高橋源一郎『日本文学盛衰史』
喧嘩は面白いけど、文学も面白いですね
現在はまだどのような物事もあれとの関連でしか記述できない状態です。
したがって婦人公論の記事もまた
なんらか自爆テロであったかのように読める のです。
アメリカはどれほどの巨大権力なのか。テロはどれほどの卑劣行為なのか。
事件を見る感受性と記事を読む感受性とが交錯しいろいろ考えさせられます。
もちろんどちらもが文学を語るための素材にもなると思います。
そもそも、あらゆることは
文学を語るための「作品」でありうるのではないでしょうか。
そうか、
じゃあどのような物事もむしろあれ(文学)との関連で語れるということか。
ただし、文学とは、
たとえば私小説読書をするのでなく、私小説批判をするのでもなく、
私小説読書・私小説批判という制度性を見極めることであるのだよと自戒しつつ。
そうすれば、もしや、
たとえば週刊朝日「退屈な読書」にあった
小説の読み書きにおいては、
「人間は意味を生きているのではなく、行為を生き ている」のだ、
という趣旨のこと(保坂和志『小説修業』から)に
通じるなにかが見つかるかもしれない。
男はひどい、女はこわい、戦争もテロもひどいこわい。
でも文学はきっと、もっとひどい、もっとこわい。もっと面白い。