思い出もまた言葉なのではないか。僕はそういう仮説を立てています。
思い出というと、いかにもぼんやりしていて言葉にならないイメージで満ちていそうです。しかし、思い出のカナメはやはり言葉であり構成要素の大部分も言葉だろうと僕は考えます。
大阪の万国博覧会で三菱未来館に2時間も待って入ったこと。高校の文化祭で2万5千円のギターを弾いて歌ったこと。鮮明な映像や音声も確かに残っています。しかし、それを思い出として位置づけ、思い出としてしまい、思い出としてひきだす、そういう作業が可能なのは言葉が軸にあるからだと思うのです。言葉がなければ太陽の塔(これも言葉)もきっと脳の隅っこにゴミみたいなものとしてしか存在せず、会場の割れんばかりの拍手(あ、仮の話です)もノイズとして頭痛の種になるくらいでしょう。いちばん最初の思い出というものが言葉をしゃべり始めたころに多いことも、それを証明してはいませんでしょうか。 赤ちゃんのころの出来事を覚えていないのは実は言葉を獲得する以前だからなのです。
ただし、言葉はもちろん曲者です。一つの言葉はほかのたくさんの言葉と手を結び、いかようなムードも瞬時に作り上げます。その結果同じ出来事が美しくも醜くも、優しくも激しくも姿を変え僕たちの思い出が熟成されるのでしょう。