高橋源一郎 連合赤軍事件 ぼくがしまうま語をしゃべった頃 湾岸戦争 文学者 反対声明 文学なんかこわくない 小説トリッパー
『ジョン・レノン対火星人』 対 「テロリスト対源一郎」



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高橋源一郎の小説『ジョン・レノン対火星人』(角川書店)は、タイトル前にやや長いプロローグが置かれています。この小説はハードカバーも文庫本も絶版のようなので、この部分だけは転載させてください(誰に頼んでるんだろう)。

 東京拘置所における流行について話そう

 一九七〇年。東京拘置所で流行っていたのは手淫(マスターベーション)だった。流行った、流行った、わたしもやった。
 一九七一年。東京拘置所で流行っていたのは小説を書くことだった。流行った、流行った、誰もが小説を書くことに熱中していた。もちろん、わたしも。
 そして、一九七二年。
 独房にいたわたしたちの間には熱病のように野球(ベースボール)が流行りはじめた。

 わたしは運動檻の中に幻のマウンドの上に立ち、いつかやってくる救援(リリーフ)にそなえ肩ならしのピッチングをつづけていた。
 わたしの左隣では「左ピッチャーの肩口から入ってくるカーブ」を打てない左バッターが、幻のバットで懸命に素振りをつづけていた。
 「左ピッチャーの肩口から入ってくるカーブを打つことがおれの生涯の主題(テーマ)なのだ」
 そしてわたしの右隣では奇妙な三塁(サード)コーチャーが、幻の三塁コーチャーズ・ボックスの左はじに立ってぐるぐると腕をまわし、三塁ベースをかけぬけてゆく走者(ランナー)たちを次々と本塁(ホーム)ベース上で憤死させていた。
 「へたくそ」わたしは呆れて言った。
 奇妙な三塁コーチャーはにやりと笑うと、右の鼻の穴に左手の親指をつっこみ、間髪を入れずに左の鼻の穴に右手の親指をつっこんだ。
 「これが、ヒット・エンド・ランのサイン」
 ここまでがわたしの知っている「東京拘置所ジャイアンツ」の姿である。
 わたしたちは保釈され、たった一人だけ残されたその奇妙な三塁コーチャーは、あいかわらずの幻のコーチャーズ・ボックスからかれだけに理解できるサインを送りつづけていたのだ。
 そして一九七三年。
 独房から精神科の病棟へうつされたその奇妙な三塁コーチャーは奇妙なサインを創り出した。
 かれを診察しようとした精神科医は、いきなり凄まじい力で左の睾丸(きんたま)を二度、右の睾丸を一度つかまれて失神した。
 「ジョン・レノン対火星人」と、かれは言った。
 左の睾丸を二度。
 右の睾丸を一度。
 それが、その奇妙なサードコーチャーに近づこうとする全ての人間に出された「ジョン・レノン対火星人」なのだった。
 「ジョン・レノン対火星人」のサインを出されたバッターはいったいどうすればいいのだろうか? 打つ? 一球待つ?
 その奇妙な三塁コーチャーが死んでしまった現在(いま)では、わたしたちには確かめる術(すべ)がないのである。
 NとYを組み合わせたヤンキースの帽子(キャップ)、たてじまのヤンキースのユニフォーム、左手にキャッチャー・ミット右手にはファースト・ミットをはめ、かもしか革のスパイクをはいたまま独房で首を縊った奇妙な三塁コーチャーの死をテレビのニュースで知った時、丁度わたしとテレビを見ていた「左ピッチャーの肩口から入ってくるカーブ」をついに打てなかった左バッターは、ぽつりとわたしに言った。
 「だから、どうだっていうんだ?」

 わたしはそれ以来、自分で「左の睾丸(きんたま)を二度、右の睾丸を一度」握りしめては「ジョン・レノン対火星人」のサインを送るようになったのである。

これを読んでどう感じますか。左とか右とかいう文字がやけに目立つと思いませんでしたか。「左」っていったら「左翼」? 20世紀に生まれ育った私たちですから、そういう連想は避けられませんね。しかもそれがきわめて紋切り型だからこそ、連想はずるずる続きます。作者も読者も。以下のごとく。

左翼?
左ピッチャーの肩口から入ってくるカーブ左翼組織の理念?
それを打てない左バッター左翼組織の革命理念に応じた行動がどうしてもできない左翼の一員?
三塁コーチャー左翼組織の指導者?
三塁ベース革命のために踏み越えねばならない最後の一線?
走者たち革命運動に走った者たち?
次々と本塁で憤死国家転覆の夢を前に、そして、国家権力の現実を前に、政治ゲームにおける死が訪れる?
右の鼻の穴に左手の親指をつっこみ、間髪を入れずに左の鼻の穴に右手の親指をつっこんだ倒錯的とも思える左翼の行動=赤軍系の行動へのサイン?
ヒットエンドラン暴力革命?=ヒットエンドビンラディン?
ジョン・レノン対火星人暴力革命が失敗したあとの、左翼の作戦?
左の睾丸を二度、右の睾丸を一度握るその作戦実施のサイン?
だから、どうだっていうんだ?昔左翼、今凡人の言い草?



