▼TOP
▼日誌
路地に迷う自転車のごとく
▼迷宮旅行社・目次■これ以後
2004.8.31 -- ポスト・ムラカミの日本文学(再読) --
●日本の現代文学の流れを語るとしたら、村上龍と村上春樹の出現がまったく新しい局面をもたらしたというあたりまでは、もう定説のようだ。しかしそれ以降80〜90年代を含めた概説となると、いまだに「どこをどう辿っていいのやら」だったと思う。そこに初めて示された簡潔にして絶妙なチャートが、仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』(02年刊)だった。文学オンチのあなた! もうクイズ・ミリオネアでこんな問題が出ても心配いりません。「90年代に、ルームシェアという題材を、単なる風俗ではなく、新世代の微妙な人間関係として、描いた作家は誰? ―― A村上春樹 B阿部和重 C吉田修一 D星野智幸」 ●あっと膝をたたく最大の読みどころは、85年のプラザ合意こそが文学の曲がり角でもあったと洞察している点だ。その結果円高によって米国カルチャーの流入が加速したことの影響を重視したうえ、そこからバブル崩壊に到るまでの日本の変貌を、文字通り日米経済戦争と位置づける。その視点によって、90年代にデビューした阿部和重の初期作品を、グローバル資本の植民地あるいは戦時下だった渋谷の風景として読み解く、などしていく。●なお、このチャートが見渡している時代の源流に当る村上春樹、村上龍、高橋源一郎といった作家たちは、同書はもちろん的確に解説し大いに評価している。そのうえで、もう一つ読みどころを挙げるなら、現在の村上春樹への批判だろう。上にあげた資本主義の変貌に対して戸惑いを示して以降の村上春樹は、オウム事件と阪神大地震という理不尽な力に対して有効な答を出せなかった、と断じるのだ。それに加えてテロと戦争に象徴される深刻な暴力やコミュニケーションの困難に彩られた現代は、《…もう、「アメリカ」のポップカルチャーを武器にして古い日本と戦うだけでは新しい小説は書けない時代》と考える。●こうした状況で同書が注目するのは、もはや村上春樹ではなく、二人の村上の文学をそれぞれに受け継いだ新しい作家たちだ。阿部和重、吉田修一、星野智幸、堀江敏幸、町田康、赤坂真理の名前が挙がっている。(舞城王太郎などメフィスト系の作家は、02年刊ということもあってか、言及されていない)●さて、同書を読んでいると、自らの体験としてよく知っているここ20年余りの世相と、同じくそれなりに読んできた同時代の小説とが、あまりにするすると結びつく。すると快感と同時に妙な不審にもかられる。一つは「これは自明ではないか、単純すぎないか」という思いだ。これはしかし、このチャートがあまりに正しく機能するので、「こんなこと自分だってとうに分かっていたはずさ」という錯覚が生じているだけなのだろう。●もう一つは、同書も我々も当然の前提にしていると思われる「小説とは時代を反映するものだ」という基本的な分析態度に対してだ。とりわけ経済史に下支えされた小説史がここでは展開されていると言える。これについてはこう思う――。政治経済社会文化にまつわるどんなファクターでもそれを抽出して座標化し、そこに目立った小説作品を年代順にポイントし結んでいくなら、必ずなんらかの線形のグラフが描かれる。それは当たり前のことかもしれない。しかし実際の文芸評論は、その基礎資料作成を、「自明のことだから」という言い訳のせいか、あるいはなんらか正当な理由があるのかはともかく、近年は大いにさぼってきたように見える。同書のように一般性のあるファクターを的確に選んで有意なグラフを描くという感度自体が、鈍っていたようにも見える。その結果、文学オタクと文学オンチの乖離は広がるばかりだった。そうなのだ、同書は、文学好きだけでなく文学嫌いでも日本の現代文学をさっと一覧して納得できる。そこがなにより有益だ。
●それに関連して。たとえば今どきプラザ合意をまったく知らなければ「経済オンチ」と言われるだろう。それはたぶん、村上龍と村上春樹の区別がつかない「文学オンチ」、辻と加護の区別がつかない「芸能オンチ」にも似ている。しかしこういう経済オンチや文学オンチを増やすも減らすも、経済オタクや文学オタクの側が、経済や文学をどのように共通の言葉で語れるかにかかっているのだから、担当の皆さんは頑張ってほしい。●しかしいっそう重要なことは、このプラザ合意が経済のみならず文学の重要ファクターだったらしいという点にある。つまり、文学オンチや経済オンチにならないために、それぞれのオタクになる必要はないにしても、どちらか一方が完全にオンチであったら、すなわち両方のオンチになってしまいかねない、ということ(プラザ合意を知らずに阿部和重は語れないし阿部和重を知らずにプラザ合意は語れない、かもしれないということ)。ここ数年いろいろ本やネットを読んでいて、中くらいでいいから各種オンチだけはなるべく回避できる共通の知恵というのが欲しいと思っていて、それは一般的な努力でなんとか可能なんじゃないかとも期待している。「プラザ合意文学論」というのも、文学や経済の区分けを超えて重要な、中くらいのチャートなのだ。
