さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
僕が戦争に行くことや僕が死刑になることに比べたら、国旗や国歌が法律で固定されるくらいはまだマシか。ああこれが日本の旗だ、日本の歌だと感じることは、楽しい場合もあれば苦しい場合もある。僕にとって、会社の旗・歌、学校の旗・歌、仲良しグループの旗・歌など、存在してうれしい時もあればむかつく時もあり、国旗国歌もそれとあまり変わらない。天皇や王様がいたほうが楽しい場合すらある。世襲の職業だとか、伝統の力だとか、深窓の令嬢だとか、あった方が楽しい場合がある。
だいたいもう君が代は実のところ国歌だし日の丸は早い話が国旗だ。もちろん「国歌や国旗なんてまやかしさ」とあなたは確実に嘲笑できる。しかし同時に、まやかしでありながら楽しいものでもあることをあなたは知っていませんか。
学校の卒業式やサッカーのワールドカップに合わせて君が代を歌ったり聞いたり、日の丸を振ったり仰いだりすることが、直ちに君が代や日の丸によって表象(表彰?)されるものへの服従だけを意味すると考えるのは、単純すぎないか。ふてくされて歌わないこと仰がないことが、直ちに表象されるものへの抵抗だけを意味すると考えるのも、単純すぎないか。僕は少なくともナショナリティーや日の丸の旗や君が代の歌やワールドカップや岡田監督を半ばバカにしながらちょっと熱狂し、同時に、日の丸や君が代を感じる時には日本の戦争責任も感じないとまずいだろうという良識派たる後ろめたさを、それもまた半ば疑いつつ思った。
しかし。日の丸を揚げる自由。日の丸を焼く自由。日の丸を揚げるのを無視する自由。日の丸を焼くのを無視する自由。日の丸を煮る自由。日の丸を弁当にする自由。日の丸で弁当を包む自由。日の丸のパンツをはく自由。日の丸と心中する自由。日の丸を年中門に飾る自由。国旗法制化で失われるのはどれだろう。どれが失われても淋しいね。
よくある議論。日の丸は星条旗やユニオンジャックや三色旗より汚れているのか。東ティモールの国旗・国歌やコソボの国旗・国歌(あるのか?)は正しい歌、正しい旗であって、君が代や日の丸とは根本的に違う存在なのか。そんなことはない。本質は同じだ。同じである部分を考え続けること。
などなど、こんなにスパッと言いきっていいかどうか、気になる私です。
さんきょうだいは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで (てことは、もう食べられない?)