという風には考えたくありません。むしろ、病気そのものや、いじめという現象や、戦前の思考回路や、江戸城松の廊下というシステムに罪があったのではないでしょうか。つまり、自殺の罪は自殺した者にではなく自殺させた側の個人または社会にあります。
26日
コンピュータが脳と似ているというのは、僕らの基本的な共通認識だと思います。養老孟司によれば「人工物(都市とか書物とか)はすべてそれが人間の作った物である以上必然的に脳のメタファーである」ということですが、とりわけコンピュータこそまさに脳だと僕も感じます。
27日
NHKスペシャルで、非加熱血液製剤でHIV感染した人の、まさに死ぬ前に訴えた映像と音声がまとめて放送されていました。
28日
きょうは平日の休みなので、起きたら「笑っていいとも」だった。
29日
たとえば「批評」と「中傷」は違う言葉で、混同されると困りますよね。「分煙」と「禁煙」の違いも同じくらい重要です。
30日
このあいだ僕も読み終えました。「スキップ」。面白かったです。
31日
日本国政府もWWWのあるページを猥褻だとして作者を捕まえました。奇しくも、ク
リントン政権のネット言論監視への動き(センサーシップ法案)と時を同じくしてい
ます。
たとえばロックなんて、もはやシラけた存在であるという認識を僕は持っているが、一度は世界を変えるぞという大それた夢を皆に語らせた。そんな幸福な時代もあった。
文学もそうだったろう。紙や活字が語る物語に、かつて人は青春そして人生を探した。もの書きにまだ和服が似合ったころだろうか。
でも、どんなメディアも煮詰まる時がくる。それが宿命。
さて、問題はWWWである。
ロックもブンガクも、生きた時代は伝説でしか知らない僕たちが、こんどは初めて創世期に遭遇できたツール。ありとあらゆる可能性をそこに託すことができる・・・ことになっている。それなのに、僕がとても気になるのは、このWWWというやつ、デビューと同時にすでに煮詰まっていたフシがあることである。
60年代はああで70年代はこうでとかいう、先代たちのそういう歴史観などスナック菓子くらいの重さしか感じない僕たちは、地球でいちばんませきってしまったニッポンの今を歩いている。物語やパラダイムそのものがあらかじめ失われて登場したWWWは、そういう僕たちにこそふさわしいのかもしれない。
ならば僕たちは、WWWで世界の遠近と推移を日々キャッチしなくちゃ、などとあせることもない。そんなことはニュースキャスターとその熱心な信者に任せておけ。WWWは始まらず終わらず、入り口も出口もないのだ。逆に言えば、WWWでなにかを待つのもそもそも無意味ということになる。なんらかの手ごたえ、リアリティーの生成する時を待ったとしても、歴史がもはや流れないのだから、少なくとも実質的な変革が本当に来ることはない。宇宙物理学でいう特異点または通話時間計算の止まったテレホーダイを思え。
ああ、ちょっと悲しい。
それと、脳は考える主体であるので、学者が「脳はこういう成り立ちをしています」と強調しても「でも俺は自分の頭の中がこんなふうになってるように感じるけど」という意識には結局踏み込めません。この事実もなかなかすごいと思いますよ。コンピュータの場合は、主体があるのかどうかが分からないだけでなく、仮にわかったとしても少なくともその主体は自分の意識ではないでしょう。
こう考えるとコンピュータより自分の脳の方がスリリングな存在ということになるかなあ。
でも待てよ、コンピュータも医学的見地(動く仕組みとか故障の直し方とか)ばかりでなく、哲学的見地(しかしなんだそれは)で見ていくやり方もありますか?
