返信ありがとうございます。忘れられたのかと思ってましたので
私の名前があるのを見てびっくりしています。
個人間の問題解決が即、民族間(場)の問題解決には繋がらない、
ということでしょうか?大変参考になりました。
「あなたと私がなかよくする」だけじゃダメなのですね。>「社会的弱者は正論が言えるから強い」
というくだりは、わたくしのweb日記の中にある文のことを(見てくれて
ありがとう!)指しているのでしょう。おっしゃるとおりわたくしは
問題のレベルをすり替える人なのかもしれません。面倒なのはいやなのです。
面倒だからすりかえる。以前ここで「何か投稿します」と打ち込んでおきながら
何も投稿しなかったのは、面倒になったからなのです。今後は傍聴するだけに
とどめましょう。そのほうが皆さんに失礼なことをしなくて済みそうです。
>私はなんの関心も持てません
ということなので特筆する意見はありませんが最後に、
朝鮮籍の弁護士が増えることを祈っています。
公務員試験や国会議員資格の改定を求める運動を応援します。
「場」の諸問題を解決するためにも!
先ほど、殷蘭さんのHPみました。間が空きましたが、返信しておきましょう。殷蘭さん:
〈ゆえに、あの場合(7月19日殷蘭発言)はどちらかというと
松野さんより匿名さん寄りの発言にしました。確信犯です。
本当はとくめいさんの投稿があった時点で
(松野さん7月24日の投稿による)
>「差別などない」とでもいうかのような「日本人」と「朝鮮人」を
>等置するニュアンスのことが書かれていながら“朝鮮人”という
>匿名化され得ない単語が出てくることの中にこそ差別があります
という反応を期待していたのです。〉「確信犯」をやったり「あれは確信犯だった」をやりながら、私の意見を貴方の
結論に用いるのはなにも言ってないことに等しいですし、「失礼」なことでしょう。
貴方のお考えを「ここ」に書かれてはいかがですか。殷蘭さん:
〈私はいまだに”とくめいさん”の第二段発言があればいいなと思っています。
なぜならばあの二人の会話から見て取れる”話は平行線→やがて仲違い”
の状況は、日本人と在日の抱える問題とあながち違ってはいないのでは?
という感があるからです。解決の糸口が見えない話には逃げ腰に
なったり、開き直ったりする人間についての話です。
それでどうしたらよいのだろう?とか、あの二人はどうしたら
パッピーエンドになれるだろうか?という所まで話を持っていって
くれれば嬉しいのですけど。〉それは貴方が考えたり、話を持っていったらいいのでしょう。「貴方がそれをやって
みたら」というのが、私から貴方への意見。話を結婚問題、恋愛問題に限定すれば、カップルの日本人側(家族も含めて)が朝鮮、
韓国文化を尊重できるかどうかということになるでしょう、というのが私の意見。「日本人と在日の抱える問題」が「ハッピーエンド」になるには様々な難問がありま
すが、その「問題」をユング派の分析家であったアーノルド・ミンデルが創出した
「プロセス指向心理学」(略称、「POP」)の視点から捉えて「世界に偏在する不
平等の問題」にまで延長して考えてみた場合、そこにはどんな「問題」があり、具体
的な方法論としてどういうものがあるかについて紹介しておくことで、返答としまし
ょう。POPでは、身体症状や病には意味や目的が内在化されているという考えがとられて
います。ところでPOPでは、社会・世界の「場」に偏在する諸問題(民族差別、環
境問題、性差別、戦争等)に対する取り組みとして「ワールドワーク」ということが
行われています。簡単に言っておけば、それは「主流派」と「非主流派」が直接対話
できる「場」です。「ワールド・ワーク」のような「グループ・ワーク」では、「場」
に浮上してきた問題を、参加者の多くが身体症状や病に対するのと同じように扱う傾
向があると言われています。個人が多くの場合、症状や病気を排除しようとするのと
同様に、諸問題を無視したり排除しようとするわけです。なぜ「ワールド・ワーク」という取り組みが行われるようになったか、簡略に説明し
ておきましょう。個人心理療法のみを行う伝統的なユング派の分析家であったミンデルは、個人の症状
が解消されても、今度はその症状が家族の他のメンバーから顕れるという現象を観察
し、それを機に、ある場合には個人を超えた「場」全体により直接的に関わる必要を
感じ、家族療法を試みることになりました。個々人の症状が解消されても、「家族という場」それ自体を考慮に入れない限り、病
は「場」の中で、一個人から他のメンバーへ移行するだけということがあり得るので
はないかと、ミンデルは考えたのです。個人療法によって一見問題が解消されたよう
に思えても、セラピーを終えて従来の「関係性」や「場」の中に戻ると、問題や症状
が再浮上することが、よく起こるということでもあります。さらに、この「場」は、人間関係や家族に限定することなく、地域や社会、世界にま
でその射程が広げられています。地域、社会、という「場」の観点なしに、ある家族
