1日
「書を捨てよ、街へでよう」
だから言い聞かせるのはいつだっていいのです。
2日
ネットを考える。ネットで考える。ネットが考える。
3日
死刑廃止を死刑囚として訴えた木村修司さんの手記、読み終えました。生い立ちや誘拐殺人を犯した状況を、みずから冷静に分析しています。自分の性格についてじっくりえぐり述べていくた部分は、なんか僕の性格にもそのまま当てはまるような気がしてこわかったです。
4日
ホウ・シャオシエンっていいですよね!
5日
「わからない事については、絶対に誰の味方もしないでおこうと、決めていま
す。」という**さんの態度に私も原則として同感です。
6日
「森の中の淑女たち」
7日
ミスコンなどについて、正しいか正しくないかではなく、かっこいいかかっこわるいかで考えてみました。
8日
加納典明氏の逮捕について。
9日
寺山修司は、僕も大好きです。
10日
湾岸道路と巨大な橋を車で渡り、ご存じポートアイランドへも足を伸ばしました。企業のモダンな社屋とレストランなどの上品なビルと超高層マンションがどれもぴかぴかにそびえているのですが、少し離れてずらずら〜っと並んでいたのがこれもご存じ仮設住宅でした。一緒に行った***君の話だと、ポートアイランドだけで2千戸もあるとか。人口でいくと福井県の名田庄村くらいになるかねえなどと話しました。
11日
東京にある政権がもんじゅを永久に停止するのかしないのかも重要な問題であるが、それよりも、もんじゅの近所に住むという自覚を持つあなたやわたしが、「もんじゅを永久に停止してほしいと思う」のか「もんじゅを永久に停止してほしいとまでは思わない」のか、どちらであるのか、社会的個人として正確に意志表示することが、もうこうなったら、もっと大事である。
12日
「グランブルー」は以前のバージョン「グレートブルー」も合わせるとビデオで3回くらい見ました。エンゾ(主人公の友達)が車で海沿いを走るシーンなんかがかっこよくて、ずっと記憶に残っている映画です。でも徹底的にはのめりこめなかった。それがなぜかを考えると、たぶん作品のカンジンカナメである「主人公の(言ってみれば)イルカになりたがるような心境」が僕にはきちんと共感できないからだと思うんですね。
13日
内田百間を読んでいる。小説「特別阿房列車」は、人を食っていて面白い。思えばウェブってごちゃごちゃしすぎて、ルートもごちゃごちゃなのが身上だが、それが疲れることがある。小説って文字だけを一方向に自分のペースで辿っていけば良いのはうれしい。wwwは、こっちがスピードを緩めると置いて行かれてしまうような気がすのだ。その点明治時代の小説は確固として実在し続ける、といった感じがする。中身も、当たり前だが、デジタル情報の渦とはなんの関わりもない。いい。
14日
黒田清さんと初めて言葉を交わした。豪快で気のいいおじさん。堅いことを言わないのがいいところであり悪いところである人のような印象を持っていたのだが、戦争や差別、天皇制に対する徹底した反感が黒田さんを支えているのだと感じ、会えて良かったと思った。二次会で行ったスナックで、恍惚状態になりながら妙な歌声を響かせた。かと思うと、軍歌嫌いが徹底しているらしく、イントロが聞こえただけで、洗面所へ引きこもってしまった姿が、とても強烈に焼き付き、かつ好感を覚えた。店のママが撮ったポラロイドに黒田さんと一緒に収まった写真が一枚。ちょっとした宝物だ。
15日
「大日本帝国が朝鮮や中国を侵略した」という認識に閣僚が疑問を挟んだ場合「まず閣僚を非難する」というのが産経新聞ではない朝日新聞や毎日新聞の出方のように思います。「そういう閣僚は実におかしい」と後に続くのが僕の出方であり、それはなぜかといえば第一にまさにそう思うからですが、それに加えて「侵略だろうか?」という問いにもし耳を傾ける出方を取るとしたら「侵略などしていないんだ」という認識の側に力を与えるようでそれがいやなのと、閣僚ほどではないにしろ失うものが大きいのではないかという一個人の政治的判断も働いていると思います。
16日
すべてをデジタル化したい。この欲望は多くの人が持つでしょう。小説や新聞がポンとフロッピーに入り、音楽や映画もディスクになる。いつの日か物質そのものがデジタル化されたあかつきには、衣食住それぞれの「元」をさっと機械にかけると情報通り分子が並んでTシャツやカレーや布団がぱっと出てくる。便利だなあ。
17日
胃カメラを初めて飲んでみました。この前はバリウムでした。どっちもあまりいただけませんな。若いのに胃ガンなのではとマジに心配し、その場合は残り少ない人生をどうすごしたものか、ちょっと計画を立てたりしました。リンクリンクに闘病日記「命果てるまで」を連載しようかなとか。
それ僕も見ました。同じ日だったりして。
25くらいだったかな。もう会社員でした。
やはり、なにも起こらなかった。
ところで「二度と戻らないあの頃」は10代だけではありません。
20代もです。たぶん30代もでしょう。
気をつけるように。
「書を捨てよ、町へ出よう」
それぞれ実践せよ。
ネットを考えるは、政治を考えたりグルメを考えたりと対象を変えるだけで、考えるやり方は同じです。コンピューターネットについて考えればよい。
次に、ネットで考えるためには、ネットという場所で考えるばかりでなく、電卓で計算する、コンロで湯を沸かすのように、ネットという手段で考える必要があります。さらに、頭で考える、英語で考えるという意味あいだとすると、ネットで考えるというのはどういうことでしょう。コンピューターネットでしか出来ないような様式で考える、ということかな?
