都内某女子大での講演
高橋源一郎氏の講演、日本女子大に聴きにいきました。でも、まとめるのはよして、おお!と思ったニュースと文学予報など、断片的に。1
群像の「日本文学盛衰史」はまもなくで終了。来年秋口には550ページで刊行予定。2
文学界で正月号から連載がスタート。タイトル(第1回?)は「君が代は千代に八千代に」。正月は新潮にも作品が載る。3
日本の近代文学の源にいて、かつメタフィクションもポストモダンももうやっていたというべき二葉亭四迷のすごさについて、詳しく楽しく語っていた。「私は懐疑派だ」という評論を特別に推す。これに絡んで、明治43年ごろに作家はすでに現代の作家と同じことを考えていた、違いがあるとすれば現代の作家がもう一回同じことをやっているという点だ、むしろ現在は懐疑的に小説を読む作家が少なくなり後退しているともいえる、といった話。明治の小説を読んでいれば、もしかして現代の小説を読まなくても平気かな、とかそういう感じのこと。 講演の結論も「とにかく二葉亭四迷は読んでやってください」。4
いろいろあった(延びた?)朝日新聞の連載は来年4月から始まる。なんでも「主人公は樋口一葉で、官能小説家が・・」どうとか述べていた。5
昨年源一郎氏が胃潰瘍で倒れ入院したとき、加藤典洋と関川夏央が見舞いにきて、そこで漱石の「こころ」の話になって、Kには実はモデルがいる、それは石川啄木だ、という見解で一致した話。その根拠もいろいろと。全般にとにかくリラックスしつつ相当に深い話でした。こういう、なにしろ小説のことにたいへん詳しくていつまでも考え抜いていて、でも別に偉ぶらずらとても重大なポイントを笑いにまぶして指摘してくれ、何を読んだらいいかも適当にアドバイスしてくれる、そういうポップなおじさんが、別に文豪でなくとも、たとえば親戚なんかにいたりしたら超ラッキーなんですが。
**さん、良い情報ありがとう。ご苦労さまでした。なお会場では、このページのオフ会(去年だっかたか)で知った方も何人か見かけました。あまり話もできませんでしたが、ああいう所でゆるやかな連帯意識はどこか心地よいですね。
*以上は掲示板への書き込みですが、以下は同じ講演について私のホームページに書いたもの
高橋源一郎氏が某女子大で講演するというので、出向いてみた。噂通りの茶髪と赤い 上下のスーツでふらりと現れた源一郎氏は、中くらいの教室の意外にほんわかした空気 とすぐ溶けあい、例によって照れを残しつつもまるで噺家なみの滑らか口調で、文学の より道わき道どこへ連れて行かれるのか、でもホントはそんなこと拘りもせずすいすい 引きずられていったところ、いつの間に、こりゃ実際「文学の向こう側」あたりに抜け ていたのかな、と我に帰る1時間半。私には最初から最後まで切実に可笑しく切実にタ メになるお話であった。それにしても、源一郎氏がサービスお茶目に語っていくその スタイルが(あと中身も)、漫然と構える私の頭の中にどうしてこうも違和感なく浸透 していくのか、聴いていて不思議であった。しかし考えてみれば、今回の中心ネタであ った群像連載の「日本文学盛衰史」はけっこう読んできたし、そもそもここ数年はこの 人の本に耽ることしきりであったから、当たり前といえば当たり前だ。われわれの思考 というかそういうものは、やっぱり全部が言葉であるならば、頭の中には要するに長い ことかけて言葉をせっせと溜め込んでいるのだと仮定するならば、私の近頃の頭などか なりの部分は源一郎氏が書いて私が読んだところの諸々の言葉がそのままのスタイルで 占領しているのではなかろうか。小説畏るべし、文章畏るべし。今、保坂和志を読んで いても、町田康を読んでいても、言葉はイヤなことに似てきてしまう。生活態度まで似 てきてしまってさあ大変、だ。それというのも「本当の言葉」なんてものはそもそも存 在しないかもしれないのであって、「他ならぬ私を語るため真実の言葉を私はいつまで も探し続けます」?これどうでしょうか。ただ、本当とかそういう力点とは関係のない ところで、源一郎氏は語る。ならば単にそれとは別に私も語ろう。そこは譲れない。.. とか思うんですが。