●「小説とは時代を反映するものだ」という前提については、もう一言。●《国内外の政治情勢の激動にもかかわらず、90年代初頭の数年間、日本では見るべき新しい小説が、ほとんどと言っていいほど生まれてきません。》/《海の向こうの戦争に気を取られているうちに、日本国内がグローバル資本主義の戦場になりつつあることに気づいている作家はとても少なかったのです。》/《ぼくはハシのその後の物語を書くことが、村上龍以降の日本文学の一つの課題になったような気がします。》/《かつての村上春樹のように、「高度資本主義」に対して「やれやれ」と言っていればいい時代ではなくなってしまったのです。かといって、いまさら「高度資本主義」以前に戻ることもできません。》/《(オウムの事件や阪神大震災に関して)…コミュニケーションの可能性が全く存在しない、まさに理不尽な力の発現でした。絶対的な他者のような存在を、どのように小説の表現に織り込むかという課題を、世代を超えて、作家たちに突きつけたように思います。》●我々は小説というものを、世相や歴史の反映として、さらには先行する小説の反映として、読み解き見通そうとする。それは文学史を綴る当然の態度だろう。実際にリーズナブルな効力も発揮するだろう。上に引用したように、同書もまたそうした作業をしているし、80〜90年代の核心を突く作業だったとも思う。それでも、そもそも小説を書くということの動機は、それどころか小説を読むということの動機も、少しも自明ではないと感じることも、我々はある。●小説という、たぶん出来上がるまでは、あるいは読み終えるまでは、とりあえず正体不明の文章をめぐって、書き手も読み手もそれぞれ孤独に言葉をつむぎ闇雲に言葉をつなぐ。カオスと秩序がせめぎあうような複雑な感覚と言いたい。したがって、またもや比喩になるが、そうした小説の発生と連鎖を分析する座標として、必ずしもグラフが線形になるような共通ファクターを用いなければならないというわけではないだろう。いわば非線形の目茶目茶なグラフにしかならないようなところにも、なにか思いもよらない真相が隠れていると思いたい気持ちもある。それは分析できないがゆえにいくらでも神秘化できるところが、厄介なのだが。●とこういうことを考えると、またもや保坂和志の「小説をめぐって」(新潮に連載中)が、まったく漠然としたつながりでしかないが、思い浮かぶ。(その第五回)
2004.8.29 -- 脳内無差別発注 --
《こっちにいると、amazon に発注してから届くまでに 2、3週間かかるでしょ。だからいっぺんに50〜100冊くらいざっくり注文することになって、自分の目で確かめて選ぶのに比べると、ハズレ率が10倍くらいになっちゃうから、お気に入りを絞るなんて贅沢なことはやってられなくて。》(『リリカの仮綴じ〆 』より)●お気に入りを絞るという贅沢の前に、私がしてみたい贅沢はもちろん、死ぬまでに一度でいいから本を50冊〜100冊いっぺんに注文してみるという贅沢だ。さらには、それ自体が贅沢だなどとはひとつも口にしないような贅沢だ。●そんな贅沢は生まれ変わらないとできない。中年ならそう感じてしまう。だがじつは青年も似たようなもので、今そんな贅沢はできない青年が中年になればできるようになるというのは一般的でなく、大半はけっきょく生まれ変わるしかない。――とはいえ望みを捨てないことは自由だ。まあ5冊〜10冊くらいから始めてみようじゃないか。いやべつに日本在住のままでいい。青年でも中年でも老年でもいい。●それでも、ある高校生が現在こういう贅沢に恵まれているかいないかは、知能の差もあろうが、まずは経済の差だ。つまり単に親が富裕か貧乏か。バカの壁よりカネの壁。●同じ地球の裏と表にあって、いやそれよりも、狭苦しい同じ国の近所やブログの近所にあって、こうしたいかんともしがたい圧倒的な不均衡を知り、それによって、いかんともしがたい可笑しさや哀しさではなく、いかんともしがたい怒りに囚われてしまうとき、人はテロを夢想するのかもしれない。たとえば、恵まれた誰かのIDを盗みだし50万〜100万冊の本を勝手に注文してしまえという無差別テロ。それがダメなら恵まれない自分のIDでそれをやってしまえという自爆テロ――いやこれじゃ単なる自爆か。しかしそんなことをするくらいなら、これくらい恵まれた娘を一人自らが育てあげる夢想に生き甲斐を見いだしたほうが、いくらかはマシというもの(脳内やネット内でもいいから)。
