金井美恵子
『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』
    について私の知らない二、三の事柄



        



◆『彼女(たち)・・・』の読書体験と、ウェブ日記のそれとの類似

金井美恵子の小説『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』(朝日新聞社)を、図書館でぱっと手に取ったまま読み始めた。レビューのたぐいを事前には目にしていない。だからこの小説が『小春日和』という小説の続編に当たることも、『小春日和』の存在すらも知らなかった。いやそれより金井美恵子のことをほとんど知らないのだ。しかしそのおかげか、たまたま行き着いた見知らぬ人のウェブサイトで、とにかく「ダイアリー」が面白く、「プロフィール」や「アバウト」は抜きにしてどんどん読み進んでしまい、そちらの文章力とこちらの想像力だけによってサイトの像や輪郭がしだいに出来上がっていくときのような、おなじみの快感があった。

路傍の私が、赤の他人たちを前に、あるいは赤の他人すら前にせずに語っている。そのはずなのに、なぜか、家に呼んだ友達に身辺の雑事を背景は承知とばかりに問わず語りで聞かせていく、そんな口ぶり。ウェブ日記を特徴づける性格だ。書くことの根拠・晒すことの根拠、そうした問いは、問わないで脇にのけておくことで答えたことになるのだ、とでもいった無謀な自覚があるのかないのか、ともかくひたすらひたすら書きつづられるウェブ日記。読む方としても、そうした文字ぎっしりのページにまた一つ出会い、うわ毎日ずいぶんたくさん書く人だな、読もうかどうしよう、もう夜中だしな、ちょっと迷いつつ、でも読んでいくと、ときどき自分の大好きなものが出てくるし、拘りも似ているようだし、遠巻きにしているつもりがだんだん中心に引き込まれていく。しかし、じゃあメールでも出すか、というとこれがなかなかそうはならない。なんでもない誰かのなんでもない日常を、同じくなんでもない私が、こんなところでこっそり分かち合っているということが、そしてこの人はそれをぜんぜん知らないのだということが、むしろ感慨深い。

もちろん、『彼女(たち)・・・』は、世界の知識や記憶のなかで、<日本文学>というカテゴリーの<金井美恵子>→<目白もの>といったディレクトリにちゃんと配置され認知されているのだろう。でも、もし、そうした配置を外してしまって、この小説をネット上のどこかに散乱させたなら、どうだろう。そんなことを空想する。そんなウェブ日記をネットに期待する。

もうこのへんで読むのをやめてもいいかという気はつねにしていて、でもあと1ページあと1ページと進んでしまうあたり、たぶん大団円とか結論とかいうことにはならないんだろうなというあたりも、『彼女(たち)・・・』は、ウェブ日記に似ていた。ただ、『彼女(たち)・・・』の文章は、1ページ目から最終ページまでがすべて永遠に固定されてはいるわけで、その点やっぱり本は安全だなという気分はある。昨日読んだはずの事件が今日は削除されたり訂正されていたり、ましてや膨大だった日記がある日突然まるごと「Not Found」になったりはしないのだから。

◆日常生活ローラー作戦

食べるもの、着るもの、生きるもの(人間)、そのディテールを描写していくとキリがないものなのだ。ましてやそれらどうしの関係とか、時空における位置づけをぜんぶ記述していくとなれば。 いや、そう単純に片づけなけないでおこう。これだけ微に入り細に入り書けるということは、それだけ書く内実があるということでもある。つまり、観察がそれだけ行き届く、あるいは想像と創造がそれだけ行き届くということであり、観察または想像するだけの視点が作者に存在し、観察の結果を整理するだけの構図や容量も存在するということなのだ。書かれた内容の執拗な具体性も、観察や想像がそれだけ具体的であるということを意味する。それが結果的に、渡辺和博の『金魂巻』っぽいスノッブな具体性を思い出させたとしても。

