高橋源一郎『日本文学盛衰史』 柄谷行人 『日本近代文学の起源』
研究論文として読む(『日本文学盛衰史』感想補遺)
柄谷行人の『日本近代文学の起源』を
推理小説として読んだという人がいた。
http://kobe.cool.ne.jp/babies/book-re9.html
これは実に新鮮で面白い指摘だ。それに比べれば、
『日本文学盛衰史』を研究論文として読む、なんてのは、
けっこう誰でも気がつくことかもしれないが、それについて。小説は、多様な書き方が開拓されてきた。
内容より方法のバリエーションこそが小説だ、とも言われる。
しかし研究論文となると、話は逆だ。
今日、研究者と呼ばれる人が書く、研究論文と呼ばれる文章は、
イメージとしても、実際としても、
かなりガチガチの枠にはめられているように見える。
つまり、研究論文の方法は完ぺきに固定的である。
研究論文は、過去から未来に通じる一連の体系・集積に合わせて配置される。
そのフォーマットに合わなければ、存在価値は認められない。
大学など公的資金系研究機関の場合、とりわけそうなのではないか。
物理学科であれ、哲学科であれ、文学科であれ、国際コミュニケーションIT戦略学科であれ。そうした状況のなか、
研究論文という生態系に、
きわめて特異な新種『日本文学盛衰史』が、大きな混乱を持ち込んだ。主題を明瞭に設定し、明瞭な道筋で結論に向かう、というのではなく、
問いも答えもどんどん変貌しつつ迂回しつつ、探求そのものを探求していく。
この方法は、もちろん、曖昧さ・矛盾・恣意性を必然的に招く。
それに引きずられ、なんだか最後まで趣旨がつかめなかったよ、という
従来の研究論文では許されない側面もあろう。
つまり、「まるで小説のような」研究論文ということだ。
しかし、だから悪い研究論文だと断罪しなくてもよい。
たとえば『日本近代文学の起源』が、研究論文のような小説であったのならば、
ここに小説のような研究論文があったっていいじゃないか。
というか、こういうのを私は待っていたのかもしれない。
瑣末とは正反対の壮大な謎に立ち向かう、
直感と刺激に満ちた、フレンドリーで分かりやすい、
そんな文学研究論文を。研究という分野において、
従来の考え方・書き方には存在しなかった、
新しい精神、新しい形式、新しい内面と告白が、
ここで発見されたとしてみよう。
『日本文学盛衰史』は、文学というより、むしろ、
「研究における言文一致」を達成したのだ。