それで、最後のネットが考えるというのはなかなかすごい。「ネットが考えるか!人間が考えるんだあ!」という人がいますが、それなら「人間が考えるか!脳細胞が考えるんだあ!」とも言えるわけで、どこに主体を見るかの違いに過ぎないように思えます。実際今コンピューターネットが小説を書いていますからねえ。
小難しい話、と眉をひそめてはいけません。オプション課題として、ネットが悩む、ネットがだます、ネットが緩む、などもあるのですから。
最初は沈黙してただ死にたいと願っていた木村さんが、自分の行為を振り返るのと平行して死刑という仕打ちの不当さに気がついていく課程は、説得力がありました。
機会があれば読んでみてください。「死刑囚・木村修司の手記本当の自分を生きたい。」(インパクト出版)です。
ところで手記の執筆、出版をすすめた人たちの対談が巻末に載っているのですが、驚いたのは、その人たちが木村さんに対して全然甘くないと言う事実です。木村さんにぜひとも生きていてほしいと願う気持ちを述べる一方で、犯行そのものの描写が十分でない、妻との関係を妻の立場からは眺めようとはしていない、など手記から見えてきた木村さんの反省の足りない点を厳しく細かく指摘しているのです。
「人殺しは死刑が当たり前だ」という素朴な声に、反論する理屈は持っていても、反論する元気をなくすことが僕はときどきあります。そういう僕にとって、彼らの厳しい態度はひとつの光でした。殺人という行為、殺人という現象を心から憎み、解明して、本当の反省や償いを見つけていこうとする人たちは、やはり死刑廃止の側にいるようです。
折しも地下鉄サリン事件などでオウム真理教信者の公判が始まっています。罪を認めた者たちより認めない者の心にこそ事件の本質が潜んでいるように僕は思います。 同じ時代に同じ列島で起こったこの事件を、解き明かしていくためでなく、現象だけを紙や電波に残してあとは早いとこ忘れてなかったことにしてしまうためならば、死刑はなにより有効な手段でしょう。でもそれは決して優しくも厳しくもないのだと、今なら僕は少し自信をもって言えます。
恋恋風塵、冬冬の夏休み、非情城市と見ましたが、どれも堪能しました。
映画って、つまるところ、スクリーンから流れ出る空気だと思うんです。僕の語彙では
こうなる。テーマとかストーリーとか関係あるようなないようなもろもろを全部ひっくる
めてさあっと胸に染みてくる、というか。
で、こういう言い方をする時、いつもホウ・シャオシエンのあの映像が浮かんでくるの
です。
しかしたくさんの映画の中で、僕の心を動かすのが、どうして全然行ったこともない昔
の台湾の何の変哲もない田舎や若者の風景なんでしょうねえ。不思議です。古い日本の映
画に感動したときも同じような思いにとらわれます。
もしかして、映画の、すべてではないですがかなり重要な部分は、いわゆる高度成長、
経済成長でその国の人々の生活や考え方ががらががらっと変化せざるを得ない一時期にこ
そ、光を放つのではないでしょうか。時折そんな推測にふける僕ですが、ホウ・シャオシ
エンの風はそんな分析の脇を素知らぬ顔でまたさらり吹いていきます。
でも、たとえば「福井女子中学生殺人事件の殺人犯は宇宙人だ」という説と
「殺人犯は宇宙人ではない」という説があったとします。それでも**さんは
どちらの味方もしませんか。もし後者の説を支持するとしたら、それは**さ
んが当事者だからですか。
宇宙人犯人説を間違いだと思う一方で、容疑者Mさん犯人説を間違いだと思わ
ないのはなぜでしょう。宇宙人についてのたわごとは知識や経験で判断できるが、
名古屋高等裁判所金沢支部の出した有罪判決については知識や経験で判断できな
いということですね。まあ、それももっともです。
しかし、私たちは、福井で発生して福井の警察が捜査して福井地方裁判所が無
罪判決を出したあの事件について、判断材料を得るのがそんなに難しいでしょう
か。たとえば95年2月10日の新聞を丹念に見るだけでいいのです。それだけでも、
