「認知哲学 脳科学から心の哲学へ」著作=junky@迷宮旅行社http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html
ポール・M・チャーチランド著
信原幸弘、宮島昭二訳
産業図書我々は休みなく頭を使ったり心を動かされたりしているわけだが、そういうシコウやカンカクといったものは、すべて脳の働きとして生じている。この理屈は、私はもう知っていることになっている。どんなに複雑な概念も、どんなに微妙な感情も、無数のニューロンが結びつき反応しあった結果として作り出される。
ただ、その仕組みは知らない。漠然とコンピュータなどを想像し、なんとなく脳もまたそんなぐあいにニューロンをうまいこと絡み合わせてカタカタカタと処理しているのだろう、くらいに思っている。いやコンピュータの仕組みにも詳しくないのだが。
その、ニューロンの結びつきかたの一つのモデルを、この本は示す。たとえば人の顔を見てそれが誰であるかを判断するという相当ややこしい作業も、ニューロンがたとえばこんなぐあいにネットワークしていると想定すれば説明できますよ!というわけである。
こんなぐあいってどんなぐあいだよ?ということになるわけだが、それはもう本を読んでもらうにかぎる。私なりに伝えてみようとチャレンジはしてみたが、結局は本を丸写しする以上の効果はあがるはずもない。諦めた。
でも、ちょっとだけ書いてみたくなる。
たとえば我々は、 甘さ、辛さ、酸っぱさ、渋さという4つの基本の味わいを組み合わせることで、無数の味覚を感じ取る。この場合、ニューロンのネットワークは、4要素それぞれの程度を組み合わせたベクトルを座標上に置くような処理を行っていると考えればよい。これは、その4要素に対応する受容器官が舌に実在するので、現物の脳とも近い。ところが先にあげた人の顔を識別するような場合、網膜はどんな顔を見ても単に光を感じ取るだけで、味覚のように顔の要素に分けて感じ取っているわけではない。では、このニューロンネットワークのモデルは、入力された単なる光の情報をどういう方式で処理し、顔の識別につながる要素を抽出していくのか。顔を識別する手がかりになるのは、たぶん鼻の大きさとか目の丸さとかいった要素だろうと思うかもしれない。しかし、このモデルが抽出する要素は全然違っている。しかも、その要素は、このモデルを作った人があらかじめ決めているのではなく、モデルとなるニューロンネットワークが自律的自動的に選定していくと言っていいのである。
う〜む、やっぱりうまくまとめられない。このあたりが最も面白いところだったのだが。だいたい、すでに読んだ者が読んだのと同じ感動をまだ読まない者に与えるのは無理だ。「ニューロンが自動的に」と言ったって不可解だろうし。でも興味はわくだろうか。
あと、このモデルの特徴をピックアップすることくらいはできるか。
それはまず、このニューロンネットワークのモデルが、コンピュータとは違った原理で出来ているという点。並列分散型の情報処理という原理だ。つまり、一個の入力情報が数多くの回路に平行して流れ、各回路が分担協調あるいは互いの穴を補いながら処理しているというようなことだろう。コンピュータはこれと違って「直列処理」であるというわけだ。もうひとつの特徴は、ニューロンネットワークでは、情報がたえずフィードバックループをしている点だ。
こういった特徴は、脳の特徴として、あるいは脳のモデルの特徴として、これまでもさんざん言及されてきたことなのかなという気もするが、私は詳しくないので、何も言えない。また、ニューロンネットワークのモデルということ自体、他の学者もいろいろと試みているのかもしれないし、その中でこのモデルが独創的なのかどうかといったことも私は知らない。が、いずれにしても、脳の仕組みがコンピュータの仕組みとは違っていてもいいということは、近ごろでは当たり前のことになっているのかもしれず、したがって、コンピュータにできないことだからといって、それが脳にもできないとはかぎらなという原則を、とりあえず学んでおけばいいのだろう。 それになにより、この本とともに探っていったモデルは、少なくとも私にとって予想を超えて理解しやすく、納得のいくものだった。
ともかく著者は、このモデルをさまざまな脳の働きに当てはめる。概念というものが浮かび上がってくるプロセス、身体が正しい動きを獲得するプロセス、文法を把握して言語を操るプロセスなどが、ニューロンの連結連動だけによって、まるでイリュージョンのように立ち上がってくるのだ。その説明は明快かつ華麗。さらには、人間の社会的な適応や道徳性、アリストテレス〜ニュートン〜アインシュタインへと科学的な認識のパラダイムが変化していくことまでも、このモデルに合致させる。
この本は、ある科学系ライターのHP(リンク)で知った。そのレビューにあったごとく、この本には認知科学と呼ばれる分野の全体像がまとめて紹介されているのだろう。言い換えれば、脳や心を自然科学の手法で読み解いていく際に必要な脳科学の最新(発刊は97年)の成果がふんだんに盛り込まれているということでもあろう。
どうも長くなって、まとまりを欠いてしまったかもしれない。そこでもう一度、自らの理解と記憶の重点に蛍光マーカーを引いておく。
この本で私が最もすごいと思ったのは、概念というものが自律的に立ち上がってくるという点である。概念とは、きっと、脳味噌の中で、無意識のうちではあっても、いわば指揮官のような存在が、なんらか強力で明確な方針や目標を掲げたうえで、複雑なニューロン軍団を組織的に運用してようやく形作っていくんだろう、と私は想像したりするのだったが、ここであげたニューロンネットワークのモデルではむしろ、いろいろのニューロン軍団が勝手に反応、経験を積んでいくうちに、概念というべき考えの割り振りが自然に自動的に出来上がってくる感じなのである。
もちろん概念というものは言語使用を抜きにしては見届けられないものだろうから、概念が自律的に立ち上がってくるのだとしたら、そのことは私たちがものを考える際にいやでも言語が立ち上がってくることとどう絡むのか、概念と言語はどちらが原因でどちらが結果であるのか、あるいいはその二つは結局は同一のことであるのかといった問いは、さらに有効だと思う。そのあたりを私はさまよっている。
さて、この本の先にはさらなる焦点がある。それは「意識」というものの捉え方だ。著者は意識の定義をかなり詳しく説得力をもって行う。そのうえで、意識はすべて物理的な反応として説明できるという立場を強く打ち出す。逆に意識は物理では説明できないという立場を徹底批判する。その批判されている一つが、かのトマス・ネーゲルの論文「コウモリであるとはどのようなことか」だ。
私にとってこの部分はもう一つの興味の核心だ。それについては、元のページに書いた。