●それにしても。書籍をたとえば月に100冊コンスタントに購入している人は日本中だと何人くらいいるのだろう。たぶん私の身近にはいない(身近な高校生にはもっといない)。だが「はてな」にはいそうだから、ウェブというのはなかなか果てしなく捩れた世間だ。
●しかし一方、日本のオリンピック選手は今回312人で、約40万人に1人という計算になる。その希少さは「アマゾンでいつも50冊〜100冊ざっくり注文する人」の希少さをも上回るのではないか(逆に、日本で最も本を多く買う上位312人は、いつも何冊くらい買うのだろう、恐ろしい)。●こういう想像をしていて、ではメダリスト級の金持ちとはいったいどれくらい凄いのかと気になった。長者番付(参照)を見ると、国民平均の100倍から1000倍にも達するようだ。ただこんな数字、ふだんはよそ事に思っている。でも、たとえば「本を月1冊買う人:本を月100冊買う人」の格差も絶望的だが、所得の格差はそれを上回って気が遠くなるほどなのだということをたまには実感したほうがいい。それはもう私の前を北島が泳いでいるほどにぶっちぎりの富裕なのだ。やはりいかんともしがたい。…というか、さすがにいかんよそれは。
2004.8.28 -- 銀メダルになにか注射すると金メダル --
●アテネ五輪のハンマー投げ金メダリストにドーピング疑惑。以下余談―― ●「88年ソウル五輪のベン・ジョンソン、幻の金」が有名。しかし、ジョンソンがルイスより速くゴールしたあのシーンが幻だったというわけではない。だから、もやもやした気分が残る。薬物で筋肉を増強したにせよ、人間ひとりがその身体だけを使って100mトラックを9秒79で走り抜いた事実はなかなか捨てがたく思われる。●今回のハンマー投げはテレビで見ていた。優勝したハンガリーのアヌシュは室伏など問題外に絶好調で、そういえば投げた後の挙動も尋常ならざるハイテンションだったけど、さては! …なんていうのは冗談として、ともあれ、アヌシュの腕と全身の筋肉でハンマーがあそこまで飛んだのは事実。ハンマーに細工をしたとか、超能力で浮遊したとかいう話ではない。●オリンピック選手などはみな、いずれにせよ人間離れした技法で人間離れした身体を造形しているとも言える。金メダルの価値を評価しない人にとっては、その特異な営為そのものがドーピング人生と映るかもしれない。●あるいは、自己暗示とか催眠術とか細木和子の占いとか、そういうものの効果で好成績が出たような場合は、どう考えればいいのだろう? 肉親から洗脳に近いメンタル訓練を施され本来の実力とは裏腹に勝ってしまった(あるいは負けてしまった)場合とか。魂のドーピング? ●ついでながら、ちょっと気になっていたのは、女子バレーの選手などが首にかけていたアレ。これかな? →参照。「磁気の作用で身体能力が不自然なほど増強されます」(とは書いてない)。
2004.8.22 -- 面白くなければ「面白くない」 --
●古い話になるが、27時間テレビでは極楽トンボの加藤が律義にマラソンをし、想定内か想定外かどっちでもいい気分のなか番組終了までに局へ到着できず、代わりにかどうか知らないが加藤の義父である深野さんがなぜかフィナーレを飾っていたのが、とりわけ印象的だった。だからやっぱり24時間テレビで杉田かおるが律義にマラソンをしているのはやっぱり壮観。べつに見ないのだけれど、テレビのチャンネル移動中にそのくらいのことは感じる。●というわけで、冬ソナ最終回もオリンピックの自転車もNHKBSの映画も終わって、さすがにもう寝ようかという最終のチャンネル移動中、24時間テレビではお笑いタレントが集合してワイワイやっている場面だった。●巨大な先輩の姿を若手に語り継ぐという趣向。ビートたけしの偉大さは、テレビで「臨時ニュース」テロップを過去4回も表示させたところにある、などと浅草キッドが言う。そのたけしは、飲食店などで若手の芸人が来ているとわかると、見ず知らずであってもそっと勘定をすませてやるのだ、といった裏話に、へえと感動する。●でもここでぜひ紹介したいのは、その後のダウンタウンにまつわるエピソード。語り手として板尾、ほんこん、山崎の3人が出てきた。ほんこんの耳たぶを浜田が2時間くらいずっといじりっぱなしでキャッキャキャッキャ笑っているという話もすごかったが、なるほどそうかと興味を引かれたのは、板尾がさらっと喋ったこと。ダウンタウンとのつきあいでは、松本浜田ともに酒を飲まないこともあり、みんなで喫茶店などに行ってただ延々ダベって過ごすというのだ。わざわざどこかへ出掛けたりお金をかけて特別なことをしたりはしないらしい。「自分らは基本的にトークやから」と板尾は言う。