有罪を予想していた人がほとんどいなかったことくらいは分かります。
殺人事件の裁判という重大なことだけに安易に結論は出せない、というかもし
れません。しかし「えん罪判決だと思う」「えん罪判決だとは思わない」につい
ての選択を急がないのと同様に「えん罪判決かどうか確かめる」「えん罪判決か
どうか確かめない」についての選択ももうちょっと待って下さい。
私は、今回のMさん有罪判決については、乏しい知識と経験からではありますが「本当かどうかよ〜く調べてみよう」との態度を決めています。
心温まるいい映画でした。圧倒的に美しい森を黄色いバスがゆっくり進む。廃屋のテラスにたたずんで池を見つめる老女の一群。こういうシーンにつきます。ごく普通のお年寄りがごく普通に歩いたら、それはそのまま映画なのですね。
登場する7人のうちシシーというエピソードもあまりなくただにこにこしている老女に、僕はなぜかいちばん親しみを覚えました。
ミス**というような催しを大真面目に主催する会社や自治体を、僕はかっこわるいと思います。
逆に、パソコン通信でミスコンが好きだといまどき大真面目に言うおじさんは、なかなかかっこいいかもしれません。
しかし、もっとかっこいいのは、気楽に生きることの価値を十分知った上で、それでも、ミス**というような言葉や美人というような言葉はできるだけ慎重に使おうと密かに(ここが重要)、自分に言い聞かせている個人ではないでしょうか。
言葉狩りとかいうことについて。ある言葉がなんか問題らしい、という場合に、そんなこといってたら使える言葉がなくなるぞ!と月並みなことを言うのは、実はけっこうかっこわるいんではないかと僕は感じています。もちろん、差別を言葉そのものに限定し使用を禁止するだけでお茶をにごすテレビ業界のあり方も限りなくかっこわるいのですが。
それよりも、その言葉を聞くだけで傷ついてしまうような人が本当はいるのかいないのか、ミスコンが開催されることを心底苦々しく思っている人が本当はいるのかいないのか、ずっと問い続ける方がなによりかっこいいですね。
加納氏は偉い。だって「勃起させることが自分の写真の目的である」と言いきっているのだから。
これだけちまたにヘアが氾濫する中にあっては、素人のH写真の方が時としてプロのヘアヌード写真よりすこぶる刺激的だったりする。誰しも感じることだと思う。それは、プロのカメラマンの方がモデルの質も機材の質も高いというそれゆえにこそ、そういう質にはあまり気を配らない素人の写真に負けてしまうという奇妙な現象である。そのときにプロカメラマンはどうするかというと、たぶんH写真でありながら高尚さとか方法論とかモデルの質、機材の質そのもので差異化を図りお茶をにごす。つまり素人とは同列にされない工夫をするわけだ。
ところが加納氏は、あくまで、どっちが勃起させるかという原点で勝負してきた。多くの文化人きどりのカメラマンが避けてきた素人との対戦に挑んできたのだ。偉いじゃないか。だからといって、撮影や出版物としての質が低いかというと、全然そうではなく、いわば「質の高い勃起本」に成功したというべきだ(これはもちろん質が高いから立派だといっているのではなく、質が高いくせに勃起するから立派だといっているのである。勃起するかどうかという点では、素人写真に軍配が上がることも多々あり、それはそれで素人写真の偉大さを別に論じる必要がある。)
さてその加納勃起写真が法廷にでる。これは面白い。「猥褻だいや芸術だ」などとどっちでもいいことに終始してきた論争が、ようやく「猥褻がなぜ悪いのか」に進化するからである。猥褻考察の本当の歴史の始まりだ。
浅井慎平氏は「表現の自由対権力の戦いなら加納氏に味方するが、今回のは違う。加納氏の写真は方法論や歴史観が欠けていた」というようなことを新聞にのべていた。しかし、僕は違うと思う。加納氏は毛が氾濫する中でどう毛を出すかの方法論を徹底して追及しただろう。どういう場合に勃起するのかを深く考えかつ実践していたわけだ。そのことは、「毛を出して何が悪い」という古ぼけた観点などとっくに凌駕していたし、「鑑賞する価値のあるヘアヌードを望む」といった間の抜けた建て前に完全に背を向けていた。歴史認識が欠如していたと言うよりも、そのいかにも支持されそうな歴史認識に対してこそ果敢に挑戦したということではないだろうか。
