メール4
私が前回のメールで言いたかったことは次のことです。
私は、ビートルズが好きですし、彼らの曲も好きです。ところが、彼らは麻薬をやっていました。道徳的に考えれば、彼らの行為を肯定することはできません。しかし、曲が素晴らしいので、作者の人格も素晴らしいと感じ、すべてを肯定したくなってしまうのです。それが、ビートルズファンの心理です。道徳律は、ビートルズを全面的に賛美してはならじ、というのですが、感情は、ビートルズに惹かれてしまうのです。
このあたりに、概念と自分のこころの実体に食い違いが生じて、考えてしまうのです。
言葉では、色々立派なことを考えるのですが、実際の自分は、というとそうではないのです。ここにも、言葉と実体の食い違いが見られると思います。このようなところから、実体ということを考えるようになりました。世界について、自分について、実体をつかみたいと思うのです。
現在、私も暗中模索中なのでこの程度のことしか書けなくて申し訳ありません。
伝統的西洋哲学では、真理を言葉でとらえようとしました。ソクラテスも「正義とは何か」と問うて いました。ところが、言語学者のソシュールが、「言葉は記号だ」といいだしてから、哲学の様相が変 わってきました。「言語で真理はとらえられない」と。その哲学者の一人が、デリダです。私も哲学の 専門家ではないので、詳しくは分かりません。私は、キリスト教がすたれて、例えば神という観念の実 体がつかめなくなったからではないかと考えているのです。イエス・キリストに直接接した人々は、確 かに神を確信を持って信じたでしょう。神とはこれこれのものであると。ところが、われわれはその実 体がつかめないのです。自己の中に、また他者の中に神を見いだせないのです。
ここにも実体と言葉のずれが現れます。