●ただ喋りあうという、それだけを材料に、それだけを手段に、どこまでも面白がっていくことが、面白がってみることができる。それを最もよく体現している点が、松本を中心にしたこの集団の特異性なのかもしれないと思った。●ところで、お笑いというのはまさに「笑い」という生理的な反応を伴う。だから嘘はつけない。とにかく笑えれば「面白い」のだし、笑えなければ「面白くない」。芸人によって面白さは多彩であり、どう面白いのか説明しにくくて悩むことはあるものの(若手芸人の名をどう区別して覚えるかの悩みもある)、「笑えた」かどうかの判定に悩む必要はない。●そのあたり、小説や映画ではちょっと事情が違う。同じ作品について、さっぱり面白くなかった気がするかと思えば、ものすごく面白かった気もする。だれかが「面白い」と言うとそういう気がしてくることも、正直ある。その面白さを説明できないだけでなく、面白かったのかどうか自体が明瞭とは言えないのだ。お笑いの面白さの証しが「ワハハ」であるように、小説が「面白い」ときにも、なにか身体が「○○○」と反応すればいいのにと思う。あるいは難しい本を読んでいて、「わかったのか」「わからなかったのか」自体がわかりかねることは多い。これも「わかった」ときだけ「△△△」と顔の筋肉や声帯が動いてくれれば、わかりやすいのに。●ただそうした場合、たとえば夏目漱石、村上春樹、舞城王太郎がそれぞれ面白いとしても、いずれもかなり固有の面白さであろうに、反応としては一律「○○○」になるのだとしたら、それはそれで腑に落ちない。いやむしろ逆に、お笑いならいくら趣のちがう芸人でも「ワハハ」という身体の反応は一緒になっているわけで、そっちがそもそも謎なのだとも言える。
●で、その難しい本の話になるが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を「幸福に生きよ!」に狙いを定めた著作として読み直すことが可能だと、野矢茂樹も述べている(岩波文庫の訳者解説)。自分がこうして受けとめている世界がどのようなものであるかを正確に知ることとは無関係に、自分は幸福であることができるし、幸福でないこともできる。そして、幸福がどういうものであるかを語ることは不可能だが、幸福であること自体のなかにそれが示されることは可能だ。―といったようなことになる。●この「幸せに生きよ」というのを「面白く生きよ」というふうに言い換えてみると、ウィトゲンシュタインとダウンタウン両者の境地が少しわかってくる気がしないでもない。いやしかし、「△△△」という反応が起こらないので、やっぱり全然わかっていないのかもしれない。●《私の世界は「笑う意志」に満たされなければならない。事実を経験し、そこからさまざまな思考へと飛躍していくだけでなく、その世界を積極的に引き受けていこうとする、その意志である。どのような世界であれ、笑う意志に満たされうる。そしてどのような世界であれ、笑う意志を失いうる。》(これは野矢の解説の一節だが、ためしに「生きる」を「笑う」に換えた)
●ついでながら、お笑いを「笑い」で測るがごとく、経済とはお金の量で測るものに他ならないから、「稼ぐが勝ち」(参照)が真理であることは、《侵しがたく決定的であると思われる》。ウィトゲンシュタインさんなら「これで経済という問題もその本質において最終的に解決された」くらい言うだろう。とはいえ、彼はさらにこう書く。《…本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを示している点にある》。●しかしまあ、この言い草は、崇高な教典のようでもあるが、インチキ宗教の負け惜しみのようでもある。ウィトゲンシュタインに帰依するのもいいが、「幸福とはお金によってだけは語りうる、測りうる」と宗旨替えするのも、21世紀の日本人にはふさわしいのかもしれない。あるいは「幸せに生きるとは、ひょっとして、笑って生きるということのうちに示されているということなのでは?」とか、お笑い好きテレビ中毒日本人として解釈するのも悪くない。
2004.8.18 -- 水の世界 --
●「チョー気持ちいい」の北島選手は、自分の身体と内面がそのまま「世界」に通じ、かつ「世界」にしか通じていないようにみえるから、「セカイ系」と呼んでいいのかも。そこでは「日本」といった中景のもたもたした回路は、あっさりショートカットされていたりして。さきほど200m準決勝後のインタビューでは、ライバル「ハンセン」の名前もド忘れするし。でも「荒川」はちゃんと存在するとか。●それにしても、「これで自信がつきましたね」「そんなきれいごとじゃないと思います」(福原愛、初戦辛勝で)にはウケた。●さて私はいつからこんなスポーツ好きに?