ところがこの連鎖は、興味深いことに、さらに作品を超え時代も超えてどんどん続くような気がするのです。いったいどうしたこと! いずれじっくり考えてみるとして、関連すると思える資料をいくつか示しておきます。



▼講談社文芸文庫『さようなら、ギャングたち』巻末より

1969年 横浜国立大学経済学部に入学。ラジカルな活動家として街頭デモなどに参加、逮捕留置を繰り返した。11月には、凶器準備集合罪等で逮捕され、翌年の初めまで留置所と練馬にあり東京少年鑑別所のあいだを往復した後、家庭裁判所送りとなった。
1970年 2月、起訴され8月まで東京拘置所に拘置された。



▼「失語症患者のリハビリテーション」=『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』=

東京拘置所でひどい失語症に陥った体験と、そのリハビリテーション作業から小説が誕生していく経緯が書かれている。高橋源一郎は「さようなら、ギャングたち」の前に「すばらしい日本の戦争」という未発表小説を書いたとされる。ちなみに『ジョン・レノン対火星人』第一章のタイトルは、「すばらしい日本の戦争」。



▼『ジョン・レノン対火星人』=雑誌掲載83年、書籍刊行85年=

どこを引用してもいいような、引用してもしかたないような感じなのですが、ほんの少し、「終章 追想の一九六〇年代」から。

 わたしは夢をみた。

 わたしは捕手で、ワールドシリーズの最終戦、ツーアウト満塁で迎えた土壇場九回の裏だった。=中略=

 わたしたち追憶の一九六〇年代は絶対絶命のピンチをむかえていたのだ。
 ピッチャー「すばらしい日本の戦争」は帽子のひさしに手をやってわたしを見た。
 わたしは「すばらしい日本の戦争」にサインを送るためミットの裏に貼ってある乱数表をのぞいた。わたしは顔から血の気が引いていくのを感じた。ミットの裏に貼ってあるのは乱数表ではなく「東京拘置所出納係」の受領書(レシート)だった。

 =中略=

 「すばらしい日本の戦争」はわたしにサインを送った。
 ワカラナイヨ!!
 そのサインはほとどデタラメとも思えるほど複雑だった。そのサインを読解することは相手チームはもちろん、わたしたちのチームにも不可能だった。
 「すばらしい日本の戦争」はもう一度わたしにサインを送り、そしてニヤリと笑った。
 チョットマッテ! 今ルールブックヲミルカラ、チョットマッテ!



▼「暴力と言葉」=83年雑誌掲載・のち『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』=

「ジョン・レノン対火星人」発表に合わせて「現代詩手帳」に書かれたものらしい。

この小説は明らかに「連合赤軍」事件を背景にしているように思えます。この小説のテーマは「暴力」でしょうか?

「イエス」とも言えるし「ノー」とも言えます。あなたのおっしゃる「暴力」が、身体に直接加えられる「暴力」、傷つけ、殺めるという意味での「暴力」なら、現在のぼくには興味がありません。また、あなたのおっしゃる「暴力」が政治的な言語のかたちをとった「暴力」(これらもまた、殺傷能力をもっているのですが)なら、やはりぼくにはもう興味がありません。
 ぼくが興味をもっている「暴力」は、言葉の「暴力」だけです。しかしそれがテーマになっているのかどうか、作者本人にわかるわけがないではありませんか。少なくとも、ぼくはテーマを念頭において書いたりはしません。

 =中略=

あなたがもっとも「暴力」的だと感じる表現はどんなものでしょう?