差別語簡易削除形式。いったいこれはなんなのでしょう。
言葉というものとか、誠意とかいうものへの、あまりの仕打ち。テレビでは別に珍しくないと思いますが、朝からなんか気持ちが悪かったので書きました。
島田雅彦の最新小説「流刑地より愛をこめて」を読んだ。
この人は旧来の制度や価値観をまるごと解体するところから物語り始める。それがいつもながら心地よい。善悪も美醜もこれからの時代を生きるためのものとして創造されていく。文学とかドラマとかの名で腐るほど手作りされ大量生産されてきた恋愛話や人情話とは全然違う。今ここにいる僕たちに本当に血や肉となる。と思う。
登場人物や場面の設定は、これもいつもながら、この時代にこの国で暮らす者ならいやでも多少はその渦中に巻き込まれざるを得ない諸々の事象を想起させ、悪意に満ちた刺激とともに頭脳を撃つ。今起こっているこの現象はどういうことなのか、今感じているこの感覚はいったい何なのか。読み続ければ正答が出る!わけではないが、その問いがぐんぐんとぎ澄まされていく感じ。
さて、そういうことを踏まえて、少し前に読んだ村上春樹の「夜のくもざる」を思い起こすと、なんという違いであるか!
「夜のくもざる」の荒唐無稽な話には、そのアナロジーを現実の世界に探そうと試みても、ついにはその意欲をなくさせるところがある。つまりここにはサリンも阪神大震災もない。まあ書いたのが今年じゃないから当たり前なのだが、ここ数年間にニッポンの精神風景を彩ってきたあの現象この感覚が皆無なのである。
読んだのは二か月ほど前。ニッポンにサリンぬき地震ぬきの言論が存在しないようにすら思えた時期だったので、実に新鮮だった。しかしそれ以上に脱帽するのは、現実と直接リンクしないにも関わらず広く深く確かな世界がまるで現実のように根をはっている不思議さである。
島田雅彦を「言いたいことがしっかりあってちゃんと伝えようとする作家」とすれば、村上春樹は「言いたいことがしっかりあるのにちっとも伝えようとしない作家」と呼べるのではないか。となると、僕のいちばん注目の高橋源一郎さんについては「なにか言いたいわけでは全然ないのに必死で伝えようとだけしている偉大な作家」てなことになりますかね。これは僕の仮説です。
というわけで島田雅彦の「流刑地より愛を込めて」。おすすめです。
しかし、今回のポスター&ラップ計画の前提には「今の市議選の現状なんてそりゃもう空虚で空虚で空虚で、泣きたいのを通り越して笑ってしまうほど空虚だ」という認識があったのです。
だって、他の候補者がどんな運動をしていたのか思い起こして下さい。選挙カーは相変わらず「****、****をよろしくお願いいたします」とウグイスの連呼だけ。ポスターも予想通りにこやかな顔写真と大きな平仮名の名前と「明るく住みよいまちづくり」などといった文句だけが並んでいましたよね。それでも、その人たちは地元の縄張りに旗を立て近所の人を動員し「地盤や組織の支援を固めて」立派に当選していきました。皆さんご存じの通りです。
そんな現状に対する批判の声を短い運動期間で心ある市民に伝え、しかも高原一郎が従来と違う候補者だというサインを送るためには、金も組織もない私たちは「選挙なんかつまらない」と叫ぶことから始めるしかなかったのです。
ふざけていたのは私たちの方でしょうか? 頭がおかしいのは私たちの方でしょうか?