2004.8.17 -- Welcome to --
●『ホテル・ニューハンプシャー』(ジョン・アーヴィング)。●人生がもう終わろうとする人には優しい物語がいいし、人生がいま始まろうとする人には激しい物語がいいだろう。でも、そのどちらでもない中途半端な年頃(中年)で、しかも過去にも未来にも凡庸さや疲労しか見いだせない程度の敏感さは培ってしまった者に、それでも心の態勢を整え保っていくための手がかりを期待させる、そんな物語たりうるには、優しさや激しさは並大抵ではダメだ。人生は素晴しいとか人生はくだらないとかの感動ですませるのは、書くほうも読むほうも案外簡単なのかもしれない。しかしそれ以上に、オレの半生だって「けっこう素晴しかったのかも」という調子の良さや、「ああ実にくだらなかった」という調子の悪さも、中途半端に使い古してしまっているわけで、そんな埃をかぶった薄い蒲団みたいな半生を、今いちど日干しでも打ち直しでもしてみようかと改心させるほどの、素晴しい、くだらない、優しい、激しい物語というのは、なかなか無いんじゃないかと思う。『ホテル・ニューハンプシャー』はいい線いってた。●この作品を「レイプによる苦悩を克服する一家の物語」と捉えてみて、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』を思い出した。『重力ピエロ』は、編集者自らが帯で絶賛するほどではないにしろ、面白く前向きな小説だった。しかし、たとえばレイプ犯が絶対的な悪人でしかないあたりに、なんとなくの物足りなさというか限界みたいなものも感じた。それに比べ『ホテル・ニューハンプシャー』は、レイプ犯の処置も含めて明らかに複雑な小説なのだ。『ホテル・ニューハンプシャー』http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102273034/
2004.8.16 -- 夏バテの果て(追加あり) --
このところ舞城小説をけっこう集中して読んでいた。だがその特異な感触は、やっぱり尻尾がつかめない。感想をまとめようとしてもすぐ煮詰まってしまう。たぶん東京で真夏日が続いているせいだな。と、そうこうしているうちに40日間! そうこうしているうちに、芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる。』も書籍になった。ファウスト創刊号に載った「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」も収録されているらしい。というわけで、以下はまるきり中途半端で先行き不安だが、いったん外気に当てよう――。*
「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」の冒頭、語り手の「俺」は頭蓋に金属ドライバーを突き刺される。半死半生の「俺」の前に次のような光景が広がっていく。
《それは白くて大きくて眩しい花だった。葉っぱがなくて花びらだけで、でもめしべやおしべみたいな突起があった。その花は動いて膨らんで増えた。泡立つみたいにモコモコ新しい花が咲いて開いて膨らんだ。俺の目の前、足元、血まみれの床の上に湧き立つその踊る花は俺を取り囲んで俺を塞いで俺を飲み込んだ。花からは夏の雨の匂いがした。花びらは実際にしっとりと濡れていて、俺の肩の上、首筋、鎖骨にそっと触れたときに、俺をゆっくりと舐めた。目を瞑っていても花びらが眩しくて、俺の視界は明るかった。》
ある種のドラッグがもたらす鮮やかな幻覚を忠実に描写していったら、こんな風になるのだろうか。そう考えてハタと気づいた。舞城王太郎の小説を読む感触とは、もしや幻覚に似ているのではないかと。形容しかねていたその奇妙さ強烈さを、たとえば「言語中毒」とでも呼んでみてはどうかと。
よく知られている通り、五感による外界の知覚は、ことごとく脳神経系の反応に随伴している。反応をコントロールするのは、つまるところ脳内の化学物質だ。そこが乱れれば五感も乱れる。逆に、同じ作用をもつ薬物を注入すれば脳は同じように反応し、実際には無いものが有るようにも感じられる。こうした脳の障害やドラッグの服用で起こる幻覚は、通常の知覚と原理的には区別がつかないという。花の色や雨の匂いがそこに感知されるなら、それは現実かどうかに関わらず同じようにリアルというわけだ。
