小林よしのり「戦争論」を読んで これまで僕は「ゴーマニズム宣言」には大抵うなずいてきました。部落差別に関する考察では、「論壇」として扱われる人々の主張にはなかった説得力を、小林よしのりの言葉に初めて感じました。薬害エイズの問題で運動組織側ともめた時にも、「ゴーマニズム宣言」を読む限り、小林よしのりの肩を持ちたいと思いました。従軍慰安婦についても、「強制連行の証拠がない」という一点については、耳を傾ける余地があると感じています。
しかし今回の「戦争論」は、違和感、嫌悪感ばかりでした。とどのつまり彼は戦争をしたいのだと思いました。この点は共感したくありません。
戦争には罪だけでなく功もある。ロマンもあった。国と国の駆け引きとして戦争がある。そんなことは知っています。「それは違う」とは書きません。ただ僕は「戦争はしたくない」と書きます。「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?」と本の帯に問われれば、「もちろん日本人やめます」と答えます。(日本人やめる、とは意味があいまいなので、これは売り言葉に買い言葉ではありますが。)
でも僕は小林よしのりをバカ呼ばわりしようとは思いません。
それと関係あるかないか、ちょっと別の話。
「愛国心にはパトリオッティズムとナショナリズムの二つがあるんだよ。生まれた故郷に寄せる思いなんかはパトリオッティズムでさ、これは自然な感情だ。一方のナショナリズムの方は、近代国家の誕生以降に作られた感情なんだよ」とかなんとか、猪瀬直樹あたりが以前「朝まで生テレビ」で述べていました。でも僕は、この二分法が、あんなに偉そうに言うほどには、愛国心を考える決定的視点であるとは思えません。甲子園で出身地の高校を応援する気持ちはパトリオッティズムか。じゃワールドカップの応援はどっちだ。戦争だってどこまでがパトリオッティズムでどこまでがナショナリズムかなんてわからないじゃないか。
そこで僕なりの分類法。
自分が所属するものを誇りたい気持ち。それは生まれた土地、住んでいる国、通った学校、就いている仕事、自分を育てた父母、なんでもいいのですが、その気持ちを以下の二つに分けます。
1自分のものの方が他より上だと思いたい気持ち。
2自分のものの方が他より下だとは思いたくない気持ち。そして僕は1を非難し2を擁護する立場です。
日本には日本固有のクセがあり、アメリカにはアメリカ固有のクセがあり、アジア、欧米、そのほかどの地域、住人にも、それぞれ固有のクセがあって、それは、お互いちょっとづつ迷惑を掛け合う原因にはなるけれど、それのどっちが上とか下とかという認識は無意味で、それぞれいろんなクセがあって面白い!とお互いに感じていれば良いと思うわけです。
それなのに、国の制度から人々の風習や規律、個人の衣食住にいたるまで、時には「日本人は優れている」、時には「欧米に見習うべきだ」などといった決めつけの多いこと。
「日本人は他より優れた民族だ」と言われると「違う」と言いたいし、「日本人は他より劣った民族だ」と言われても「違う」と言いたい。「日本のサッカーが世界に通用するはずがない」と言われると「そうとも限らないだろう」と言いたいし、「日本の企業が世界のスタンダードたるべきだ」と言われると「そうとも限らないだろう」と言いたい。
かつて日本国が朝鮮国を併合し中国へ攻め入った時代、日本人の気持ちは、どちらかと言えば2ではなく1だったのでしょう。でも真珠湾を攻めた時は、もしかしたら1よりは2だったりして。(でも擁護したいのは真珠湾を攻めたと聞いた時の日本国民の気持ちであって、真珠湾に爆弾を落とす行為はイケナイ!)
そして、小林よしのりが「旧日本軍だけが特別悪かったわけではない」「日本国、日本人だけが戦争責任を果たしていないわけではない」といった主張をする時、それが1ではなく2の気持ちから出てきている部分があると感じます。だから僕は小林よしのりをバカ呼ばわりしようとは思わないのです。
さてしかし、こういう理屈はさておき、戦争はやはり悲惨ですね。戦争を擁護しようと出された「戦争論」は、戦時の日本の潔さに比較して今の日本の状態を爛れたように描いていますが、それでも戦争に行くのに比べたらこの社会はどれほどマシだろうかと僕には思わせました。
小林よしのりの「戦争論」、だいぶ前に読んでいたのです。ちょっと時期外れですが、徒然なるままに書きました。
その後、これについてメールのやりとりがありました。(1998.9.25)さらに、コソボ自治州のことに関連して、あなたに問いかけます。(1999.2.21)
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