蛭子能収 小泉内閣メルマガ 「らいおんはーと」


中原昌也
『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』
(河出書房新社)

     〜覚え書き〜



●ぞんざいなリアリズム

中原昌也は蛭子能収に似ている。サイト「シリアルジャップ」の「KILLING JOURNAL」でそう指摘されている(以前も述べた)。

<マンガくらいでしか読んだことのないようなタイプの傑作を、小説という形式で初めて読んだ、小説でこんなことができてしまうのか、まさかこんなやり方があったのかと虚をつかれ、蒙を啓かれるショック>

<たとえば初期蛭子能収のマンガを読むことが、いちばん読書体験としては近いように思われます>

これを読んで私は、「そうか!これは蛭子漫画なんだ」と中原小説に初めて納得がいった。中原の評として今もこれが最も当たっていると思う。

連れ添った妻は死んじゃうし、家に泥棒は入るし、今年になって本当にいい事なしだ。こんな時こそ、人はユーモアを求める。仕事もなく、毎日ダラダラと生きているだけの生活と決別する為に、今日は早くから目を醒まし、ベッドから元気よく飛び起きた。
 ユーモアは人生の潤滑油----そんな言葉をどこかで読んで以来、俺はこの怠惰な日々を抜け出せたら、不幸な人々をユーモアで救おうと考えた。勿論、無料で。
 元気よく外に飛び出ると、早速、苦悩で今にも自殺してしまいそうな人を捜すために走り出した。そんな時に限って、俺の勘は冴えてすぐにそういう人を見付け出してしまう。家から五メートル位歩くと薬局があり、その隣りには何故か専用の駐車場がある。
》(「物語終了ののち、全員病死」)

真っ赤な字で白地に『昭和三十八年三月二十一日 広沢英三と妻 典子 刺殺による出血多量死』と書かれた看板が、木造に家の屋根に掲げられている。それは酒屋か何かの商売をしている家に見えるのだが、どこからどう見ても普通の一軒家だ。しかも、ずっと永い間誰も住んでいない廃屋のようだ。》(「飛び出せ、母子家庭」)

こんな書き出しを読めば、「ああこれ蛭子さんだ」と懐かしくなる。行き当たりばったりの設定と、取ってつけた空想と。一応それで始めてみたら、ぞんざいながらも一定の世界が現出してしまった。じゃあ仕方ない、おざなりのリアルさでもってどんどん場面を描写し物語を展開させていった、ふうの。

しかし、ちょっと煮詰まると話はすぐ脇にそれ、よそに跳ぶ、といった諦めの早さは、職人気質の蛭子漫画とはいささか違うかもしれない。結末も、そろそろ飽きてきたかという頃合いを見はからって、中途半端な虚空というか適当な命題というか、そういうところに安易に落とし込む。いや、落とし込むというほど大それたものではない。見慣れない荷物が目の前に置いてあってなんとなくヤバそうで鬱陶しいからちょっと隅っこに押しやっておいたけど、何か? とかそんな感じ。

ぞんざいリアリズムという点では、同じ漫画で中崎たつや『じみへん』などもふと思い出される。四コマには収まらないだらだら系のところも似ている。ただし『じみへん』の落ちには、実生活に張り付くシミのような身も蓋もない感触があってしみじみできるが、そこは『マリ&フィフィ虐殺ソングブック』だと、今述べたように正反対だ。根本敬の漫画も自動的に思い浮かぶが、あれほどの悪意や非道を目指しているわけでもないようで、残虐や暴力はむしろ薄味。徹底されているとは言い難い。

いやいやこれらはすべて、『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』の魅力のことを列記しているつもりだ。

さらに、下のような超現実ムード。

つとむは朝、自分の店に出勤する為に、店の鍵に乗ってゆく。無論、ポケットに入るような小さな鍵ではなく、巨大な鍵の形をした車に乗るのだ。それは見た目が鍵であるだけでなく、本当に店の鍵の役割をしている。車庫が言わば鍵穴となり、つとむが店に到着したと同時に開店となる。》(「つとむよ、不良大学の扉をたたけ」)

「ちょっと推理小説はお休みして、今度は子供向けの本を手に入れるか」
 男は椅子から立ち上がり、本棚へと向かう。本たちは一斉に男に向かって、アピールを始める。「今度は、僕にしてよ」「いや、次は私の番よ」。そんな本たちの主張を、いちいち無視するのは大変だ。
》(「消費税5パーセント賛成」)