と取り組みなんらかの成果が上げられたとしても、地域全体からすると、その家族の
テーマが他の家族に移動しただけということも論理必然的に考えられるためです。マジョリティとマイノリティの問題は、まさに「関係性」(さらには「関係性の断絶」)
の問題であり、「場」の問題です。それは「家族内の関係性」「家族という場」以上
に「固定化された関係性」の「場」になりますから、より困難な問題がそこに生じて
いると言えます。問題を矮小化するべきではなく、ありがちな「社会的弱者は正論が言えるから強い」
などという問題のレベルをすり替える人、問題の所在がみえない人の「上っ面の意見
のようなもの」に私はなんの関心も持てませんが、なにか意見があったら、どうぞ。
Junkyさん:
>そのほか、その前に書いた<「差別(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるよう
>ですが)の実態や構造が明らかになること、それを明かにすること、それこそが私の
>本意です。>という部分が、いかにも高潔そうで、ちょっと照れもあって<というこ
>とにしておきたい>と書いたというのもありましょう。Junkyさん「議論現実主義者より」での書き込み:
>日本が差別されたら、私は日本人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみます。
>アジアが差別されたら、私はアジア人として怒ります。コスモポリタンとして悲しみ
>ます。では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どうい
>う立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味
>深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。だけどJunkyさんは私に対して言うときは〈ということにしておきたい〉はけしてつけ
ないと思います。建前としてつけないということではなく、本心としてつけないでしょ
うし、照れも感じないと思うのです。だから私は「Re:議論現実主義者より」で《賢明
なご意見だと思いますが、むしろ文末の〈気はしています。〉のほうが、本心なのだろ
うと思います。》と書きましたが、これについては、早計だったと思っています。しかし同じ日本人である東北の現実主義者さんに言うときは、それをつけないと「照れ」
があるとか、おさまりがつかないということがあるのならば、まさにそれは上の「議論
現実主義者より」から引用した部分の問題をなのであるとも言えてくるように思います。
Junkyさんの感じる「照れ」や差別を指摘する行為や人に感じる俗なものと、Junkyさんの
私に対する真摯な姿勢のギャップがなにを意味するかということ、私にとって大きな関心
事です。Junkyさんの考えを聞かせてもらえたら、嬉しく思います。Junkyさん「議論現実主義者より」での書き込み:
>では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒り、どういう立場
>で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはなかなか興味深い問
>題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。Junkyさんのこの問いは真摯な姿勢からくる内容を含んでいて、それは差別を指摘する
人や行為に俗なものを感じることがあるという問題認識と、無関係ではないのだと今は
思っています。今後は「差別を指摘する人や行為が陥りがちな俗」とはどういうものか、
そうならないためにはどうすればよいのか、という方向で話が進められれば、と思って
います。
「差別を指摘する人や行為が陥りがちな俗」には、ひとつには「物語に回収する」とい
うことがあるのでしょう。必然的にそれは「物語」の外部にいる他者との間に通路をつ
けていく作業によってしか、乗り越えられないのだと私は考えています。おそらくそれ
はマジョリティの物語、マジョリティ的身体を解体することと同義になるでしょう。そ
れを放棄してしまったら、私にしても差別者ということになります。
(岡真理著「記憶/物語」(岩波書店)は、この問題を考える上で比類のないごまかさ
ない考察がされています)。Junkyさん「俗に非ずの志向性、に答えて」での書き込み:
>俗に非ずが反動を形成するのはよくないと思います。一方で、反動を形成しないかぎり
>俗であっていいという価値観もよくないと思います。差別を指摘する行為や人に、私は
>たまにそういう価値観を感じるのです。ここをもう少し言ってもらえればと思います。
Junkyさん:
>「興味深い」は、「考える対象として新しい枠組みが明らかになってきたこと」を形
>容しましたが、たしかに「モノ化」されている感じを与えます。この表現に「切実で
>深刻な問題ではないという印象」「よそ事、ひと事のような印象」を感じたというこ
