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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.6.28 -- どうにかなる --

●「生きろとはいわん、ばってん、死なんでくれ」(映画『ユリイカ』より)、まったくそのとおり、生かさぬよう、殺さぬよう・・・意味が違う?


2002.6.25 -- きょうは唯一「六郷の渡し」という駅弁(東京駅)がうまかったので、まあよしとしよう --

●仕事で東京から愛知県まで日帰り往復。新幹線こだまの2時間半、『金閣寺』でも読むかと思って文庫分を広げたところ、新横浜駅から絵に描いたような円熟会社員2名が、私ひとり座っていた3人席になだれこみ、いきなりゴルフ話に花を咲かせはじめた。それも関西弁。三島由紀夫の練り上げられ研ぎ澄まされた言葉たちは、会社員2名の高らかでガサツな会話に、なぜか立ちすくんでしまい、私の頭にはちっとも入ってこない。●しかたない。窓の外に目をやる。住宅地や農村など移ろいゆく風景。「タンスにゴン」の看板が田んぼの中に立っていたり。どことなくヴィム・ヴェンダースの映画のシーンみたいか、などと考えるうちに、あれほど強力だった隣のゴルフ話も、いつしか頭の中から洗い流されていく。文学より会社員が強く、会社員より映画の方が強い?●それでも、いったん没入したら圧倒的な執念深さでまとわりついてくるのも『金閣寺』だ。●小説の言葉というものは、全部その作家が言いたいこと伝えたいことにほかならないのだとしたら、すごい量だなと変に感心したりする。1ページだけでも持て余すほどの言葉が並んでいると言っていいではないか。でも実際は、なんとなく書いてみたら筆が勝手に進むのでそれに任せてみたというのがホントのところだったりして。・・・いや、違う。『金閣寺』は違うのだ、それが。文章の一筋一筋に担わせた途轍もない複雑さ重厚さ。う〜む気が滅入りがちな私の気がますます滅入る。メイル。


2002.6.24 -- 回想とインタビュー --

●昨夜は早々と寝てしまおうと10時に布団に入ったら、3チャンネルで映画が始まった。『レッズ』(1981年)。終わったのは1時過ぎだったか。●人類と個人の目標が一致する、おまけに恋愛もなんだかそれに一致する、そんなベラボウな人生、マジに望むことはもはやあるまい。が、ウォーレン・ベイティとダイアン・キートンがスタイリッシュに見せてくれたそういう人生が、まったくうらやましくないかというと、そうは言い切れない。●それはそうと、インタビューによる回想のパートが妙にいいと感じた。でもそれはどうしてなのか。●インタビューする・されるという行為は、今やごく自然なふるまいであるかのようだが、フィルムやビデオという記録メディアが出現するまでは、こんな奇妙なコミュニケーションは成立しなかったはずだ。カメラに向かって話す・話させるという行為は、ただ話を聞いてメモを取るという行為とはかなり違っている。●では、回想するという行為はどうか。あの時この時、誰々はこう言った、誰々はこうやった。私はこう思った。回想という楽しみが日常のふるまいとして私たちに定着したのはいつからなのか。そんなの人類発祥以来のクセだろう――そうかもしれない。・・・しかしその行為もまた、「ビデオテープでもう一度」という方式・認知パターンの出現によって、以前と比較できぬほど深化したということは、十分ありうる。・・・だから何?


2002.6.21 -- 文学ト言フ事 --

●《「それなら、ほかにもっと悲しいことでもあったのかな」「何や、わからへん」と私は言った。言ってから、私は人に疑問を起こさせるのがどうして好きなのかと反省した。私自身にとってはそれは疑問でも何でもない。自明の事柄である。私の感情にも、吃音があったのだ。私の感情はいつも間に合わない。》(三島由紀夫『金閣寺』より)●精神的疲労がじわじわ募ってきた感のあるこのごろ、それに輪をかけてなぜかこのような陰鬱な小説に行き当たってしまった。電車の行き帰り、寝る前のしばらくの時間、読む。●私が関わる世間や仕事において、言葉は毎日さまざまに行き交っている。必要があってあれこれ吟味し書き直しもする。しかし、たとえば今引用したような言葉は、それとはまったく異質のものだ。それはもう『金閣寺』を読めば読むほどはっきりしてくる。もちろん引用部分の正確な理解や伝達ができているかどうかはわからない。それでも、言葉に実質というものが本当にあるとしたら、それはこうした言葉の中にしかない。私が日々乱射する言葉には、皆無だ。いくら探しても無駄。●今どき文学なんて狭苦しく卑小な存在。されど私の世界はそれよりずっと狭苦しく卑小。


2002.6.14 -- チュニジア戦の前に --

●哲学の問いとは、たぶん、その答えをはるか遠くに見通しつつも、ともあれ今は自分の足下にあるこの厄介な理屈をこね回すしかなく、そうして行きつ戻りつしているうちに、いつしか一個の明快な思考がポーンと前に飛び出し、膠着状態を突き抜け、反論をいくつもかわしながら、ついには「ユリイカ!」の興奮、そのゴールを夢みること。


2002.6.13 -- 吹けば飛ぶような --

●その存在が消えてようやくその存在の希有さを思い知る。ナンシー関。テレビというあぶく。その評というさらなるあぶく。しかし、あぶくにもなんらか世界の本質が・・・、いや世界に本質などありはしない。ブラウン管のあぶく、週刊コラムのあぶくは、世界というあぶくそのものだったかも。こんな感慨もまた。


2002.6.5 -- 埼玉県知事によればFIFAなんて --

「何サマ!」・・・まさにな。●都知事発言もオフサイド的? 極東全域お祭り月間。


2002.6.3 -- ネットとコンビニ、たいていそれで間に合う --

●最近本を買うのがさほど惜しいと思わなくなり(じゃ今までどうだったのか)、オンラインショッピングにも手を染めた。さしずめアマゾンかBK1だろうと思っていたが、結局ヤフー。セブンイレブンで受け取れば送料がかからないというのが決め手だった。コンビニは現代の万屋、都市生活の基地、民俗学の対象。●日本の勤め人、あした6時までに家に帰れる人の割合は? 


2002.6.1 -- もう6月ですが --

●ホワイトハウスの戦略は実質的に世界の運命を左右しているところがある。だとしたら、アメリカ大統領の選出には世界中の人々が票を投じてもいいのではないか。いやアメリカだけではない、日本、中国、インド、イスラエル、あちこちにある政府という名の武装集団をコントロールする権利が、その集団に認められた人々(国民)にしか与えられない、その集団によって迷惑を被りそうな人々には全く与えられないというのは、考えてみればおかしな話ではないか。ましてやイスラエル政府へのパレスチナ人の参入、日本政府への在日の参入など、反対する理屈が山ほどあろうとも、反対しない理屈もまた山ほどある。●世界に数多ある政治権力=武装集団のうち、正当に文句をつけられる相手を各自が一つだけ選べるとしたら、今はやっぱりインドかパキスタンか。小泉東京政権は、これまで通り週刊誌とワイドショーに任せた!


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