連載
旅の話、聞きたいって?


第4回 旅行記から遠く離れて#1

冬の旅(96年12月〜97年4月)は読書ばかりしていた気がするので、どんな本を読んだのか、日記をめくりながら振り返ってみようかな。別にただそれだけなので、あまり期待しないように。

12月5日
東京に向かう夜行列車

あまり眠れず「江戸川乱歩集」(創元推理文庫)をひたすら読む。謎解きだけでなく悪魔的な空想、心理描写にぐいぐい引きつけられる。

12月7日
バンコク

宿のそばのレストランで深夜、石原壮一郎「大人養成講座」を読む。NHKソリトンのコメンテーターで出てきて目立たないのに、図抜けた洞察力とユーモアを感じて買った本。予想通りおかしく、深い。ひさうちみちおのイラストがまた良い。それにしてももう3時間も座っているがここのソファーは心地がよい。人生に本当に必要なものは長時間座っていても疲れないソファーかもしれない。

12月12日
バンコクからタイのピーピー島へ向かう途中

江戸川乱歩を読む。「陰獣」がおもしろい。

12月13日
ピーピー島

海水浴日和。ずっと砂浜と海の中でいかにも南国のリゾートらしい一日を過ごした。だいぶ焼けた。赤瀬川原平「外骨という人がいた」もだいぶよんだ。

12月14日
ピーピー島

昨日ほど天気が良くない。バンガローそばのビーチで一日ぶらぶら。泳ぐより本を読む。バンガローの椅子を木陰に置いて。村上春樹「回転木馬のデッドヒート」など。

12月15日
ピーピー島

これまでで最高の天気。マリンブルー、そして白い砂。内田百ケンの「居候匆々(そうそう)」を読み通したほか、柄谷行人の「探求1」も少し読む。

12月18日
ピーピー島

きょうは曇り空でもあり海には行かず。「量子力学の世界」(ブルーバックス)ちょっと頭に入り始める。量子力学の不確定性と、デリダのいう差延というか言葉の現前の不能性というかなんかそういうものが同時に指し示しているところのあるイメージは、ずっと気になっていたところだ。高橋源一郎「文学王(角川文庫の表紙を上に引用)も読んでいる。本当に面白い。ページが残り少なくなっていくのが恐ろしい。この人には本当に大きな影響を受けたと思う。やっぱり文章ってチャーミングでなくちゃだめだ、なんて、こうやってすらすらでてくるのもそうだ。持ってきた本はたいてい正解だった。それにしても百ケン、乱歩、外骨といえば日本の近代のヘンな鉄人が期せずしてそろったことになる。少しばかり読みにくいのに、現代のものより安心して読めて、なぜか僕の心を打つ。 一緒に近代の夜明けを歩いているかのようだ。
今ラジオニッポンで、ペルーのテロリストが日本大使公邸を銃撃し800人を人質にして立てこもったというニュースを伝えていた。南洋の孤島で国際ニュースを聞き自分の現在を思う。どこにいても僕は日本政府発行のパスポートに守られているのだから、日本政府の去就とかかわりを絶てはしない。そこになんと天皇制までからんでいる。こういう意識を欠いた世界認識はありえないと思う。しかし同時に、高橋源一郎の文学観、柄谷行人の「他者」という哲学、こういったものも、それとは別個にかつ確固として存在する世界認識のひとつだと思える。そう考えるとすごい。

* この後バンコク郊外のチョンブリという街へいったが、本は読んでいない。

12月23日
バンコク

ベティーブルー」映画を思い出しながら読んでいる。小説は、しかし、とても思弁的だ。やや理屈っぽいというか。映画のシーンがいくつも浮かんでくる。いい映画だったのだと改めて思う。

12月24日
バンコク

紀ノ国屋へ行ったら、蓮実重彦の「小説から遠く離れて」があった。それまでにカオサン(タイの安宿街)でその古本を見つけ「こんな難しい本、旅先でだれが読むか!」と思いつつ気になっていて、翌日また行ったら売れていて、そしたら逆にどうしてもほしくなっていた。紀ノ国屋だともちろん新品だが定価の2倍近くして、貧乏旅行の身にはあまりに高いが、本はなにより大事な貴重品だと言い聞かせ、万引きでもしてやろうかという悪い誘惑を振り切って買った。もう一冊「リプレイ」というSFも合わせて買った。紀ノ国屋の隣にあった日本食高級レストランで「お造り定食」や「カツ丼」を3回も食べられる値段だ。