>とだと、理解しました。書き方がまずかったのですが、ですから正確には〈興味深い〉という表現がされた箇所
そのものに「いいしれない違和感を感じた」ということではないし、その部分だけをも
って「モノ化サレテイル」と感じたわけではないということ、言っておこうと思います。在日コリアン差別は切実で深刻な問題です。たとえばそれは正確な数字はわかりません
が、在日の大多数が通名(日本名)で暮らしているという現実ひとつをとってみても、
深刻な問題であると言えます。しかしこれを切実で深刻な日本問題ということもできま
す。仮に(SF的に)在日と日本人を入れ替えてみても同じことになるに違いありませ
んから。丹生谷貴志が「天皇と倒錯」(青土社)という本で、『天皇の存在が日本における「文
学の不在」に決定的に加担している』として、ルネ・ジラールの言う「第三項排除」と
の違いについて述べつつ、中上健次の「路地の者」という「外部」に言及しながら、こ
んなことを言ってます。『「天皇」は「外部」ではなく、「天皇」そのものがまさに「外部」に触れることの禁
忌の中にあり、言わばこの国の国人は「天皇」を「外部」に触れさせまいがためにこの
国から「外部」の気配を、始めは意識的に、ついには知らず知らずのうちに、消し去ろ
うと、営んで来たのである。』つまりはそういうことなのだと丹生谷の文章を読みながら思ったのですが、とくに「つ
いには知らず知らずのうちに」以下のくだりが印象的で、おそらくそれは具体的に言え
ば、日本敗戦後、アメリカが日本の共産主義化を怖れ、あるいはそれ以上にアメリカに
とっての利用価値として象徴天皇制という形で残したがために「この国の国人」は「外
部」を「ついには知らず知らずのうちに、消し去ろうと、営んできた」のであるとも言
えるのでしょう。それらの結果として「第三項排除」というよりも「第三項消去」が推
し進められてきたとも言えるでしょうか。中心が空虚な無根拠を根拠としてしまえる天皇制というシステムが、政治的かつ宗教的
な支配に利用される道具であるのと同時に、あるいはそれ以上に、だからこそそれは
「決定的に欺瞞的な文学」であり、その「文学」の内実が「虚」であることによって
「権力装置」足り得ているのであるならば、日本の隅々にまで広く行き渡ったマスコミ
による「あからさまな暗黙の号令」が、天皇家に対する過剰な敬語表現と、記号化され
た表面的な差別反対コールに引き裂かれた、両者が呼応する形の上滑りな「通俗」の流
通再生産となるのは必定で、日本人から「リアル」を収奪し、「リアル」を消去するこ
とが自己目的化された「知らず知らずの日本人」を維持し、さらには「透明な存在とし
て自分を感じる若者」を産み出すことにも貢献することにもなってきたのであるとも、
言えるのかもしれません。そんなふうに考えるとJunkyさんの考えとどこかでリンクして
くるようにも思えます。
Junkyさん、こんばんは。長文になりました。Junkyさん:
>さらにいろいろ書いたり話したりすることで、誤解であれば徐々に消えるでしょうし、
>私の正体であれば徐々に露わになるでしょう。いずれにしても、この問題に関してこ
>の機会に一歩でも二歩でも認識を新たにしたいと願っています。もう少しおつきあい
>ください。そう言ってもらえると気持ちが楽になります。さすがに東京永久観光でこの話題を続け
るのは、気が引けるところがありました。掲示板の運営者でもあり管理者でもあるJunkyさんの立場は理解しているつもりなのです
が、それを言い出すときりがなくなりますし、齟齬も生じると思いますので、率直に書
いていこうと思っています。Junkyさん:
>ただし、そういう議論が成り立つためには、最低限の礼儀や知識をわきまえる必要が
>あります。私はそういうわきまえはあるつもりでした。が、ちょっと心配になってき
>ました。相容れない意見、相容れない語り方というものが、それは差別を容認したり
>助長したりする意見や語り方ではないと信じたいのですが、絶対そうとも言い切れな
>いようで心配になってきたのです。言われてることの意味が掴みにくいのですが、思うところを書きます。
掲示板上での語り方の問題というのを除外した上での、語り方の問題というのはたしか
にあって、それはあからさまに言ってしまえば、事実として日本語のうまいJunkyさんが
曖昧な日本語の特性を利用して(生かして)、日本的な「和をもって尊しとする」かの
ようなコミュニケーションを第一義とした場合には、必ず在日コリアンを、利用する、
使用する、モノ化する、というニュアンスが浮き彫りになるということではないでしょ
うか。Junkyさんとこれまで話を続けてきて、「掲示板管理者」としての含意を込めた書き方で
あることをそれなりに理解するのと同時に、なにか私は「このあたりで妥協しくれ、在
日コリアンの松野さん」と「日本の管理者」から言われているかのようにも感じること
がありました。しかし「賢明な日本的表現に長けた管理者」でもあり、思慮深い書き手