ここからは、しりあがり寿やつげ義春を思い出したりもした。「必殺するめ固め」のバカバカしさもあったりするし。

まあ、似たものを思い出してばかりでもしょうがないか。



●初期化されたテキスト

昔、「ビックリハウス」(雑誌)に「エンピツ賞」というのがあった(あまり詳しく読んでいなかったけれど)。あそこに集まってくる文章は、ジャンルに収まらず成り立ちもバラバラで作品と呼べるかどうかすらはっきりしない、きわめてプレーンなテキストの、可能性----じゃなくて、そうしたプレーンなテキストの読み書きそのものに焦点を結ぼうとしていたと記憶する。『マリ&フィフィ虐殺ソングブック』からは、そういう不思議な味わいが受け取れる。

明治期のまだ小説というジャンルが確立していない段階では、小説のようなものとして試みられた文章は、単なる「文」という枠組みで捉えられた。----高橋源一郎は大体そのようなことを指摘し、また、そうした近代言語の起源に戻ることを巡って「初期化」という言葉を使ってもいた。そこからいけば、中原昌也の文章は、初期化されたテキスト形式で書かれているとでも言おうか。



●紋切り型辞典の百獣の王

都市が奏でる雄大なシンフォニーに圧倒されている自分に気が付いた俺は、平常心を保つ為にどこかのカフェに入ることにした。この恐ろしい位に立体的かつ巨大なオブジェに対しては、やはり一カ所の視点から観賞する作業から始めなければ、真実は何も見えてこないだろう。》(「路傍の墓石」)

気取ったフランス風のカフェの窓から、可愛らしい小鳥たちが自由に飛び廻るのが見える。世の中の全ての若い人たちがこの小鳥たちのように、己れの欲するままに生きることのできるように、これから世界が変化していきますように、と心の中で祈らずにはいられないのぶ子だった。》(「血で描かれた野獣の自画像」)

"ギェッ、グェーッ"。異臭を放つ、不気味な生き物がおぞましい叫び声を上げた。体中からぬめぬめした粘液を出している。この液が不快な臭いの元なのだろうか。今まで無視するよう努力していたのぶ子も、これ以上我慢できず、ついに凝視してしまった。それは身の毛がよだつ忌まわしい生き物としか呼びようのない物だった。そのすべてが憎悪や嫌悪を催さずにはいられない。まさに病的なイマジネーションの産物そのものだ。何故、皆こんなに気味の悪い生き物に戦慄を感じないのだろうか。一刻も早く、こんな見るもおぞましい生き物が消え去って欲しい、とのぶ子は心の底から思った。》(同)

緊張感をわざと欠いたかのような、ありきたりな書き方。『マリ&フィフィ虐殺ソングブック』は、どこを切ってもこうした既製品の表現ばかりだ。

これはしかし、たとえば「都市が奏でる雄大なシンフォニー」「可愛らしい小鳥たちが自由に飛び廻る」「身の毛がよだつ忌まわしい生き物」といった手垢のついた装飾キットのせいかと思っていると、次第に、(最後の引用文でいうと)「不気味な」「おぞましい」といった他の形容詞から、「努力して」「凝視して」といった動詞、そしてついには「憎悪」「戦慄」といった平凡な名詞にいたるまで、なんだかどれもがウソくさく、もはや読めば読むほど空々しい、滅多なことでは使えない言葉であるかのような気分になってしまうのだ。

いや、単語やフレーズにとどまらず、シーンやストーリーもことごとくそうだ。ときおり挟まれる小さな主張(というほどでもない主張)もまた、以下のごとく陳腐だ。

俺たちの暮らしや社会は、長い歴史の中で虐殺による犠牲を伴いながらも、着実な向上発展を遂げてきた。その裏には何億もの犠牲者がいたことを、決して忘れてはならない。》(「ソーシャルワーカーの誕生」)

そして俺は「いまからでも遅くない、ソーシャルワーカーの資格を取って人々の役に立つことをしようじゃないか。高齢者や障害者に対する、わが国の人間の感情はあまりに冷たすぎる。まずその部分から変革していこう」と安易に思い付いたのだった。》(同)

最後の「安易に」は余計だ。小説全部が安易な発想と文章のオンパレードなのだから。確かにそうだ。しかしそれでもわざわざ「安易に」と修飾してしまっているところが、また絶対的に安易。

さらには、喩えるものと喩えられるものとに落差のない平板な比喩も目立つ。

そんなことを頭の中でブツブツと言いながら空を見つめていると、突然高圧電流のようなものが体を流れるのが感じられた。一瞬、目の前がまっ暗になったかと思うと次の瞬間にはもうフラッシュをたいた時のように、目がくらんだ。そして万年筆のインクを飲んだようなマズくて苦い味が口の中で広がった。》(「あのつとむが死んだ」)

サイケデリックとしか呼びようのない(プリンスの『AROUND THE WORLD IN A DAY』のジャケットのような)絵のパネルで飾られたセットの中央に置かれた巨大なのぶ子の笑顔のパネルが、・・・・》(「血で描かれた野獣の自画像」)

