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だらだら話 14

  ジブチ土産話(2)    以前のジブチ土産話は→第11話
さてまた、ジブチのことを書きます。このまえに、地図まがいの物をお見せしましたが、あのとおり、紅海の南端にある小さい国です。面積はやっと四国くらい。人口は60万人足らずです。ジブチ共和国の首都がジブチ市で、人口の殆どがこの市に住んでいるといってもいいでしょう。なにしろアフリカ一の不毛の地を抱え農産物は勿論、鉱産物も取れないし、何もないというところです。唯一の産業である港湾業に頼るしかないのです。
後ろにエチオピアという大きい国を背負っていて、その港としての役割は大きいのです。国家と言うより、エチオピアの港町といったほうがふさわしいようなところです。
出発前にちょっと読んだものによると、何の産業もなく、あるのは、港と売春婦とエーズだけなんて、薄気味の悪い情報でした。まあなんとかなるだろう、私にはエーズは関係ないだろうと出かけました。着いてみると、川崎さんのおうちは窓の下に紅海がひろがり、すぐそばが港で、停泊している船が面白いという素敵なところでした。いろんな国の軍艦も沖に停泊していました。

    

海の大好きな私は、毎日海で泳いで楽しみましたが、泳いでいるのは、地元の人だけで、在住の日本人やフランス人の姿は、見られないのです。
後でわかったことですが、ジブチは下水の浄化装置がないので、ここの海にすべてそのまま流れ出して来るのだそうです。アンレマアと思いましたが、それでもまあいいやと泳ぎ続けました。
川崎さんのおうちは、この半島の突端あたりにありました。いいところでしょう?

ところでアフリカのこのあたりはどの国も英語圏なのですが、ジブチだけはフランス語なのです。フランスが、ここの交通上の値打ちを知って、上手に抑えていたのでしょうかね。

さて、このジブチ市からバスか車で、2時間くらい揺られていきます。その途中は、ほんとに何も無い不毛の荒野の連続です。其処に、突然こういう風景が出現するのです。初めて行った時は私もびっくりしました。これが難民キャンプなのです。

    

こういうキャンプが二つあって、それぞれに約10,000人くらいの人が住んでいます。あわせて20,000人近くいるわけです。
食べ物は、食材が国連から配布されるので、それを各家庭で調理しています。
このキャンプは古くて、ここに13年も住んでいる人もいます。
隣国のエチオピアとソマリアのそれぞれの内乱から逃れてきた人たちです。
もう内乱が、収まった地域も多く、国連ではそろそろキャンプを閉じてしまいたいらしいのですが、国に帰っても何の宛てもない人たちは、帰りたがりません。帰る人には、或る程度の準備金と物資をもたせて、バスを仕立てて送り出すのですが、又帰ってくる人もあり、中にはお友達を新しく連れてくる人たちもいたりして、なかなか難しい問題です。国連さんも頭が痛そうです。

    

皆さん、長く住んでいるので、それぞれが工夫して、住みやすいようにしてあります。キャンプにも泊まりましたが、なかなか快適でした。外がわはこんなにみすぼらしいおうちも、内部は大変きれいで清潔です。私のうちよりずっときれいです。一部をお見せしましょう。

    

これは部屋の一隅なのです。いろんな布を張り巡らしてあります。
このランプに火が入った時あまりきれいなので、思わず写真にしました。

    

お水は、こういうタンクが、所々にあって、国連からの給水車が、定期的にやってきます。洗濯もよくしているようですから、大して不自由はしていないのでしょう。

    

食べ物もなかなかおいしくて、結構なものでした。「今日は特別なのか」と言う問いには、「いや、いつもこんなものを食べているよ。」という返事が返ってきました。少なくとも、私の東京での食生活よりずっと上等です。
お肉も山羊肉ですが、かなりふんだんにありました。
お皿の下に見えるのは、床に敷いてある敷物です。
なにしろ何処もかもきれいにしてあるのには驚きました。