12月25日
プノンペン

キャピトル(旅行者に有名なゲストハウス)のカフェである。5000リエル(50円くらい?)のコーヒー絶品。買ってすぐ読み始めた「小説から遠く離れて」がテーブルの上にある。僕の隣で情報ノート(旅人が書き残していくノート)を読む旅行者の脇には講談社教養文庫。さしずめ「カンボジアの歴史と現在」とかなんとかタイトルがついているのではあるまいか。ついさっきまで、一目見ただけのカンボジアについて猛烈に興味がわき、その手の本が是非ほしいと思っていたのだが。
小説から遠く離れて」は、どうやら、物語をなぞることとは違う存在としての小説を待ち望む論であるようだ。で、地球の歩き方、情報ノート、カンボジア解説本に従って順序よくカンボジアを歩くこと。そしてたとえば「小説から遠く離れて」なんかをわけもなく読みながら無軌道にカンボジアを歩いたりあるいは歩かなかったりすること。この二つの違いは、もしかしたら、物語としての旅、と小説としての旅、の違いとでもいえはしまいか?
以前あんなにとっつきにくかった蓮実重彦の文章が今回は何故か知らぬが今の所スイスイ読める。一筋の糸をきちんとたどるように読めるのは、たぶん、そのように書いてあるからだろう。けっして晦渋ではなくペダンチックとも思わない。無駄なく、それでいながら、柄谷行人と違って味わいというものがある、独特の文体。何だこいつと思っていた人物なのに、たぶん好きになったかもしれない。
小説が他の小説に似ることは必然であり、似ていてこそ小説だ。独創的であろうとして書かれた小説など退屈だ、というようなことを蓮実は言う。これって音楽に置き換えるとなんとなくわかる。
小説から遠く離れて」ぐんぐん読み進める。文章はきわめて正確だが、書かれていることは時に大きく矛盾しているように思えるのがやっかいだ。そういうパラドクシカルなことそのものを説こうとしているのかもしれぬ。う〜む、蓮実……。

* この辺まで読んで、いつになったら「旅の話」が始まるのか!?と思っている方へ。ずっとこんな調子なので、あきらめてください。

12月29日
プノンペン

小説から遠く離れて」この日の夜ついに読み終えた。この本は今後僕がものを考えたり、あるいはものを創造したり、特に小説なんか書こうかという場合は絶対に頭から離れない存在となるだろう。
小説とは交通=コミュニケーションの装置としてある。そのとき言葉は物語であることから抜け出して方向のない進行をする。……うまく要約できないが、なんか分かったような……。そういうことを文章ばかりか全体の構成、筋立てそのものが伝えているように思う。たぶんこの本がそのまま小説ではないにせよ、小説的であるとはこういうことなのだということを示した、というか、小説的であろうとして書きつづられたに違いない。小説とは小説的であろうとした文章と定義してもいいかもしれない。
物語ることからの離脱を試みるものとしての、コミュニケーション=交通の装置としての、小説。こういうコンセプトから僕は、旅がどれだけ旅の物語をなぞりつつ、旅の物語から割って出られるか、というようなことを考えたりした。
また、人の思考ということもまた、物語としてではなく、小説として、どうしたら予定調和的な制御を超えて真に思考そのものであるような瞬間に立ち会えるか、というようなことをしばしば思った。思考とは常に生き破れていくことが必要なのだ。「小説」と同じだ。
蓮実重彦の本をきちんと読んだのは初めてだが、この本はおよそものを考えること=つまり生きていくことのすべてに決定的な影を落とし続けるだろう。

12月31日
プノンペン

夜はキャピトルで高橋源一郎の「文学王」を読んだ。とてつもなく面白い。

1月1日
プノンペン

ペルーの日本大使公邸には正月用の日本食が運び込まれたらしいが、僕の朝飯はライスとオムレツのほか持ってきたふりかだった。今11時。べつに正月とは関係なくだらだらベッドに寝そべって本を読んでいる。江戸川乱歩集「化人幻戯」。きょうも空は青い。外は暑そうだ。

* このあとアンコールワットへ行っているが連日観光に忙しく、「アンコールの遺跡」というガイドブックを買ったこと以外、読書の記述なし。

* そのあとプノンペンに戻り、車でベトナムのホーチミンへ向かう。

1月11日
ホーチミン

僕はついに「リプレイ」を読み終えた。意外な展開がめまぐるしく、ロマンスもあり、現実に起こった世界的事件も重なり、また、自分以外はすべてプレーヤ(パフォーマー)にすぎないという発想がかたちになってもいて、そして何より重要なことは、こういうタイムトリップ体験が読んでいていつのまにかリアルに共感できたということ。

1月12日
ホーチミン

今、井上靖の小説「あすなろ物語」を読んでいる。なんというか、まるで教科書にあるようなというか、この時の主人公の気持ちを記せ、とか、これはどういうことの象徴なのか次の中から選べとか、そういう国語の問題が容易に作れそうな小説だ。こういう小説を僕らは正しい小説の原像として持っているのではないか。だから妙に安心して読めるし、まあ、読んでいて楽しい。しかしその原像の悪影響もまた大きいのかもしれない。(ちなみにこの本は同じ部屋をシェアしたS君と本を交換して手に入れたもの。)