これらはしかし、喩えられるものが平板であるがゆえに、喩えるものも平板な重ね塗りがぴったりなのかもしれないが。

しかしながら、こうした事態を把握して、「中原昌也の小説はともかく陳腐な表現の集積である」と喜んで書いたとしたら、その指摘自体が、またまた陳腐さの大行列に連なって実に寒々しかったりする。鈍感な人でないかぎり、中原昌也の小説を読んだら最後、言葉や文章を書くことそのものに厭世観を覚え、ひたすら恥じ入ってしまうことになるだろう。まったく現代の紋切り型辞典だ!(と寒々しく)。

む?待てよ、こういう文章、ほかでも読んだことあるぞ、と思ったら----

<安全な世界のために、日本ができることはたくさんある。日本経済を再生させることも、世界の経済システムの安定のために日本ができる大切なことだ。改革の姿勢をゆるめずに進めていく。緊急時こそリーダーシップが求められる。国際社会で日本の責務をしっかり果たしていきたい。>

<文化はまさに国境を越えるという思いを強くした。若者文化や伝統文化。文化の日を前に文化交流の重要性を再認識した。>

----そう、小泉メルマガの「らいおんはーと」でした。



●首ひねるべからず、哄笑すべし

脈絡のない展開が延々続くという形式は、後藤明生に通じるのかと思ったりする。が、中原昌也には、後藤明生ほどの渾身の逸脱や過剰の饒舌はない。ただのくだらないおしゃべりが、単にくだらなく続いているだけ。なんだかな〜。そういう脱力感。語られている話もそれを連ねていく構成も、あえて荒唐無稽というには、どうにもユルユルな気がしてならない。ふ〜む。・・・・いやいや読者諸君、そこらあたりは首を捻るところではない。大いに笑うところなのだ。

とりわけ、その結末。これが結末ならどうしてそうなる?という唐突でぬるい結末。たとえば----

しかし、その後に些細なことで孤立し、三ヶ月目には学校を自主退学せざるを得なかった。》(「つとむよ、不良大学の扉をたたけ」)

しかし、いざとなると「そういう若い人とは話があう訳はない」という気になり、結局はまた一人で酒を飲んだ。》(「ジェネレーション・オブ・マイアミ・サウンドマシーン」)

この面白さは、そこまでの展開も引用しないと伝わらないかもしれないが、それはともかく。なんというか、これ、言ってみれば、チャゲ&飛鳥が歌詞や楽曲にメリハリを効かせて型通りの構成で盛り上がって、さあ最後の最後、ギターがジャーン、ドラムがドコドンと切れよく終わるべきところに、まるで、ふっと山崎邦正かだれかが下手な歌声を聞かせに裸でポーンとステージに上がってしまい、もちろん全然受けずざわざわしているうちに幕が降りていったみたいな感じである。あるいは、ちょっとオーバーに言えば、『タイタニック』でデカプリオがとうとう冷たい海底に沈んでいったと思いきや、すっと浮かび上がってきてヒロインをむしゃむしゃ齧って食べてしまって、はいエンディングというような。もうこれなったら笑うしかないだろう。

中原昌也のツボにすでにはまっている人なら、上に引用したタイトルを読んだだけで、もう可笑しくてたまらないのではないかとも思う。どうでしょう。

高橋源一郎は、『あらゆる場所に花束が・・・・』を取り上げて、中原昌也の小説は暗号文であり、しかも、それをあえて解いてみてもいいが、実は原文のない暗号文だったのだ、といった趣旨のことを、雑誌「トリッパー」で述べていた。それに準じてみれば、この中原小説という暗号には、実は笑いという原文だけは存在したのではないか。したがって、この暗号文が解けない場合は、落ちのないコント、笑いのない漫才となってしまうわけでもある。

なお、一言付け加えておく。中原昌也の小説は、ちょっと恐ろしくもある。阿部和重の小説との共通性みたいなものがあるとしたら、やっぱりその、恐ろしくもあるところなんじゃなかろうか。



●つまらない具体性

前の引用にある「つとむ」という登場人物は、いくつかの短編にまたがって出てくる。気まぐれに「飯島つとむ」とフルネームになったりする。

人の名前というのは、小説であれ、我々の現実生活であれ、唐突に示されるが、何の根拠も持たないものである。今ならたとえばテロや戦争のニュースで出てくる特派員だって、名前をしげしげと見ると、変なものだ。固有名こそ原文のない暗号。その変な感じが「飯島つとむ」という人名には纏いつく。こうした無根拠な刺激に対する正当な反応がありうるとしたら、それもまた笑うことぐらいしかないのではないか。