そういう点では、加納氏のヘアヌード写真は、勃起の質においても、撮影技術の質においても、さらには社会と表現の関わり方の模索の質においても、極めて高いものであると僕は思う。浅井慎平氏の表現活動の質の高さとは別の次元の質の高さであり、それは、素人写真の次元とプロ写真の次元のどっちが上とはいえないのと同じように、やはりどっちの次元が上というものではないのだが、今回僕は、ついに猥褻そのものの存在意義を問いかけてくれた加納氏に、大きな親近感を感じる。
……と初めのころは思っていたのに、容疑を認めて謝ってしまうとは意外だった。
70年代の公開時には知らなかった映画「田園に死す」を1982年にメトロ劇場で見ました。
「書を捨てよ・・」とは別の時です。
オープニングの不気味な画面から最後の新宿の風景まで、最前列の右端にすわって見上げた僕の視線は、
一瞬たりともスクリーンから外すことができませんでした。
頭をなぐられたような、とはああいう感動を言うのでしょう。
あれほどショックだった映画は今のところほかにありません。
そのころ、もうひとつ僕の目を覚ました出来事がありました。
福井の方ならご存じの劇団、シベリア寒気団です。柴田神社にテントを張って創作劇を見せたのです。芝居になじみなどなかった僕ですが、霧のようなものがさっと晴れ新しい世界の枠組みが目の前に広がっていくような、そんな印象を受けました
表現ということの無限の可能性に、僕はそのころ初めて気づいたのでした。
迷宮旅行社(ぼくのホームページのことです)の名は寺山修司に影響されてると思います。
ソマリアとかルワンダの戦争で難民になった人たちのキャンプ生活があまりに悲惨だと伝えられていたことを、ふと思い起こしました。つまり、それに比べたらこの仮設住宅ははるかに快適で安全であろうと。しかし、カセツの人々が現在の境遇と比較をする対象は、当たり前ですが、これまで住んできた住居でしょう。あるいは周囲の高層マンションの暮らしでしょう。
宵の口だったのでカーテン越しに明かりが漏れる部屋とまだ暗い部屋とがありました。暖房器具やテレビは備えてあるのでしょうね。
パソコン通信なんてやってる人は全然いないんでしょうか。
神戸市長田区では、一年前文字どおり焼け野原だった一帯に、いわゆるバラックの商店や家がけっこう建ってきていました。浮かんだのは月並みですが「たくましい」という言葉です。もちろん、一周忌で備えられたらしい花束と雑草だけの跡地もまだずいぶんと残っていました。
もちろん、原発に関わることで生計を立てる人、金儲けをしたい人の原発を支持する現実や論理、あるいは原発に反対しない現実や論理はどれも重要で無視できないと思っている。
また「もんじゅをとりあえずは停止してほしいが、いずれ再開されてもやむをえないだろう」といった声が存在することは知っている。ただ議論の分かれ目はそこではないと考えている。
さらに「もんじゅを永久に停止してほしいと僕は思っている。が、わざわざ意志表意はしない」という人がいる。もっともだ。しかし「一生に一度か二度くらいは社会に対して声を上げてみたほうが生きていく価値もあろうというものだ」と考えており、今回はその一度か二度にあたる時だと判断し、声を出すことに決めた。
しつこく繰り返すが、「もんじゅが永久に停止すべきなのかどうか」が問題ではない。「永久に停止してほしいと、あなたが言うのか言わないのか」が問題なのである。
僕は、ここに、胸の内を明かします。
「もんじゅを永久に停止してほしい。」
ま、とにかく、今年はなんかやるなら、すべて「ノーモアもんじゅ」で遊ぼう。
「二キータ」も面白かった。こっちは、そういう意味では、悲しみも喜びもよく分かりました。ただ、通常の人情だけではない、冷たいようなあたたかいような根源的な何かが、静かに底を流れていると感じました。それは「グランブルー」にも通じていると思います。