しかし、結果としてポスター&ラップ計画はうまく理解されず、高原一郎を市議会に送り込むことは出来ませんでした。
そこで、私たちはこの催しで立候補と運動の真意を改めて訴えたいのです。
作成したポスターをまとめて掲示し「選挙でラップ・その1その2」も流します。どうか、じっくり眺め、じっくり耳を傾けて、楽しみ、論じて下さい。また、突飛な運動はともかくとして、候補者には一貫して持ち続けてきた姿勢や政策があります。選挙公報でもお知らせしましたが、この機会にぜひ詳しい説明を求めてください。
すると人によって感想が違うのは当たり前ということになります。
しかし、だからといって「君と僕とでは人間が別だから同じ絵を見たと言っても会話はなりたたないよ、じゃね」と済ませてしまっては、同じ時代、同じ地球に生きてる甲斐がないと僕は思います。
それより、ある絵を見て自分はこう感じたけど、それはいったい自分の感覚や知識のどこから出てきたのだろうと考えてみたり、その絵を見た別の人はまた違う感想を持ったようだけど、それはどういう感覚や知識が関係しているのだろうかと考える、そういうことが僕は楽しいし、意味があると思うのです。
なぜなら、ある絵を見て「まあすてき」とうっとりするのも「現代の苦悩を暗喩している」と眉間にしわを寄せるのも、必ずそこに至ったわけがはっきりとある、と僕は信じているからです。すべての感想に根拠あり。人間が自分の経験と全く無関係に絵を眺めることは、悲しいけれどできないものなのです。
では問題の「本当の鑑賞方法」とはなんでしょう。そもそも「本当の鑑賞方法」など存在するのでしょうか。
少なくとも僕は「本当の」というところを「エラいセンセイの教える」とか「美術雑誌に書いてあった」とかいう置き換えをするだけでは進歩がないと思います。
僕の考えでは、さっき書いたような「なぜ自分がその絵を見てこう思ってしまうのかを常に意識するような鑑賞方法」が、「正しい」かどうかは別にして「より良い」鑑賞方法だと思います。その時にその意識がないところでは、ある絵を見た感想が単なる流行や思いこみに操作されていただけだとしてもそれに気づかず、これこそ自分の深い経験とこの絵の深い内実がこの感動を生んだに違いない!なんて勘違いすることになってしまうからです。
哲学とは、思想とは、いわばCPUに当たると考えればいいのではないか。
よいアプリケーションがあっても、でかいハードディスクがあっても、結局は、CPUのポテンシャルがものをいう。
それ自体が何か具体的な仕事をすることはできないのだが、それの性能は、どんな仕事であっても大きく関わってくるのだ。
哲学や思想は大切なのである。
陳腐なことしかいったいやったりできない者は、たぶん、CPUが存在しないのではないか。
それと関係があると思いますが、 僕は最近「列島の住人」とか「ニッポン語を話す人」とかいう言い方が好きになってきました。さらには、クリントン大統領が霞ヶ関界隈や橋本龍太郎氏を指して言うときの「日本」と、この列島の土地・住人を指して言うときの「日本」とを混同したくないので、前者をなるべく「東京政権」と呼ぶことにしています。「江戸幕府」とか「ポルポト政権」とかと似てますね。
とはいえ、僕は「日本人」という概念について考察することは嫌いではありません。「日本人」という枠組みなど曖昧であり「民族とその盛衰」とかいうとらえ方も物語にすぎないとは思います。それでも人は、徹底して個人であるのと同時に、たとえば「夫婦は一体である」という迷信や「**家一族の歩み」といった幻想を分かっていても捨ててしまえないところがあります。そういうものと同じ低レベルの話として「日本人」という概念を時にもてあそび、時にきわめようとする行為が一挙になくなることもないのではないでしょうか。
あるいは、情報や言語(文化とはいいません)を共有する人々つまりは外国人の定住者も含めた「列島の住人」を指して「日本人」と呼んでいる場合もあると思います。ただややこしいのは、「民族」名ばかりでなくこの土地の名が日本列島でありこの国の名が日本だからです。混同するわけです。じゃあこうなったら、たとえば列島名は「ヤマダ列島」に変え、国名は「ドケン帝国」に変え、言語名は「NHK語」に変えれば、ちっとは改善されるのではないでしょうか。
