7月


1日

NHK教育テレビの番組ソリトンが「脳ミソの迷宮」と題して現代哲学のポップな解読を特集していた。この夏いちばんの面白さであった。デリダとかボードリヤールとか、僕としては原書を読んでもいないのに何となく気になる名前の哲学者が、なんと、デジタルっぽいアニメと思想のキーワードを並べたラップで紹介されたのが楽しかった。しかし、それよりもすごかったのは、サルトルの自由についての論文が、七輪で音をたてつつ丸まりながら焼けていくスルメの映像をバックに、淡々と朗読されたのには、もう、うなってしまった。さらに、あの福井放送の人気(?)番組「ニュース落書き瓦版」でもコントをしているザ・ニュースペーパーが登場! ソクラテスやデカルトといった古い方の哲人に扮しジェットコースターや回転寿司など現代の風景を前に哲学論議をするのであった。
いやあ、しかし、堪能した。「脳」というのがNHK特集なら、「脳ミソ」というのがソリトンらしくていいね。
エイリアンをずっと見てたひとは残念でした。

じゃ、遊んでよし。


2日

「死刑執行に抗議します」と書いたのは、死刑廃止運動の一環と意識してのことです。リンクリンクでの発言は今や駅前でビラをまくのに負けないほどの力がある!・・・といいですね。
しかし「なんで」と素朴に聞かれるのはけっこうつらいです。思考する側が時として運動を毛嫌いするように、運動する側はつい思考をおろそかにしているからです。死刑問題については僕ははっきり反対運動をする側です。ハタから見ればもはやねじ曲がった考えが染みついているかもしれません。なるべく正直に書きます。
死刑があったというニュースを聞き、それが誘拐などで何人もの人を殺した犯人だと知らされれば「まあ仕方がないか」とつぶやくのが普通かと思います。そういう因果応報というか、悪いことをした奴は痛い目にあって当然だという理屈は僕にもあります。もちろん、殺された人の肉親なら、犯人が首をくくられたことで、なにか頑張るよりどころを見つけだすのでしょう。
しかし、そういうことがなにか本当に建設的な意味を持つでしょうか。実質的な進歩につながるでしょうか。死刑制度にまったく益がないとは思いません。今述べた「気が済む」ということも重要だと思いますし、死刑こわさに悪さをやめる人がひとりもいないとは断言できません。ただ、それくらいの理由では死刑をわざわざやるほどの説得力を僕は感じないのです。
なぜか。それは死刑が持つ負の側面、悪の側面をもっともっと重いと考えるからです。ここが議論のスタートだと思います。その負の、悪の側面については、少し書き込みがあるようです。死刑廃止を言う側はかなり偏屈な印象を与えるかもしれませんが、死刑について知り考えた経験も長いと思います。これを機にどうか耳を傾けて下さい。

じゃ、遊んでよし。


3日

「**さん」という毒が入り込み、科学反応が激しく起こっている試験管の溶液。
そこへ「しつこいよ、きみ」という薬というか、呪文というか言葉によって、
さっと沈殿、つまり解毒することができる。
だれの言動も、そういう解毒物質が存在するはずだ。
それを見つけることが評論かもしれない。
あるいは、昔高橋源一郎氏が、僕の小説がかる〜く真似られてしまうのは、それは僕の小説に欠陥があるからだ、というようなことをいっていたが、
同じ事かも知れない。
つまりものまねとは、そのひとの化学反応が激しく起こっておおすごいと思われている、ある人物の、構造を見極め、そのひとのエッセンス物質が何であるかを見極め、それを解毒してしまう行為なのかも知れない。だから、モノマネはほっとして笑えるのである。
その人の行動、話、論理の構造をさあっと透けて見させる解毒剤、を探すこと。

そろそろ梅雨あけたかな?


