佐伯祐三の贋作騒動の騒動(2)

*(1)の書き込みにレス(略)があり、
それに答えて書き込んだ私の文章を以下に。

 Aさんへ。
 佐伯祐三という人が本当に描いたと専門家が判定した絵画よりも、真贋論争に揺れてきた件の絵画の方に僕がマジで面白味を感じる(見てみたいということに近い)というのは本心です。
 Aさんはこういう変な面白味を不愉快に感じましたか。
 でも僕は、これこそ、美術とそれを取りまく社会を易しく丁寧に考えることの入り口になると思うのです。
 もっと言えば、美術という言葉で多くの人が想定する常識的枠組を「ニセっぽいから面白い」という視点が壊してしまうことも可能です。時としてそういう力をこそ美術と呼ぶ場合があると僕は認識しています。
 こんな趣旨を追求していくための展示ならば、メトロポリタンやルーブルでも及ばないある種の価値を持つ稀代の美術館になると、これもマジで思います。それは武生市の屈辱ではなく、むしろ起死回生大きなプラスの評価につながるとは考えられませんか。
 なお僕は遺族の感情には目を向けていませんでした。そこは礼儀をかいた提案でした。
 しかしもう少し議論をして下さるなら、Aさんの言う「美術館というものの価値」を考えませんか。

 上のことに加えてBさんへ。
 佐伯祐三さんが自分のことを偉い画家だと思っていなかったかどうか。僕は知りませんが、どっちでもいいのです。なぜなら、仮に佐伯さんが自分を偉い画家として祭り上げられようと実は強く意識していたとか、生活のためだけに絵を描いたりしたとかが判明した場合に、贋作など唾棄すべきだという人にとっては、佐伯さんの本物の絵画もそれがもとで価値がちょっと下がるのかもしれませんが、 ニセっぽいものの方が面白いという僕にとって、 そのほうが余計に面白くなったりするのです。画家の高潔さとか神秘性というイメージや折り紙付きの本物作品というようなイメージを疑うことの方が僕は好きなのです。
 絵にこだわりをもってらっしゃると思われるBさん。最近でも昔でもすごく面白いと思ったアーティストとか作品にはどういうものがありますか。僕は詳しい知識がないのですが、今回のことに関連して言えば、ルネ・マグリットがパイプのデッサンに「これはパイプではない」との文字をいれた絵とか、やはりアンディー・ウオーホルの作品なんかを思い浮かべます。

*さらにレス(略)があって、それに対する私の書き込み。

 議論がはっきりしてきました。
 >武生市が佐伯作品を寄贈されるにあたってその過程と結末に非があるのなら、それを追究し真実を公開することは大事なことでしょう。でも、それと贋作を美術館に展示することの意味性には関連がないと思います。
 僕もことさら関連はないと思います。武生市に今度の件で行政のあり方を正そうとする市民の動きがあるようですが、それは僕の提案の中ではおまけの部分でした。
 それよりも、ニセかどうかはっきりしない絵画を本物であった場合と同様格式高く展示し、見に来た人もちょっと首をかしげたり、ほほおとためいきを突いたりしながらまるで本物のように鑑賞する、そういう行為が実際に起こったとしたらすごく面白いと思うのです。繰り返しますが、それこそ美術の本質を考える一歩になるし、それどころか、その行為自体が優れて美術的なのではないでしょうか。
 しかしBさんがご指摘の通り「美術の本質」という呪文のような言葉をさもわかった風に僕が繰り返しても、話は進みません。そこでこういう問いをかけます。
 問い1 ピカソの「ゲルニカ」がどういう作品であるかを僕は一応知っています。しかし現物の絵を直接見たことはありません。こういう僕は「ゲルニカ」を正しく鑑賞したといえるでしょうか。
 問い2 その僕が「ゲルニカ」のきわめて精巧な贋作を直接見た場合はどうでしょう。「ゲルニカ」を正しく鑑賞したといえるでしょうか。
 問い3 その僕が「ゲルニカ」の本物を直接見た場合はどうでしょう。「ゲルニカ」を正しく鑑賞したといえるでしょうか。
 




 正解は、




 あるのかどうか知りません。実はこういう問いかけこそが今の僕にとっての「美術の本質」なのです。そういう問いを総合的に投げかける美術館を提案したいのです。

*調子に乗ってまだ続いた私の書き込み

 僕が画集などでしか見たことのないピカソについての話を続けます。
 Bさんはピカソの絵を一番最初に見たときの反応はどうだったか覚えていますか。  僕は、素晴らしいとか感動に打ち震えるとかいうものではなく「なんだこのへんな絵は」ということだったと思います。
 その後、ピカソについてピカソの周辺についてそして美術というものについていろいろ聞きました。いろいろ知りました。そしていろいろ考えました。その結果ピカソの絵というゲイジュツを理解したか、あるいは理解したという思いこみが生まれたのだと思っています。だから今でも「ピカソ?ああ、あのへんな絵ね、ぜんぜん好きじゃない」という本心は変わりません。
 もしも「なぜピカソは素晴らしいの?」と子供に聞かれたらBさんはなんと答えますか?僕は「それはピカソだからだよ」と答えるしかありません。本当にそうなんです。ピカソが凄いのは、かのピカソだからです。ピカソは偉いという美術の歴史があるからです。
 Bさんの意見は「佐伯祐三の贋作騒ぎあるいはそれを巡る僕の論が、素朴で純粋な美術との関わりとは別物である」というようことでしょうか。だとしたらそれは無意味です。「ゲルニカ」にしたってなんの絵にしたって、素朴で純粋な美術との関わりなんてありえないからです。「ゲルニカ」をはじめとする由緒あるゲイジュツ作品なら絶対的な感動を無条件で万人に与える、というようなことを僕は信じません。
 僕たちがピカソの絵をなにげなく眺めてため息をつく行為も、それが畳ではなく絵画であり、畑でとれたのではなくスペインに住んでいたピカソという馬ではない人間が、筆と絵の具というものを使って、壁を塗ったりするのとはちょっと違う目的で作り上げたものである、などなど、たくさんの共通認識を持っていて初めて成り立つ、かなり特別なことだと思うのです。
 立派なゲイジュツだということになっている「ゲルニカ」も、実は、絵というもののありよう、美術というもののありようを、無意識ではあってもたくさん学習してようやくそういう認識にたどり着くのです。

 犬や猿は贋作騒ぎを面白いとは思わないでしょう。同時に犬や猿は「ゲルニカ」にも感動しません。

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Junky
1995

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