1月14日
ホーチミン

あすなろ物語」を読み終えた。
午後シンカフェ(地元のツアー会社)の通りで本を買う。金子光晴の本「絶望の精神史」だ。高橋源一郎の「文学王」を読んで、この人の書いたものを読みたくなっていたところに、ちょうど古本が売っていたので手に取った。35000ドン(350円ほど) 。

* このあとメコンデルタのツアー中、連れが高熱を出したため、ちゃんとした治療を受けようとシンガポールへ飛んだ。ホーチミンからハノイさらに陸路で中国へ入る計画は変更となった。

1月21日
シンガポール

散歩に出て国立図書館やレコード店を回った。歩くたびに町並みの美しさに圧倒される。図書館では村上春樹の小説を探してたら「Hardboiled Wonderland and The End Of World」があった。ハードカバーで一角獣の頭骨がいくつか宙に浮いているマグリット風のイラストが表紙になっていた。それにしても英文の小説は米も英も日も一緒にアルファベットで並んでいる。
ホテルには湯、コーヒーなどを自由に飲んでくつろげる場所があり、何度もそこに腰をおろした。そして金子光晴「絶望の精神史」を読み通した。シンガポール滞在の話やヨーロッパ放浪の話もあって、今読むのにふさわしい魅力もあることがわかった。基本的に反戦の思想に貫かれているようでとても共感した。戦前戦中戦後の混乱や貧困についての説明を読むと、これまで見てきたベトナムやカンボジアの混沌が二重移しになり、僕の祖国ニッポンもかつてはああであったのだということをイメージすることも覚えた。そして何より、目的の定まらない、むしろ結果としての日本脱出、海外放浪のあり方が、計画が狂ってシンガポールの安宿であまり身動きもできず暗い気持ちで時間をつぶしている今の僕を少しだけ気楽なものにしてくれている。

「ギリシャで日本のグループツアーのおじさんたちがさして興味もなさそうな遺跡を回って通訳までつけてガイドを受けていたが無駄だ」とか「最近、韓国でユーレイルパスが売られるようになったせいかヨーロッパで比較的こぎれいなコリアン女性バックパッカーを見かけるようになった」という話を、その場所であった日本からの旅行者がしていた。
これを聞いて僕は旅というものがいかに自由から遠く束縛に近いものであるかを思った。人はしつらえられたようにしか旅できないのである。団体ツアーが型にはまっているように、貧乏旅行も類型化を免れてはいない。ルートもそうだし旅の評価も大抵は同じ価値観に基づいている。どう安くあげたかとか、どれだけ旅行者の少ない所にいたかとか、どれだけ他の人が知らない情報体験を得たかとか。同じ所に長く滞在することについても、それが良いことである、あるいは悪いことである、のどちらかしか観点がない。なんかもうこういうパターンに縛られている自分が嫌になってきた。どうしたら「旅の物語」の呪縛から逃れられるのだろう。あるいは僕らは絶対に他の誰かが旅したようにしか旅ができないのではあるまいか。他の誰かが考えたようにしか考えられないのと同じで。しかも他の誰かが旅した旅は、無数にあるようで実はそれはごくごく単純な類型化を免れなかったり、あるいは、ごく狭いやり方しか試みられていなかったり、のどちらかなのではないかと思ったりする。
そして、これと同じことを、今回ひたすら時間を投じている読書ということについても思う。人は誰かが書いた思考しか読むことを許されない。しかもその思考は、実はかなり類型化されたり、あるいはごく狭い領域からはずれない程度でしか存在していないのではないだろうか。
本はいびつに存在している。旅先で見つけられる数少ない日本語の古本だから偏りがあるのではない。そもそも人の思考、著書そのものに偏りがあるのだ。本は世界を説明しつくしてなどいるはずがない。本が説明した部分だけを僕が世界として認識しているにすぎない。
そしてまた旅の話に戻ってくるが、誰かが旅した旅だけが旅人にとっての全世界なのだ。そしてその旅の外部に意識や価値を見つけようとする力は、たいていの旅人には存在しない。こういうことをさらに思索しなにごとかを見極め、そして本当に「旅」に縛られない旅を実践することこそ、今の僕には興味深く、旅の目的ですらあるのではないかと思えてきた。旅はルートではなく、金銭でもなく、出会いでもなく、見聞でもなく、そういう予想しがちなものとは無縁の冒険でなければならないのだ。
以上結局のところ「小説から遠く離れて」が僕に引き起こした頭のごちゃごちゃの果てに、なんかそういう風に僕は考えるようになった。

* え〜ちょっと疲れた。続きは次回ということで。しかしいつだ?

#2(後編)もできた。読む?...え、読む!?







Junky
1997.4.16

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