さらにひとこと。自殺させた側の罪はすべて同等とは思いません。**にある「名誉ある自殺」なんていう考えは、たとえば「不治の病」に比べたら僕の感覚ではずうっと罪は重い。自殺を引き起こす要因としては「いじめ」に匹敵するくらいものすごく愚かです。しかし**さんなどからは賞賛すらされていることを考慮すると、いじめを通り越してさらに罪は重いと言いたいです。また「全体の進歩に反する個人の進歩は罪である」という考え方も、もしそれがある種の人々に自殺を選ばせたとしたら、それは罪です。
自殺するしないの自由は原因や方法によらず尊重したい。これが僕の出発点です。でも自殺オーケーと言い切ってしまうと、なにか腑に落ちないものが残る。だいいち現実に親しい人が今から死ぬつもりだと聞けば、とりあえず止めることは容易に想像できますからね。これまでの長い議論は、その腑に落ちなさの根拠を探すことなのかなと思いながら、時々読んできました。そういう観点と「罪」という今回のタームを組み合わせて、やや横道にそれる論を述べました。
それでもコンピュータが人間とは似ていないという時は、コンピュータが歩いたりトイレ行ったりしないという単純な事実をさしてのことです。また、人間の脳がコンピュータと違うというのも、キーボードで入力しなくても言葉を刻めるとか、そういう当たり前の差を示したわけです。
でも、このことはことはけっこう重要です。つまり人間はそういうことをいとも簡単にやってのけれられる超マルチメディアだ、とほめてやりたいということですね。ただしこれはコンピュータ文明が人間性を損なうというような分脈ではありません。
逆にコンピュータは僕の暗算より計算が確実とか、記憶が永遠に溶融しないとかいうのもありますね。そういう点では人間は寂しい、コンピュータに負けてるぞ!となるわけです。
コンピュータと人間・脳を比較して、似ているというときは「脳論」または「コンピュータ論」で、似ていないというときは「人間論」なんでしょうか。
ではそのどちらが「コンピュータ&人間&脳論」の真髄かというと、やはり似ているという観点の方が発展性があるようですね。ただ、それだからこそ人間がコンピュータとは違うという視点も指摘しておきたかったのです。
というわけで、このあたりの話は面白いのでもっと深めましょう。
なんというか、もはや言葉に尽くせぬものがありました。
この問題に、ある医者が「しかたがなかった」というような言い方をしていたと聞いて、昔からとても気になっていました。「しかたがない」というのがもしかしたら当たっているのかもしれないという思いからです。
それについて感じたこと。
たしかに、こういう医者たちと、こういう役人たちと、こういう商人たちと、また、こういう僕たち国民たちが、いつもいつもこういう態度でものを進めている実状では、感染はやむを得なかった。
そういう意味でなら、非加熱血液製剤の投与はしかたなかった。全血友病患者の半数もがまもなく死んでいく現状も、しかたがない。
ただし、そういう意味でなら、安部英氏やミドリ十字社長は「人殺し」と呼ばれ投獄されることもまた「しかたないことだ」と受け入れるべきだし、役人なら首を切られて天下りの道が絶たれて優雅な生活がしづらくなるくらいのことは当然「しかたない」とあきらめるべきだ。血友病患者の声や訴訟がじわじわと大きくなっている現状に対しても、医師会や厚生省や製薬会社は、やはり同じ文脈で「これもまたしかたがないことだから、ちゃんとじっくりつきあっていこう」と、ちっとはそういう態度を見せていいはずだ。
血友病患者が死ぬのは「しかたない」ことで、自分が責任を問われることは「しかたない」と思えないのだとしたら、不公平だ。
俵万智が出ていて、パソ通にふけるある若者が「こないだ面と向かって電話しちゃったよ」と言っていたと驚いていた。通信上のコミュニケーションばかりやっていると電話で肉声をかわすことすら「面と向かう」感覚になっているんですね、とあきれていたのでした。