いやいやそんなことより、『彼女(たち)・・・』は(そもそも小説はどれも)、きょう私が見聞きした具体的な出来事を具体的に書きました、ということでは(たぶん)ない。その当然のことを今つい忘れていた。でも、考えてみればそれはとても凄いことなのだ。もしウェブ日記が、実在の人物の実在の日常ではなく架空の人物の架空の日常を書くのだとしたら、きっとすぐ行き詰まるにちがいない。その点、小説家は、かりにどれほど嘘つきであれ身勝手であれ、偉大だと思う。少なくとも大変だと思う。

それにしても、教養人をひそかに標榜している読み手なら、それについて自分はどれだけ知識があるかを気にせずにはいられないアイテムが、さりげなく(であるからいっそう)、いじわるく、どしどし登場してくる。最後のほうに「だめ連」まで出てきて、ははあと思った。

だが、それについて知っていることが、それについて知っていると書くことが、それの罪や穢れから逃れたことになるのだろうか。それの価値や栄光を手にしたことになるのだろうか。いや、なんとなくそうなるような気がしてしまう性向は、それが真実か欺瞞かはべつとして、実は誰にでもあるのではないか。何かを書くという行為には、そのレベルはともかく(日記に書いたりするという行為にも)必ずつきまとう調子のよさである。たとえばの話、テロについて私は知っていると書く、戦争について私は知っていると書く、差別について私は知っていると書く。そういう行為の中に、そういう調子のよさがある。その調子によさはいったいなんなのだろう。

『彼女(たち)・・・』について、ここにこうしてあれこれ知ったふうに書くことも、まったく同様。

◆CPUとメモリーの不足

金井美恵子が話題となれば必ず指摘されるのだろうが、あの長い長いセンテンスは、頭脳マシンが優秀でないとなかなか付いていけない。まず読書用アプリケーションの割当てメモリーをぐっと増やさなければならない。演算を素早くするにはCPUのクロック数も上げないといけない。かとって、古ぼけたマシンだとすぐフリーズしてしまうかというと、そうでもない。フォトショップなんかで巨大な容量の画像に複雑な効果を施したときにモニターがじわじわ更新されていくような感じではあるものの、いったん入り込んでしまうとなかなかやめられないところが、『彼女(たち)・・・・』の魅力である 。

しかしこういう文章を書くには、ワープロが便利だろう。というか必須だと思う。こんな長くて複雑な文章は、あちこち追加し削除しそしてあっちを入れ替えこっちを入れ替えと、仕上げまでに途方もない作業が要るだろう。金井恵美子はかなり昔からこの手の文体で書いているようだ。もし手書き原稿ならば、どうやって整理するのか。ちょっと想像できない。

保坂和志の小説を「ダラダラ文」と形容した場合、金井恵美子は、ただダラダラと言うには文章の入れ子構造が複雑多岐であり中身もぐっと詰まった感じがするから、やや違った形容がいいのかとは思う。それでも、勤労者または主婦という現代日本の堅気には属さないタイプの人たちばかりが、時代遅れのアパートに住まい、たむろし、終日ダラダラ考えたり喋ったりというところは、保坂小説と共通する顕著な特徴だ。同じく堅気でなく昼間っからダラダラこんな本に耽る人であれば、とりあえずほっとはするだろう。

このダラダラが過ぎるとどうなるか。ある話を夢中になって語り出すが、そこから次々にいろんなことが思い出されたり、誰かがそれを受けて別のことを喋りだすので、話はそのつどそっちに移行し、そっちの話がずっと続いた後で、ようやく元に戻ってくる。しかしそのころには、最初の話が何だったのか、語り手も読者も忘れている。『彼女(たち)・・・』はそんな展開の反復から成る。後からあの話題どの章のどのあたりだっけ?と探し出すのも容易ではない。