4日

ガソリンスタンドでいつも丁寧に応対されて、
もっと楽にやってくださいよ、
と思うこともあります。
「我慢してでも笑顔」なんて迷信だと僕は思います。
そういうことを嫌いな人にまで強要する価値観が、
ガソリンスタンドだけじゃなく、仕事絶対主義の多くの会社や個人に幅をきかせていますね。
ちょっと、対抗したくなります。

じゃ、遊んでよし。


5日

テープはここしばらく車の中で漫然と聴いていただけでしたが、この間、耳を奪われるような衝撃が初めて起こりました。1曲目の歌曲です。プーランクでしたっけ。
ある音楽を聴いて「凄い」と感じるのは「こんなのきいたことないぞ、こんなの初めてだ、なににも似てないぞ」という瞬間です。そもそもクラシックって僕は聴いているうちに退屈してしまうことが多いんですが、それは「いかにもクラシックであること」に疲れてしまう、ということなんじゃないかと推測しています。
ではその僕がなぜこの曲に惹かれたのかを考えると、その日はちょっとわけがあってむしろポップミュージックの方に飽きがきて、新鮮なサウンドに飢えていた耳にテープから流れてきたこの曲がぐいぐい入り込んできたわけです。
疑問1 クラシックこそ音楽で長年クラシックにばかり親しんでいるという人にとって「これは凄い」という新鮮な感動ははどんな時に訪れるのでしょうか。
疑問2 クラシックは新しいものって原則的に出ませんよね。すると流行が起こるのはなにがきっかけなのでしょう。そしていわばカルトな流行がなぜ今スクリャービンやプーランクに起こっているのでしょうか。

じゃ、遊んでよし。


6日

今回のサリン事件に関して僕は、オウム真理教の犯行が立証されたとしても、彼らの言い分はできるだけ聞いてみたいです。
僕は残念ながら普段自分と話が通じる人と通じない人とを内心で分けてつきあっています。だから、サリンテロを行うような人間は自分とは違う異常者として切り捨ててしまいたい気持ちが少しあります。また、もし僕が報道されているような残虐なやり方で命や自由を踏みにじられたら、相手を憎んでも憎みきれないでしょう。
しかしそれでも僕は、テレビなどで言われるオウム非難の多数意見には、なぜかずっと共感してきませんでした。正確には、事件が僕の周囲で話題になった時に、オウム真理教を100パーセントおとしめる意見を僕は一度も言わなかったということです。これは、議論のための仮想の立場ではなく本心です。
オウムの存在を全面的に否定することを避けたいこの気持ちは、いったいどこから来るのでしょうか。
思いつくままにあげてみると、オウムの武装がとんでもないとは言っても国の軍隊の批判はしない人が多いこと、オウム真理教へのお布施が詐欺だとは言ってもお寺のお布施は詐欺だと言わない人が多いこと、まずは、そういう考え方が公平さを欠いていると感じたからだと思います。また、自分たちと行動や感覚が違う人間を、同じ人間と見ないような風潮、そして、それを一掃することで安定を保とうとする風潮が不快だったからでしょう。さらには、人はいつもスムーズに生きて行くわけではありません、何度も迷ったり、ねじくれたり、説明のつかない行いをしてしまったり、そんなことの繰り返しです。オウム非難をする人がそのことを忘れているように感じたことも関係あります。
こういった、オウム真理教全体の一方的な非難に、僕は今も同調したくないです。
少し話を発展させて問いかけます。オウム真理教の信者がサリンテロを行ったことがはっきりした場合に「彼らを死刑にしてオウム真理教を完全に消滅させよ。そうしないのはおかしい」といった声が起こると想像します。そういう声は、今述べたオウム真理教全体を一方的に非難するところから出て来るのだと思います。それに対して僕は「オウム真理教を、サリン事件を見極める努力は、彼らの言い分を粘り強く聞くことから始まる」と言う立場を選びます。

じゃ、遊んでよし。


7日

ネット化傾向にある生活

外に出なくなる
電話代が嵩む
痔になる(人もいた)