のJunkyさんでもあることによって、権力関係のその構造から析出されるそれが、多少な
りとも明瞭な形をとったということであるのならば、それはひとつの収穫であったと考
えることができるかもしれません。
洋生さんへ。
貴方の正直な言葉は、けっして醜くはみえていませんよ。
もう、この時期って、
残暑なのでしょうね。
Junkyさん。暑中見舞い申し上げます。ここの掲示板の大人っぽさは、きっと
Junkyさんの人柄なのでしょうね。
静かで激しい。クールで暖かい。僕は、ちょっと、最近、うちひしがれています。
自分の醜さを、自覚しているはずの醜さを、
改めて指摘されることが、これほどつらいとは。
すいません。愚痴です。
また、きます。
松野さんとのやりとりで、自分の考えの浅さや誤りに気づかされることが多いですが、
それだけでなく、私の文章の性格も浮上します。それが下のような部分です。松野さん
<しかし文末の〈ということにしておきたい。〉は、どうにでも読めてしまいます。
つまりどうにでも読めるように書いてるのでしょうけど、これ重要な問題を孕んでき
ます。>たしかに白とも黒とも取れる書き方でした。こういう書き方になるのは、一つには、
誰からも拒否されない八方美人を願う気持ちが私にあるせいでしょう。八方美人が絶
対悪とも思いませんが、今回の議論はそうならないほうが意義がありますから、改め
ます。また、なにか断定すれば当然反論されるわけですが、議論を求めつつどこかで
議論を避けたい気持ちが私にあるのでしょう。それも今の場合は良くないことですか
ら、なるべく改めます。そのほか、その前に書いた<「差別(と、そこにはどうも戦争責任が絡んでくるよう
ですが)の実態や構造が明らかになること、それを明かにすること、それこそが私の
本意です。>という部分が、いかにも高潔そうで、ちょっと照れもあって<というこ
とにしておきたい>と書いたというのもありましょう。さらにもう一つ大事な点。
上の部分だけでなく、<東北の現実主義者さんへ>として書いた文章全体が、この問
題(在日コリアンが被ってきた、また、被っている差別問題)に対して、私なりのバ
ランスを取ろうとした結果かもしれません。松野さんの意見、松野さんの語り方を支
持する一方で、それと相容れない部分も自分の中にあって、そういう気持ちへのバラ
ンスということです。松野さんが<ところでJunkyさんの文章のトーンが変質したと感
じます。これはなにを意味しますか?>と尋ねていますが、それに対する答えでもあ
ります。私がここでいろいろ読み書きしている動機は、この問題の当事者である松野さんと、
共通する部分よりも、むしろ共通しない部分を見極めたいということだと思います。
だから実は自分の中でも違和感のある自分の意見をあえて出しているということがあ
るかもしれません。ただし、そういう議論が成り立つためには、最低限の礼儀や知識をわきまえる必要が
あります。私はそういうわきまえはあるつもりでした。が、ちょっと心配になってき
ました。相容れない意見、相容れない語り方というものが、それは差別を容認したり
助長したりする意見や語り方ではないと信じたいのですが、絶対そうとも言い切れな
いようで心配になってきたのです。さらにいろいろ書いたり話したりすることで、誤解であれば徐々に消えるでしょうし、
私の正体であれば徐々に露わになるでしょう。いずれにしても、この問題に関してこ
の機会に一歩でも二歩でも認識を新たにしたいと願っています。もう少しおつきあい
ください。松野さん
< Junkyさん:〈では、在日コリアンが差別されているのを、私はどういう立場で怒
り、どういう立場で悲しむのか。あるいは、どういう立場で傍観するのか。これはな
かなか興味深い問題です。ちょっとまたいろいろ考えてみたい。〉〈興味深い〉とい
う表現が東北の現実主義者さんへ主に向けられたのであろう、私も読む書き込みでさ
れたことにいいしれない違和感を感じたということ、表明しておきます。「モノ化」
サレテイル感じがする。>「興味深い」は、「考える対象として新しい枠組みが明らかになってきたこと」を形
容しましたが、たしかに「モノ化」されている感じを与えます。この表現に「切実で
深刻な問題ではないという印象」「よそ事、ひと事のような印象」を感じたというこ
とだと、理解しました。
フォトニア(http://www.photnia.com)の記事で、立教大生の迷宮事件が載っていた。
立教の大学生が駅で殴られ死亡したらしい。
ざまーみろ。調子に乗って、遊びまくって、かわいい彼女とやりまくっているからだ。
神様が、あなたはもう死になさいと判断を下したのだろう。
大体、立教生は屑だもんな、まじで殺してくれてありがとう。
どうせなら、もっと過激なショーにしてくれればよかったのにね。
っていうか、別に俺でも良かったんだけどね、その立教生の変わりは。
誰か、殺してくれないかなー、派手に、むごく、汚らしく。
待ってるよ。
ちなみに、俺のやった×××をフォトニアに投稿しておいたけど、記事になったかな?
なってたら、見ておいてよ。