もしひとつだけ挙げるとするなら、文学者たちが共同で作製し共同で署名するアピールではないでしょうか。それは「テロリスト」たちが行う「言葉」の抹殺の最も完成された形態であり、どんな政治党派のどんな「暴力」的行為も、その「暴力」の深さに追いつくことはできないのです。

*さてここから時が流れます。やがてベルリンの壁やソ連が崩壊、現代史は湾岸戦争へと転回し・・・



湾岸戦争と文学者の反対声明=91年2月=

若手の文学者が中心になって「戦争に反対する『文学者』の討論集会」が、今月九日と十六日、都内で開かれた。柄谷行人、中上健次、川村湊、田中康夫、渡部直己、島田雅彦の各氏が呼びかけ人になり、二回の集会にのべ約百三十人が参加した。十六日の討論会では、文学者がこうした署名活動をすることの是非をめぐって六時間も激論がつづいた。
 この結果、「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します」という一点で三十数人が賛同。これを受けて柄谷行人、高橋源一郎、田中康夫氏が声明文を起草し、今日午後、公表する。賛同者の顔ぶれを見ると、これまでこうした「運動」に批判的で冷淡だった人が多いのが特徴。 (読売新聞)

*なんだよ、これこそ「暴力」じゃないか! と言いたくなるのですが・・・



▼「『正義』について」=91年雑誌掲載・のち『文学じゃないかもしれない症候群』=

上の集会と声明について考えを巡らしています。以下は、柄谷行人から同集会に誘われた手紙についてです。

その文章の内容というのは、わたしの解釈では「湾岸では戦争がはじまっている。ところが、この日本ではわれわれはばらばらに飛びちったままなのだ。だから、顔を見ながらコミュニケートしてみようじゃないか。それは、最低のことより少しはましな行為なのだ」ということだったのです。わたしはその手紙の文面を何度も読みながら「これは奇妙だ。こんな変なことをいいだすとは、柄谷行人はどうかしてしまったのだろうか。だが、こんなにもおかしいということは、このことには本質的に重要ななにかが含まれているからではないか」と思ったのです。きわめて重要なことは、たいてい、きわめて奇妙な外観をしているものなのです・・・・。



▼「文学の向う側2」=98年『文学なんかこわくない』=

さらに時代は下って98年。再びあの声明についてあれこれ書かれるのですが、注目すべきは、それに絡んで、連合赤軍らしきグループと東京拘置所にまつわる過去が明かされていると読めることです。いくつか抜粋します。

 その時、京都、同志社大学の学生会館の一室にタカハシさんはいた。その部屋には、もう一人の男がいるばかりであった。=中略= 男はある党派の幹部で、彼はタカハシさんをオルグしようとしていたのではなかったか。

 =中略=

 翌年、タカハシさんは京都の大学を受験し、落ちた。それから横浜の大学を受け、入学し、その大学にあった党派に入った。あの男の党派ではなかった。
 あの男の党派はさらに過激になり、「戦争」をはじめたとタカハシさんは聞かされた。
 その年、タカハシさんは街頭で逮捕された。 

 =中略=

 あの男の党派は小さくなり、孤立し、都市を離れた山の中で彼らの「戦争」を続け、やがてどこかの山荘に立てこもった。タカハシさんは、彼らが警官隊に包囲され、やがて逮捕されるまでをテレビで見た。そしてたくさんの死体が見つかった。彼らが「戦争」で殺したのは自分たちの仲間たちだった。彼らは糾弾され、さらに時が流れた。
 一月一日の夜だった。タカハシさんはテレビの歌番組を見ていた。司会の芳村真理が、臨時ニュースです、あの男が東京拘置所で首を縊って死にましたと告げた。

参考までに。
『文学なんかこわくない』の「政治的」ということで考えをめぐらす(Junky)



▼『日本文学盛衰史』=01年=

なんだか大逆事件とか北村透谷まで関係ありそうに思えてきますね。

前に私が書いた感想です。
A LETTER FROM PRISON・続
されどわれらが日々1
されどわれらが日々5



▼「テロリストを撃て」=01年・雑誌『小説TRIPPER』の連載評論「文学へ」第2回=

最新号(冬季号)です。なんとまたあの声明が蒸し返される! テロ、暴力といったテーマがめぐってくるのは、歴史の宿命でしょうか、文学の必然でしょうか。う〜む。



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さて『ジョン・レノン対火星人』に戻りましょう。あの、カーブを打てなかったバッターは、そのまま失語症に陥り、ずっと沈黙を余儀されます。ようやく口を開くことができた彼が、あの時代について何か語ってみるとしたら、こういうものでしかないが、こういうものではありうる、というのが「ジョンレノン対火星人」という小説だったのではないでしょうか。彼は、死んだあの人が残した最後の作戦のサインを、80年代になっても実は示し続けていたのです。いや90年代にも、現在にいたっても。じゃその「ジョンレノン対火星人」作戦ってなんだろう。左翼の睾丸と右翼の睾丸を握りしめる?

そんなこんなで、首をつって死んだ人が3人いましたね。「三塁コーチャー」、党派の「あの男」、北村透谷らしき「あの人」。


Junky
2001.12.20

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著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net