じゃ、遊んでよし。


8日

イランの映画はタイトルがアラビア語(当たり前)
「そして人生はつづく」という映画をNHK衛星でさっき見ました。かの蓮実重彦センセーが絶賛していたイランの作品です。
期待どおり、いい映画でした。
地震で破壊されたいなか町へ、子連れの男が一人、ぼろい車を走らせながら、山道をたどって知人の消息を確かめにいく道中記です。出会いとエピソードのとりとめなさ、いきあたりばったりのルートなど、これは実に人生そのもの。ちょっと長いラストシーンがこれまたいい。 (こんなこと書いても、見た人がいなかったら、むなしい。)
いわゆるロードムービーの範疇に入るようですが、たとえばベンダースの「都会のアリス」「パリ、テキサス」ほど重苦しくなく、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」ほどの脱力感、喪失感もなく、パトリス・ルコント(髪結いの亭主の監督)の第一作「タンデム」(知ってますか?これも超おすすめ)ほど悲痛でもないんです。でも、全編、胸にしみいります。
いわばより普遍的な感動がきたのかもしれませんね。
4日も夜9時半からNHK衛星で同じ監督の続編と言われる映画が放送されるそうです。ロードムービーが好きだったり蓮実センセーにどこまでもついていこうと堅く決意したりしている人は、ぜひ見ましょう。

じゃ、遊んでよし。


9日

アッバス・キアロスタミ監督のイラン映画「友だちのうちはどこ?」(1987年)をメトロ劇場で見てきました。
名も知らぬ土地の取るに足らない出来事に、世界と人生の本質が宿る。いい映画とはそういうものだ。
・・な〜んちゃって。
超満員だったのと眠気を覚ますためとで、半分立ちながらの鑑賞でした。
同じ監督の「オリーブの林をぬけて」(1994年)との二本立てです。上映グループ「みにキネマ福井」の主催。
明日「オリーブ・・」を見るつもりです。
以前この会議室に同じ監督の「そして人生は続く」について書きましたが、それを合わせた3作は、一連の映画といっていいようです。
胸にわいてくるのは、同質のものでした。

じゃ、遊んでよし。


10日

さて3作目の「オリーブの林をぬけて」は期待に期待を重ねてメトロを訪れたのですが、あまりの眠さに・・・・・。
なんと、映画をめぐる映画なのです、これが、実に。(僕が好きな名作中の名作って、しばしば映画をめぐる映画であることが多いです。)
ストーリーを追えないほどではなかったのですが、ストーリーよりも、人々の息づかいのようなものこそ宝石であるような映画なので、眠くてはやはりだめでした。
映画の最終日に見逃したシーンには、もう二度と出会えないのですね。まるで、人と死に別れたようなものだ。いや、人とのふれあいは始まりや終わりが決まってない分、部分的なつき合いしかないとしても、それが必ずしも本質を欠いたとはいえない。でも、映画は1時間なり、2時間なりのすべての瞬間をしっかりとらえないと、それは本質にいたらない恐れがある。ように僕は思う。
そういう意味で、かえすがえすも残念だ。
しようがないので、ビデオを見直すことにする。でも、あのラストシーンは絶対ビデオでは再現が難しい(見た人はわかりますね)。
う〜ん。

え、まだエアコン買ってないのお?


11日

著作権について僕は違う観点で考えています。
僕のホームページからデータを誰かが無断でコピーして持っていくことは大いにありうるし、それ自体を僕は不快には思いません。
また、そのデータがパロディ化されたり批判的に使われたら、むしろ興味がわきます。そのパロディや批判が面白かったり当たっていたら拍手を送るし、おかしいと思えば「違うよ」とメールするかもしれません。でもデータがコピー、加工されたこと自体を非難するつもりはありません。
では、そのデータがたとえば印刷されて金儲けに使われた場合はどうか。これはあまりあり得ないことなので仮の話になりますが、その時は「僕がその価値を生み出したのだから、少し分け前をくれ」と言うし、事と次第によっては法的に争うかもしれません。しかしその場合も、単に金を受け取る立場であることを主張したいのであって、別に自分のデータがけがされたとか、自分の気持ちが傷ついたとかは思わないでしょう。
あなたはどうですか。自分の作った画像を本当にコピーされたくないですか?
以上は、いわゆる「著作権侵害」を自分が受けた場合の気持ちを述べたわけですが、一般論としても一つだけ言います。
電子ネット上のデジタルデータは少なくとも電子ネット上に限ってはコピーフリーを原則とするほうが、実状にあっているのではないか。その上で著作権の扱いを検討すればいいのです。たとえば粉川哲夫さんのホームページ(http://anarchy.k2.tku.ac.jp/)には"Anti-copyright: No rights reserved. "と記されています。
そういうわけで、単にコピーを禁じることが著作者や著作物を尊重することであるとは僕は思いません。 「著作権というものがあるんだぞ」「法律はこうなっているんだぞ」という知識や常識を頭から信じるのではなく、実際の事例に対し私はこう思うというような議論が大事だと思います。
そこで、事例をひとつ出しましょう。先日僕は福井県武生市が制作したページから画像などを無断でコピーし、それをパロディ化したデータを自分のページに載せました。ま、くだらないしゃれの表現ですが、それはおくとして。アドレスは"http://www2.ganseki.or.jp/~junky/nitijou/shikibu/shikibu.html"です。元のページもリンクで見ることが出来ます。あなたはこれを著作権侵害という点でどう思うか、ぜひ聞かせて下さい。