「つとむ」、ワハハ。「飯島つとむ」、ワハハハ。

ベテラン女優の山本のぶ子は、幼なじみの吉田陽子が珍しく自分のことを褒め称えるので、これはきっと裏があると思い、素直には喜べなかった。》(「血で書かれた野獣の自画像)

「山本のぶ子」に「吉田陽子」、ワッハハハハハハ。

だいたい、小説というものが、あるいはそれを書いたり読んだりするということが、そもそも唐突で根拠がない。それなのに、真面目くさって書かれ読まれる大半の小説。設定も展開もどれもこれも、ぷぷっと笑いが漏れるほど可笑しいじゃないか。「つとむ」をはじめ『マリ&フィフィ虐殺ソングブック』での固有名の使われ方は、そのことを象徴しているかのようだ。

唐突でさして根拠を持たないという性質は、ほかのレベルでも現れる。たとえば「びっくり鈍器」だとか「霊媒探偵」だとか、ちょっとしたネーミングに(「消費税5パーセント賛成」)。または、《切手をノートに貼り付ける為の接着剤----本当は馬の精子がベストなのだが----を親が買ってくれないので仕方なく精子を出すのだ。》(同)といった妙な事情に。あるいは、「ソーシャルワーカーの誕生」の語り手である「俺」は会社の上司から贈られたカーテンの模様を見るだけで気が滅入るのだが、その模様というのが「インディアンの村を襲撃する騎兵隊の絵」だったという説明に。これらは一例にすぎないが、詳しく書くだけの意味のない、つまらない具体性がまた、この小説においては、固有名の具体性と同じ、屑のような効果をもたらしている。



●ブラウズ感覚

今どき文章というものの優劣を測定する最も大切な指標は、読みやすい、ということだ。『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』は読みやすい!

音楽を聴きながらでも、テレビを見ながらでも、インターネットをしながらでも読める。なか卯でうどんを食べながらでも、帰りのコンビニで雑誌を読みながらでも読めそうだ。この美質は、とりわけ『マリ&フィフィ』に顕著であって、『子猫が読む乱暴者日記』『あらゆる場所に花束が・・・・』と作を重ねるにつれ、やや損なわれてくるようにも見える。

ともあれ、ブラウズ感覚でないと、我々はもう駄目だ。エクスプローラーやネットスケープの画面をいくつも同時に開き、メールもしたため始め、おまけに、机でお茶も飲めば雑誌も開き、テレビでニュースも流しつつ、その状態を保ったうえで、好きなときに、好きなところを、好きなだけ、読む、そんなウェブサイトのブラウズ方法に慣れきってしまっているのだ。同じ傾向が、新聞や雑誌の、どうかすると書籍の読書にまで移行している。もとから流し読みであった本屋の立ち読みにも拍車が掛かる。そんな我々にも、中原昌也の小説なら大丈夫。巡回ブラウズの気分で小説を読もう。すばらしい!

いわゆるポストモダン小説っぽい感じももちろんある。これまでドナルド・バーセルミとか読んでみたが、面白いのかどうなのか、アメリカ人じゃないし頭よくないしオレわかんねえやと諦めてもいた。しかし、中原昌也はなかなか面白かった。だったらアメリカのあれにもう一回挑戦してもいいかな。そう改悛させるほどの感化力が、『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』には満ちている。



●結論

「らいおんはーと」なら、『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』をこう評するだろうか?

<この時代のときめきを代表するような文章たちの登場に拍手をおくりたい。>

いや、これは下の結句の言い換えだ。

この時代のときめきを代表するような若者たちの登場に拍手をおくりたい。》(「あのつとむが死んだ」)

あるいは、さっき引用した「身の毛がよだつ忌まわしい(陳腐な)生き物」こそが中原昌也なのだ、という結論はどうだろう。その登場シーンはこんな具合だった。

自由な雰囲気の番組を演出する為、スタジオ内に様々な種類の動物が檻から放たれた。カエルとオットセイ、猿やパンダにまじって一匹だけ得体の知れない動物がいるのが大変目立つ。それ以外の動物は、観覧席の若い観客に大変懐き、撫でられたり、「可愛い」とか言われたりしてほんわかムードになっているのだが、その生き物の辺りには人々はまったく寄りつかないのだ。何よりもその臭いがキツく、時折不快な鳴き声を出すのが不人気の決め手になっていた。しかも人間ぐらいの大きさの上に、どうやら目が全然見えないらしく、やたらとセットやスタッフにぶつかったりしたので、皆迷惑がった。》(「血で書かれた野獣の自画像」)


Junky
2001.11.13

日誌
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著作=junky@迷宮旅行社http://www.mayq.net