しかし、僕も若者ではないが、電話が面と向かうことになる感覚は良く分かる。書き込みでなく個人宛にメールを出す場合でもずいぶん面と向かう気がするし、ましてや、チャットなど恐れおののき襟正し。
これがいいのか悪いのか、それは福井新聞こだま欄あたりに聞いてみることにして、こういう感覚がわずか通信一年未満で身に着いた自身の適応力ないしは節操のなさに、感慨ひとしおといったところです。
----おまけ----
「俵万智」(これでいいですね?)が最初どうも書けなくて(変換できなくて)。「真知」とか表示させると「迷い道」のメロディーが頭に流れたりして、どうも違う。最後に「万智」とやって心眼を開いたところ「サラダ記念日」の表紙が見えて「これでよし」。こういう直感的漢字認識はパソコン通信によって、鍛えられるのか、損なわれるのか、さあどっちでしょう。
自分が詳しく知らない領域に踏み込もうとするとき、新しい言葉に出会うのは当たり前です。**氏が投げかける問題は煙草の問題ではありますが健康問題としてでもなくマナーの問題としてでもない領域です。そのときに絶対必要になるのが「分煙」や「禁煙」という言葉の厳密な使い分けだと思います。相手を論破する手だてとしてではなく、この領域の本質をつかむには不可欠な言葉づかいなのです。
そして、その使い分けがなぜ重要なのかを理解しない人は、無煙だの吐煙だのと話をややこしくするな、わからずや、と怒るのでしょう。で結局、**さんの言いたいことは全然分からない、となるわけです。これは、**氏の表現力の問題というより、その人の読解力の問題だと僕は考えます。
**さんの話は聞きたくない、ややこしい、という気持ちはわかります。でもこのくらいの異物を嫌悪し遠ざける人は、これまで解釈が微動だにしない内輪の言語ばかりで議論してきたのではないでしょうか。
高校生活の描写がとても懐かしい。そういえば学級日誌とかありましたね。青臭いことをかりかりと書いていたあのころを思い出しました。学校祭のことももちろんです。僕が高校一年の時、文化祭のテーマは「ふれあい」でした。中村雅俊のドラマの歌だったはず。
主人公の気持ちになりきることは可能か。
高校生の頃の自分に戻った上でそのまま現在のどこかの高校の先生になったとしたら・・・。難しいですね。
けっこうハタ迷惑なマジ教師になったかも。あるいは覚えたてだった単語とかことわざとかすぐ使ってみたりして。自分の状況を生徒にバラしたうえで、僕だけは全然忘れていない25年も前の高校生活を「昔はこうだったんだぞお」と得意げに披露するかも。急に年取ってしまった戸惑いはあっても、おじさんになったことが悲しいとは思わないかもね。むしろ37歳の僕が急に42歳になることの方に強い抵抗を感じます。
しかし自分の25年分の思い出が全く失われていることを、どんなふうに感じるのでしょうか。想像できません。残念ながら、もう37年分思い出があるからです。主人公の気持ちになりきることは、今17歳の人にしかできないことなのではのではないでしょうか。
「センサーシップ」はうちの辞書には「検閲」とありました。データのチェックはネ
ット上に公表する前に行うのか、それとも公表された後に行うのか、アメリカ政府の
やり方はどちらなんでしょうか。気になります。
僕はこの問題に対してのスタンスを示す意味で、個人ページに「黒頁」を
置きました。センサーシップより猥褻取締りに対して力点があります。
それにしても今回の黒ページアクションが面白いのは、ネットおよびそれをめぐる社
会に対してネットそのもので批評を行っている点だと思います。ストレートなもの、
斜に構えたもの、混在してアクションが広がれば、きっと始まったばかりのこのメデ
ィアの歴史に残ることでしょう。僕もその歴史を体験しできることならその歴史に関
与したい気持ちです。
さて、自分が「クズだ」「ゴミだ」と思うようなデータに対しても「表現の勝手」を
認めてこそ、センサーシップへの抵抗といえます。不快なものと共存していくルール
を作ることは、不快なものを単に切り捨てることではありません。これが僕の考えの
根本です。
8月の宿題へ