じゃ、遊んでよし。


12日

たまには休むか。

いいよ遊んで。


13日

行政のベテラン組織が手塩にかけて育ててきた都市博計画を、いわば素人知事の青島さん一人が思い切りよくけっ飛ばしてしまったことに、胸のすく思いがした。仮に都市博について国民投票があれば中止に丸をつけるだろうが、そういうのとは別の次元で、僕は青島さんが好きだ。
このフォーラムでの都市博中止決定に対する発言のいくつかも、「長年の秩序を素人考えで覆すことへの好悪」が賛否を支えているように見えて、興味深い。
政治や政治家を直感的な好き嫌いでその都度判断することは、僕は正常なことだと思うのだ。
都市博はやるべきか、やめるべきか。東京都だけでなく国の将来を大きく左右する選択だ。行政の経験もなく学識の心得もない素人は伊達や酔狂で口出ししてはいけないのか。そうではないと思う。個人個人が自分の持つ知恵や経験を総動員してとりあえず精いっぱい考えた結果こそ、好きとか嫌いとかの言葉になって結晶する。そういう判断の積み重ねで時代を泳いで行くしかないではないか。
その観点で見れば、青島さんも今回いわば直感的な好悪に従ったのかもしれない。現都政を許せるか許せないか、都知事選に出ようかどうしようか、都市博をやろうかやめようか、迷いながら答えを選ばねばならなかった時、経験者の常識も聞いて、知識人の論理も聞いて、まちの人の声も聞いて、そのうえで青島さんは、自分の素人としての直感を大事にしたのだと思う。
都市博の中止は、列島の政権が敷いてきた常識のレールから大きく外れることを意味する。その結果いわゆる経済的繁栄にブレーキがかるのは予想できる。そのことに無責任という言葉を当てはめる人がいる。しかし、それなら僕は「無責任な素人知事・青島幸男が好きだ」と言う。

じゃ、遊んでよし。


14日

小山田圭吾って知ってますか。コーネリアスという名のユニットで活躍するミュージシャンです。最近インターネットの大学生ページでしばしば最大級の褒め方をされています。年甲斐もなく若者が気になる僕はつい「69/96」というCDまで借りてみましたが、画像を見たのは今日初めてです。
合羽みたいなものを着て登場しました。近頃は福井でもああいう格好の若い人が多いようで、渋谷系(?)の教祖のように言われてる小山田圭吾ならではのファッションなんでしょう。
で、実はその胸にたくさんバッチがついていたもので、僕たちの仲間でそういうバッチをたくさんつけているある人物を必然的に思い浮かべました。もちろん、小山田圭吾のは分煙バッチではないでしょうけど。
そして何を思ったかというと、福井の若い人が合羽のような服を好むのは、つまり、ああいう東京とか渋谷とかそれについての雑誌とかの流れを忠実にくんでいるのだなあ、ということです。そして、分煙のバッチをつけファッションも言ってみれば独特のかの人物は、そういう流れをくんで服を選んではいないなあ、とつくづく思ったわけです。
若者よ、独創的であれ!
若者よ、観念をこそまとえ!
コーネリアスの音楽についてはまたいずれ。

じゃ、遊んでよし。


15日

哲学に宿る答え、
表現に宿る問い、
どちらも僕は求めたい。

深く深く掘り下げた哲学の洞窟から、
強く強く表現のロケットが飛び立つ。

じゃ、遊んでよし。


















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