ドラッグ 北へ向かう旅だったせいか、大麻だのアヘンだのといった薬物とは全く縁がなかった。ただ上海入りした日、船で一緒だった連中が同じ部屋に落ちつくと、夜遅くなってそれまでのドラッグ体験が話題になった。長旅をそれなりにやってきた面々ばかりでそれぞれに体験豊富だった。以前まさにここ上海の南京路で中国人に大麻を分けてもらったという人もいて、なんかわくわくした。
(96年夏の旅にて)麻薬によるトリップはさしてややこしくない生理的反応なのだろうが、ドラッグのひとつもものしないことにはバックパッカーの沽券に関わるぜ、という雰囲気がなきにしもあらずである。だから、俺は知らない、というウブな声は出にくい。また旅談義の例にもれず話には尾鰭がつく。そういう傾向が僕はなんか好きではない。しかし、薬物の個人使用まで政府が禁じるのは幼稚な社会だし、なにより自分の中に通常と違う精神を発見できるなら、いつでもほいほい試してみたいと常に思っている。
上海の一行にヒッピー然とした人がひとりいた。ヘビーなドラッグ使用者らしく、その体験を「なんというかハッピーとしか言いようがない」と語っていた。別の機会に別の愛好者の話も聞いたが、その時は「いいバイブレーション」というキイワードが口から出た。僕は七年前にインド〜パキスタン〜中国を旅した時、ハッシシという大麻を固めた小片を知り合ったパッカーから分けてもらいタバコの葉と一緒に吸ったことが何度かある。でも期待したような意識の変化は一度も起こらなかった。僕の目の前で別の人が笑ったりめそめそしたりを繰り返していたのと対照的だ。 そういう乏しい体験しかない僕としては、彼らの言葉に「へえそういうもんかねえ」とうなずくしかないのであった。
で、話は実はここから本題なのだが、上海の夜更け、そういう話を聞かされたせいかどうかは分からないが、他の全員が寝静まったあとも僕だけどうにも寝付けなくなり、本を読むことにした。重いドアをそっと開けロビーへ移動した。ちなみに手にした本は高橋源一郎の小説「惑星P-13の秘密」である。
面白かった。意識は冴え渡り飛翔した。
僕にとってドラッグは高橋源一郎なのだ、と思った。午前3時。上海、浦江飯店のロビーには、ひたすらゲームボーイをピコピコ言わせている不寝番と、ソファーで文庫本に耽る僕の2人だけがいた。