「ドリルホール」では、福井県西暁町に住む加藤秀昭がまず「俺」として語り出す。やがて、「俺」の脳に差し込まれたドライバーを捻ることで、「僕」という語り手が出現する。「僕」は村木誠で東京都調布市に住んでいる。ところが「僕」の体験や記憶は、「俺」にもまったくリアルに感じられる。調布および村木は自分の脳内にある世界および人格なのだと「俺」は解釈する。ドライバーで頭に穿たれた穴を裏返すと、「俺」の脳の内部が調布の世界として出現する、という構造でもあるようだ。そこでは穴のへこみが鉄塔という出っぱりに転じているのも面白い。さてそれ以降の出来事は調布の村木の身に起こっていると考えられる。それを「俺」と「僕」が頻繁に切り替わりながら語っていく。舞城小説の常として突飛すぎる出来事ばかりだが、いずれも「僕」にはリアルな現実であり、「俺」にはリアルな幻覚ということになろう。
こうした現実と幻覚の交錯はこの小説全体を覆っていて、いかにも目を眩まされる。しかし舞城小説を「幻覚」と形容したのは、別のところに焦点がある。
私がふと拘ってしまったのは、こうした幻覚の叙述と現実の叙述とが、なにも別様の文字や文章で出来ているわけではないという愚直な事実だ。いずれのページも書かれた言語として区別できない。したがって、読むという体験そのものは同一でありうる。ではそもそも小説を読むという体験のリアルさは、現実と呼ぶべきなのか、幻覚べきなのか。
でもこの問いはナンセンスか。なぜなら「俺は白い花を見た」という文章を読むとき、現実の白い花も幻覚の白い花もどちらも見えないのだから。それはただ白い花を想像する体験に近い。正常な知覚(現実)でも異常な知覚(幻覚)でもない。それでも、舞城小説を「幻覚」と形容したいのは、読んで巻き起こる想像がどうも正常な反応におもえず、薬物の作用で不自然に引き起こされたかのように感じられるということだ。
薬物があるとしたら、小説として書かれた言語がそうだとみなすしかないだろう。小説を読むときは、たとえば「俺は白い花を見た」という言語が直接そして必ず作用してくる。この点こそ、小説を読む体験が、なにかを想像するという一般的な体験と完全に一致しないところだ。しかし、あまりに自明だが、あらゆる小説が言語で出来ている。それなのに舞城小説だけを「幻覚」と感じるのはなぜか。おそらく他の多くの小説を読んで巻き起こる想像が、あたかも自然な作用であり、それを巻き起こす言語が「現実」であると感じられることの裏返しだろう。それはすでに述べたとおり、他の多くの小説の内容が現実的だという意味ではない。問題は、小説が読み手に巻き起こす反応の質の違いだ。
ところで、冒頭に引用した白い花の光景は、脳の異変による幻覚だと「俺」はすぐ気づく。同時に、脳をいじれば自らの知覚が変化すること、ドライバーを捻ることでそれが自在にコントロールできることを「俺」は知る。
《でもここに一つの例と方法があったわけだ。完璧な表現というものが存在するのだ。まずプラスドライバーを、死なない絶妙さで頭にガチーンと突っ込む。》
これは、小説という文章のコントロールについて述懐しているようでもある。外界ではなく脳内、現実ではなく言語、内容ではなく表現、そこへ直接アクセスしそれを直接コントルールすることで、あたかもドラッグ中毒に似たリアルを一気に生じさせる。そんな方法論を暗に示しているかのように読めたのだ。
(続かないかも…)
*
「好き好き大好き超気持ちE。」じゃなくて、「好き好き大好き超愛してる。」について。
ストーリーが一貫する章(A)と、それに関連せずそれぞれ独立した章(B,C,D)が、交互に配置された構成(BACADA)になっている。これがABACADAなら音楽でいうロンド形式じゃないか。だったら、繰り返されるAと挿入されるB,C,Dがまったく異なる旋律であっても別にいい、などと納得してみる。