便所は外に小さい小屋があっての共同便所です。

どのおうちも同じ様な外観をしているので、暗くなってからトイレに行くと帰ってくるのが大変です。方向音痴のわたしはお手上げで、トイレの帰りにすっかり迷ってしまい、どこかの男の子に連れられてやっと帰ってきました。

明くる朝起きてみたら、そのニュースがキャンプ中に知れ渡っていて、会う人ごとにからかわれるのです。かれらは、フランス語のわかる人もごく少数なので、お互いになんの言語も通じないまま、「おい、おまえ、昨夜トイレの帰りに迷っただろう。」と言うようなことを、ジェスチャーでして、笑い転げるのです。こっちも負けずに、ジェスチャーで、なんだかやり返して、またそれが可笑しいといって、笑いの渦になったのをおぼえています。
言葉が無くても何とかなるものですね。

このキャンプで何をしていたかといいますと、私が英語とヨガを教えて、同行の尚子が数学を教えたのです。(彼女は数学の先生なのです。)
教室風景とヨガ風景のいい写真が無いのが残念ですが。

    

この教室の写真などはぐっといいほうです。或るクラスなんかは、ひとつの教室に生徒が80人です。これにはさすがに辟易しました。目の前に真っ黒い顔が80もひしめき合っていると、通常の授業はできません。私が東京で使っている方法なんかなんの役にも立たず、途方にくれました。
その挙句のおっつけ授業だったのですが、みんなが喜んでくれて、申し訳ないようでした。この次は、大人数用の教材を用意していこうとおもいます。
そのつもりで、【英語で英語を教える参考書】というのを買ってきてあります。

    

ヨガはこのようにそとでするのです。屍のアサナ(上向いてポケーっとリラックスするポーズ)をしていると、アフリカの太陽がジリジリと顔を焦がします。でも、先生にだけは敷物が用意されているところをごらんください。
ヨガを習いたいと言い出したのは、エチオピアの大学生の連中です。彼らはなかなかのインテリで、ヨガのことについても、既に本やなんかでかなりの知識をもっておりました。頭の鋭い青年たちです。
私は、理論的にきちっと物事が詰められるほうじゃないのです。だらだらと話していると、「先生、この話とさっきの話とはどういう関連があるのですか?」などとつっこまれます。「そうねえ、あまりつながらないわねえ。」と、こういう頼りない先生でしたが、皆熱心によく教わってくれました。

ある時は、「なんでも、学べば何か得るものがあるはずだが、ヨガを学んで得るものは何なんですか?」と訊かれました。
ちょっとかっこつけて、「【無】なのよ。その得られるものが【無】なのよ。」といいましたら、さすがに煙に巻かれたような顔をしていました。あの時は、キモチヨカッタ!

又、一人の聾唖のひとがいて、呼吸のトラブルも持っているのです。通訳の助けと、必死のジェスチャーで、なんとか呼吸法の初歩を教えました。

数日後その人が来て、又ジェスチャーで、「大変楽になった。いつもあの呼吸をするように努力している。ありがとう。」と言ってくれました。あの時はウレシカッタ!

あの大学生たち良い奴らだったけど、どうしているかな。3年位前に、エチオピアで反政府運動を起こしたため、弾圧され、仲間の何人かは殺され、このキャンプに逃げてきた連中なのです。
政府はもう何もしないから帰って来いといっているのですが、彼らはそんな言葉は信じられないと言っています。どうなるのでしょうね。

最後に私の変な散歩姿をお目にかけておわりにします。

    

ここはキャンプじゃなくて、他の農村です。ジブチにしては非常に珍しく緑の或るところです。井戸から真水が出るのはまれなのですが、(塩水しか出ないのです。)ここだけは、真水が出るので、農業が出来るというラッキーな村です。
ちょっと離れたところにある海岸へ泳ぎに行くところです。
なんともいえない、奇妙奇天烈な格好ですね。この写真、私には緑豊かに見えるのですが、ひょっとしたら、荒野に見えますか?



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〈筆〉waikari bahchan=木村詩世