「孤独、それと同時にあるなにかによって気持ちが浄化されてゆく」とNomoto氏は言っていましたが、そういう言い方がぴったりでしょう。でも「あるなにか」って、ホントに何なんでしょうか。これが「グランブルー」の、そしてリュックベッソンという人の謎を解く鍵かもしれません。
「サブウエイ」もリュックベッソンでしたか。こんどビデオを見てみます。
ところで「グランブルー」というと僕はジャンジャックベネックスの「ベティブルー」を思い出します。どちらもフランス映画でタイトルと監督名がなんとなく似ているというか紛らわしいというかそれだけの理由ですが。(こんど誰かに「ジャンリュックベネックスのグランベティ見た?」などと尋ねてみよう)
「ベティブルー」はいい映画です。「グランブルー」にもまして情景が鮮やかによみがえります。そして、共感できるとかできないとかいう意味では、とてもよくわかるのです。念のために言うと、この映画も最初短いバージョンで公開され、その後「ベティブルー・インテグラル」(数。?)が完全版として出されました。ストーリーの重要な部分が完全版で初めて納得できたりするので、これは完全版を見ての感想ということになります。
共感というと陳腐な言葉であり、あまりに当たり前のこころの動きですが、結局のところ、好きになれるかどうかを分ける大きなポイントだと思います。だから、残念ながら僕は、今のところ、リュックベッソンが好きという資格はないのです。
お金とか名誉とか恋人とか、そういういわばストレートな欲望の方なら僕は素直にのめりこめます。「ベティーブルー」も、たとえばこれもフランスの青春映画ということで、かの「冒険者たち」(同じく海に潜ったりする感動シーンもあるし)も、そういう意味でたいへん好きです。
ついでに。このあいだ「ミナ」というフランス映画をビデオで見ましたが、これも気持ちがよく伝わってきました。メトロで近く上映されることになっていて「これは私たちの物語」とかいう宣伝文句が予告にありましたよ。その時メトロで見た大林宣彦の「あした」の感想と、その日のある観客に対するむかつきについては、またいずれ。
ですから今回の問題はこのリンクリンクでも僕は「江藤氏は閣僚失格。侵略を再認識すべし」という出方になります。
そのうえで言いますが、**さんの書いた
>今回の江藤総務庁長官が辞任したのはオフレコ発言が原因でしょ。発言内容のぜひはともかく、ココダケの話よ、というのが相手国に意識的に伝えられた。オフレコ発言は私的見解でしょが。これを匿名でちくった奴がいるわけで、このジャーナリストは表に出てこない。正義をもって漏洩したならどうどうと本名で名乗り出たらいいのに。オフレコを公にした事に対する罪悪感があるのでしょうか。一人刺すなら自分も覚悟しなきゃ。<
という部分を読むと、そのジャーナリストは大変いやな奴だと思います。そして、職業ジャーナリストの過ちをただそうという行為は「侵略ではなかった」という閣僚をただす行為くらい大事だと思うし、それがもし「侵略ではなかった」という認識に力を貸すと考える人がいたら、それは錯覚だと思います。
最後は脳味噌のデジタル化ですね。
そのときは脳を永久確実に保存できるわけだから、死んでも僕は考える。回想にふける。五感で感じる環境を現実と同じように整えてもらえれば、ご飯も食べれば電話もする、旅に出たりもできる。
しかし、これを逆の発想にすると、現在の僕の生活が実はデジタル情報であって、誰かのコンピューターの中で笑ったり笑ったり笑ったり(バグではない)してるだけかもしれないということにもなる。
そういう風に考えて、ちょっと、神とかいうものの構造的な位置が、ははーんとわかったような気がしたりして…。
・・・・ところで、しかし、そもそも脳は本当にデジタルなのだろうか。昨晩の夢が思い出せそうで思い出せない、そんなときに僕がぼんやり見えたり感じたりしてることは、とてもアナログっぽい感じがするのだが。