それとも、Aという主題があって、それを独自の解釈でそれぞれ変奏したのがB,C,Dなのか。で、その主題とは「愛する者の苦しみを自らの苦しみにできるのか」「その者が死んでも永遠に愛することはできるのか」といったナイーブという形容がぴったりの問いかけにも見える。または、単純に「小説を書くという祈りで奇跡を起こそう」が主題であり、それを「小説を書くという祈り」自体の実践として展開した、と言いくるめることもできそうだ。一言でいえば、それぞれ「恋愛中毒」あるいは「言語中毒」だが、私には後者の主題のほうがまだ好ましく感じられる。
しかしそうではなくて実は、C章「佐々木妙子」こそが全体を解きあかす鍵なのではあるまいか。そこで講じられ演じられる夢というからくりを作品全体に無理やり当てはめれば、一つの面白い夢がバラバラに飛び散ったものが6つの章なのだ。しかしどれも壊れたり荒らされたりしているので、だれかが夢を直していかねばならない。書くことと読むことのどちらもが、夢を壊す作業であり夢を直す作業でもある、のかもしれない。
2004.8.10 -- 放射能のかわりに蒸気が漏れた? --
●福井県美浜町にある関西電力の原子力発電所で、タービン側の配管が破裂して高温の蒸気が大量に噴出し、作業員のなんと4人もが全身に火傷を負って死亡してしまった(ほか2人が重体)。●日本の原発事故として史上最悪とも報道されている。もちろん99年に東海村の臨界事故で死者が出たのは記憶に新しいし、原発が集中する福井県では、悪名高い高速増殖炉もんじゅでナトリウム漏れという事態が95年に起こっている。しかし今回はそれらと違って、電力供給の柱として実質的に稼働している原発だ。いや、さらに昔の91年には同じ美浜の原発で、原子炉側の細管が破れて放射性物質が海や大気を汚染するという事故もあったのだが、人体被害はなかった。だから、そうした根幹インフラの運用において、今度はついに死者が出たということになる。●(以下冗長) しかしなんとも微妙なのは、その商用原発の最初にして最大の惨事が、誰もが怖れていた放射能とは無縁だったということではないだろうか(タービン側の破損が原子炉側の深刻なダメージに結びつく可能性もあったのではとも思うが、そうした指摘はあまり見かけない)。●もう20年以上も昔、私は福井にいて、ある喫茶店で「原発おおいに結構」という人と議論したのを思い出す。原発を一応批判する私に対し、その人は「石炭エネルギー等では多くの人命が落盤などで奪われてきたが、原発のせいで死んだ人はいない」と強調した(チェルノブイリの事故はまだ起こっていない頃だったか)。その人は「ソ連が攻めてくるから日本は軍備増強すべきだ」とも言った。私は「ソ連が攻めてくると言うけれど、ちっとも攻めてこないじゃないか」と小田実みたいに反論した。そんな時代だった。どちらの議論も当時からすでにありふれていたのだが、今だに正解はわからない。●ともあれそれから時は流れて、上にあげた91年の放射能汚染、95年のナトリウム漏れは、原発であるがゆえの重篤な事故や災害だった。だから原発反対論者はそのつど「それみたことか」「言わんこっちゃない」と主張した。しかし一方で、原発で事故が起こっても辛うじて死者が出ない程度には日本の原発は大丈夫なんじゃないか、とそんなふうに考えた者もいたはずだ。●では今回の「放射能なし、犠牲者多大」の事故を、どう捉えればいいのだろう。蒸気がタービンを回すという原理は火力発電も同じらしいので、その点では、原発特有の惨事でもないのだろうか(詳しく知らない)。またこの事故は「とにかく放射能は出なかった」と評される。放射能の不気味さは、地元の住民に無限に近い不安を常に与えてきたし、同時にそれは不気味にマヒしてきたようでもあるが、さらに不気味なことに、放射能は今までのところ取り返しのつかない汚染にまではなぜか到っていないのだ(たぶん)。つまり「クリーンで安全な原子力発電」は、電気を使って暮すだけの大阪や東京でのみ成立しているのではなく、地元においても、いや発電所内においてすらそれなりに成立している。ただ今回は作業の人だけが、放射能とは別の思いがけない形で、クリーンでも安全でもない最悪の状況に置かれていたということになる。もっと言うと、日本の先端技術を極めた原子炉の側で放射能が限りなく精緻に制御されているのと裏腹に、なんだか低技術な蒸気やタービンの側で現場の人間だけは杜撰な危険に曝されていた、というふうにも見えるが、実際はどうなんだろう(わからない)。