迂回という言葉が浮かぶ。もちろん、実生活の実問題の実解決のために、小説を読むことなどまったくの迂回でしかないということは、自明かもしれない。しかし、小説の虚生活の虚問題の虚解決という観点からみてすら、やっぱりどこまでも迂回しているかのようなこの語り。いや、それこそが正当な小説のあり方というものなのだろうか。・・・とかなんとか、慰めなのか諦めなのか分からない感想を持ちつつ、ややくたびれて本を閉じ、それでも気が向くとまたしおりのところを開くというのを、ページの続くかぎり繰り返す。

◆「生-なま-」の危険をはらむ臨場感

さっき、この小説をウェブ日記みたいだと考えてみたときに、ついこれが創作文であることを忘れた。それは、語り手のおばさんとして登場する純文学作家が、作者金井美恵子の分身みたいだからでもある。そういう点では、この小説は半分「生-なま-」として受け止めていいかもしれない。ところが、小説の中にはいっそう「生」っぽい事実が折り込まれてくる。

それはまず、おばさんの小説がある大学の試験問題に使われていたことがわかり、その問題をおばさん自身が解いてみたりするシーンだ。その小説というのが金井美恵子の『プラトン的恋愛』であり、試験問題は全文が書き写され大学名も横浜市立大となっているから、事実そういうことがあったのだろう(未確認)。

もうひとつ、おばさんがある経済新聞の日曜版に依頼されて書いたエッセイが没になったという話が、そのすぐあとに出てくる。しかも、没になった理由というのが、村上龍を名指しで批判したからだというのだ。そのエッセイもまた、小説の中にまるまる引用されている。これもどうやら本当の話だろうと読者は思う(同じく未確認)。

ちなみにそのエッセイは、登場人物たち(女性ばかり)が消費とか売春とかについて下世話におしゃべりしている場面で持ち出される。エッセイは、ゴダールが「売春婦というのは、交換関係全般をクロースアップでさし示すものなんだ」と述べていることや、そのゴダールの映画に現れる主婦の売春と現代の援助交際とが、極貧とは別の動機でなされる点がそっくりだということを指摘し、さらには、売買春を告発するのは大抵女性だったという事実を示す。それに続いて・・・

にもかかわらず、女子高生が売春をしている、ということに困惑し腹を立て説教しようと思い立ったのは、どうやら圧倒的に中高年以上の男が多かったようである。すなわち、買手の側である。
 そのなかでも、おかしかったのは、貧しさからの選択ではなく、ブランド商品を買いたいという売春の理由を、さかんに憤って情無がって日本の現状を憂えていた村上龍で、買売春が本質的にモラルの問題というよりは「交換」の問題であるならば、憤るより前に、「交換」の持つグロテスクさにこそ着目すべきだったろう。もっとも銀行への公的資金導入に憤って、その金額で何が買えるか、と計算して一冊の本(『あの金で何が買えたか』を作ってしまう村上龍なのだから、語るに落ちた、といったところだが。

こんなに高度な皮肉と示唆に富んだ評論とそのエピソードがひょいと挿入されるなんて、小説をコツコツ忠実になぞってきた読者へのちょっとしたプレゼントのように思えた。新聞に書いてボツになったという裏話は面白いし、村上龍を胸のすくやり方で蹴飛ばすのも愉快だ。『彼女(たち)・・・』の基調であったところの悪態が、このエッセイあたりからとりわけ激しくなっていく。

まあこういう話題、あるいはもちろんその他さまざまな話題をめぐる登場人物たちの会話には、その場に参加しているような、というかちょっと参加してみたいような臨場感があると思った。ただしそれは楽しさ7割、緊張感3割の臨場感だ。たしかに、議論に口を挟んだり試験問題を一緒に解いたりもしてみたい。しかしそのときは、悪態の集中砲火が自分にも向けられることを避けられないだろう。誰しも無傷ではいられないのだ。一方、その会話の場面としてアパートで繰り広げられているバーベキューの宴に参加してトウモロコシを食べているような臨場感があるかというと、それはない。読書とはやはり、身体を使うことではなく、脳ミソを使うことにほかならないのだろう。


Junky
2001.12.13

日誌
迷宮旅行社・目次
著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net