ネーゲル コウモリであるとはどのようなことか 主観と客観

コウモリ論文を読む1





これは、きっと、あれのことをいってるにちがいない!

「これ」とは、論文「コウモリであるとはどのようなことか」である。「あれ」とは、「私は空が青いという。彼も空は青いという。しかし、彼の見る青が私の見る青とほんとうに同じである保証はない。同じであることを確かめる方法もない」という疑問のことだ。子供のころ首をひねったおぼえがありませんか。

このところ私は、幸か幸か本を読む暇がたっぷりある。なにものにも代えがたい豊かな日々といっていい。が、困ったことが一つある。それは、その本の面白さをつい他人にも伝えたいと望んでしまうことだ。そう望んだからには、その本の面白さについてなにか書き留めないといけなくなる。しかし、読むことは、まあ簡単である。眠くなくてテレビが面白くなくさえあればよい。手で本を支えることや目で字を追うのを厭わなければよい。完全に横になっていてもできる。これ以上簡単なことといえばそのまま眠ることくらいだろう。それにひきかえ、書くことはそう簡単ではない。思ったことを言葉に出して整理したりパソコンの前にすわったりカット&ペーストを繰り返したり。面倒くさい。だのになぜ歯を食いしばりきみは書くのか、そんなにしてまで。その理由はわからない。わからないが「インターネットのせい」ということはあるだろう。

さて。

「コウモリであるとはどのようなことか」はトーマス・ネーゲルという人の論文で、頸草書房が1989年に刊行した同名の書物に収められている。訳者は永井均。

この論文でネーゲルは、心もしくは意識体験というものが主観的でしかありえないことの意味を、執拗に問いかける。意識とか体験についての主張は、煙幕をはって人を騙くらかすような印象のものも多いが、その点、ネーゲルは定規で計ったかのようにきっちり述べる。

「ある生物がおよそ意識体験をもつという事実の意味は一定であり、それは根本的には、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが存在する、という意味なのである。」
「根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが......しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが......存在している場合であり、またその場合だけなのである。」

指示代名詞と関係代名詞が連続するヘンテコな文章に、思わず本を閉じてしまうにはもったいない。この文章を頭の中でゆっくり正確に組み立ててみる。すると輪郭のくっきりしたある理屈が鮮やかに立ち上がってくる。その現れ方は、睨んでいた立体視の図から新しい絵柄が見えてきた瞬間のようだ。

ともかくそんなわけで、意識体験と呼ばれるものを私たちが持つとすれば、コウモリもまた意識体験を持つと考えてよい、と。では、コウモリの意識体験とはどのようなものか。

コウモリは、自分の周囲がどうなっているのかを、体から音波を発してそれが跳ね返ってくるのを感知することによって把握する。その感知にはコウモリ特有の器官を用いる。対象の大きさ、形、動き、感触まで正確に識別できるという。我々が目や耳という器官で周囲の状況を把握するのとは、全く違ったしかたである。

この、コウモリが跳ね返ってきた音波を受けとめながら周りの様子を感じ取っているとき、それは「どんなかんじ」なのか。それを知ろうとする場合、私たちはとりあえず自分の知覚に伴う自分の意識や体験を頼りにして、コウモリがしていることを想像しようと努める。しかし、そのような想像は役にたたない。

「そのような想像によってわかることは、私がコウモリのようなあり方をしたとすれば、それは私にとってどのようなことであるのか、ということにすぎない。しかし、そのようなことが問題なのではない。私は、コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのか、を知りたいのである。だが、それを想像しようとすると、私の想像の素材として使えるものは私自身の心の中にしかなく、そのような素材ではこの仕事には役にたたないのだ」

このことなら私たちはすでに知っている。彼の青を、私の青を頼りに想像しても、彼の青を彼のように見ることはついにはできないのだという、あのもどかしさだ。

この論文によって、「コウモリであるとはどのようなことか」は、結局のところ、どうあっても知りようがないのだという原理が露わになっていく。そして、「コウモリであるとはどのようなことか」が知りようがないにもかかわらず、それでもなお「コウモリであるとはどのようなことか」を知ろうとしたら、どういうアプローチが可能なのかを、ネーゲルは考えていく。

この論文は、こうした主観ということの性質を考察することを通じて、逆に、客観ということの本性についても語る。たとえば。

「稲妻は、その視覚的な外見によっては汲み尽くしえない客観的性格をもっており、それは視覚をもたない火星人によっても探求可能である。」

つまり、雷は、私たちには、あの音、あの光、そしてあの恐怖の入り交じった特有の体験となっている。しかしもしここに火星人の科学者がいて、彼に視覚もなく恐怖という感情もなかった場合であっても、雷の客観的な記述つまり物理現象としての稲妻を理解することはできる、というわけだ。 しかし、だからといって「主観は頼りない、客観はエラい」というのではない。ネーゲルの気持ちは逆の方向を向いている。

「根本的に異なる種に属している者どうしが同じ物理的事象を客観的に理解しあうことは可能であるが、その際、その物理的事象が相手の感覚に現われる現象形態を、彼らが理解しあっている必要はないのである。ということはつまり、彼らのもつより特殊的な視点は、双方が理解している共通の実在の一部となってはいない、ということであり、そのことがこの共通の実在に言及するための条件をなしているのである。還元は、還元されるべきものから種に固有の視点が排除される場合にしか、成功しないのである。」

我々はふつう客観が正しくて、それがちょっとねじ曲がったものが主観であるといった格付けをしているのだろうが、ネーゲルは客観的ということの、とりあえずの完全無欠性や誤謬のなさを支持したうえで、それでも意識体験の本質に近づくためには、客観的ということは、いわば無用の事実、無用の方法であるかもしれないということを述べているようにみえる。私の興味が釘づけになっているのはこの辺だ。

この論文の文章は精緻、端正、明晰といった形容がぴったりで、中身を伝えるには、実は全文を引用するのが最も良いのだろう。だから、こうやって解読のようなことを試みてみても、よけい難しく伝わったり間違って伝わったりするだけなのかと思うと、どこか空しい。ここまで読んで、よくわからないと首をひねる方は、どうぞこの本を読んでみてほしい。

さて、さて、さて。まだ眠くならない方には、さらに先があります。こちらのページ。

(おまけ)
キベン「永井均といえば、『<子ども>のための哲学』などを著している哲学者だが、そんなことは言わなくてよいか」
ダベン 「そうですね。永井均を知らない人は、この本も読んでいませんから、本の名をあげても意味がありません。逆に、永井均を知ってる人なら、すでにこの本のことは知っていますから、わざわざ書くまでもありません」
キベン「つまり、永井均を知っている者は、永井均を知っている」
ダベン「で、この永井均の思索のポイントにとても近いものが、ネーゲルのこの論文には含まれていると思うんですよ」
キベン「そして、永井均の思索のポイントは、永井均の思索のポイントを知る者なら知っている」

●このページが、Wikipedia「クオリア」に記されているのを知った!(06.12.19)
嬉しいことですが、個人的な読書感想にすぎないので、どうかそのつもりで。しかもちょっと古い。
なお、クオリアについては、もう少しまとまった文章があります。よろしければ。
http://www.mayq.net/qualia.html クオリアと意識の謎

●このページを下のサイトからリンクしてもらった。
http://ugpc.hp.infoseek.co.jp/nagai/index-nagai.html

そこで、ちょっと書き添るが、訳者の永井均はネーゲルのこの考えに同意はしていない旨のことを後書きかなにかで述べていたと記憶する。確認のほど。

なお、永井均の〈私〉について書いたものが、以下にあります。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041220

著作=junky@迷宮旅行社http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html