●最近、郵便小包みの配達にムカムカすることが多いのに比べ、民間の宅配サービスの迅速さ細やかさには恐れ入ってしまう。利用する側にとっては「快適で便利な宅配サービス」だ。ただそうした物流の精緻な制御のツケが、きっとトラック運転者や高速道路を杜撰な危険に曝しているに違いない。電力による快適や便利が限りなく増し、しかも放射能はどうにか漏らさないなかで、蒸気だけが大いに漏れたというのが、構図として重なる気もする。あるいは、世界経済の先端に位置するエリアがクリーンさ安全さをどんどん確実にしていくのと裏腹に、ちょっとわきにずれたエリアでは低技術の汚く危険な戦闘や自爆テロが頻発するというのも、似ていなくもない。WTCの崩壊だけは、まさに「メルトダウン」のイメージだったけれど。
●話はどんどんずれていくが――。まだ日も高い時刻に近所の道を歩いていて、勤め人風の男性とすれ違い「どこかで見たなあ」と思うと、「ああ郵便局の人だ!」ということが時々ある。それも3人それぞれに。家路に着くのがそろって早い(彼らとやけに出会う私もどうかと思うが…)。おかげで4時には切手すら買えない。しかし一方で、なんの変哲もない住宅地であるうちの界隈に、一家の親父がちゃんと稼げる事業所というのはめったにないが、あの特定郵便局だけは例外だ。●「小泉よ郵政民営化がんばれ」と言いたいのではない。では何が言いたいか――よくわからない。ただ、郵便局員も過労死するまで働けと迫るよりは、我々みんなが近くに勤めて日の高い時刻に歩いて帰れるような経済社会だったら、小包みの配達が少々不便でも楽しいのにな、と夢想する。宅配サービスの快適や便利は素晴しいが、そのおかげで働く人があまりにも不快で不便なのは、どうかと思うのだ。世界全体がもうちょっとノンキにやって、うまくいかないものだろうか。まあ原発の構造や点検がノンキだったら、大勢の命にかかわるわけで、やはりダメなのか…。いやノンキと杜撰は違うとも思うのだが…(結論なし)。
2004.8.2 -- といっても「計画」しか合ってないんですが --
●キリスト教会テロで「イラク計画実行委員会」なる組織が犯行声明とか(アサヒコム)。ふと「東京ミキサー計画」を思い出す。赤瀬川原平らが60年代のパプニング行為にもっともらしくそんな名称を冠していたのだ。有名か。でも毎度思うのだが、偽千円札も櫻画報も路上観察も老人力もあるのであり、この人物とその活動の巨大さは、20世紀の最重要項目になるくらいでなければ見合わない。そういえば芥川賞も取っている。●『美術手帖』がちょうどその赤瀬川原平特集だ。その中で、誰が書いたか不明だが、訴訟が続行中の「落書き反戦」のこと、はたまた東京都の「ヘブンアーティスト」のこと、などを雑多に織り込んだ記事が目にとまった。いやたとえば、もしこの「東京ミキサー計画」実施にあたって、まずは慎太郎の都庁にお伺いを立て、芸術であるかどうかの裁断を仰ぎ、公共での活動を認可していただく、などという一連の素敵な手続きを想像してみよう。馬鹿馬鹿しさの熱中症で即刻倒れてしまいそうじゃないか。●「東京ミキサー計画」と「ヘブンアーティスト」のソリの合わなさは、アルカイダとホワイトハウスの齟齬と同じくらい絶望的に深刻だ。だがそれはそれとして、この「イラク計画実行委員会」には「東京ミキサー計画」を受け入れる余地があるのだろうか。あるいは「東京ミキサー計画」なら「イラク計画実行委員会」にどう対処するだろう。興味深いが難問だ。とりあえず、「東京ミキサー計画」は出現したけれど「イラク計画実行委員会」は今のところ出現していないような都市に住んでいることを、愛でたく思うばかり。●まったくついでながら――。舞城王太郎「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」では、語り手である「俺」の頭に穴が穿たれたている。その穴を裏返すと、あら不思議、脳内の「僕」が住んでいる世界が出現。その裏返った世界では、くぼみだった穴が鉄塔という出っ張りとなって現れている。ちょっと赤瀬川原平「宇宙の缶詰」っぽい。
■04年7月■日誌 archive
著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)